もう一人の私を、否定させないために
湯浴みによる湿った熱気は、まだ寝室の中に完全には消え去っていなかった。重厚な天鵞絨の帳が窓の外からの夜風を遮り、広々とした寝台を暖かく包み込んでいる。
ルシアはまるで警戒心を解き、温水に浸かって骨抜きにされた幼い猫のように、カリーナの抱擁の奥深くへ極めて順従に身を伏せていた。
女公爵が纏う清冽な杉の香りと立ち上る熱気が混ざり合った木質の香りが、落ち着いた優雅さで彼女を取り囲む。
カリーナの白く細長い腕は自然とルシアの細い腰を横切り、玉石のように滑らかな指先が、まだわずかに湿り気を帯びたルシアの黒髪をゆっくりと、途方もない根気配りで梳いていた。
本来ならば静謐で睦まじい光景のはずだった。ただ惜しむらくは、普段は物憂げな疲労を滲ませているルシアの清らかな白い小顔の、その左頬に突如として浮かび上がった、血の滲むような掌の痕跡だった。
クレアの手は華奢で優美、指の関節も整っており、決して大柄な手というわけではない。
だが、ルシアの骨格があまりにも小柄で顎のラインも細すぎたため、この羞恥と狼狽の入り混じった平手打ちは、白磁のように透き通る肌の上に痛々しく浮かび上がり、どこか滑稽なまでの痛ましさを漂わせていた。
「……痛むか?」
カリーナはわずかに首を傾げた。暖炉の火に照らされた血紅の瞳は熟成された血酒のように幽邃で、その奥には隠しきれない甘やかしと可笑しさが揺れていた。
彼女は人差し指を曲げ、温かく微かに涼やかな指の腹で、熱を帯びて硬くなったその赤みをそっと撫でた。
「痛くはないよ。ただ、顔の半分がちょっと痺れてるだけ」
ルシアは細い顎をカリーナの柔らかな胸元に行儀よく乗せ、瞼を半分伏せた。
睫毛の影の下で墨緑の瞳を悪戯っぽく二度ほど瞬かせ、温泉の湯気に当てられた声は甘く蕩けていて、昼間の鋭さは微塵も残っていない。
その言葉が落ちるや否や、隣の布団から微かな、だが凍てつくような冷笑が漏れた。
クレアは豪奢な布団の端で横向きに寝そべり、背筋を真っ直ぐに強張らせていた。上質な絹のような紫の長髪が枕の上に乱雑に広がっている。
彼女は桜色の薄い唇を一文字に結び、端正な横顔を帳に向けたまま、頬に平手打ちの痕をつけた元凶に視線一つ向けようとしない。
侯爵令嬢の骨の髄まで染みついた誇りが無言の防壁と化していた。
頭の中は先ほどの大浴場の奥底で、あの命知らずの『器用な手』が水中に無遠慮に潜り込み、極めて秘めやかな場所の紫の茂みを乱暴に弄った恥辱の光景で埋め尽くされているに違いない。
だが偏に、先ほど制裁を下したはずの高貴なる侯爵の手は、幾重にも重なる絹布団の下で音もなく這い寄ってきた。
クレアの指先は貴族令嬢特有の冷涼さを帯び、筋張った関節が強引にルシアの手指を押し広げ、八つ当たりにも似た執念深さで十指を絡め、ぎゅっと締め上げた。
その力はあまりにも強く、指の骨がきしむほどだった。
この無鉄砲な凡人が夜の闇に紛れて消え去ってしまうのを恐れているようでもあり、あるいはこの悪行を重ねる手を自分の目の前で握り潰してしまいたいと願っているかのようでもあった。
掌から伝わる冷たさと強引な緊張感に、ルシアはこっそりと顔を横に向けた。
流し目の端が、紫髪の隙間に隠されたクレアの耳朶を的確に捉える――雪のように白い耳たぶは赤く熟れた果実のように染まり、うなじの滑らかな肌まで隠しきれない薄紅を帯びていた。
平手打ちを食らった教訓など、この凡人の頭の中では半刻も保たなかったらしい。
ルシアの墨緑の瞳の奥に、極めて悪質な光が過った。
――噛みつきたいほど恥ずかしくて怒っているくせに、眠るときですらこうして頑なに手を放そうとしないだなんて……。
ルシアは抵抗するどころかその引き寄せられる力に身を任せ、意地悪くクレアの敏感な掌の中で人差し指を丸め、指先でくすぐるように二度引っ掻いてみせた。
