落花の海の温もりと、幽紫色の惑い
公爵邸の最深部に位置する専用の浴殿には、立ち込める白い湯気が薄絹の帳のように緩やかに漂っていた。
丸ごと一つの温潤な白玉を削り出して誂えられた浴池は、豪奢の極みとも言うべき広大さを誇り、円蓋天井から降り注ぐ魔晶の柔らかな光を映し出して微睡むような波光を湛えている。
水面には深紅と淡い桜色の八重咲き薔薇の花弁が一面に敷き詰められ、微かな波立ちに合わせて揺らめきながら、熱気によって限界まで蒸された濃密な芳香を放っていた。その甘やかな香りは、大気に溶け込むカリーナの冷たいモミの木質調の香気と静かに溶け合っている。
ルシアはその温かな湯の中にすっぽりと身を沈め、小柄で華奢な身体を無防備にカリーナの胸元へと預けていた。
温もりのある湯が肌を撫で、連日にわたる脳力の酷使によって張り詰めていた神経をゆっくりと解きほぐしていく。
背後から伝わってくるのは、カリーナの豊満で安心感に満ちた柔らかな感触と、規則正しく刻まれる心臓の鼓動。
カリーナは首をわずかに反らせて池畔の枕に後頭部を預けていた。滝のような純白の銀髪は数筋が湯に濡れて氷の絹糸のように透き通り、白磁の如き優美な首筋から鎖骨へと張り付いて、息を呑むほどに妖艶な美を放っている。
彼女のしなやかな腕は水面下でルシアの細い腰を抱き留め、もう片方の手は花弁の浮かぶ湯を優しく掬い上げては、ルシアの華奢な背中へと静かに零し落としていた。
背骨の窪みに沿って湯の滴が滑り落ちる。熱気に当てられたルシアの頬は朱に染まり、瞼は重さを増して、まるで蜂蜜と雲の中に浸されているかのように意識が微睡み、心地よい眠気へと引きずり込まれていく。
カリーナは顔を寄せ、その顎先をルシアの頭頂部へとそっと預けた。低く微かに掠れた声音が、微熱を帯びた吐息と共に耳朶を擽る。
「眠くなった? このまま寝ていいのよ……私が、ここにいるから」
それは、あらゆる人間の警戒心を完全に剥ぎ取ってしまうほどに甘美で優しい囁きだった。
だが、その重い睡魔が意識を深い海へと完全に呑み込もうとしたその刹那、ルシアの胸の最深部で、不意にちくりとした痛みが走った。
それはまるで抜くことのできない細い棘のように、柔らかな温もりの狭間に居座り続けている。
どうしても解くことのできない、心のわだかまり。
急速に右肩下がりで墜落していくミアの生命線。血溜まりの中でクロードが搾り出した『覚悟』。教皇オースが告げた不可逆の疫病の予言。
そして何より――『保護』という美名の下で、自分を現世の暴風から完全に隔離しようとする、この優しき鳥籠。
目の前の花弁が波に揺れる。カリーナの抱擁はこれほどまでに温かく、これほどまでに広いというのに、半眼になったルシアの墨緑の瞳の奥には、湯煙の迷妄を貫いて消えることのない覚醒と茫然が滲んでいた。
結局のところ、ルシア自身が一番よく分かっていた。己がただの平凡な人間に過ぎないということを。
幾度となく死線に身を投じて活路を切り拓き、世人の目には奇跡としか映らない赫々たる戦果を積み上げてきたとしても、生身の血肉を削って泥臭く掴み取ってきた勝利など、世間は欺けても己の心までは欺けない。
彼女は己の限界というものを知り尽くしていた――それはどこまで足掻こうと凡人の頂に過ぎず、天賦の才という天秤に載せられれば、この大陸の最底辺にいる天才にすら及ばないかもしれないのだ。
今でも鮮明に脳裏へ焼き付いている。かつてヴァレリーが、己の目の前でいとも容易く世界の理をへし折ってみせたあの光景が。
同じく地球から転生してきたあの悪戯好きな女は、補助の魔法陣を描くことすらなく、ただ頭の中に残る記憶のイメージを頼りに、魔力を虚空に遊ばせるだけで、故郷で見慣れた一台の黒いセダンを何もない空間から具現化してみせたのだ。
それは泥を捏ねて作った見せかけの細工などではない。
エンジンには本物のガソリンが満ち、バッテリーには電流が蓄えられ、アクセルを踏み込めば低く唸る咆哮を上げて荒野を疾走する、本物の機械仕掛けの造物だった。
あの瞬間は、まるで冷酷なメスのように、ルシアと『本物の天才』との間に横たわる絶対的な断絶を無慈悲に切り裂いた。
もしルシアが錬金術で似たようなものを組み上げようとすれば、素材の元素比率を割り出し、伝動機構の力点を計算し、化合物の調合を幾度も繰り返し、途方もない量の素材と精密な術式回路を積み上げねばならない。
ほんのわずかな誤差一つで術式は暴走し、すべては灰燼に帰すだろう。だが、ヴァレリーはどうだ?
