血塗れの先払いと、優しき鳥籠
連日にわたる脳力の酷使と張り詰めた神経のせいで、ルシアの両脚はまるで鉛を流し込まれたかのように重かった。
急ぎ足に合わせて翻る長袍の裾。磨き上げられた大理石の長廊下に、乱れ蹌踉めく靴音が甲高く響き渡る。
幾度となく足を取られそうになり、凍てつく空気の中で華奢な身体がぐらりと揺れる。
そのたびに彼女は無様にも回廊の列柱へと手を伸ばし、ざらついた冷たい浮彫を支えにしながら、激しく肩を上下させて荒い息を吐き出した。
だが、道すがら目に飛び込んでくる光景は、背筋が凍りつくほど異様極まるものだった。
ノーランド帝国の最高権力の頂点を象徴する皇宮主殿は今、往昔の神聖なる威厳と粛穆さを完全に喪失していた。
数十メートルもの高さを誇る円蓋天井からは豪奢な金箔のシャンデリアが垂れ下がっているが、その光は誰もいない死寂の回廊を、ただ惨白かつ冷酷に照らし出すばかり。
両脇に立ち並ぶ列柱は沈黙を保つ鉄の密林の如く聳え立ち、壁面に掲げられた歴代建国の先賢たちの巨大な肖像画は、濃密な陰影の底からこの荒唐無稽な劇変を冷ややかに見下ろしているかのようだった。
そして何よりも視界を焼き尽くしたのは、床――皇室の至高の栄誉を象徴する、数百メートルにわたって敷き詰められた深紅の絨毯の上に、生々しく引き摺られた跡を残す、暗褐色の曲がりくねった血の軌跡だった。
冷厳な石の匂いの奥から、噎せ返るほど濃密な鉄の錆びた血臭が突如として鼻腔を突き刺す。
本来であれば、血相を変えて疾走する侵入者など即座に抜剣して取り押さえるはずの近衛騎士や侍従たちは、一様に土気色の顔を見合わせ、息をすることすら怯えるように身を強張らせていた。
だが、蹌踉めきながら息を切らして駆け寄ってくるその姿がルシアであると認めた瞬間、彼らの瞳から敵意は一瞬で霧散した。
それはまるで、天地を呑み込む暴風雨の中で唯一の救命の灯台を見出したかのような光景だった。
「ルシア様! よくぞ……よくぞお越しくださいました!」
重装鎧に身を包んだ数名の殿前侍衛が、自ら駆け寄るようにして迎え出る。誰一人として彼女を遮ることも、身元を改めることすらしない。それどころか、恐懼に震えながら前方に侍り、ほとんど急かすような勢いで先導を始めた。
「早く、こちらへ! 前方の正陽主殿でございます……! もはや宮殿中の誰も、公爵様の猛り狂う逆鱗を鎮めることなど敵いません。ルシア様のお言葉だけが、唯一の頼みの綱なのです!」
侍衛たちの声には、隠しようもない恐慌が滲み出ていた。それは外敵に対する警戒などではなく、今まさに頭上から崩落せんとする天災を前にした、半狂乱の懇願だった。
誰もが痛いほど理解しているのだ。もしもあの北境の女暴君が本気でここで血の粛清を始めれば、この皇宮に十万の近衛軍を詰め込もうと、ただ指先一つで薙ぎ払われる積み木に過ぎないということを。
双頭の鷲の紋章が刻まれた、重厚で冷たい巨大な青銅の扉を潜り抜ける。ルシアは侍衛たちに半ば押し出されるようにして、正陽主殿の内部へと足を踏み入れた。
だが――大殿へと足を踏み入れた刹那、目に飛び込んできた光景に、ルシアの呼吸は完全に凍りついた。
広大すぎて寒々しさすら漂う黒曜石の床の中央に、もはや原型を留めていない一塊の『肉の塊』が無造作に転がされていた。