「ひっ……!」
目に見えない電流に打たれたかのようにクレアの体がびくりと跳ね、羞恥と怒りに満ちて勢いよく振り返った。
名高き菫色の瞳は涙の膜に潤み、溢れそうな水滴を瞳に溜めながら唇を開いて怒鳴ろうとしたが、目の前に飛び込んできたのは、鮮紅の掌の痕をつけたまま眉を下げて無辜の笑みを浮かべるルシアの顔だった。
「はいはい、二人とも。もうその辺にしておきなさい」
カリーナの手が滑るように降りてきて、白磁のようにきめ細やかな掌が、赤く腫れたルシアの半面を優しく包み込み、この無言の幼稚な小競り合いを遮った。
女公爵の低く掠れた声音が頭上から響く。彼女は両腕をわずかに引き絞り、ルシアを自分の胸元へさらに深く引き寄せると、顔を真っ赤にしたクレアへと視線を向けた。
その血紅の瞳の奥には、すべてを受け止めるような深い呆れと優しさが込められており、無言で宥めるような視線を送っていた。
クレアは深く息を吸い込み、胸を二度激しく上下させたが、結局は歯を食いしばって顔を背けた。しかし、布団の下でルシアの手を強く握り締める力だけは、僅かも緩めようとしなかった。
ルシアもようやく大人しくなり、顔の半分をカリーナの冷杉の香る襟元に埋め、温もりの中で怠惰な微睡みに身を沈めた。
だが、頭上で黒髪を撫でていたその手が、やがて緩やかに動きを止めた。
「……そう言えば、ルシア。ここ二日ほど王立図書館の禁呪区に籠もりきりだったから、外の騒ぎはまだ耳に入っていないだろう」
カリーナの声音は低く静かだったが、北境の軍権を握る帝国大公特有の慎重さと重々しさが、氷の結晶が張り詰めるように寝室の空気を侵食していった。
そっぽを向いていたクレアも僅かに表情を強張らせ、菫色の瞳を翳らせた。先ほどの羞恥は一瞬にして掻き消え、特権階級たる貴族の冷徹な鋭さが戻っていた。
「……何があったの?」
カリーナの鎖骨に鼻先を擦り付けたまま、ルシアは掠れた声で尋ねた。だが、本能的な警戒心が眠りかけていた論理回路を急速に覚醒させ始めていた。
「ここ数日、帝都市街と下層街の境界にある貧民街で、極めて奇怪な熱病が蔓延し始めている」
カリーナは低く告げ、視線を帳越しに向けた。寝室の片隅で揺らめく暖炉の炭火をじっと見つめている。
「当初、巡邏隊も神殿も単なる季節の変わり目の風邪と高を括っていた。だが、わずか数日のうちに倒れる平民の数が異常なまでに膨れ上がった。今や都市防衛隊の内部にまで感染者が出始めている」
「……症状は?」
「異常」という言葉に対し、ルシアの神経が条件反射のような鋭い反応を示した。
「極めて凄惨よ」
引き取ったのはクレアだった。シルヴィア侯爵家は帝都の膨大な商路と情報網を掌握している。彼女の声には貴族には滅多に見られない忌避と重圧が滲んでいた。
「発症は極めて急速。何の前触れもなく激しい高熱と全身の震えに襲われ、錯乱状態の譫言を吐き散らすの。さらに恐ろしいのは……鼠径部、脇の下、首筋の皮膚の下に、鶏卵ほどの硬い肉の塊が生じること。その腫れ物は半日も経たずに黒く変色して爛れ、耐え難い悪臭を放つ黒い膿を吹き出すわ。丸二日も保たずに血反吐を吐いて死に至る者が後を絶たない……絶命する直前には、全身の皮膚が炭のように黒ずんでしまうのよ」
その詳細で、冷徹で、残酷な描写が告げられた瞬間。
寝室を満たしていた温かく甘やかな空気は、一瞬にして氷点下まで叩き落とされた。
カリーナの腕の中に伏していたルシアの全身が、完全に凍りついた。
心臓を氷漬けの手で鷲掴みにされたかのようだった。冷徹な理性と計算の上に築き上げられた知識の扉が、頭の底で凄まじい力によって抉じ開けられる――
突発的な高熱、リンパ節の化膿と潰瘍、皮下壊死と壊疽、暗褐色や黒い血痰の喀血、そして絶望的な感染力と致死率……。
魔獣が吐き出す瘴気などではない。この世界でよくある魔力の暴走でもない!
