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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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愚者の天秤と狂人の理

重厚な裾が足首の周りで乱れ飛ぶ。ルシアは両手で凝った作りの布地を力任せに引き絞り、膝の上までたくし上げながら、人影の途絶えた学院の回廊を無我夢中で駆け抜けていた。


身側に連なる固く閉ざされた寄宿舎や研究室の扉の奥からは、押し殺した嗚咽と神経症じみた低い囁きが満ちている。


黒死病の暗雲は、すでにこの象牙の塔にまで容赦なく侵食していた。


日頃は魔導の真理を高らかに語り合っていた魔術師や貴族たちも、今や結界の内に身を竦ませ、ただ死を待つばかりの駝鳥に成り下がっている。


ルシアには、そんな愚か者どもを一顧だにする余裕など欠片もなかった。


激しい疾走に肺腑が焼き爛れるような痛みを訴えていたが、その墨緑の瞳に宿る光だけは僅かも揺らぎはしない。


神罰だの呪詛だのといった迷妄に満ちたこの愚かしい世界において、カリーナやクレアがどれほど自分を愛していようとも、微小なる世界の病原菌を真に理解することは叶わない。


ビクターの剣がどれほど極致にあろうとも、目に見えぬ桿菌を断ち切ることなどできはしないのだ。


この世界は、彼女の言葉を解さない。


だが、一人だけ、必ず理解できる人間がいる。


ヴァレリー――あの世界から渡り来たり、同じく現代の魂を抱くあの狂女だけだ。ヴァレリー相手ならば、感染経路が何たるかを説く必要もなく、異端を見るような疑いの眼差しに晒されることもない。


ドン――!


ルシアはノックすら怠り、魔法陣の刻まれた重厚な樫の扉をその華奢な身体ごと乱暴に押し開いた。


扉は石壁に激突して凄まじい轟音を立て、枠組みに張られた防塵結界が激しい魔力の波紋を散らす。


だが、口をついて出ようとした切迫した叫びは、鼻を突く異臭と目の前に広がる不条理極まる光景を前にして、喉の奥で無惨にも凍りついた。


最上階の一角を占めるその私的研究室は、一言で表すなら災厄の現場そのものであった。


複雑な微積分と魔力計算式で埋め尽くされた羊皮紙が乱雑に散らばり、部屋の隅に置かれた蒸留フラスコからは紫紅色の不気味な気泡がぷくぷくと音を立てて湧き上がっている。


灯り代わりに浮かべられた安物の魔導光球は歪に宙を漂い、ツンと鼻腔を刺す酒精、硫黄、そして薄荷脳の混じり合った強烈な臭気が充満していた。


そして、その混沌の真ん中で、ヴァレリーは奇怪極まる姿勢を晒していた。


この異世界においてはあまりに異質な、色褪せた日本語の五十音とアニメの意匠が刷り込まれた木綿の半袖白シャツを身に纏い、その襟元はだらしなく片側に崩れて白皙の鎖骨を露わにしている。


そして下半身――あろうことか短パンすら穿いておらず、繊細なフリルで縁取られた黒い総レースの三角下着一枚きりであった。


無防備極まりない二本の白い脚を大股に開き、あろうことか毛の抜け落ちた剥き出しの木柄の掃除箒を真剣な面持ちで股間に挟み込んでいる。


宙に浮かせた爪先をしきりにぴくぴくと動かし、口元からは「ぶおぉぉん――」と間の抜けた推進音を鳴らしながら、付魔すら施されていないただの木切れを己の魔力で飛ばそうと懸命に唸っていた。