彼女はただ頭の中で『思い浮かべる』だけで、世界の法則そのものが従順にその形を創り上げてしまうのだ。
あの時、ルシアは茫然と考えたものだ。もしもヴァレリー自身の魔力量が限られておらず、もっと無尽蔵に注ぎ込める器であったなら、あの奔放な女は手をひと振りするだけで、巨大な鋼鉄のクルーザーですら虚空から呼び出してしまえたのではないか、と。
これこそが天才なのだ。
鉄の塊を一台生み出しただけの他愛ない手品に見えて、ルシアがこの世界の魔力法則と深層構造を解明すればするほど、骨髄まで凍りつくような絶望が全身を締め上げる――
彼女と、天に愛された天才たちとの間には、『凡庸』という名の決して越えられない絶対の壁が聳え立っているのだと。
薔薇の香りを湛えた温かな湯が、肩口をゆったりと撫でていく。ルシアは微かに頭を垂れ、何かに縋るように、その柔らかい頬をカリーナの温かな胸元へとすり寄せた。
一番心地よく、一番安心感を得られる角度を探して身じろぎを繰り返し、ようやく落ち着きを取り戻して身を委ねる。
だが、身体の強張りが解けたところで、心の奥底で広がり続ける苦さを拭い去ることはできなかった。
分かっているのだ。もし己が運命の手からミアを強引に奪い取ろうとするならば、表舞台でも裏社会でも真正面から激突せねばならない相手は、揃いも揃ってこの世界の頂点に君臨する本物の怪物たちばかりだ。
血溜まりの中に倒れ伏していたクロードが、その最たる例だ。
今日はカリーナに片手で引き摺られるボロ雑巾のように成り果てていたが、あれは彼がすべての防壁を解き、自らの命を対価にして『前払いの詫び』を入れたからに過ぎない。クロードの実力が凡庸であるはずがないのだ。
帝都魔法学院の歴史上でも稀に見る、一年で飛び級卒業を果たした規格外の天才。若くして皇室に伝わる古代の秘法と軍陣魔導を完璧に血肉とした、正真正銘の麒麟児。
自虐的に罪を背負った皇太子ですら、それほど底知れぬ実力を秘めているのだ。ましてや背後に控える皇帝、予言を掌握する教皇オース、そして今、己の隣で一念にして国を滅ぼす権能を振るう二人の妻たち。
世界の規則を容易く引き裂く巨大な存在たちの狭間で、ただ計算機を叩き、薄氷を踏むように歩みを進めることしかできない凡人の己は、あまりにも華奢で、あまりにも無力だった。
「ルシア、眠ってしまったの?」
柔らかく、微かに鼻にかかった清涼な声が、軽いスリッパの足音と共に、浴殿を満たす湯煙を突如として切り裂いた。
ルシアは重い瞼を辛うじて押し上げ、声のした方へと視線を向けた。
そこには、優雅で気怠げな足取りで近づいてくるクレアの姿があった。半透明の薄絹のバスローブを緩やかに羽織っただけのその姿は、池畔のそよ風に煽られて前が微かに開いている。
客観的に見て、クレアの肢体はカリーナの持つ高身長かつ豊満で、熟れ切った果実のような圧倒的な威圧感とは決定的に異なっていた。
クレアの骨格はどこまでも細くしなやかで、完璧なモデルそのもののプロポーションを誇る。
だがそれでいて、腰回りや太腿の内側には、少女の面影と成熟した女の艶やかさの狭間にあるような、絶妙な柔らかい肉感を宿しているのだ。
削げば痩せすぎ、足せば乱れる――一歩を踏み出すたびに描かれるその曲線は、見つめる者の心臓を跳ね上がらせるほどに扇情的だった。
クレアは無造作にローブの帯を解き、薄羽のような布地が滑り落ちて床へと重なるのをそのまま放置した。
本来ならば、いつもの他愛ない入浴に過ぎないはずだった。だが、クレアが白玉の階段に素足をかけ、湯へと身を浸そうとしたまさにその瞬間――ルシアの視線が何気なく下へと滑り落ち、次の瞬間、まるで微弱な電流を全身に叩き込まれたかのように硬直した。
……ちょっと待て。
とっくに婚姻を結び、夜の褥での睦み合いなど数え切れないほど重ねてきた間柄だ。だが普段の二人はあまりにも多忙を極めていた。
昼間は商会の帳簿付けに北境の政務、錬金術の構築に追われ、夜にベッドへ倒れ込んでも、揺れる間接照明の薄明かりや天蓋の陰影の中で激しく乱れるのが常だった。
体力が底知れない二人の妻を相手にするだけで手一杯だったルシアには、これほど明るい光の下で、クレアの艶めかしい裸身を隅から隅までじっくりと観察する余裕など金輪際存在しなかったのだ。
かつて温泉郷・長生寺の長生湯に浸かった時ですら、クレアが白濁した湯の中にすっかり身を沈めた後に、ルシアが遅れて身体を洗い終えて入ってきたのだから。
だからこそ……ルシアは本当に、今の今まで気づいていなかったのだ。
クレアの身に生える毛が――頭から爪先に至るまで、何から何まで、紛うことなき純然たる『幽紫色』に染まっているという事実に!