それはかつてユーラシア大陸を阿鼻叫喚の地獄へと叩き落とし、数千万、あるいは億を超える命を奪い去り、地球の人類史に最も深い絶望の爪痕を刻みつけた死神――腺ペスト、そして肺ペスト、いわゆる黒死病そのものだった。
バサッ!
寝具を撥ね除ける鋭い音が静寂を切り裂いた。
焼き鏝を当てられたかのように、ルシアはカリーナの柔らかな抱擁から弾かれたように飛び起きた。両手を厚手の敷布団に力任せに押し当て、手の甲に青筋を浮かばせながら、唐突に背筋をピンと張り詰めて身を起こした。
彼女は蒼白に血の気を引かせた小さな顔を跳ね上げた。左頬に残る鮮紅の平手打ちの痕が、青ざめた肌の上であまりにも痛々しく際立っている。
墨緑の瞳は針の先ほどに収縮し、カリーナとクレアを射抜くように凝視した。呼吸は荒く尖り、極限の衝撃によって声は微かに震えていた。
「……その病気、私の故郷の世界にもあった!」
カリーナとクレアの視線が同時に固まった。
ルシアは自分が異世界の魂を宿している事実を二人から隠したことはない。
だが彼女たちの認識において、「地球」と呼ばれるその世界は、魔法こそ存在しないものの極めて精密な異端の技術と冷徹な哲学に満ちた世界であり、ルシアが突拍子もない錬金術や推演を行う際に垣間見える程度のものだった。
その世界の亡霊が、今まさに帝都の泥溝から這い上がってきたというのか。
「あなたの言う……あの魔法のない地球のこと?」
クレアの菫色の瞳が見開かれ、反射的に身を起こした。ルシアと結んでいた指先が、無意識のうちに強く食い込む。
「深淵の呪いでも、神殿の言う魔女の天罰でもなく、純粋な……『病』だと言うの?」
「病気だよ! それも歴史上、数千万、下手をすれば一億人以上の命を奪い去った大災厄だ!」
ルシアの早口はまるで弾丸を吐き出すようだった。脳の奥底で魔導の計算式が狂ったように回転し、墨緑の瞳には神経症的な異様な光が明滅していた。
恐怖を自覚する暇すらなく、彼女は寝台の上で身を乗り出し、その声音には大惨事を前にして場違いなほどの安堵と微かな喜びが滲んでいた。
「もしその病気なら、ミアが全ての元凶であるはずがない! この病気は蚤や鼠を媒介にして広がる微生物の感染症なんだ! ミアはただの病弱な子供で、体内に高位魔力の異変なんて一切ない。そんな子が種族を超えて広がる悪疾を無から生み出せるわけがないじゃないか! 彼女は病原体なんかじゃない!」
ルシアの口元が、虚脱したように微かに綻んだ。
ここ数日で最も喜ばしい知らせだった――この病気が法則に従う自然界の病理であるならば、皇帝や帝国の高官たちに原因を証明しさえすれば、ミアは「災厄を呼ぶ魔女」などという理不尽な汚名を着せられずに済む。
いつも微笑みながらビクターとデイジーの傍らに寄り添い、優しく「ルシアお姉ちゃん」と呼んでくれるあの少女を、理屈の上では救い出せるはずなのだ!