その様たるや、まるで三流の特撮劇か童話の絵本から抜け出してきた間抜けな魔女そのものであった。


扉の向こうに渦巻く黒死病の恐怖も、帝都を覆う血風も、神殿の断頭台すらも……すべてがこの扉一枚を隔てて別次元の茶番へと成り果てているかのようだった。


ルシアは両手を膝につき、激しく肩を上下させながら息を喘がせた。目の前に広がる白々とした太腿と、力任せに挟み込まれた箒を凝視し、目元の神経を酷く痙攣させる。


墨緑の双眸に脱力にも似た茫然自失の色を浮かべ、喉に砂でも詰まったかのような掠れた声を絞り出した。


「……何をしているの、貴女は」


ヴァレリーの乱れた酒紅の長髪が微かに揺れ、金色の瞳がぱちくりと瞬いた。恥じらいや狼狽の欠片すら微塵も窺わせない。


脚から箒を外そうとすら固持したまま、あろうことか尻の位置を揺すって座り心地を整え、不満げに頬を膨らませては、いかにも悪びれぬ軽口を返してきた。


「人の部屋に入る前にはまずノック。それ、向こうの幼稚園で習う基本中の基本じゃなかったかしら、村雨?」


「ふざけている時間はないのよ、ヴァレリー!」


ルシアは扉の枠に縋りつき、荒い呼吸に疾走直後の生血の味を滲ませながら、墨緑の瞳で目の前の女を射抜くように見据えた。その言葉は機関銃のように急速に紡ぎ出される。


「外の疫病は、すでにカリーナとクレアを動かして手を打たせたわ。グラフィエン公爵家とシルヴィア侯爵家の特権を総動員して、発熱やリンパ節の腫れが見られる疑いのある者はすべて強制隔離するよう命じた! それに、都市防衛軍と貴族の私兵には、下層街へ足を踏み入れる者全員に、極薄の魔力膜で全身を覆い続けることを義務付けたわ――」


ルシアは深く息を吸い込み、恐怖に呑まれた学院の外を指差した。


「あれはペスト菌よ! 神罰などという下らない迷信なんかじゃない! 地球であれほど猛威を振るい人口の三分の一を死に追いやったのは、当時の人間に顕微鏡も魔力も存在しなかったからよ! けれど、この世界は違う。魔力を物理的な防壁として実体化できるのなら、全身に魔力を纏っている限り、菌を媒介する蚤の針など皮膚を通るはずがない! 蚤の刺咬という感染経路を断ち、鼠を駆除し、生石灰と蒸留酒精で徹底的に消毒すれば、魔力のあるこの世界なら地球よりも遥かに容易く抑え込めるはずなのよ!」


ルシアの声音は次第に切迫し、舌を噛み切りそうなほどの勢いであったが、そんなことを気にする余裕などなかった。この事実は、彼女にとって何よりも譲れぬ生命線だったのだから。


「今、帝都を覆っている狂気はすべて未知に対する恐怖ゆえよ。私には貴女の力が必要なの。二人で錬金器具と貴女の創造魔法を用い、病原菌と症状の因果関係さえ証明できれば――」


パタン。


乾いた木片の落ちる音が、ルシアの滔々たる弁論を遮った。


ヴァレリーは先刻までのふざけた表情を完全に消し去り、股に挟んでいた箒を乱暴に実験台の上へと放り捨てた。


剥き出しの白い素足で冷たい石畳を踏み締め、散らかり放題の机へと歩み寄ると、すっと一本の人差し指を立てる。その金色の瞳からは戯れの色が綺麗に削ぎ落とされ、冷徹なまでの清醒さだけが残されていた。


「村雨、その現代的な思考を止めなさい」


ヴァレリーの声は酷く低く、だがルシアの過熱した神経へ冷水を浴びせかけるかのように響いた。


「ここの人間が、誰一人として理解できると思うの?」

ルシアの息が止まった。


「病原菌だの、蚤だの、魔力の防壁だの……私たちにとっては常識でも、あの愚民どもや教廷のペテン師、それに皇太子クロードの目にどう映るかしら?」


ヴァレリーは冷ややかに窓の外を指し示した。


「百歩譲って、貴女が鼠や蚤を解剖し、その薄汚い桿菌を拡大して元老院の前に突き出したところで――ミアは死ぬわよ」


「……どうして」


ルシアの声が微かに震える。


「死人こそが、真理よりも遥かに深く恐怖を鎮められるからよ」


ヴァレリーは机の縁に腰を預けた。微風に揺れる薄手のシャツの下、その気ままな顔立ちに、かつてないほど痛烈な冷笑を滲ませる。


「貴女、ここ最近ミアとかいう小娘のために狂ったように駆けずり回っていたでしょう。世界中が盲目だとでも思っていたの? 教えてあげるけれど、二、三日前、ルーカスが私のところに密かに泣きついてきたわよ」


