死線の弾幕、悪意の贈り物の罠
鼻腔を刺す硝煙の臭気と焦熱の気配が、巨大なクレーターと広場の上空を狂おしく満たしていた。
天より叩きつける冷徹な豪雨ですら、この骨の髄まで焼き尽くさんとする熱狂の余熱を、すぐには洗い流せない。
ルシアは浅く乱れた呼気を吐き出しながら、無数の瓦礫の引っ掻き傷と鮮血に塗れた右手を持ち上げた。
五指を、雨と汗に濡れそぼって額に張り付いた黒髪へと差し入れ、僅かな煩わしさと研ぎ澄まされた冷徹さを湛えながら、乱れた前髪を無造作に後ろへと掻き上げる。
清らかな額を伝って雨水が滴り落ち、外装重兵装と面甲の拘束から解放されたその顔が、ついに露わとなる。
白皙で、繊細でありながら、極めて冷酷な美しさを秘めた小貌。
墨緑の瞳は、暗鬱な夜色と揺らめく火光を反射し、底の知れぬ凍てついた深淵の如き光を湛えていた。
彼女は無感動な眼差しで、深坑の中央で猛り狂い、強烈な高熱と白い蒸気を撒き散らしながら燃え盛る巨大な火球を冷ややかに見据えている。
その二振りの兵器——外観こそ、前世たる地球で目にした対戦車ロケットランチャーの姿を留めていたが、内部に充填された炸薬と弾頭構造は、彼女の至高の錬金術によって根本から非人道的な改造と特化を施されていた。
ただ成形炸薬効果による穿孔のみに頼る、陳腐な通常のHEAT弾などではない。
漏斗状の弾頭には極めて高密度の熱圧錬金助燃剤が練り込まれ、不活性元素と超圧縮魔力結晶の核までもが超微細な術式によって封じ込められている。
信管が作動した刹那、放たれるのは単なる一点集中の金属ジェットに留まらず、数千倍にも達する過圧衝撃波と破壊的運動エネルギーが、球状に猛り狂って全方位へと暴力的に炸裂する。
破壊の面制圧域と純粋な引き裂く威圧において、この二発の特化型殺戮兵器は、地球上の如何なる歩兵携行式単兵ロケット弾よりも遥かに巨大で、遥かに凶悪であった。
これこそが、彼女が懐に隠し持っていた物理特化の奥の手であり、高階位の絶対防壁を強引にこじ開けるために用意した切り札の一つ。
だが、あの猛烈な豪雨すら一瞬にして気化させた灼白の業火を前にしながらも、ルシアの精悍な横顔には、策が功を奏したことによる弛緩も、勝利の歓喜も微塵として浮かんでいなかった。
それどころか、その薄い唇は、氷の如く強固な一本の直線へと堅く結ばれている。
——通じない。
この絶大な破壊力は、いかなる強固な要塞陣地をも更地へと変える天坑を穿ち、あの絶対的強者たる男を力づくで吹き飛ばし、傷を負わせることには成功した。
だがルシアは、この広場に居合わせる誰よりも熟知していたのだ。
かつて学院で己に手ほどきを与え、帝国の絶対の障壁と謳われた男が、その骨の髄にどれほど底知れぬ怪物を飼い慣らしているかということを。
ビクター・クルス。
純粋なる殺戮と剣撃を、絶対の生存本能へと昇華させた大宗師。もしもこの程度の魔改造ロケット弾如きで地に伏すのならば、ノーランド帝国の皇権も、あの不可侵の天険も、あまりに安っぽすぎる。
荒れ狂う暴風雨の中、女の墨緑の瞳が鋭く収縮した。左手は音もなく、身じろぎする傍らの錬金手札の表紙を強く押し込み、体内に残された最後の神経線維までもが、破断寸前まで張り詰めさせられる。
猛炎が巻き上げる煤煙の帳の向こう側で、真に覚醒した獰猛な獣が、欺瞞のヴェールを引き裂いて姿を現そうとしていた。
煮えたぎる白煙が冷酷な氷雨の中で激しく噴き上がり、荒れ狂う炎は降り注ぐ雨水に圧し潰されるように鎮火していく。