その身に纏っていたはずの金糸刺繍の礼服は無残なボロ布へと引き裂かれ、広範囲にわたって染み出した深紅の鮮血が布地を重く濡らしている。
顔面全体は攻城槌で執拗に叩き潰された泥土のように無惨に腫れ上がり、鼻梁は完全に陥没し、片方の眼窩は恐ろしい紫黒の鬱血で塞がれていた。
砕けた歯と泡立つ粘液が唇の間から溢れ出し、ただ壊れた鞴のように微弱で不快な瀕死の喘鳴を漏らすことしかできていない。
無残で、無様で、生命の気配すら希薄だった。
ルシアはその血肉の残骸を数秒間凝視したが、目の前で痙攣するこの廃人と、記憶の中にある優雅で傲岸不遜極まりない帝国皇太子クロードの姿を、脳内で結びつけることすら叶わなかった。
鼻血を出して腫れ上がったなどという生易しいレベルではない……カリーナの一撃は、最初から完全に息の根を止め、再起不能の廃人へと叩き落とすためのものだったのだ。
その血溜まりの傍らに立つカリーナは、軍装のマント一枚すら乱すことなく佇んでいた。
冷徹な氷霜を放つ抜き身の白刃の如く大殿の中央に屹立し、銀白の長髪が冷たい気流に微かに揺れる。
周囲には澄み渡るモミの木の木質調の香気が漂い、その深紅の瞳には何の波紋も浮かんでいない。ただ足元の羽虫を見下ろすかのような、絶対的な氷冷と無関心が宿るのみだった。
極限まで張り詰めた窒息の重圧が、主殿の隅々にまで満ちていた。
ルシアは無意識に視線を逸らし、壇上の高みにある、大陸の至尊たる黄金の玉座へと視線を走らせた。
ノーランド帝国の統治者――皇帝陛下が、王座に深々と腰を下ろしていた。
背筋を微動だにせず伸ばし、その面持ちは彫像のように冷静そのものだった。両手は権杖の頭上に平穏に重ねられ、幾多の風雪を耐え忍んできた大岩のように鎮座している。
だが、観察眼を持つ者が見れば、わずかに強張った顎の輪郭と、袖口の奥で微かに青筋を浮かび上がらせた指先から、この最高権力者がどれほど計り知れない重圧に晒されているかを察するのは容易だった。
皇帝は冷静だった。だがそれ以上に、現実というものがどれほど残酷であるかを痛感していたのだ。
目の前にいる女は、【事項干渉】の権能を掌握し、指先を弾くだけで帝都を一瞬にして灰燼に帰し、ただ一人で国を滅ぼす天災を引き起こし得る怪物である。
それ以上に致命的なのは、極北のグラフィエン公爵領こそが、帝国全土と極寒の深淵との間に横たわる、決して越えさせてはならない第一防衛線そのものであるという事実だ。
万が一カリーナが反旗を翻して軍を引き上げれば、帝国の北方防衛線は数日を待たずして瓦解し、ノーランドには破滅の災禍が雪崩れ込むことになる。
ノーランド帝国とて強大な軍事力を有してはいる。だが、極北の過酷極まる環境で育まれた深淵の魔物の群れを相手にすれば、国力が致命的に削ぎ落とされることは避けられない。
故に、カリーナの圧倒的な武力こそが、帝国の最前線を死守する唯一無二の防壁なのだ。
国家を揺るがす絶対的な力と政治的打算を前にしては、万民の上に立つ皇帝といえども、我が子を「庇い立て」するための手札など一枚たりとも持ち合わせていなかった。
何より、事の発端はクロード自身の身の程知らずな色情にある。客間という公の場で、あの暴君が正式に娶った夫人に戯れ言を弄して軽薄に手を出そうとしたのだ。