その視覚的な衝撃は、二十一世紀の地球で死宅として生きてきた魂にとって、あまりにも新奇で、常識の枠を遥かに踏み越えた発見だった。
地球において、髪を七色に染め上げる人間など珍しくもない。だが、その両足の間に生える原生の毛まで同じ色などという理屈がどこにあろうか? あそこは毛染めができるような部位なのか?
ルシアはその場に凍りついた。クレアには腕毛もすね毛もほとんどなく、産毛ですら肉眼で捉えるのが困難なほど薄い。そのため、普段のルシアは精々「睫毛まで綺麗な紫色をしているな」とぼんやり認識していた程度だったのだ。
彼女はカリーナの温かく柔らかな胸に抱かれたまま、わずかに首を仰がせ、口を半開きにして、墨緑の瞳をこれ以上ないほど見開いていた。
その視線は、クレアの両足の間に鎮座する、あの細く繊細で、ふんわりとした魅惑の暗紫色の茂みへと完全に釘付けになっていた。
顔全体が、まるで脳の演算回路が過負荷を起こして焼き切れたかのように、完全な阿呆面へと凝固していく。
クレアが温かな湯の中へと踏み込み、波がそのふくらはぎを撫でた瞬間、ルシアの石化術でも掛けられたかのような異様な視線と真正面から衝突した。
「……ルシア?」
クレアは細い眉を微かに寄せ、訝しげに小首を傾げた。
彼女には、ルシアの前世の世界の生物学的常識がいかに地味で画一的であったかなど知る由もない。
当然、ルシアが一体何に魂を奪われているのか理解できるはずもなく、ただ自分の最も秘められた場所に向けられるその間抜けで真っ直ぐな凝視を、奇妙に思うばかりだった。
だが次の瞬間、事態はさらに常軌を逸した方向へと転がり落ちた。
何かに憑りつかれた狂気の研究者のように、あるいは道端で見かけた珍しい毛並みの仔猫に抗えず罪深き手を伸ばす愛猫家のように。
ルシアはおもむろに、水滴の滴る腕を持ち上げた。一切の躊躇いも、一切の予兆もなく、真っ直ぐに――クレアの秘められた、あの小さな幽紫色の茂みへと向かって手を伸ばしたのだ!
指先が、その温かく柔らかな領域の奥へと、正確無比に埋没する。
「ひゃああああっ――?!」
極限の羞恥と信じがたい衝撃を孕んだ悲鳴が、広大な浴殿の空間に鋭く炸裂した!
幾度肌を重ね合ってきた仲とはいえ、まさかルシアが白昼堂々……いや、これほど燦然と輝く浴池の中央で、カリーナの視線すらある真ん前で、前戯も愛撫の気配すらなく、いきなり女の最も恥ずかしい急所を素手で鷲掴みにしてくるなど、クレアは夢にも思っていなかった。
白磁の如き滑らかな肌が、胸元から耳の付け根に至るまで、目に見える速度で瞬く間に真っ赤に染め上げられていく。気高く澄ましていた美貌は、一瞬にして熟れ切った林檎のように熱を噴き上げた。
クレアは逃げることすら忘れてその場に硬直した。頭の中が真っ白に弾け飛ぶ。
「な、な……何してるのよ、貴女ぁっ?!」
しかし、ルシアの脳内回路は今や『羞恥』や『礼儀』といった信号を完全に遮断していた。
指先がその柔らかい紫の毛並みを微かに撚り合わせるたび、指腹には繊細で、ふわふわとして、どこか心地よい弾力を秘めた奇妙な感触が伝わってくる。その極上の手触りに、ルシアの心底からは間抜けな感嘆の声が漏れ出していた――。
何だこれは? 触り心地が、頭上に広がるあの高級な手入れを尽くした紫髪と寸分違わず滑らかではないか! ここも普段身体を洗う時に高級トリートメントでも塗りたくっているのか?
