二人の嫁が超絶可愛い、それが私の大義だ
深さ数丈に達する黒曜石のクレーターの底では、鼻を突く焦熱の臭気と生臭い血煙が、冷たい土砂降りの雨に打たれながら淀みなく立ち上っていた。
パキリ、と微細な瓦礫の擦れ合う音が不意に響く。
無数の切り傷に塗れ、赤黒く染まった片手が、底に突き出た歪な焦黒の岩塊を死に物狂いで掴み取っていた。
「が、はっ……ゴホッ、ゲホッ……!」
肺腑を引き裂くごとき激しい咳き込みと共に、ルシアは瓦礫の山から強引に己の身体を押し上げた。身じろぎするたび、粉砕骨折した胸の肋骨が錆びたヤスリとなって肺腑を狂乱して削り、その顔面を紙の如く白く染め上げ、冷や汗を止めどなく噴き出させる。
額の生え際から垂れ落ちる温かく粘り気のある鮮血は、泥と埃に汚れた瞳を撫で下り、左半分の視界を惨烈な暗紅へと染め変えていた。
僅かに開かれた唇の間からは、ドス黒い血の塊が止めどなく溢れ出し、足元の泥濘へとポタポタと落ちては砕けていく。
バキッ……ガラガラガラ——
彼女がふらつきながら立ち上がった拍子に、音速の壁を突破せしめ、非接触斥力場を構築していた錬金兵装は、稼働限界と負荷の許容量を完全に使い果たし、遂に不可逆の崩壊を迎えた。
太腿の付け根までを拘束していた超重推進脚甲は寸刻のうちに亀裂を走らせ、ただの鉄屑となって足元へ崩れ落ちる。胸元に残されていた装甲の残骸もまた、満天の魔力光屑となって氷雨の帳の中へと溶け消えていった。
光が霧散した後に残されたのは、ルシアがかつて最も慣れ親しんでいた本来の姿であった——薄手の常規法衣、左脇に中空浮遊する開かれた錬金手札、そして備蓄水晶の演算力に頼った中距離牽制と術式構築の戦術。
だが、今の彼女に、平時通りの戦い方など土台無理な話であった。
ルシアは激しく肩で息を乱し、胸腔が上下するたびに破れ太鼓のごとき掠れた悲鳴が漏れ出る。その墨緑の瞳は、漆黒の魔力階段を踏み締め、天穹より一歩ずつ冷酷に踏み下りてくる中年男の姿を死に物狂いで射竦めていた。
極限状態の大脳思考回路は焼き切れんばかりの過負荷駆動を続け、自殺行為に等しい戦術を次から次へとシミュレートしては破棄していく。
——通常の戦い方は成立しない。
平時の彼女が最も頼りとしていたのは、機械梟の刻刻を術式昇階させ、不落の重装盾として前線に立たせ、自身は後方から精密支援と遠距離爆撃を叩き込む戦法であった。
だが、ビクターの眼前において、その戦術は純度百パーセントの特攻に他ならない。
あの男が展開する『剣撃領域』は、半径三メートル以内に侵入したあらゆる物質と概念を両断する絶対法則。
先刻、中空で彼女の墜落衝撃を和らげるために余波を受け止めただけで、刻刻の体内歯車と魔力回路は深刻な損壊を被り、その琉璃の双眸には無数の蜘蛛の巣状の亀裂が走っているのだ。
今ここで刻刻を無理に昇階させて突っ込ませれば、あの三メートルの死線に踏み込んだ刹那、ただの鉄屑となってバラバラに切り刻まれる未来しかあり得ない!
——ならば、自分自身が前衛となって主攻を仕掛けるか?
