泥濘の決闘、あるいは師弟の覚悟
天穹は、まるで異臭を放つ澱んだ冷水に浸されたかのようであり、濃密な鉛色の暗雲がノーランド帝国の心臓部へと重く垂れ込めていた。
雨が、降り始めた。
それは穢れを清める恵みの雫などではなく、細く、冷たく、骨の髄まで凍てつかせるような絶え間なき陰雨であった。
下層街から立ち上る消毒用の燻煙を貫いて落ちる雨糸は、生石灰と焼き捨てられた骸の放つ焦臭い異臭と混じり合い、粘りつくような絶望の薄霧と化す。
帝都に聳え立つ厳めしい尖塔の頂から滑り落ち、輪郭の曖昧な石造の天使像を濡らし、やがて冷たく硬質な黒曜石の敷石の上で油膜を浮かべた暗色の濁流となって淀んでいく。
本来ならば帝国の栄光と凱旋を天下に知らしめるはずであった、帝都最大の中心広場。だが今や、そこは何万もの暴徒によって埋め尽くされ、足の踏み場すらない有様であった。
黒死病の恐怖に苛まれ、頬を削ぎ落とされたように青褪めた無数の顔が、土砂降りの雨幕の中に浮かんでは消える。
泥に塗れた粗末な麻の外套に身を包んだ彼らは、充血した双眸を広場中央の高台へと血走らせ、獣が獲物を貪るかのごとき荒い息を吐き散らしていた。
恐怖のあまり正気を完全に失った人民は折り重なるようにひしめき合い、顎を伝う雨水は汚らわしい唾液と混ざり合って滴り落ち、狂気と悪意に満ちた底なしの深淵を形作っている。
そして、その深淵のただ中に、冷雨に打たれ孤立無援のまま立ち尽くす三つの影があった。
デイジーは水溜まりと化した石畳に膝を突いていた。かつて見せていた優雅で落ち着きのある立ち居振る舞いは跡形もなく消え去り、その気品あるドレスの裾は無残にも泥水に浸されている。
だが彼女は身なりなど一顧だにせず、ただ取り憑かれたかのように両腕でミアの身体をきつく、痛いほどに抱きしめ続けていた。
ミアは、激しい嵐に引き裂かれそうな小鳥のように身を縮こまらせていた。紙のように白く透けた頬には血の気配がなく、高熱と恐怖によって焦点の定まらぬ双眸が、睫毛を伝う雨粒とともに激しく痙攣している。
彼女はデイジーの胸元の衣を死に物狂いで握りしめ、弱々しい咳を漏らすたびに、華奢な背骨を痛ましげに激しく波打たせていた。
四方から浴びせられる千夫所指の呪詛の怒号を前に、今にもその細い息の緒がぷつりと途切れてしまいそうであった。
そして、その二人を背に庇い、ただ独り立ちはだかる男がいた。
ビクターは雨水に濡れそぼる漆黒の長剣を逆手に構え、その枯れ木のように痩身でありながら鋼のごとく直立した背筋は、まるで天と地を分かつ黒き巨刃のようであった。
降りしきる氷雨も、全方位から押し寄せる底知れぬ悪意も、その背中がすべて遮断していた。
長剣の刃先は僅かに傾ぎ、研ぎ澄まされた血溝を伝って雨粒が疾走し、石畳を叩いては細かな飛沫を弾けさせる。
彼の目前には、重厚な銀白の板金鎧を纏い、抜き身の重剣を手にした近衛騎士隊長と、殺気を滾らせ魔力回路を全開にした数十名の近衛精鋭が陣を敷いていた。
近衛隊長の掲げる重剣の切っ先は、寸分違わずビクターの喉元を捉えている。鋼鉄の面甲に雨粒が打ち付けられるたび、重苦しい金属音が響いた。
だが、ビクターは瞬き一つ動かさない。
日頃の彼が見せる、まるで死期を悟ったかのような沈鬱な中年男の瞳はそこにはなかった。雨幕の奥で爛々と燃え盛るのは、見る者の魂を凍りつかせる凶悪な光であった。
冷たい風に濡れそぼった乱れ髪を伝って雨水が痩せた頬を滑り落ち、剣柄を握り締める節くれだった指先は、過剰な力のために白く鬱血している。
彼の身に纏う薄暗い漆黒の魔力は、頭上から降り注ぐ雨糸さえも触れる端から無形の霧へと引き裂いていた。
「夜魔」の凶名が、この雨の中で静かに覚醒する。一方は皇権と神聖なる審判を体現する冷酷な軍陣、そしてもう一方は、家族を守り抜くためならば悪鬼と化して天下を血に染めることすら厭わぬ狂気の殺意。
天地の間に残されたのは、石畳を叩く激しい雨音と、人々の理性を今にも呑み込もうとする、極限まで張り詰めた殺気のみであった。
その殺伐とした気配が限界を迎え、誰もが精神の崩壊を覚悟したその瞬間――静まり返っていた人波の奥底で、唐突なざわめきが巻き起こった。