だが、藁にも縋る思いで歓喜するルシアを見つめるカリーナの血紅の瞳には、安堵の光など微塵も宿っていなかった。そこにあるのは、冷たく、重く、どこまでも残酷な暗雲だけだった。
「ルシア」
女公爵は腕を持ち上げ、細く白い指先を、震えるルシアの華奢な肩へと重々しく置いた。カリーナは抱きしめるでもなく、ただその掌で乗り出したルシアの体を冷徹に押し戻した。
低く響く声音は万年氷の如く冷たく、ルシアの瞳に宿りかけた光を無慈悲に粉砕した。
「……ミアはすでに第一容疑者として指定されている」
ルシアの口元に浮かびかけた笑みが、瞬時に凍りついた。
「お前の言う蚤や鼠、目に見えない微小な命とやらを……お前以外にこの帝国の誰が見たことがある? 当然、ヴァレリーなら理解できるかもしれんが、貴様らは所詮特例に過ぎん」
カリーナは見開かれた墨緑の瞳を真正面から見据え、すでに決定された判決文を読み上げるかのように冷淡に告げた。
「神殿や枢密院、そして民衆の前に突き出せる客観的な証拠が、お前の手にあるのか?」
「それ、は……」
ルシアの喉が引き攣り、乾いた砂を無理やり流し込まれたかのように言葉が詰まった。
顕微鏡? 細菌培養皿? 染色法?
基礎的な光学眼鏡すら貴族の高価な玩具としてしか扱われず、理解不能な事象のすべてを神罰と呪いに結びつける中世封建の異世界で、どうやって一夜にして、死に怯える何十万もの狂信的な凡人たちに目に見えない微小の禍を証明しろというのか。
「出せないでしょうね」
クレアが重い溜め息を零し、背をわずかに倒して枕に身を預けた。菫色の瞳からは少女の羞恥が完全に消え去り、最高峰の門閥を統べる貴族としての冷酷で透徹した理性が宿っていた。
「帝都はもう狂気に呑まれているわ、ルシア。下層街では昼夜を問わず死体を焼く煙が立ち上り、街の半分を覆っている。恐怖という名の毒草が、平民、貴族、聖職者……すべての者の心の中で際限なく育っているの。未知の死と破滅を前にした人間は、客観的な真実なんて求めていない。火刑台に括り付けて灰にできる具体的な『魔女』を欲しているだけよ。自分たちの脆い精神に、束の間の偽りの安寧を与えるためにね」
クレアは言葉を切り、息が詰まるほど重苦しい眼差しで、その場の空気を完全に凍りつかせる名を口にした。
「それに……最高戒厳追捕令に自ら署名し、皇室の名においてミアを『呪いを撒き散らす器』と断定したのは……クロード皇太子よ」
その一言は重い鉄槌となって、ルシアの胸骨を容赦なく打ち砕いた。
クロード。
常に高みから見下ろし、帝国の秩序と理性の因果を何よりも優先するこの国の後継者。
ルシアの全身の血が一瞬にして凍りついた。あの男の思考回路は痛いほどよく分かる――クロードにとって、ミアが真の病原体であるかどうかなどどうでもいいのだ。
彼が求めているのは「混乱の沈静化」と「皇権の威信」。街が制御不能に陥る寸前の今、取るに足らない重病の小娘を生贄として公開処刑台に送れば、民衆の口を一時的に塞ぎ、崩壊しかけた秩序を統制し直すことができる。
「群衆の恐怖の前には、真実など何の価値も持たない」
カリーナは抜け殻のようになったルシアを再びその胸の中へと引き戻し、冷え切った彼女の頭頂部に顎を乗せた。帳の内に木霊する低く響く声は、まるで冷酷な墓碑銘のようだった。
「外にいるすべての者が、神殿の騎士から下層街の乞食に至るまで、ミアが悪魔の呪いを招いたと狂信している。ルシア、お前の言う潔白を信じる者など誰一人いない。鼠や蚤の御託に耳を傾ける者など、どこにも存在しないのだ」
暖かかったはずの寝台は、今や断頭台の敷石のように冷たく硬かった。
カリーナに抱きしめられながらも、ルシアの体は微塵も弛緩しなかった。先ほどの脱力感は消え去り、極限まで引き絞られた弓の弦のように硬直し、布団の端を力任せに握りしめている。
指の関節は血の気を完全に失い、透き通るような白磁色に変色していた。
真実は知っている。