それに対する残酷な回答は、先刻の惨烈なる墜落が既に証明していた。常理を遥かに凌駕する奥の手を晒し、「装備カード」の概念を螺旋巨槍へと昇華させ、超音速の運動エネルギーと黄金斥力場を極限まで絞り出した結果がこれだ。
あの焦黒の魔力被膜を破ることすら叶わず、相手の無造作な一撃によって装甲を粉砕され、強制脱装させられた上に重傷を負わされたではないか。
進むは、破防能わぬ死局。
退くは、刻刻を完全に喪失する深淵。
雨と血に視界を奪われ、ルシアは激しく喘ぎ、過剰演算によって脳神経を針で刺されるような頭痛に苛まれていた。体内の魔力池は既に底を尽き、骨格の随所には亀裂が走り、立っていられること自体が奇跡に近い限界点であった。
そして、遠く離れた雨幕の向こう、冷酷な石柱に鎖で幾重にも戒められたミアは、すでに涙を枯れ果てんばかりに流していた。
少女の粗末な衣は冷雨を吸って肌に張り付き、その華奢な双肩は寒風の中で止めどなく震えている。クレーターの深底で全身を血に染め、立つことすら覚束ない黒髪の背中を見つめ、ミアの瞳からは止めどない涙が氷雨と混じり合って零れ落ちていた。
喉の奥が砕けたガラスを呑み込んだように激しく痛み、大声を上げることすら叶わない。ただ極限の悲痛と無力感の中、震えて掻き消えそうな掠れ声で、絶望的に、哀切を込めてその名を呟くことしかできなかった。
「ルシア……お姉ちゃん……」
漆黒の魔力階段が、虚空において一寸ずつ霧散していく。
ビクターはクレーターの縁に転がる焦熱の砕石を踏み砕き、墓所へと歩みを進める葬儀人の如き足取りで歩を進めた。
漆黒の長剣は無造作に身側へと引きずられ、泥濘に塗れた黒曜石の残骸の上で耳障りな摩擦音を立て、ルシアの僅か数歩手前で静かに止まった。
降り注ぐ豪雨は、彼の全身を覆う焦黒の魔力に触れた刹那、冷たい白煙となって蒸発する。男は眼前で血に塗れ、内臓の破裂した生臭い呼気を吐き出す黒髪の女を傲然と見下ろした。
その深いほうれい線を刻んだ痩躯の顔面には、ただ冷徹なる厳粛さのみが宿っていた。
「大義とはな……」
ビクターは重い口を開いた。その嗄れ果てた低い声音は狂乱の雨音に混ざり合い、荒野の深淵より吹き荒ぶ溜息の如く響いた。
「——たとえこの身が粉骨砕身しようとも、この命と魂を薪として焼き尽くそうとも、断じて半歩たりとも退かぬ深淵のことだ。前途に万劫不滅の破滅が待っていようとも、血族を、亡魂を、そしてこの帝国すべてをその背に負うて歩み続けねばならぬ、呪いのことだ」
男の手にする漆黒の長剣が僅かに持ち上がり、切先はルシアの血に塗れた眉間を正確に指し示した。その眼差しに殺気はなく、あるのはただ、絶対的な断罪のみであった。
「ルシア、貴様の骨は確かに硬く、その技量もまた常理を遥かに超えている。だが、貴様の胸の内には何一つとして刻まれておらん。命を賭してまで貫く信念も、この重責に匹敵し得る『大義』も持ち合わせてはおらんのだ」
静まり返る雨夜のただ中、居並ぶ者すべての視線がクレーターの中心へと注がれていた。
遠く石柱に縛られたミアは唇を血が出るほどに噛み締め、涙を流し続ける。高台の上に陣取る近衛や騎士たちは息を呑み、この反逆の幕引きを見届けんと身を硬くしていた。
しかし。
常人であれば精神を圧殺されるほどのビクターの重圧を前にして、立つことすら覚束ず激しく震えていたはずの黒髪の女は、不意に鼻で小さく嗤った。
「ハッ……ゴホッ!」
ルシアは激しく血泡を吐き捨てると、肉の裂けた手の甲で無造作に口元を拭い、雨と血糊で額にへばりついていた黒髪を乱暴に掻き上げた。その墨緑の瞳は闇の中で異様なほどの輝きを放ち、追い詰められながらも牙を剥き出しにする野獣の如き鋭さを宿していた。
「誰が……持ってないって言ったのよッ?!」
彼女はビクターの切先を真っ向から睨み据え、破れ太鼓のような喉を張り裂けんばかりに広げて、挑発的な怒声を叩きつけた。
「あるに決まってるでしょ! 当たり前じゃない! 頭の固い化け物が、自分の物差しだけで人を測ってんじゃないわよッ!」
空気が一瞬にして凍りついた。
ビクターが微かに眉を寄せ、遥か城楼の影に立つクロードや居並ぶ全近衛兵が呆気にとられたその刹那、全身の装甲を砕かれ死線を彷徨うはずの女は、血の味の混じる冷雨を肺腑いっぱいに吸い込み、喉を引き裂く勢いで、帝都に集うすべての者の前で天地を揺るがす絶叫を轟かせた。
「よく聞きなさいよ! 私の二人の嫁は、息が止まるほど超絶可愛いんだよぉぉぉッ————!!!」