一陣の狂風が焦げ付いた最後の煤煙を薙ぎ払うと、深坑の縁に広がる瓦礫の中から、あの男の影が、一歩、また一歩と、極めて重厚な足取りでルシアの視界へと再び踏み込んできた。
ビクターが纏っていた漆黒の長衣は、あの暴虐な特化爆発の直撃を受け、完全に粉砕されて灰燼と化していた。
古木が根を張るかのように引き締まった筋骨隆々の精悍な上半身が、豪雨の下に容赦なく晒されている。
夜の深淵の如く隙間なく覆われていたはずの焦黒の魔力は、右肩から脇腹にかけて金属射流と過圧の猛威によって暴力的に撃ち抜かれ、無数の崩壊した黒斑となって剥落していた。
だが、その異形の魔力は決して瓦解してなどいなかった。
今や、無数の死線を潜り抜けて刻み込まれた刀傷や裂傷が走るその鋼の肉体の上で、見る者戦慄せしめる異様なコントラストを描き出している——
健康的な生肌と、粘性を帯びた深い焦黒の魔力が、生き物のような刺青の如く複雑に絡み合い、損傷を受けながらもなお周囲の大気から魔力を貪欲に喰らい尽くし、最低限の防壁として循環を維持し続けているのだ。
その呼吸は、乱れの一筋すら見せていなかった。
ビクターは手にした漆黒の長剣を無造作に払い、砕石の敷き詰められた地表で鋭い火花を散らした。
彼が顔を上げると、深く刻み込まれたほうれい線の走るその面貌には、虚を突かれた憤怒も、負傷の狼狽も微塵もなく、ただ初めと変わらぬ底なしの静寂と冷徹さが湛えられていた。
「見事なものだ」
男の声は決して声を荒らげてはいなかったが、巨大な金床を打ち鳴らしたかの如き重厚さをもって、吹き荒れる暴雨と雷鳴を軽々と貫き、ルシアの鼓膜へと容赦なく打ち込まれた。
「私の知覚の死角を突いた誘導といい、常理を逸脱したあの異界の武器といい……常人には到底真似のできぬ高みまで、貴様は完璧に計算し尽くしていた」
ビクターは僅かに視線を落とし、焦黒の魔力と生肌がまだらに交錯する己の胸元を一瞥すると、その薄い唇の端に、微かな笑みを浮かべた。
それは嘲笑などではない。一人の師として、最も厄介で手のかかる弟子が叩き出した満点の答案を前にしたとき、自ずと胸の奥底から滲み出た心からの賛意であった。
「だが、ルシア。ここから先、貴様はどう動く?」
彼は緩やかに、前へと一歩を踏み出した。
ただの一歩。それだけで、クレーターの底の泥濘が無音のうちに沈み込み、軋みを上げる。
「先の一連の連鎖で、貴様は魔力備蓄水晶を一度に三基も破砕した。これほどの代償を支払って得られた戦果といえば、私のこの安物の衣服を吹き飛ばし、間もなく塞がる程度の二箇所の生傷を刻み込んだに過ぎん」
ビクターの落ち窪んだ眼光が、獲物を狙う鷹のようにルシアの張り詰めた肢体を射抜く。その口調は、まるで学院の講義室で模擬戦の総括を述べる教授のように淡々としていた。
「貴様が幾重もの手札を隠し持っていることは知っている。本来、貴様の手札が同時に維持できる水晶の限界は五基。改良を重ねた今ならば、一度に七基の水晶を待機列に組み込めるかもしれんな。だが、戦術を再編しようと試みたところで、先刻の三基を引けば、貴様の手元に残された水晶の魔力配当は、多く見積もっても残り四基だ」
男の双眸に宿る称賛の色が深まるにつれ、周囲の大気を凍りつかせる重圧な殺伐の気配が、一歩ごとに跳ね上がっていく。
「残された四基の水晶で、貴様はいかなる錬金術式を紡ぎ出す? 分解系の大光槍で再び私の防壁を抉りにかかるか、それとも貴様が得意とする遅延工作の罠の連鎖で、わずかな命を弄んでみせるか? ——今の貴様にとって、これは些か重すぎる命題ではないのか」