理は敵にあり、力は及ばず、命脈すら握られている。
唯一の後継者が足元で野良犬のように転がり血を流している様を見せつけられ、父としての、そして君主としての尊厳を無惨に泥濘へと擦り付けられながらも、皇帝の深遠な瞳の底には、押し潰されそうな重圧の他に、ただ深い疲労とどうしようもない無力感だけが沈殿していた。
絨毯の上でほとんど脈動すら感じられなくなった肉塊を見下ろし、ルシアの背筋に冷たい悪寒が走る。躊躇っている暇など欠片もなかった。
この骨を凍らせる殺意をこれ以上野放しにすれば、今日ここに倒れるのは皇太子一人にとどまらず、帝都の支配階層そのものがカリーナの手によって根こそぎ薙ぎ払われかねない。
「カリーナ! やめて……早く引いて!」
ルシアはほぼ転がるようにして駆け寄り、迷うことなく両腕を広げると、カリーナのしなやかで長身の腰回りへとしがみついた。
冷冽な針葉樹の香りを湛えた軍装の胸元に顔を埋め、腰の革ベルトを両手で力任せに握りしめる。冷汗と疲労で蒼白になった顔を仰ぎ見ながら、息も絶え絶えに制止の言葉を紡いだ。
「落ち着いて……お願いだから、ちゃんと話そう! 剣を引いて! まだそんな取り返しのつかない段階じゃない、全部うまくいくから……ね?」
腕の中に飛び込んできた、小さく華奢な見慣れた温もり。その瞬間、主殿を覆い尽くし魂すら凍結させていた恐るべき重圧は、春の雪が解けるように奇跡的な静けさをもって霧散していった。
カリーナは伏し目がちに視線を落とし、静かに佩刀を鞘へと納めた。
その刹那、彼女が見せたのは、息を呑むほどの神々しさと、同時に心臓を締め上げるような戦慄を孕んだ圧倒的な美貌だった。
極北の初雪のように透き通った純白の長髪が、頭をわずかに傾げた拍子に肩口から滑り落ち、微光の中で水銀のような冷たい輝きを放つ。
古代の神が彫り上げたかのように完璧な造形の面差しから、凶暴さと冷酷さが綺麗さっぱりと退いていく。
血の海のように昏く冷たかったその深紅の双眸は、ルシアの姿を映し出した瞬間に、溺れてしまいそうなほどの極上の優しさと痛惜の光を湛えて揺らいだ。
長身ゆえの威圧感を湛えていた肢体は、今は言葉を失うほどの包容力と艶やかな曲線を露わにしている。
カリーナは壇上で冷汗を流す皇帝を一瞥だにせず、足元の泥濘の如き残骸にすら視界の端を割こうとはしなかった。
彼女はただ従順に両腕を回すと、小柄なルシアの身体を一片の隙間もなく、自身の豊満で温かな胸の中へとすっぽりと抱きしめた。
柔らかく熱い肌の感触が、瞬く間にルシアの冷え切った身体を包み込み、鼻腔を満たす濃密な木質調の香気に神経が心地よく麻痺していく。
そしてカリーナは顔を寄せ、この世で最も脆い宝物を扱うかのように、冷汗に濡れたルシアの額の上へと、羽毛のように柔らかな口づけを落とした。
肌に触れる薄い唇の温もりに、身震いするほどの情念が宿っていた。
「……ごめんなさい」
カリーナが口を開く。低く、深みのある、微かに掠れたそのアルトの声音は、怯える幼子をあやすかのようにどこまでも甘く慈しみに満ちていた。
「私たちが最近忙しすぎて、貴女のそばにいてあげられなかった……だから、外でこんな薄汚くて不快な目に遭わせてしまったのね」
細く節くれ立った優美な掌が、乱れたルシアの黒髪を愛おしそうに撫で上げる。壊れやすい無価値な硝子細工の汚れを拭うかのような手つきだった。
