深淵の秒読み(カウントダウン)と、引き摺られる王冠
王立図書館の最深部、古文書回廊――。そこには乾燥した羊皮紙と防虫香、そして歳月が澱のように沈殿した微かな腐朽の匂いが充満していた。
数十メートルにも及ぶ黒檀の本棚は、まるで沈黙を守る墓標のように聳え立ち、微弱な魔晶の冷たい光をまだらに切り裂いている。
長机の上には、表紙の剥落した羊皮紙の重典が、すでに半身ほどの高さにまで三つ積み上げられていた。
指先がざらついた黄ばんだ紙面を滑る。ルシアがページを捲る速度は次第に険しさを増し、紙擦れの乾いた音が、死寂に包まれた書庫の中で痛々しいほど無力に響き渡る。
太古の神話断章、深淵魔物の図鑑、さらには教廷によって禁忌に指定された異界降臨の残巻に至るまで――閲覧可能なあらゆる典籍を漁り尽くしたというのに、視界に飛び込んでくるのは息の詰まるような「空振り」ばかりだった。
ない。どのような文献にも、神殿の石板にも、あるいは狂気の異端者が遺した手記の片隅にすら、あの「名状しがたき混沌の肉塊」が存在した痕跡など微塵も見当たらない。
あれは、この世界のいかなる生態系や進化の体系にも属していないのだ。血統の系譜も、魔力回路のモデルも、それどころか深淵の巨獣ですら持ち合わせているはずの骨格や器官という概念すら存在しない。
それはまるで、滑らかに描かれた一枚の絵画の上に、悪意と泥濘をそのままぶち撒けた染みのように、何の理屈もなく現実の狭間を引き裂いて湧き出たかのようだった。
「くそっ……」
ルシアは力なく手首を投げ出し、革張りの重厚な椅子へと深く身を沈めた。冷え切った指先で、鈍く疼くこめかみを強く揉みほぐす。
十数時間にも及ぶ限界ギリギリの演算検索と魔力の走査によって、その瞳にはびっしりと赤い血走りが広がり、胸の奥には氷水を吸い込んだ鉛を押し込められたような息苦しさが居座っていた。
長机の脇に立っていたガルクが、抱えてきたばかりの分厚い古文書の山をどさりと下ろす。
オレンジ色の短い髪は微光の中で乱れ、ルシアの血の気の引いた青白い横顔を見つめると、彼は気まずそうに項を掻いた。
そうして、己の荒削りで真っ直ぐな野性の流儀で、この淀んだ空気を吹き飛ばそうと試みる。
「おい、アネさん……そんなに眉間に皺寄せんなよ。俺はあんたら大魔法使い様たちの小難しい本なんてサッパリだがよ、昔、異端審問所くんだりのクソッタレな任務で這いずり回ってた経験から言わせてもらえば、こんなの日常茶飯事だぜ」
ガルクは隣の木製椅子を引き寄せて腰を下ろすと、膝に両手を置き、持ち前の怖いもの知らずな調子で言葉を続けた。
「荒野だの、寂れた寒村の地下室だので、わけのわからねえ気味の悪い化け物に出くわすことなんざザラにあった。情報もねえ、弱点も知らねえ、振るわれた爪が魔法なのかすら見当もつかねえ――だが、それがどうしたってんだ? ぶち当たっちまったら、腹括って手元の重剣でそいつの頭蓋を叩き割る。そうすりゃ、なんだかんだ生き残る道ぐれえ切り拓けるもんだ。理解できねえもんに出くわすたびにビビって立ち止まってたら、俺の命なんてとっくの昔に荒野の肥やしになって腐り果ててらぁ」
ガルクなりに彼女を気遣っているのだ。底辺の審問者として、幾度となく死線をくぐり抜けてきたからこそ培われた生存本能――刃が届くのなら、実体を伴って流れる血があるのなら、両断して砕けないものなどありはしないという、剥き出しの確信。
ルシアは顔を上げ、少年の濁りのない真っ直ぐな瞳を見つめると、その口元に酷く苦々しい諦念の笑みを浮かべた。
「ガルク、言いたいことはわかるよ……あれが本当にただの『厄介な魔物』なら、それこそフェニックスのような神話の天災だったとしても、私の錬金術式ならいくらでも解体して、その魔力回路を解析し尽くしてやるさ」
ルシアは疲れたように瞼を閉じ、冷たく乾いた空気を胸の奥まで吸い込んでから、静かに吐き出した。