ビクターは歩みを止め、長剣を斜めに提げたまま、落ち窪んだ瞳で眼前の孤立無援の少女を映し出し、低く問いかけた。
「ルシア、貴様の蓄えは……まだ足りているのか?」
光潔な額を伝い落ちる雨水が、ルシアの墨緑の瞳へと容赦なく流れ込み、刺すような痛痒をもたらす。
肺腑が押し潰されるような窒息の重圧が、山嶺の崩壊の如く圧し掛かってくる。
男の言う通りだった。
彼女の戦術と思考を最も深く理解する者の一人であるビクターには、彼女の術式回路の残滓までもが完全に透けて見えていた。
手札の稼働上限を七基の水晶へと引き上げようと、先刻の背水の陣とも言える大博打の代償として、手持ちの資源は底を突きかけている。
眼前で立ち塞がる男は、魔改造を施した熱圧ロケット弾の直撃を正面から喰らってなお、皮一枚を剥がされただけで平然と佇む怪物なのだ。
残された四基の水晶を如何に組み合わせようと、彼を一撃で屠る術式連鎖など構築できるはずもない。
それは戦術の瑕疵などではない。彼我の境界と肉体の強度という、決して埋めることのできぬ絶望の深淵であった。
激しく波打つルシアの胸部から、折れた肋骨の擦れ合う微かな軋み音が漏れる。呼吸を一つ刻むたびに、砕けた硝子を喉奥へと呑み下すような激痛が神経を灼いた。
彼女は、上半身を露わにし、焦黒と生肌の斑模様を晒す中年男を見据えたまま、強張っていた口元をわずかに引き攣らせ、極度の疲弊の果てに、笑うでも泣くでもない歪な笑みを浮かべた。
「おい、クソオヤジ……」
小柄な女は咳き込み、雨水と混じり合った一筋の血反吐を吐き捨てると、狂嵐の中で掠れた、どこか開き直ったような乾いた声を絞り出した。
「もし今、両手を上げて審判席に向かって『棄権します』って叫んだらさ……あのクロードの野郎、私たちを見逃してくれたりすると思う?」
そのあまりに無頼な降伏の打診に、ビクターの瞳に一瞬、隠しようもない困惑が走った。
鮮血に染まり、帝国の威信とミアの命運が賭けられたこの処刑台の深坑において、如何なる猛者であれ、死を覚悟して玉砕するか、無様に膝を折って慈悲を乞うかの二つに一つだ。
だが、この痩せ細った黒髪の女だけは違った。血反吐をぶちまけ、骨を砕かれた絶望の縁にありながら、まるで学院の購買部で目当てのパンを買い逃した時のような、締まりのない軽薄な調子で「棄権できるか」などと宣っているのだ。
一瞬の静寂の後、深くほうれい線が刻まれた男の無骨な顔面がわずかに崩れ、唇の端が抑えきれずに吊り上がると、喉の奥から乾いた低笑が漏れ出した。
「ふっ……くくっ」
硝煙と豪雨に閉ざされた坑底に笑い声が静かに響き渡り、ビクターは首を横に振った。その眼光の深奥に宿る複雑な哀愁は、先刻よりもさらに色濃く影を落としていた。
「ルシア、貴様は……本当に相変わらず、戯言の絶えぬ子だな」
彼は笑みを収めると、緩めていた身構えを一瞬にして沈み込ませ、周囲の空気すら凍結させる凄絶な殺気を再び爆発させた。
「だが、貴様自身が最も理解していよう。殿下が自ら設えられたこの断頭台に足を踏み入れた以上、貴様も、私自身も、そしてそこに倒れ伏すあの娘も……」
男の視線が、遠く離れた石柱の根元で鉄鎖に縛り付けられているミアへと冷ややかに向けられ、紡がれた声はどこまでも冷徹に研ぎ澄まされていた。
「もはや我々には、退路など残されていないのだ」
言葉の余韻が途切れるよりも早く、ビクターの左手が水平に持ち上げられ、その掌が天を真っ直ぐに指し示した。
荒れ狂う風雨を圧して、常理を絶した魔力の共鳴が、男の手の平から爆発的に噴き上がる!