それともシルヴィア侯爵家の血筋は、こんな部位の毛根にまで自前で柔軟の付魔でも施されているとでもいうのか?!
不条理な知的好奇心と純然たる悪戯心に突き動かされ、ルシアは手を止めることすら忘れ、虚ろな眼差しのままその茂みをわしゃわしゃと撫で回し始めた。
時には軽く摘み、時には毛並みに沿って梳きほぐす。まるで珍しい毛皮のぬいぐるみを愛でるかのように。
「んっ……はぁっ……」
弄ばれる刺激にクレアの両脚が微かに震え、過剰な羞恥のあまり目尻には生理的な涙が滲み始める。
奇妙な生物の標本のようにまじまじと観察され、弄ばれるこの屈辱――帝国第一の商会を牛耳る若き女帝であり、誇り高き侯爵令嬢にとって、それは精神と肉体の双方を同時に苛む公開処刑に他ならなかった!
唇を噛み締めて耐えること十数秒。ついに理性の限界を迎えたクレアは、泣き出しそうなほどの羞恥と憤怒を爆発させ、金切り声を上げて絶叫した。
「ル――シ――ア――ッッ!!!!」
雷鳴の如きその一喝が、異次元を彷徨っていたルシアの意識を現世へと叩き落とした。
「うわあああっ?!」
ルシアは弾かれたように跳び上がり、感電したかのように手を引っ込めると、悪戯が見つかった泥棒猫のように慌てふためいて背後のカリーナの胸元へと逃げ込んだ。
そこでようやく、自分が先ほどまでどれほど無礼で、どれほど狂気的で、どれほど底抜けに破廉恥な愚行を仕出かしていたかを思い知ったのだ。
立ち込める湯気の中、湯に浸かったクレアは両手で下腹部を必死に覆い隠し、顔から火が出るほど真っ赤になっていた。紫水晶の瞳に涙を溜め、煮え繰り返るような怒りを込めてルシアを睨みつけている。
その一方で、背後のカリーナの胸元からは、低く響く、愛おしさと面白がりを隠そうともしない笑い声が漏れ、その振動がルシアの背中を微かに痺れさせていた。
普段は傲岸不遜で冷徹な商会の女帝が、たった片手で全身を林檎のように赤く染め上げられ、悔しさに地団駄を踏んでいるその姿――。
最高に悪質で、それでいて至極純粋な満足感と笑みが、ルシアの口元に静かに這い上がってきた。
重苦しい未来も、天才との絶望的な壁も、ミアの死線も、世界の底知れぬ悪意も――この不条理極まる悪戯と恥じらいの絶叫によって、薔薇の香る温かな湯の中に、束の間だけ洗い流されたような気がした。
クレアは両手で前を固く庇い、水飛沫を激しく跳ね上げながら、怒りと恥じらいに満ちた足取りで白玉の階段を降りた。波打つ薔薇の香りと湯波を引き連れて、ぷりぷりと腹を立てながらルシアのすぐ隣へと腰を落とす。
「この好色な野良猫……一体全体、何の乱心よっ!」
ルシアが引っ込めた爪を隠す間もなく、クレアの白く柔らかな手が空を切り裂いて伸びてきた。
容赦のない一撃がルシアの柔らかい頬肉を正確無比に捉え、そのまま外側へと力任せに引っ張り、ぎりぎりと半回転捻り上げる!