豪雨の叩きつける広大な黒曜石広場が、水を打ったように静まり返った。
「私がこの生涯で愛するのは、後にも先にもあの子たち二人だけよ! 死ねって言うなら死んでやるわよ! でもね、あの子たちの髪の毛一本に触れようとしたり、諦めさせようとするなら、天地がひっくり返ったって断固拒否よ!」
ルシアは粉砕骨折した胸腔が引き起こす激痛など完全に無視し、血を吐き散らしながら、目を剥いてビクターに向かって唾を飛ばさんばかりに喚き散らした。
「これが私の大義よ! これが私の覚悟よッ! 私はね、皇太子の求婚面談ですらその場で顔を顰めて袖にした女よ! どこの馬の骨かも分からないあんたなんかに、信念の重さなんざ説教される筋合いはないわよッ!!」
狂乱の叫喚が雨幕の向こうまで木霊し、長いあいだ消えることなく響き渡った。
遠くのミアは涙を浮かべたまま呆然と立ち尽くし、呼吸することすら忘れていた。城楼の陰に立つクロードの口元は、誰にも悟られぬほど極めて僅かに引き攣り、粛殺を極めていたはずの戦場の空気は、一瞬にして言い知れぬ不条理の渦へと叩き落とされた。
クレーターの底に立つビクターは、全身をそのまま硬直させていた。
漆黒の長剣は中空で静止し、万年変わらぬ花崗岩の如く冷徹で、深いほうれい線を刻み込んだ中年男の顔面に、滅多に見ることのできない困惑の色が浮かび上がっていた。
やがて。
「……ふぅ」
重く、長く、それでいて濃密な疲労とやり切れなさを孕んだ溜息が、この枯れ果てた男の口から静かに漏れ出た。
ビクターは瞼を伏せ、張り詰めていた肩の力を僅かに抜いた。
全くもって、呆れるほどであった。
眼前のこの娘は、いかなる死局に直面しようとも、全身の骨が砕かれようとも、下顎を伝う鮮血が水たまりを作ろうとも、終ぞこの調子なのだ——他人の神経を逆撫でする軽薄さを常に纏い、生死を賭した殺し合いをまるで下らぬ茶番劇であるかのように扱ってみせる。
だが……。
ビクターは胸の内で、ごく短い沈黙に沈んだ。
彼は誰よりも理解していた。ルシアの今の言葉が虚勢などではなく、死に際の戯言などでも断じてないことを。
彼女は本気なのだ。
結局のところ、この帝国において、カリーナとクレアがどれほど深く彼女を愛しているかは周知の事実であったが、それはルシアにとっても全く同じであった。あの二人の存在こそが、彼女にとって揺るぎなき世界の礎石なのだ。
それは年少の無謀な衝動などではない。骨の髄まで面倒くさがりで、毎日昼過ぎまで惰眠を貪ることしか考えていないはずの女に、群衆の面前で帝国の次期至尊からの求婚を躊躇なく拒絶せしめた根源。
たとえ今この場で、その骸をこの底なしのクレーターに晒すことになろうとも、絶対に一歩の譲歩すら許さぬ絶対の不可侵領域。
血族の仇討ちのために散ることも、大義。
帝国の存亡のために身を捧げることも、大義。
ならば、愛する者たちの笑顔を守り抜くため、世界のすべてを敵に回そうとも決して頭を垂れぬその意志……それもまた、立派な大義ではないと誰が断じ得ようか。
焦黒の魔力に覆われた肉体の下、幾多の地獄と苦難を見届けてきたビクターの窪んだ双眸の奥底に、極めて淡い、微かな波紋が過った。
……まったく。
命を賭すに足るほど重く、胸を打つほどに純粋極まりない覚悟であるというのに。
この口の減らない小娘の口から飛び出せば、どうしてこうも……締まらないものになるのか。
時を同じくして、数十里の彼方。
帝都魔法学院の天を突くがごとき最上階研究室では、窓外の豪雨が分厚い色硝子を狂乱して叩きつけていたが、室内に立ち込める息詰まる死寂を揺るがすことは敵わなかった。
中空に浮かぶ巨大な水鏡魔導器は幽玄なる青白い燐光を放ち、黒曜石広場のクレーター中央で繰り広げられる惨烈極まる対峙を、一切の脚色なく映し出し続けていた。
鏡の中では、頭から血を流し法衣を裂かれた黒髪の女が、帝国有数の魔法剣士の鼻先を指差しながら、破れ鐘のような嗄れ声で「私の二人の嫁は超絶可愛い」「これが私の大義よ」と絶叫していた。
水鏡の前に佇むヴァレリーの指先には、インクに浸された一本の羽ペンが握られたままであった。
その瞬間、室内の空気が完全に凍りついた。
女の端正で冷艶な眉根が激しくピクピクと引き攣り、青白い光を浴びたその顔色は青と白を交互に行き来した。彼女は耐えかねたように瞼を閉じ、ズキズキと脈打つこめかみを指先で押さえながら、心の底から絶望に近い呻き声を漏らした。
……一体全体、何を食べさせたらあんな生き物に育つというの?