その少年の名を聞いた瞬間、ルシアの眉が険しく寄せられた。


「あの子、今にも泣き出しそうな顔で不満をぶちまけてきたわ」


ヴァレリーは口元を歪め、あの思春期特有の屈折した少年の聲音を露悪的に真似てみせる。


「『ルシア先生は、叔母上や従叔母上と婚姻を結んでいる身でありながら、どうして他の女にばかり現を抜かすのですか。一体、グラフィエン家を何だと思っているのですか……僕はこの状況が許せない。ヴァレリー教授、貴女もあの世界の人間なら、先生を説得してはくれませんか』――ですって」


ヴァレリーは呆れたように息を吐き、腕を組みながら、黒いレースに包まれた華奢な脚を交叉させた。


「その場ですぐに追い返してやったわ。他人の家庭の痴情のもつれになんて首を突っ込みたくもないし、教廷や皇室、貴女方の二大貴族が絡む泥沼の利権争いなんて御免被るもの。正直に言うわよ、村雨。今日、あの扉の前に立って発狂寸前まで自分を追い詰めているのが、貴女以外の誰かだったなら……」


ヴァレリーは言葉を切り、蒼白な肌に血走った瞳を浮かべる黒髪の少女を、深く、静かに見据えた。そして、重い溜息を落とす。


「貴女が直接頼み込んできたのでなければ、こんな命の縮むような厄介事、私は爪の先ほども関わる気なんてなかったわ」


ヴァレリーは音もなく歩みを進め、白い素足を晒したままルシアの目前へと歩み寄った。


いつもなら不敵な笑みを浮かべているその顔が、今は間近に迫っている。金色の瞳には侮蔑などなく、世の理を冷徹に見透かした者特有の残酷さと氷のような諦念だけが宿っていた。


「村雨、地球にいた頃の民主主義の選挙を覚えている?」


ヴァレリーは囁くように語りかけた。昨夜の退屈な番組の感想を述べるかのような、酷く平坦な声音だった。


「公平で、理性的で、誰もが一票の権利を有していると謳われたあの制度を。けれど、現実はどうだったかしら。大衆のどれほどが、ただ候補者の男が見目麗しく、仕立ての良い背広を着こなしていたという理由だけで投票所に足を運んだと思う? 政見放送で語られた言葉の一つも耳に留めず、浮かれた顔で名前を書いたのよ。あるいは、身体の線を強調したシャツを着て、胸が大きく、谷間の深い女の候補者がカメラに向かって甘い笑みを振り撒いただけで、愚民どもは自らの生活も命もあっさりと差し出したわ」


彼女は細い指先を伸ばし、激しく上下するルシアの薄い胸元を軽く突いた。


「それが大衆よ。盲目で、短慮で、己の瞳に映るもっとも浅薄な表象しか信じようとしない。科学の発達した地球であれ、魔力の満ちるこの異世界であれ、人間の本質など何一つ変わってはいないの」


ヴァレリーは指を引き、どんよりとした陰鬱な噴煙に覆われた下層街へと視線を投げた。その口元に、痛烈極まりない皮肉の弧が刻まれる。


「ここの人民は、地球の人間よりも遥かに迷信深く、愚昧だわ。帝都の往来には死体が溢れ返り、誰も彼もが発狂しながら死を待っている。そんな極限の狂乱の中へ飛び込んでいって、蚤だの鼠だの魔力の隔離膜だのを説くつもり? 」


ヴァレリーの声はさらに低く沈んだ。決してルシアを見下しているわけではない。ルシア自身がその道理を誰よりも理解していながら、必死に現実から目を背けていることを知っているからこその残酷さだった。


「夢を見るのはやめなさい、村雨。クロードは生まれながらにして端正な顔立ちと、皇室の気高い血筋を背負っているわ。彼が広場の高台に立ち、ミアを指差して『あの病弱で、常に不吉な影を纏う女こそが呪詛を撒き散らす魔女である』と宣告しさえすれば――」


ヴァレリーは振り返り、赤く充血したルシアの墨緑の瞳を冷徹に射抜いた。その無慈悲な宣告が、少女の最後の逃げ道を粉々に打ち砕く。


「人民は、何の疑いもなく彼を信じるわ。何千、何万という人間が地べたに平伏して涙を流し、ミアの名を疫病の元凶として呪い、罵詈雑言を浴びせるでしょうね。奴らが求めているのは、今すぐ火刑台に括り付けて焼き殺せる生贄であって、退屈極まりない顕微鏡の像や桿菌の証言なんかじゃないのよ」