恐慌を孕んだ囁きが波紋のように広がり、広場を埋め尽くしていた暴民と私兵たちは、不可視の刃によって強引に切り裂かれたかのように、驚愕と茫然自失の色を浮かべながら左右へと蹌踉めき退いた。
そうして広場の中央に、一条のまっすぐで広大な道が開かれたのである。
その水窪を踏み越えて歩み寄る一つの影を、その場にいた誰一人として予想だにしていなかった。
それはルシアであった――だが、現在の彼女の立ち姿は、かつて誰もが知るあの儚げで繊細な公爵夫人とは似ても似つかぬものであった。
その上半身には蝉の羽のように薄い特殊な衣甲が纏われていた。
一見すればしなやかで肌に吸い付く純白の布地でありながら、冷たい雨の飛沫を浴びて鈍利な金属光沢を妖しく放っている。
それは第二の皮膚のごとく彼女の細い体躯の輪郭を浮き彫りにしつつ、高密度の防護術式を刻み込んだ魔導陣の光を微かに明滅させていた。
右の前腕は、無骨で鋭角的な錬金術の手袋によって完全に覆い尽くされている。
手袋の手のひらの中央には、精密極まりない多面体に削り出された魔晶石が据えられ、重々しい充填の駆動音を唸らせていた。
眩い高純度の魔力が渦を巻くように内へと凝縮され、極限まで圧縮された破壊の予兆が、いつ何時でも眼前の障害を粉砕する二連装の重型主砲を解き放てることを物語っていた。
そして左側には、彼女の歩みとともにあり、数々の死線を越えて幾度となく解体と再構築を繰り返してきた錬金手札が、静かに宙へと浮遊している。
今やその手札は、単なる書物の領域を完全に逸脱していた。外装はまるで生ける獣の如き白金と黄金の骨格フレームによって隙間なく噛み合わされ、深茶色の古めかしい表紙には微細な魔導文字が所狭しと刻み込まれている。
頁は風もないのにひとりでにめくれ上がり、内に封じられた羊皮紙が激しく震動しては、目覚めた巨獣の如く濃厚で煌びやかな青の魔導光を滝のように噴出させていた。
手札へと伸びるルシアの白く細い左手首には、かつて五つであった無属性の魔力水晶が、今や端然と七つ並んでいる。
それは狩猟季の死闘を経て、彼女が己を苛むように昼夜を問わず鍛錬を重ね、魔力回路を拡張し続けた血の滲む結晶であった。
精密な数式によって活路を開く彼女にとって、一切の代償も詠唱もなしに錬金術式を即時展開できる触媒は、多ければ多いほど良い。
それこそが、あの危機を脱した後に彼女が真っ先に克服すべき至上命題であったのだ。
だが、居並ぶ者たちから真の驚嘆と戦慄を絞り出したのは、彼女の小柄な両脚と、背後を覆う禍々しい武装の異様さであった。
ルシアの双脚は、冷徹な幾何学の稜線を誇る巨大な脚部装甲の中に完全に埋没していた。
重厚極まる装甲は太腿の付け根までを厳重に覆い尽くし、その過剰な自重と構造によって関節の自由を完全に奪い去り、人間としての歩行能力を完全に剥奪している。
だが、その脚甲の真下からは、二基の高出力魔動炉が肉眼で視認できるほどの狂暴な魔力奔流を激しく噴出させていた。
強大な斥力場と巻き起こる突風が地表の泥水を吹き飛ばし、立ち上る白煙とともに激しい蒸気を巻き上げている。
彼女は、決して「歩いて」などいなかった。
双脚としての機能を完全に放棄し、超加速戦闘用の推進機関へと変貌を遂げた二本の噴射ユニットに身を委ね、ルシアは地表から僅かに浮遊した冷徹な姿勢のまま、音もなく、恐るべき速度で滑空するように間合いを詰めていた。
さらに息を呑むべきは、その華奢な背の左側に背負われた、巨翼のごとく展開する超長型の巨大な盾であった。
その全長はルシアの身長を遥かに凌駕し、重厚な金属の幅は彼女の全身を完全に死角へと隠蔽するに足る。
それは単身で展開される移動要塞そのものであり、あらゆる干渉を拒絶する絶対的な防御の気配を撒き散らしていた。
主攻手――前衛にして強襲の尖兵。
今のルシアは疑いようもなく、極限の破壊力と高速制圧能力を兼ね備えた「主攻手」の威容を以てその場に降臨していた。
それこそが、狩猟季において血を流して得た痛恨の教訓であった。己の肉体がいかに脆弱であるか、そして傍らにある刻刻を拘束されれば、自らの戦力が奈落へと転落することを誰よりも弁えていた。