装甲を叩き折られ、肋骨をへし折られ、いつあの深底に命を打ち捨ててもおかしくない状況に追い込まれておきながら、皇太子、教授、果ては帝都の近衛兵全員の面前で、あのような世迷言を喚き散らすなどと。
激しい無力感と居たたまれなさが津波のように押し寄せた。ヴァレリーの胸の内には、どうして自分はよりによって、こんな救いようのない本物の馬鹿と関わりを持ち、その尻拭いをさせられているのかという不条理な憤りすら湧き上がっていた。
しかし、引き攣った口元と溜息は、僅か半秒で霧散した。
ヴァレリーの手元の動きは、最初から最後まで止まることはなかった。
パタリ。
羽ペンは躊躇なくペン立てへと放り込まれ、乱雑に散らばる机の上を白く細長い十指が残像を伴って駆け巡る。乾き切らぬインクの匂いを放つ、黒死病の根幹データ、帝都の地脈流動図、そして皇室禁衛軍の防衛死角が網羅された機密羊皮紙の束が、瞬く間に分類され、狂いなく結束された。
一切の躊躇なく、彼女はその分厚い書類の束を、机上に展開されていた小型転送陣の真上へと叩きつけるように置いた。
ブォン——!
魔力が注ぎ込まれ、刺すような銀白の燐光が閃いた。虚空に波紋のような空間の歪みが生じ、帝国の政界を根底から揺るがしかねない重量を秘めた機密文書は、空間の理によって一瞬で分解され、学院の別棟で焦燥に身を焦がすクレアの手元へと正確無比に転送された。
光が消え去り、机の上には微かな焦熱の匂いだけが残された。
ヴァレリーは力を失ったように冷たい椅子の背もたれへと身を預け、視線を再び水鏡へと落とした。その双眸は徐々に深まり、底知れぬ陰鬱な暗がりへと沈んでいく。
彼女には、この戦いの結末が分かっていた。
最初から、分かり切っていたのだ。
ルシアがどれほど爆発的な力を発揮しようと、異世界のカード概念を持ち出そうと、あるいは最後にあの泣き笑いを誘うような覚悟を叫ぼうと、結果が覆ることはない。あの冷たいクレーターこそが、今宵の終着点なのだと。
ヴァレリーにできるのは、この静まり返った研究室に座し、冷徹な傍観者に徹することだけであった。
それは彼女が冷酷だからではない。己を過信しているからなどでは決してなかった。
正反対だ——。
彼女はあまりにも、己の分を弁えすぎていたのだ。
帝国の中枢に身を置き、皇室の書庫の深奥に眠る数々の血塗られた記録を目にしてきたからこそ。彼女は、深底で喘ぐルシアよりも、その場に居合わせる誰よりも熟知していた。
今この瞬間も城楼の濃密な影の中に佇み、無言のまま全てを冷たく見下ろすあの男——皇太子クロードが、いかに背筋を凍らせるほど危険な存在であるかを。
あの男は、大義のためならば己の尊厳を泥水に踏みにじり、目的のためならば一切の人間性をかなぐり捨てることのできる狂気そのものだ。
クロードが丹念に張り巡らせた、帝都全土を呑み込む暗黒の蜘蛛の巣を前にして、切り札も持たぬ感情的な介入など、己と周囲の者すべてを破滅の深淵へと道連れにする以外、何の意味も成し得ないのだ。
水鏡が放つ青白い微光は、ヴァレリーの沈痛な面差しに明暗の分かれた冷徹な陰影を刻んでいた。
窓外の豪雨は止む気配もなく、彼女は椅子の背にもたれ、何もない机の木目を指先でなぞりながら、砕け散ったクレーターの映像を通り越して、遥か遠くの、より深く濃密な暗がりを見つめていた。