カリーナはルシアの頭頂部へと優しく顎を乗せると、夢心地のように静謐でありながら、決して拒絶を許さない絶対的な優しさをもって、静かに言葉を紡いだ。
「だから……これからは、ずっと家の中にいて頂戴。どこにも行かないで。……いいわね?」
耳朶を擽る熱い吐息に、ルシアの心臓は不意に大きく跳ね上がった。
墨緑の瞳を微かに見開き、その表情に困惑と茫然の色が走る。
見上げるカリーナの顔立ち――ルビーの如き瞳の底に揺らめくのは、純粋なまでの憂慮と愛惜の色ばかりで、先刻まで皇室の継承者を素手で引き裂こうとしていた暴君の面影など微塵も感じられない。
だが、どうしてだろうか。「どこにも行かないで」というその言葉の響きに、ルシアの背筋には言い知れぬ冷や汗が伝っていた。
この瞳に宿る憂いの色は、あまりにも深すぎる。それはまるで、優しさで編み上げられた逃れ得ぬ蜘蛛の巣のようだ。
……待て。
この言い草、単なる過保護のそれとは決定的に何かが違っていないか? まるで――この正当な口実を利用して、自分を公爵邸の最深部へと完全に閉じ込め、囲い込もうとしているかのような。
その拭い去れない違和感に思考を巡らせる暇もなく、足元の床から、瀕死の獣が漏らすような掠れた呻き声が響いた。
視線を落とせば、床に転がるクロードが苦悶に身を震わせていた。
かつて黄金の髪を輝かせ、傲慢に世を見下ろしていた帝国の第一継承者は今、顔面全体が発酵した紫黒のパン種のように醜悪に腫れ上がり、誇り高かった鼻梁は頬骨の間に無残にめり込み、顔の半分には血泡と汚泥がこびりついている。
豪奢を極めた皇室の金糸の常服は引き裂かれて血塗れの襤褸となり、何本もの指が異様な角度で外側へと捻じ曲がっていた。
まるで巨神に力任せに踏み躙られ、そのまま投げ捨てられた壊れた人形のように、呼吸のたびに砕けた肋骨が擦れ合う不快な音が胸の奥から鳴り響いている。
極限まで無惨であり、極限まで皮肉な光景だった。
片や、至高の優雅さと美貌を湛え、愛のすべてを優しい揺籃へと凝縮させた白髪の女公爵。片や、実の父親ですら判別がつかないほど叩きのめされ、血溜まりの中で無様に蠕動する帝国の皇太子。
圧倒的な美と暴虐の惨禍が大殿の中央で極端なまでの荒唐無稽さを描き出し、カリーナの息の詰まるほど豊満な胸元に抱き留められたルシアは、しばし思考を完全に停止させていた。
主殿を支配する息の詰まる静寂の中で、床の上の肉塊から漏れ出る粘つく音だけが唯一の鼓動だった。
「ぐ……ル、ルシ……ア……」
紫黒に変色した瞼をかろうじて押し開き、細い血の隙間から、クロードの折れた指先が痙攣しながら絨毯を掻き毟る。砕けた胸骨の痛みに咽びながら、喉の奥から壊れた鞴のような掠れ切った息を搾り出した。
「……覚……悟を……」
途切れ途切れに血泡混じりで放たれたその二文字は、重い鈍器となって、ルシアの混濁した思考を容赦なく打ち据えた。
頭蓋の奥で、何かの鎖が乱暴に引きちぎられるような衝撃が走る。
以前、図書館でクロードが彼女に投げかけた言葉――権力闘争の脅し、あるいは軽薄な牽制に過ぎないと思い込んでいたあの警告の真意。
彼が問うていた「代価を背負う覚悟」とは、帝国に対する忠誠などではなく、最初からミアの存在そのものに向けられていたのだ!