故に彼女は、異世界の錬金術を骨組みとし、魂の深淵に刻まれた科学幻想の記憶と機械の美学を肉付けして、この世界の魔導常理を完全に逸脱した必殺の装具を鍛え上げたのだ。
かつて地球で親しんだ数々の空想創作の記憶は、今や彼女にとって最大の切り札となっていた。そして眼前の姿もまた、ある名高き機動兵器の系譜が誇る武装の記憶を色濃く宿している。
浮遊しながら滑走するルシアの傍らでは、虚空を切り裂いて羽ばたく刻刻の姿がひときわ目を引いた。
その小柄な梟の鉤爪には、小鳥の体躯とは到底釣り合わない長大な砲身がしっかりと握り締められている。
それは旧来の物理投射器などではなく、ルシアの手によって改良が施され、高位の魔力を極限まで圧縮した上で、一瞬にして刺し貫くような破滅の閃光を解き放つ照射型魔力光線発生器であった。
いかなる名門の儀仗も伴わず、ただの一騎の護衛も従えてはいない。
風雨の中に濡れる黒髪をなびかせ、小柄な少女はその冷徹で異形の機械武装を従えながら、万の暴民と居並ぶ厳めしい軍勢の怯懦な視線を浴びていた。
まるで別次元から飛来した断罪の刃のごとく、崩壊寸前の死局へと強烈に割り込んでいったのである。
「師匠……」
雨幕の中、推進器が吐き出す狂暴な魔力の奔流が、敷石の泥水を激しく跳ね除けた。ルシアはその重装の冷徹な鉄塊を駆り、地表から僅か半尺の宙を滑るようにしてビクターの眼前へと歩みを止めた。
その白皙の美貌には、複雑な躊躇いと葛藤、そして深い痛罵が綯い交ぜとなって揺らめいている。
今この瞬間にも時間が零れ落ち、ミアの首にかけられた絞首索が締め上げられていることを痛感していながら、この男を前にして刃を向けねばならぬ現実に、その胸が鈍い痛みに軋んでいた。
異端の機械美と濃密な殺気を纏うその異様な装具を目にして、ビクターの漆黒の瞳が微かに揺れた。
ただ一度の視線の交錯だけで、百戦錬磨の「夜魔」は、目の前の黒髪の愛弟子が何を意図して現れたのかを瞬時に看破した。
彼女は加勢に来たのではない。死神と暴徒が回す処刑の歯車の隙間に、己の流儀でミアの命を繋ぎ止めるための時間を力ずくでこじ開けに来たのだと。
だが、いかに綿密な勝算を秘めていようとも、ビクターが彼女をこの泥沼に足を踏み入れさせるはずがなかった。
この一件は端から、皇権と神権が目障りな異端を屠るために仕組んだ絶対の死局であり、最初からルシアが背負うべき因果など欠片も存在しない。
たとえ二人が学院における師弟であろうと、高熱に浮かされるミアがかつてあの無垢な憧憬を込めて「ルシアお姉様」と懐いていたとしても、支払うべきすべての代償は、師であり兄であるこの己一人が背負うべきものであった。
「立ち去れ」
ビクターの声が雨音を裂いて響いた。一切の妥協を許さぬ、冷徹なまでの厳格さであった。
「ここは貴様の来るべき場所ではない。貴様には何ら関わりのないことだ」
それは、かつて幾度となく耳にした厳格な声音そのものであった。魔力回路の構築に頭を抱えていた幾夜もの日々、ビクターはルシアが提出した論文を容赦なく酷評し、小細工に頼る悪癖を厳しく叱責していた。
だが、叩き返された羊皮紙の余白には、いつだってその男の緻密で几帳面な筆跡による注釈が、狂気的なまでの密度で記されていたのだ。
求めるべき古文書が中央大図書館の東棟の何階にあり、書架の番号は幾つで、何巻の何頁を開けば求めている反転陣法の解法に行き当たるのか――そのすべてが、寸分の狂いもなく記されていた。
男は決して手取り足取り答えを与えることはしなかったが、暗闇の中で弟子が盲滅法に壁へと激突せぬよう、真理へと至る道標を常に灯し続けてくれていたのだ。
その切っ先の奥に秘められた深き慈愛を、ルシアは誰よりも知っていた。
だからこそ、彼女は一歩たりとも引くわけにはいかなかった。
墨緑の瞳に自虐的なまでの決死の光を宿し、ルシアは奥歯を強く噛み締めた。
錬金手札を浮遊させたままの左手を素早く薄甲の内側へと滑り込ませると、指先で一片の布地を掴み取り、寸分の躊躇もなく、ビクターの雨に濡れそぼる胸元へ向けて力任せに投げつけた!