吹き荒れる暴風が強引に掻き集められて超高速で回転する極小の嵐を形成し、掌に触れた氷雨は暴虐な熱量に灼かれて瞬時に気化し、大気を歪める真紅の猛炎へと着火する。
そして彼の肉体から染み出した、タールのように重苦しい焦黒の闇属性魔力が、無数の凶悪な黒蛇となって風と炎を隙間なく締め上げた。
風、火、闇。
本来、反発し合って決して相容れぬ三つの上位属性が、圧倒的な暴力と神域の精密操作によって無理やり一つの塊へと融解され、指先ほどの極小の径に凝縮された破滅の暗紅の光条へと変貌を遂げる。
ビクターはルシアへと狙いをつけることすらなく、ただ無造作に手首を払った。
シュッ——!
その暗紅の光条は、夜空を引き裂く極細の閃光となって垂直に跳ね上がり、頭上を覆い尽くす鉛色の雨雲を穿って、果てしない虚空の彼方へと吸い込まれ、姿を消した。
深坑の中は、激しく打ち付ける雨音だけを残して、不気味な静寂へと沈んだ。
だが、ルシアの背筋の産毛は、その刹那に総毛立っていた。
数秒の空白の、その直後——。
天頂を閉ざす暗雲の裂け目が、悍ましい暗紅の血光を放って瞬いた。
次の瞬間、まるで雲海を拠点とする神の狙撃手が無形の巨砲を撃ち放ったかの如く、真紅に輝く破壊の魔力光条が、大気を引き裂く甲高い音爆を伴い、天頂より信じ難い極速をもって直下に撃ち下ろされたのだ!
速すぎる。それは通常の魔法が持つ弾道猶予などではない。闇の直進性と風の加速が極限で融合した、絶対の必中弾道。
ガギィィィィン————!!!
耳を劈く金属の悲鳴が大地を揺るがす!
ルシアの周囲に浮かび、致死の脅威に反応して自動迎撃を展開した【水銀屏障】が、刹那の間に銀白の重厚な盾となって彼女の頭上を覆い尽くしていた。
しかし、その真紅の光条に込められた風の貫通力と暗火の超高温腐食は、通常防壁の許容限界を遥かに超越していた。
せめぎ合いは、わずか半瞬。強靭な流体水銀は耐え難い軋みを上げて粉砕され、赤熱した光条にバターを裂くナイフの如く暴力的に貫かれ、四散する銀の飛沫となって弾け飛んだ!
防壁は消滅したが、その極小の遅延こそが、ルシアに術式の本質を看破させる決定打となった。
——天へ向けて放たれた威嚇などではない。
——これは、風の極速、火の爆縮、闇の追尾を一つに束ね上げた、「超高速天基追跡型自動攻撃魔術」!
雲上の「不可視の狙撃手」は、すでに彼女の座標を完全に捕捉している!
ルシアに呆然と立ち尽くす猶予など、一瞬たりとも残されてはいなかった。
水銀の盾が砕け散った次の刹那、天空で第二の真紅の凶光が不吉に明滅する。
小柄な女は奥歯を砕けんばかりに噛み締め、折れた肋骨が軋む激痛を意志の力で圧し殺しながら、泥濘と血溜まりを蹴り、瓦礫と焦岩に塗れた深坑の地表を脱兎の如き速度で疾走し始めた!
泥濘を裂いて、第二の死の光線が豪雨を貫通し、耳障りな衝撃音と共に垂直に落下する!
絶体絶命の瞬間、ルシアは横へ逃げる愚を犯さず、砕石を力任せに踏み抜いて、落雷の如き着弾の軌道に逆らうように小柄な肢体を宙へと跳ね上げた!