「ふぎゃああっ! 痛い痛い痛い……クレア、離して、ちぎれるぅ――!」
片頬を無残に引き伸ばされ、口元を間抜けな円形に歪められたルシアは、目尻から大粒の生理的な涙を滲ませながら、空中で両手をじたばたと振って許しを乞うた。
その間も人間のクッション役を務めるカリーナの胸の奥からは、低く心地よい忍び笑いが漏れ続けている。
彼女の細く長い掌は、水面下で相変わらず溺愛を込めてルシアの薄い背中を優しく撫でさすり、息を整えさせていた。その手つきは、悪さを仕出かして痛い目を見ている飼い猫を宥めるかのようだ。
だが、カリーナの表情がどれほど優雅で泰然自若として見えようとも、ルシアはその鋭い観察眼で、決して見逃しはしなかった。
クレアが隣に腰を下ろして制裁を始めたまさにその瞬間、カリーナが水面下でゆったりと伸ばしていたはずの長い両脚を――極めて密やかに、だが一切の隙間もないほど強張らせて、キュッと固く閉じたのを。
その微かな防衛の姿勢は、「この阿呆が次の瞬間に気が狂って、今度は私の方へ手を伸ばしてこないか」という警戒心を、水面下にありありと物語っていた。
千軍万馬を前にしても眉一つ動かさぬ北境の女暴君が、私邸の浴池の中で、ルシアの行儀の悪い淫靡な手に対して最高水準の防衛線を張り巡らせていたのだ。
「ううっ……誤解! 天地神明に誓って誤解なんだってばぁ!」
ルシアは呂律の回らない声で泣き言を漏らし、両手を合わせて何度も拝み倒しながら、真っ赤に腫れ上がった頬をさすって必死に弁明を試みる。
「わ、私に他意なんて欠片もなかったの! 本当にただ見蕩れちゃっただけで……ただ心の底から、クレアはどこをどう切り取っても美しくて、本当に綺麗だなあって思っただけなんだよぉ!」
その何の脈絡もない出任せの命乞いが口を突いて出た瞬間、クレアがようやく鎮静化させかけていた赤ら顔は、再び「ボッ」と音を立てて爆発するように紅潮した。
クレアの指先に込められた力が、怒りのあまりさらに三割増しで跳ね上がる。紫水晶の双眸が羞恥の炎を噴き上げ、歯を軋らせながら金切り声を上げた。
「口から出任せばっかり言わないで頂戴っ! この大陸のどこに――『他人のあんな場所を直接鷲掴みにして揉みしだく』ことで美しさを褒め称えるような人間がいるのよぉっ?!」
薄羽の如き白い湯気が、温かな湯面の上を緩やかに揺蕩い、豪奢な白玉の浴殿全体を夢現の帳のように包み込んでいた。
円蓋天井から降り注ぐ魔晶の柔らかな光は、立ち上る水蒸気に幾重にも濾過され、微睡みを誘う暖かな金色となって、さざめく水面を静かに照らし出している。
幾千もの八重咲き薔薇の花弁が水波に揺られては離れ、再び寄り添う。深紅と淡い桜色が織りなすその浮沈は、無瑕の白玉の狭間に敷き詰められた、熱気に解された落花の海のようだった。
馥郁たる甘い花の香りは、カリーナの肌から立ち上る清冽なモミの木の匂いと混ざり合い、閉ざされた湿やかな空間の中で静かに発酵して、神経を芯から蕩けさせ、四肢百骸を骨抜きにするような甘美な気配へと昇華していく。
クレアの羞恥に満ちた嬌声も、頬を抓る指先の微かな痛みも、揺らめく水波の狭間へと次第に溶け込み、消え去っていった。
カリーナは再び顎をルシアの頭頂部へと優しく預け、胸を微かに震わせて、極めて低く甘美な溜息を吐き出す。水面下に回されたその腕は、さらに隙間なく愛おしそうに引き締められた。
口先では散々悪態をついていたクレアも、身体はいつの間にか自然と身を寄せ、湯気の温もりを帯びた柔らかい肩をルシアの熱い腕へと密着させていた。
滝のように広がる幽紫の長髪が、水面の下でルシアの黒髪と静かに絡み合っていく。
アーチ天井の浮彫の先端に結ばれた一滴の雫が、やがて音もなく重力に引かれ――『ポツン』と微かな音を立てて、花弁の浮かぶ水面へと落ち、静寂に包まれた殿堂に小さな波紋を幾重にも広げた。
扉の向こう側の世界では、帝国を覆すほどの暴風雨が吹き荒れようとしているのかもしれない。
疫病の暗雲、無残に砕かれた皇太子、断頭台へと追いやられる少女、そして神々の名状しがたき囁き――すべてがこの高い城壁の外側で、破滅の時を今か今かと待ち構えている。
だが、少なくとも今この瞬間だけは。温もりと湯煙に厳重に包まれたこの小さな箱庭の中だけは、時間は至高の愛執によって無理やりに引き止められていた。
微熱を帯びた泉水と、揺れる花弁。そして息が詰まるほどに重い、二つの愛。
それだけが、ルシアの小さく疲れ切った魂を、この世で最も贅沢な深淵の底へと、優しく、そして強引に溺れさせていた。