だが、恐怖に支配されたこの帝国において、彼女は唯一の狂気の清醒者だった――そして清醒であることこそが、絶望へと至る最短の道なのだ。
墨緑の瞳の中で常に冷徹に巡っていた計算の微光は完全に粉々に砕け散り、代わりに魂の最深部から湧き上がる激しい恐怖が瞳を塗りつぶしていた。
それは強敵を前にした緊張感などではない。自らの逃れ得ぬ宿命が、一歩一歩自分を押し潰しに迫り来る様を直視してしまった者の窒息感だった。
ルシアは身を覆っていた羽毛布団を激しく跳ね除け、再び両手で寝具を支えて身を起こした。
彼女の視線はカリーナの血紅の瞳と、涙膜を張ったクレアの菫色の瞳の間を激しく彷徨い、微かに冷えた空気の中で華奢な肩を激しく上下させた。
唇は微かに震え、呼吸には隠しきれない乱れと泣き声が混じっていた。
「……ミアは、まるで私の鏡写しなんだ」
砂利で削られたかのような掠れた声が、静まり返った寝室に重く突き刺さる。
「あの子はビクター先生とデイジーお姉ちゃんを愛している。その愛には打算なんて一切ない。まるで……私が二人を愛しているのと同じように」
ルシアは目を真っ赤に腫らし、喉を痛ましげに上下させた。
「あの子もまた、ビクターとデイジーから無条件に愛され、守られてきた。だからこそ、一見弱々しく見えても、その骨の髄は誰よりも狂気じみているんだ。愛する者を救うためなら、道徳も代価も気になんてしない。手段を選ばないし……自分の命だって平気で盤上の駒として投げ出すはずだ!」
そこまで口にした途端、ルシアの体は見えない禁忌に触れてしまったかのように激しく震えた。
カリーナが眉を寄せ、白い腕を伸ばして再び彼女を抱き寄せようとしたが、ルシアは寝台を手で押さえつけたまま半寸ほど後ずさりした。
墨緑の瞳は目の前の二人の妻を狂気的な怯えで見つめ、その眼差しには崩壊寸前の拒絶と混乱が渦巻いていた。
「怖いんだ……カリーナ、クレア。私、あの子が今辿ろうとしている結末を見るのが、本当に怖いんだよ……!」
こらえきれなくなった二筋の熱い涙が赤く腫れた目尻からこぼれ落ち、柔らかな絹の敷布団の上に落ちて音もなく染みを作った。
「ミアが今味わわされているすべて……誰からも疑われ、正体不明の呪いの元凶に仕立て上げられ、クロードの軍に逃げ場を奪われ、世界中から災厄の生贄として処刑台に押し出されようとしている……!」
ルシアは下唇を強く噛み締め、滲み出た血が唇を赤く染めた。崩壊したような声が嗄れ果てる。
「あんなにも純粋で、狂おしいほどの愛を捧げた結末が、こんな不条理で絶望的な破滅だと言うなら……今までやってきたことは一体何なんだよ……?!」
ルシアは自らの薄い寝間着の胸元を力任せに掻き毟り、指先を深く食い込ませた。墨緑の瞳には底なしの深淵が映り込んでいる。
「今のミアを見ていると、まるで自分自身の姿を見せつけられているみたいだ。まるで……目に見えない冷酷な何かが、ミアの末路を使って私の鼻先を指差して嘲笑っているかのようだ。『お前たちのように、そんな狂った愛し方をして生き延びようとする者の末路は、最終的には踏み躙られて死ぬ生贄でしかない』ってね……!」
ルシアの感情は突如として完全に決壊した。
脳裏を過ったのは、自らの前二世の記憶――尽くして愛した相手から冷遇され、目の前の愛する者のために全てを投げ打ったにもかかわらず、最期は惨たらしく野垂れ死んだあの地獄のような末路が、津波のように押し寄せてきたのだ。
「もし私がミアの死を受け入れたら……あの子が呪いとして無残に消されるのをただ見殺しにしたら……! それは私自身を全否定することになる! 私が今日まで足掻いて、信じて、選んできた全ての道を否定することになるんだ!」
彼女は狂ったように首を振り続けた。頬に残る平手打ちの痕と涙がぐちゃぐちゃに混ざり合い、その瞳の奥には、すべてを投げ打ってでも抗おうとする一抹の狂気と決死の覚悟が渦巻いていた。
「そんなこと、絶対に許せない……絶対に、させない……!」