「グルルッ——!」
立ち込める煙幕を切り裂き、鈍い金属の破空音が轟いた。満身創痍の機械梟・刻刻が、動力機関を限界まで唸らせ、黄銅の鉤爪を伸ばして中空に掲げられたルシアの右手を正確無比に掴み取る!
ドォン! ドォン! ドォン!
真紅の光柱が影の如く追従し、ルシアの足元に広がる大地を次々と穿ち、焦黒の猛炎を爆散させ、泥土と砕石を狂暴に巻き上げていく。
刻刻は亀裂の走る翼を必死に羽ばたかせ、乱気流の吹き荒れる空間を鋭いS字の残像を描いて滑空。ぶら下がるルシアを牽引しながら、雲上から降り注ぐ天基狙撃の三連撃を、文字通り紙一重でかわし切ってみせた!
だが、地に立つビクターは、空を仰ぐことすらしていなかった。
男の落ち窪んだ眼差しは、枯れ井戸の如く静まり返っている。ルシアの足掻きが、この程度で終わるはずがないと知悉していたからだ。
——あの女は、万に一つの勝機を見出せば、毒蛇の如く食らいついて相手の喉笛を掻き切る女だ。
狡猾にして猜疑心が強く、驚異的な演算能力を誇りながら、百戦錬磨の老兵すら戦慄せしめる凶猛さと決断力を併せ持つ。
「空へ逃れれば、それだけ死角を晒すことになる」
ビクターは感情を交えずに呟き、右手の漆黒の長剣を無造作に払って、二筋の凄烈な弧を描いた。
半月状の焦黒の剣気が豪雨を切り裂き、空間を圧迫する重圧を孕んで刻刻の飛行ルートの左右を完全に遮断。ルシアの機動空間を中央の空域へと強制的に追い込んでいく。
間髪を入れず、中年男の左の人差し指が跳ね上がった。
その指先に、柔和な水元素と暴虐な高速旋風が一瞬にして無理やりに圧縮される。
シュババババッ——!
鼓膜を破らんとする高周波の駆動音とともに、ビクターの指先から解き放たれたのは、正気を疑うほどの濃密な弾幕であった——それは陳腐な魔法の飛弾などではない。超高圧の水刃を穿孔の風錐で包み込んだ、超高速連発水弾!
その一発一発が徹甲機関砲の弾丸の如く重く、視界を埋め尽くすように降り注ぐ。
それは全門斉射を敢行する魔導ガトリングの如く、豪雨の中に狂暴極まる蒼藍の金属弾幕を現出させ、中空の女へ向けて一網打尽に殺到した!
宙吊りのルシアの額から、じっとりと冷や汗が吹き出し、冷たい雨水と混ざり合って眼窩へと沁み込んで激痛を走らせる。
頭上からは、いつ着弾するかも知れぬ天基の真紅の狙撃。距離を取れば、この重ガトリングの如き超高速弾幕に蜂の巣にされ、懐に飛び込めば、万物を塵芥に変えるビクターの『剣撃領域』が待ち構えている。
そして残された退路すら、二筋の黒い刃風によって完全に塞がれていた。
肺腑を締め上げる絶望が、冷たい毒蛇となってルシアの心臓に巻き付く。
帝都魔法学院にいた頃、ビクターと刃を交えたことがないわけではなかった。
だが、この瞬間になって初めて、彼女は天災の直下に立たされたかのような理不尽な無力感を骨の髄まで味わっていた——あの頃のビクターの何処が実戦であったというのか。
あれは、底知れぬ深淵を抱えた大宗師が、世間知らずの子供の戯れに慈悲深く付き合ってくれていたに過ぎなかったのだ!
本気となった帝国の天険は、如何なる者にも一息の猶予すら与えはしない!
バキッ、バキッ——!
追いつめられた極限の中、ルシアの墨緑の瞳に狂気じみた獰猛な光が爆ぜた。右手で刻刻の爪を固く握り締めたまま、左傍らに浮かぶ手札の縁から、二基の魔力備蓄水晶を同時に力任せに破砕する!