古来より、騎士が手袋を投げつけて宣戦を布告し、命を賭した決闘を誓うは、ノーランド帝国において骨の髄まで染み渡った神聖なる伝統であった。
ピチャリと、その布切れは男の胸当てを叩き、足元の泥水の中へと落ちた。
ルシアは顎を跳ね上げ、拡声の魔力に乗せた鋼のように凛とした声を、雨幕と群衆の騒乱を切り裂く雷鳴のごとく響かせた。
「帝都魔法学院、錬金術科実習教授、ルシア・グラフィエン・シルヴィア――!」
彼女の全身を包む魔導の光霧が爆発的に膨れ上がり、推進器の駆動音が獣の咆哮のように唸りを上げた。
「これより帝立正教授、ビクター・クルスに対し、神聖決闘を申し込む! 賭け金は罪人ミアが命と身柄の処遇! 勝敗の行方は天に委ね、命尽きるまで矛を収めること能わず!」
血を吐くような叫びが、広場に木霊した。
退路など疾くに断たれている。背後には二大貴族の命運とミアの生死があり、目の前には己を慈しんでくれた恩師がいる。
この公開処刑を無理やりにでも凍結させるためには、大義の名を騙り、自らを冷酷無比なる帝国の執行者へと仕立て上げ、この呪わしき軛を自らの手で首に嵌めるしかなかった。
ビクターは、毅然として立ち塞がる黒髪の女をじっと見つめていた。
その脳裏に、かつて学院の訓練場で、まともな決闘の礼儀作法すら知らず、失礼千万な言い訳ばかりを並べ立てていたあの気怠げな少女の面影が過る。
知らぬ間に、殻に閉じこもって日々をやり過ごしていたあの小動物は、深淵を前にして一歩も引かぬこれほどの気骨と威厳を身に纏うまでに至っていたのだ。
ビクターの風霜に刻まれた頬に、極めて微かな、深い誇らしさを湛えた笑みが浮かんだ。
彼は僅かに首を巡らせ、冷たい雨の向こう、泥水の中で固く抱き合う妻と衰弱した義妹へと、低く穏やかな声を投げかけた。
「デイジー……見ろ。私は、途方もなく立派な弟子を持ったものだな」
デイジーの赤く腫れた双眸が見開かれ、腕の中のミアは胸を引き裂かれたような細い嗚咽を漏らした。
二人には痛いほど理解できていた――皇族の直接監視の下で行われる神聖決闘において、示し合わせた八百長など決して許されない。
ルシアがミアの処刑を合法的に阻止するためには、帝国の正義の側に立ち、ミアの首を刈り取る断頭の刃とならねばならない。
そうして初めて、この決闘は皇権の頭上を飛び越え、時間を凍結させる絶対の盾となるのだ。
いかに優しく、そしていかに不器用な子供であろうか。
根はどこまでも怠惰で、日頃は出鱈目ばかりを口走っているくせに、いざ破滅が迫れば、最も痛烈で憎まれ役となる道を自ら選び、その小さな身一つですべての重荷を背負い込もうとするのだから。
「帝都魔法学院、魔法解析科正教授――」
ビクターは瞳から一切の情を拭い去り、「夜魔」と恐れられたあの息の詰まるような漆黒の死気をその身に呼び戻した。長剣の柄に手を掛け、痩身の背筋を誇り高く伸ばす。
「ビクター・クルス、その挑戦――謹んで受けて立つ!」
言の葉を落とすと同時に、ビクターは古の礼式に則り、弟子の投げつけた宣戦の誓約たる「手袋」を拾い上げるべく、泥水の中へと恭しく手を伸ばした。
だが、掬い上げた湿った布切れを手のひらに広げた瞬間、男の全身が唐突に硬直した。
それは上質な白鹿の革手袋でもなければ、金属片を編み込んだ鎖帷子の籠手でもなかった。