ヴァレリーは息を吐き、激しく震えるルシアの華奢な両肩に手を置いた。その聲音は、重く沈んでいた。


「だから、ミアは死ぬわ。村雨、貴女がどれほど精緻に計算し、どれほど足掻き、どれほど血を吐く思いで抗おうとも……この愚か者と権力者が牛耳る世界において、あの子はすでに死人に等しいのよ」


ルシアは反論せず、ただ静かに首を垂れた。


今にも千切れそうなほど張り詰めていた身体から、その氷のように無慈悲な言葉によって、一切の力が抜け落ちていく。


不意に、大粒の涙が瞳から溢れ出した。嗚咽も、取り乱した叫びもない。ただ静かに、一筋、また一筋と蒼白な頬を滑り落ち、冷たい石畳の上に落ちては暗い染みを作っていく。


ヴァレリーの言葉が寸分の狂いもなく正しいことを、彼女自身が何よりも理解していた。


それが動かしようのない真実であると知っているからこそ、胸の奥を鈍色の刃で抉られるような激痛は、あまりに生々しく、息を詰まらせるほどに苦しかった。


前二世における運命の歯車に磨り潰された記憶が、脳裏を凄惨に駆け巡る。濡れ衣を着せられ、裏切られ、捨て駒として使い潰された時の、あの凍てつくような無力感。


それが、今まさに屠られようとしているミアの死局と残酷なまでに重なり合っていた。


どうして、どの世界に行こうとも、弱者の命はこうも容易く踏みにじられねばならないのか。どうして権力者が僅かに唇を動かすだけで、群衆の怯懦を埋めるために無実の血が石畳を濡らさねばならないのか。


死に物狂いで学び、計算し、抗い続けてきたというのに。この愚民と権威が築き上げた分厚い絶望の壁の前では、彼女の微小病理学も、積み上げた推論も、火の粉に舐められる薄紙のように無力であった。


持てるすべてを賭してなお、ただ指をくわえて悲劇の再現を見届けるしかないという挫折と絶望。それが瞳の奥に拭い去れぬ悲哀となって沈殿し、息を吸い込むたびに鉄の錆びた血の味が胸を焼いた。


零れ落ちた黒髪が、涙に濡れる墨緑の瞳を覆い隠す。生まれつき小柄で華奢なその横顔は、常の冷徹さと気丈さを失い、無言の涙のなかで今にも砕け散りそうな硝子細工のように脆く見えた。


その姿を前に、ヴァレリーは息を呑んで立ち尽くした。


金色の瞳に僅かな動揺が走る。静かに涙を零す小柄な少女を見下ろすうち、地球で培われた倫理観と罪悪感が怒涛の勢いで胸中にせり上がってきた。


普段は軽口を叩き合っている仲とはいえ、同じ郷里の魂を持つ同胞を、己の容赦ない正論でここまで追い詰めてしまったことへの後悔が脳裏をかすめる。


「……ちっ、まったく。私の負けよ!」


ヴァレリーは苛立たしげに酒紅の乱れ髪を掻きむしり、鳥の巣のようにぐしゃぐしゃにした。裸足のままペタペタと床を往復すると、深々と嘆息し、ルシアの細い肩を乱暴に掴み直した。


「泣かないで頂戴! 手伝うわよ、手伝えばいいんでしょう!?」


ルシアの身体が微かに震え、涙を湛えた睫毛が頼りなげに持ち上がる。


「けれど、釘を刺しておくわよ、村雨。貴女に残された時間は本当に少ないわ」


ヴァレリーの表情が再び引き締まり、怜悧な頭脳で状況を素早く組み直していく。


「私はここに残り、全速力で感染症学と病原菌に関する論文を書き上げる。錬金器具を用いて蚤と桿菌の標本も固定化してみせるわ。同時に、学院の魔導通信を使って、この報告書を貴女の二人の妻へ直接送る――カリーナに軍部を動かさせて世論の暴走を抑え込ませ、クレアには商工連合の財力で貴族と民衆の目を眩ませるのよ。あの二家が揃ってこの報告の保証人となれば、この手詰まりを引っくり返す勝機も生まれる」