だが、水晶が蒼藍の光屑となって四散したその刹那、女の呼吸が完全に止まった。
風を切る音も、大地を踏み締める振動も存在しなかった。
数十メートル外から弾幕を浴びせかけていたはずのビクターが、空間を切り裂いて現れた亡霊の如く、剣気と水弾が視界を遮った僅か一瞬の隙を突いて物理の法則を飛び越え、忽然とルシアの真横へと出現していたのだ!
深く刻まれたほうれい線の走るその顔面には何の感情もなく、漆黒の長剣が雨霧を切り裂き、冷酷無比なる死の弧を描いて、無防備なルシアの華奢な肉体へと振り下ろされる!
(速すぎる——ッ!)
【詭計術式・悪意の贈り物】!
水晶が砕かれた瞬間に彼女の周囲へ展開されていた防衛回路が、致死の間合いに侵入されたことで強制起動し、精緻なルーンが刻まれた錬金障壁が虚空より弾き出された!
バキンッ!
しかし、ビクターの全身を覆う概念級の『剣撃領域』の前において、いかなる常規の防壁も薄氷の如く脆い。
切っ先が障壁に触れた瞬間、水晶一基分の魔力を注ぎ込んだ堅牢な盾は、呼吸一つ分の時間すら耐えきれず、寸分の狂いもなく両断されて粉々に爆散した!
死線が喉元へと肉薄し、巻き起こる刃風がルシアの前髪を冷酷に削ぎ落とす!
生と死が交錯する極限の狭間で、ルシアは身の毛もよだつほどの冷徹な生存本能を剥き出しにした。
彼女は剣を受け止めることすら放棄し、刻刻の爪を掴んでいた右手の五指を、躊躇うことなく一気に解放した!
唯一の牽引力を失った瞬間、刻刻が先刻まで維持していた凄まじい飛行慣性が働き、ルシアの身体は手折られた小石のように宙空から鋭角に落下。あの必滅の漆黒の刃の下を、奇跡的な紙一重ですり抜けてみせたのだ!
ドォン——!
数メートルの高さから投げ出され、凄まじい運動エネルギーを宿したまま、ルシアの肉体は泥濘と砕石の地表へと叩きつけられた。全身の骨がきしむ激痛の中、彼女は無様に幾度も転がり、瓦礫の上に生々しい一筋の血の軌跡を刻み込んだ。
そして中空では、空振りを余儀なくされたビクターの傍らで、空間が激しく歪曲する!
【悪意の贈り物】の第二重反撃機構が、第一層の障壁を両断された瞬間に猛り狂ったのだ!
極純の魔力によって鍛造された数十本もの機械金属の鋭爪が、砕け散ったルーンの残骸から狂おしく射出され、獲物を捕らえるトラバサミの如き凶悪さで、ビクターの剣を握る右腕と無防備な胴体を逃さず締め上げる。
その金属爪のすべての関節部には、禍々しい赤光を明滅させる超小型高爆錬金爆弾が、隙間なく埋め込まれていた!
だが、今のルシアの身には、自らを守る防壁など爪の先ほども残されてはいない。薄手の衣服一枚を晒す今の彼女が、この至近距離で機械爪の連鎖爆縮による過圧衝撃波を受け止め切れるはずがなかった!
「カハッ……!」
転がりを止めたルシアは、肺腑を裏返されたような激痛と共に大量の鮮血を吐き散らした。五臓六腑が滅茶苦茶に掻き乱されるような痛熱が全身を苛む。
背後で今まさに起爆せんとする閃光を振り返る余裕すらなく、彼女は両手の指先を凍える泥濘へと深々と突き立てた。
折れた肋骨と裂傷を負った右脚の悲鳴を強引に圧し殺し、手と足のすべてを泥に這わせながら、戦いの初撃で己が墜落し、大地を抉り取ってできたあの巨大な焦黒の窪みを目指して、狂ったように這い進んでいった!