クロードは疾うの昔に知っていたのだ。ミアの身体を蝕むものが何を意味するのかを、そしてその代価が凡人の踏み込める領域ではないことを。
当時のルシアは、錬金術式と地球の知識さえあれば運命などいくらでも覆せると過信していた。
だが、世界の深淵を知る者の目から見れば、彼女には破滅の深淵と差し向かいで対峙するための「覚悟」など、最初から備わっていなかったのだ。
そしてルシアの全身の血を凍りつかせたのは、その思考の果てに浮上したもう一つの恐るべき符合だった。
オース。
あの教皇が授けた、意のままには扱えずとも決して外れることのなかった未来予知――。
疫病。
常理の通じぬ名状しがたき厄災は、遥かな未来の話などでは断じてない。すでにミアという特異点を起点として、帝国の影の最底流で音もなく爆発的に蔓延を始めていたのだ!
これは単なる嫉妬による私闘でも、公爵家の身内びいきによる発難などでもない。
「カリーナ……」
ルシアは弾かれたように上体を起こし、針葉樹の香りを放つカリーナの軍装の襟元を両手で力任せに掴み上げた。
血の気の引いた青白い顔を仰ぎ、極度の恐慌から瞬く間に熱い涙を滲ませた両の瞳を震わせる。胸郭の激しい痙攣のせいで、その声は壊れそうな泣き声となって零れ落ちた。
「お願い……カリーナ、私を見て! 教えてよ……どうして急に私を家に閉じ込めて、一歩も外に出しちゃいけないなんて言うの……本当の理由は何なの?!」
それは詰問などではなく、すでに直感していながら、絶望のあまり認めたくない真実を確かめようとする悲鳴だった。
水膜と怯えに揺れる墨緑の瞳を見つめ返しながら、カリーナの表情は残酷なまでに平穏を保っていた。
突き放されることもなく、見透かされた動揺すら見せない。純白の髪が冷たい空気の中に静かに垂れ落ち、ルビーの如き深紅の瞳の奥には、ただ底知れぬ濃密な優しさと痛惜だけが淀んでいた。
カリーナは細く節くれ立った、微かに熱を帯びた掌を持ち上げると、ルシアの乱れた黒髪の上へと極めて優しく添えた。
震える頭頂部から毛先へと、一度、また一度と愛おしそうに撫で下ろす。まるで嵐の予兆に怯える雛鳥を鎮めるかのように。
そしてカリーナはわずかに身をかがめると、ルシアの耳元へ、低く、穏やかでありながら、逃れ得ぬ運命を告げる冷徹な声音をそっと落とした。
「……オースが、視てしまったからよ」
彼女はルシアの頭を愛おしそうに己の胸元へと引き寄せた。深紅の双眸の奥に、一歩も引くことのない偏執と保護欲をぎらつかせて。
「あの不可逆の疫病が、間もなく帝国全土を呑み込む。そして彼の二つ目の予言……この生者の途絶える悪夢が蔓延する最中、私のルシアが……完全に病に倒れると」
「ルシアが完全に病に倒れる」――その宣告は、魂の最深部に叩き込まれた絶対零度の氷の楔となって、ルシアの全身を巡る血潮を一瞬にして凝固させた。
脳細胞が極限の衝撃に悲鳴を上げる。恐怖が冷たい奔流となって頭の天辺から押し寄せるが、自身の運命への怯えよりも先に心臓を鷲掴みにしたのは、ミアの境遇に対する身を裂くような激痛だった。
急速に底へと墜落していく生体反応の推移図、クトゥルフの概念による名状しがたき精神汚染、教皇オースが視た疫病の予言……すべての点と点がこの一秒で歯車のように噛み合い、血塗られた真実を構築していく。
ミアこそが、この未曾有の災厄の『起点』だったのだ。
ならば、血溜まりの中で顔面を粉砕されて倒れ伏すクロードは――。
ルシアは弾かれたように首を巡らせ、床に転がる無残な肉塊へと視線を戻した。
こんなもの、愚鈍な皇太子が色欲に狂って仕掛けた茶番などでは断じてない。ましてや、身の程知らずの挑発などであるはずがなかった!