そこまで語ると、ヴァレリーは眼光を鋭く研ぎ澄まし、金色の瞳をルシアへと突き刺した。


「だが、これら全ては――ミアがあの報告書の完成まで息を繋いでいればの話よ」


彼女は窓の外から微かに響いてくる怒号と警鐘の音を指し示した。


「底辺の平民どもの恐怖はすでに頂点へ達しているわ。今この瞬間も何万という群衆が審判所を取り囲み、天罰を鎮めるためにミアを処刑しろと狂ったように叫んでいる。そして、妻の唯一の妹を溺愛するあの偏執狂のビクターが、黙って引き下がるはずがないわ。『夜魔』の剣を抜き、帝立城防軍と真っ向から衝突するに決まっている――そうなれば、ミアは魔女の汚名を確定させ、ビクターも反逆者としてその場で屠られるわよ!」


ヴァレリーは両手でルシアの肩を強く締め上げ、一言一言を刻みつけるように迫った。


「貴女自身が現場へ赴き、時間を稼ぐのよ。言葉で道理を説いても誰も耳を貸さない。権力でねじ伏せようとすれば暴動に火をつけるだけ。今、貴女の手札の中で、手続きを強引に凍結させられる唯一の手段は一つしかないわ――」


結末を半ば予見しながらも、投げやりな覚悟を瞳に宿し、ヴァレリーは冷ややかに告げた。


「グラフィエンとシルヴィアの名のもとに、『ミアの身柄を賭けた決闘』を正式に申し込むのよ」


「……決闘?」


「帝国の古法において、神聖なる決闘には絶対的な優先権が認められているわ。勝敗が決するその瞬間までは、皇太子であれ教廷であれ、法を飛び越えて刑を執行することは許されない。それこそが、貴女がミアのために奪い取れる唯一の猶予よ。村雨、貴女にその賭けに乗る覚悟はある?」


ルシアの瞳に揺れる涙が微かに凍りつき、彼女はヴァレリーの描いた無慈悲にして精密極まる計略の全貌を、ようやく完全に理解した。


ノーランド帝国は、騎士の尊厳と古の法典を何よりも重んじる国であった。


帝国の法に基づき、貴族と強者が名誉を賭けて正式に決闘を申し入れ、双方がそれを受諾したならば、その神聖なる私闘はあらゆる司法手続きを超越する――


勝敗が分かつその時まで、いかに尊大なる皇族や教廷といえども礼を尽くして矛を収め、手出しすることは許されない。


今、彼女が成すべき唯一の行動は、あのビクターへ向けて冷徹なる果たし状を叩きつけることであった。


ミアの帰属と生命そのものを唯一の賭け金とし、「夜魔」と畏怖される師へと刃を向ける。


その決闘の誓約が結ばれさえすれば、決着を見るまでの間、ミアは不可侵の中立領域たる「係争の核」となり、何人たりともあの哀れな少女の髪一本に触れることすら叶わなくなるのだ。


そうして初めて、彼女は皇室と暴徒の凶刃の間から、ヴァレリーの論文の完成と二人の妻による政治的包囲網を敷くための、決定的な時間を力ずくで毟り取ることができる。


だが、それは決して互いの腹を探り合うような馴れ合いの八百長などではあり得ない。


皇太子クロードと審判所の監視の目の前で執り行われる皇族親閲の神聖決闘において、いかなる虚飾や手加減も許されるはずがなかった。


僅かでも手心を加え、示し合わせた芝居であると露見すれば、クロードの背後に控える政敵たちによって、即座に「重罪人の庇護」および「神への冒涜」という大逆罪の烙印を押されることになる。


そうなれば、ミアの死が確定するばかりか、カリーナの治めるグラフィエン公爵家も、クレアを擁するシルヴィア侯爵家も、主君を欺いた業火に巻き込まれ、共々破滅の深淵へと叩き落とされるだろう。


手加減など許されない。慈悲を乞うことすら叶わない。


ルシアの眼前に残された道は、優雅な時間稼ぎなどではなく、血の滴る一本の丸木橋に他ならなかった――。


彼女は己の命を賭け、剣術と魔法の双方において極致に君臨する「夜魔」ビクターと、帝都の群衆が見守る白日の下で、退路なき本物の死闘を繰り広げねばならないのだ。

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