端が黄ばみ、爪先の部分には不格好に歪んだ人参の刺繍が施された……紛れもない木綿仕立ての、幼子の短い靴下であった。
雨粒が靴下を濡らし、場に異様極まる沈黙が降りた。
「…………」
ビクターの口元が引き攣り、ゆっくりと顔を上げると、殺気を放っていたはずの黒髪の女を、筆舌に尽くしがたい複雑な眼差しで見つめ返した。
先ほどまで威厳に満ちた空気を必死に繕っていたルシアの白い頬が、一瞬にして林檎のように赤く染まり上がった。
墨緑の瞳は居場所を失って激しく泳ぎ、推進器で宙に浮いたまま、逆噴射で石畳の下にでも潜り込みたいほどの羞恥に身悶えする。
「あ、あの……その、出る時にあまりに急いでいて……鞄の中にあった布を適当に掴んだだけで……私、普段から手袋なんて着けないし……」
「…………」
ビクターの眉間が激しく引き攣った。先ほどまで場を支配していた、共に黄泉へと旅立つ覚悟すら孕んでいた重厚な悲壮感は、見る影もなく霧散していた。
鉄のように張り詰めていた肩が目に見えて脱力し、男は疲労困憊といった様子で顔の雨水を拭った。
「……いくら急いでいたとはいえ、このような童の履き古した臭い靴下を決闘の信物にする奴があるか、ルシア」
「臭くありません! 綺麗に洗濯してあります!」
咄嗟に反論してしまい、ルシアは場違いな弁解に気づいて恥ずかしさのあまり舌を噛みそうになった。
先刻まで大宗師による血の粛清に怯え、息を殺していた暴民や近衛兵たちは顔を見合わせ、誰かが吹き出したのを皮切りに、あちこちから堪えきれぬ失笑と忍び笑いが漏れ始めた。
今にも血の海へと転がり落ちそうであった絶望の死局に、一本の人参柄の靴下が、信じがたいほど滑稽な風穴を開けてしまったのだ。
そして、豪奢な雨覆いの下、幾重もの近衛に守られた高台の上で、誰よりも高らかにその破顔を響かせたのは、他ならぬ皇太子クロードであった。
神の如き端麗な容貌を持つ皇嗣は、片手で優雅に顎を支え、雨幕の向こうで繰り広げられる問答に肩を震わせ、ついに堪えきれず朗々とした笑い声をあげた。
黄金の長髪が雨風に揺れ、蒼碧の双眸には、すべてを手中に収めている者の傲慢と昏い愉悦が宿っている。
包囲を命じ、近衛とビクターを睨み合わせ膠着させたのは、最初から時間を稼ぐための罠であった。
彼は待っていたのだ。あの怜悧でありながら身内に対して異常なまでの執着を見せる黒髪の女が、自らの愛するミアを火刑台に送られるのをただ指をくわえて見過ごすはずがないと確信していた。
ルシアが必ず現れると踏み、公爵家の精鋭を率いてくるか、あるいは二大貴族の権勢を盾に政治的圧力をかけてくるだろうと予測していたのだ。
だが、あの氷のように怜悧な女が、破滅的な鉄の異形を背負って現れた挙句、叩きつけた誓約がよりによって一足の滑稽な靴下であろうとは、神ですら思いも寄らなかったに違いない。
「面白い……実に面白いぞ、ルシア」
クロードは笑い声を収め、その唇の端に冷酷極まる残忍な笑みを浮かべた。落雨の中、その双眸の深淵はより一層昏く沈んでいく。
「ならば、余が――いや、私が直々に、見届けさせてもらおう。貴様がその脆弱な身一つと、たった一足の靴下を以て……いかにして夜魔の刃より、あの魔女を買い戻すつもりなのかをな」