これまでのすべての違和感が、一瞬で剥ぎ取られていく。クロードは狂気的なまでの愛国心を抱き、腹の底には冷徹な君主の資質を秘めた男だ。彼ほどの男が、カリーナが【事項干渉】を操る歩く天災であることを知らぬはずがない。
公の客間で公爵夫人に戯れ言を弄することが、どれほどの破滅を招くかなど、理解していなかったはずがないのだ。
奴は、最初から意図してこれを仕組んだのだ。
己の命を導火線にして、カリーナという活火山を真正面から起爆させに来たのだ!
全身の骨を砕かれ、顔の半分を陥没させられ、死に損ないの野良犬のように数百メートルも引き摺られたこの無惨極まりない姿は――クロードがルシアへ差し出した、血塗られた『前払いの詫び』に他ならなかった。
彼は教廷か皇室の諜報網を通じて、疾うに疫病の予言を知悉していたのだ。そして皇室の暗部と猟犬たちは、すでに『ミア』という名の発生源の器を完全に捕捉していた。
ルシアが手段を選ばず、自らの持てるあらゆる術式を総動員してでもミアを守ろうとしていると知った時――帝国の未来を背負う統治者として、クロードが直面したのは、一切の情を挟む余地のない非情な選択だった。
ノーランドを滅亡に導くパンデミックを阻止するため、そして何より、ルシアが病に倒れるという予言の因果に巻き込まれるのを防ぐため……皇太子の座に就く男として、彼はミアを完全に抹殺する命令を下さねばならず、それ以外の選択肢など許されていなかった。
引くことはできない。引く気など毛頭ない。
だが、ルシアが自分を骨の髄まで憎み、引き裂かれるような絶望を味わうことも、彼は誰よりも理解していた。
だからこそ、彼はこの自虐的で、狂気的で、剥き出しの暴力に身を晒す手段を選んだのだ。
己の生身の肉体でカリーナの天を衝く怒りのすべてを真正面から受け止め、ルシアの魂に最も残酷な現実を刻みつけるために。
――これこそが、『覚悟』だ。
天災と私情の狭間に立たされた時、骨を圧し折られ、万民に唾棄されようとも、歯を食いしばって断頭台の刃を落とさねばならない統治者の覚悟!
わざと色目を使い、わざとカリーナを激怒させ、その必殺の暴力を受ける間も一切の反撃を放棄してすべてを呑み込んだ。
カリーナが情け容赦なく叩き潰したのは、彼女の愛が常軌を逸して排他的だったからだ。
そしてクロードが原形を留めぬまで肉片に成り下がったのは、己の半身の命を対価にして、帝国の冷徹な意志を貫徹する代価を支払うと最初から決めていたからに他ならない。
息さえあればいい。
心臓が微かに脈動を刻み、皇室至高の治癒術式がこの破片となった肉を再び繋ぎ合わせて縫合し得るならば――クロード・レグニスという男は、再び瓦礫と血の海から立ち上がり、冷酷に剣を振るう帝国の皇太子であり続けられるのだから。
床の上で痙攣する血塗れの手を見つめ、漏れ出る息の音を耳にして、ルシアの双眸からついに大粒の涙が零れ落ちた。
それは感動などではない。
国家という冷酷な巨大機構、政治、愛憎、天災、そして血肉を代償にした鉄の意志が織りなす圧倒的な現実の前に、肺腑の空気をすべて奪い去られるかのような、骨身に沁みる絶望の寒気だった。
ミアの死線は、もはやその身を蝕む病魔の進行だけにとどまらない。
帝国という名の巨大な国家そのものが、クロードの砕け散った鋼の意志を刃に変え、すでに彼女の首元へ落とされようとする断頭台と化していたのだ。