やがて、女の唇から自嘲気味の掠れた嘲笑が小さく零れ落ちた。それは無人の部屋に向けた独り言の如く静かであった。
「あの狂人が……」
ヴァレリーはそっと目を閉じた。睫毛が頬の上に陰鬱な影を落とす。クロードの、いかなる波瀾をも映さぬあの底知れぬ双眸を思い出すたび、彼女の背筋には骨の髄まで凍りつくような悪寒が走るのだ。
「世の愚民どもは、あの方を冷酷な簒奪者だの、野心に憑りつかれた謀略家だのと評するけれど……奴らは何一つ分かっていない。クロードの真の恐ろしさは、その残虐さなどにあるのではないということを」
彼女は再び目を開いた。その瞳には、城楼の暗がりに佇む細身の影が微かに映り込んでいた。その口調は平坦で、凍てつくように冷ややかであった。
「あの方は……『大愛』を持つ御方なのよ」
ヴァレリーの表情は重苦しく沈んでいた。口を開けばルシアをふざけた大馬鹿だと罵ってはいるが、彼女にとってルシアは、遠く地球から共にやってきた得難き友であり、かけがえのない親友であり、何よりすべての石板を集め終えた暁には存分に刃を交えるべき最大の好敵手であったのだから。
ヴァレリーは天井を見上げ、独り言のように静かに零した。
「村雨……あの方の愛はあまりにも広大すぎるのよ。広大すぎて、その胸の内にはノースランド帝国という器しか収まらない。あの方はこの地に生きるすべての民を等しく愛し、泥濘の中でもがく賤民を等しく憐れみ、国のために血を流す騎士や貴族を等しく敬っておられる」
ヴァレリーの口元に、耐え難い苦渋と皮肉の笑みが浮かび上がった。この無差別の愛こそが、最も純度の高い猛毒であると嘆ずるように。
平等であるからこそ、あの方の瞳に映る生命は、いついかなる時も冷徹な算術の数字に過ぎない。全体の安寧を買い取れるならば、帝国の歯車を回し続けられるのならば、誰を犠牲に捧げようとそこに何の差異も存在しないのだ。
たった一人の存在が盤面を狂わせる危険を孕むならば……たとえそれが微細な火種であろうと、あるいは罪なき命を一つ捧げることで十の民の命が救えるというのなら——。
彼女は深く息を吸い込んだ。その声には、言い知れぬ重苦しさが滲んでいた。
「——あの方は、爪の先ほどの躊躇いすら見せずにその首を刈り取るわ。罪悪感すら抱くことはないでしょうね。その刃を振り下ろす瞬間より遥か前に、あの方は己の魂と尊厳を、幾千、幾万回と自ら八つ裂きにして屠っているのだから」
残虐な悪党を相手にするならば、人間性の隙を突いて瓦解させる手立てもあろう。だが、あまねく多数を救済するため、己の肉を削いで犬に喰らわせることすら躊躇わぬ「聖者」を相手に回すことは、徹頭徹尾の無力感と絶望しか生み出さない。
水鏡の中では、全身を血に染め、骨を砕かれた黒髪の女が、頑なに顎を上げ、夜魔の剣先と帝国の重圧を真っ向から受け止めていた。
その痛々しくも泥臭い姿を見つめるヴァレリーの瞳の奥、張り巡らされていた氷の警戒心の底から、滅多に見せることのない極めて淡い温もりと哀愁が滲み出ていた。
彼女は伏し目がちに視線を落とし、残酷な現実を映し出すその硝子面に向かって、掻き消えそうなほど幽かな声で囁いた。
「村雨……頼むから、こんな残酷な現実に押し潰されないで頂戴ね」