「でも、あの肉塊は……そういう『強さ』の次元じゃないんだ」
その声は掠れるほどに小さかったが、魂の底を冷え切らせるような戦慄を孕んでいた。その概念を口の端に上らせるだけで、虚空の深淵から名状しがたい何者かの視線を引き寄せてしまいそうになるほどに。
「私の故郷――前世と呼んでいるあの世界には、『クトゥルフ神話』と呼ばれる体系が存在していた。元は人間が紙の上で紡ぎ出した空想の産物だったはずなのに、あの肉塊が見せつけた性質のすべてが、あまりにも符号しすぎている」
「……クトゥルフ?」
ガルクは怪訝そうに眉を寄せ、聞き慣れない異質な響きを不器用に反芻した。
「そこに座す存在はね、『強い』とか『神』なんて言葉で測れるものじゃないんだよ」
ルシアは目を開いた。その瞳の奥には、絶対零度の真空にも似た荒涼が広がっている。
「彼ら自身が『法則』そのものなんだ。宇宙の最底流に横たわる、盲目で、冷徹で、命に対して悪意も善意すら持ち合わせない原初の混沌。
凡人の感覚器や精神構造では、彼らの姿を読み解くための枠組みそのものが存在しない。蟻が燃え盛る恒星を理解しようとするようなものさ。
ただ『視る』こと、あるいは『理解する』ことだけで、脳の神経構造は過負荷を起こした回路のように焼き切れ、狂気に呑まれて崩壊する」
無意識のうちに、ルシアの爪が手のひらに深く食い込んだ。声音がさらに低く沈む。
「デイジーがあれを目撃した直後、細部の記憶を綺麗さっぱり喪失してしまった理由もそこにある……記憶魔法などではない。許容限度を遥かに超えた高次元の精神汚染に直面した脳が、自己を守るために発動させた防衛本能――解離性の忘却だ。すべての符合が一致しすぎている……むしろ唯一の救いであり、奇跡としか言いようがないのは、デイジーがあの場で完全に発狂しなかったことくらいだよ」
手掛かりなど何一つない。
相応する弱点すら見出せない。
元素魔法と神聖なる権能が支配するこの異世界の図書館において、人定の文字を頼りに遥か彼方のクトゥルフ古神の伝承を探し出そうとするなど、砂漠の真ん中で素手で湧き水を掘り当てようとするに等しい徒労だった。
そして何よりルシアの心臓を締め上げ、呼吸すら奪い去ろうとしているのは――先ほど文献を捲る合間に、微細水銀術式によって弾き出し続けていたミアの生体反応予測だった。
魔導器が冷徹に描き出す生命曲線は、目に見えて急激な角度で右肩下がりに墜落を続けている。
本当に、もう時間がないのだ。
ミアの魂と生命力は、まるで手のひらに掬い上げた乾いた砂のように、どれほど指を強く握りしめようとも、抗いようのない速度で隙間から零れ落ちていく。
残り時間がゼロへと向かうカウントダウンをただ見つめることしかできず、手中にどれほどの打破の札を揃えていようとも、敵の正体という本質すら掴めない――
その圧倒的な無力感は、猛毒の蛇となってルシアの喉元へ深く牙を突き立て、彼女を焦燥という名の底なし沼へと引きずり込んでいた。
目の前で急速に減衰していく生体反応の推移魔導器を見つめる。その氷のように無機質な絶望の曲線が、鋭利な針となって容赦なくルシアの網膜を刺し貫く。
もしも――そこに横たわり、命の灯火をすり減らしているのが、自分自身だったとしたら?
いつか来るかもしれない未来、自分までもが突然倒れ伏し、体内の魔力回路が涸れ果てて崩壊するか、あるいは理解不能な概念に侵されて余命幾ばくもない宣告を受けたとしたら――。
その情景を脳裏に思い浮かべただけで、ルシアの胸には息の詰まるような重圧が押し寄せた。
カリーナも、クレアも、間違いなく正気を失う。
二人は身を裂かれるような痛みに狂い果て、時間を巻き戻し、帝国の半分を血の海に沈めたあの時以上に、残酷で偏執的な惨劇を引き起こすに違いない。
それは魂そのものを磨り潰されるような、本物の絶望だ。そして今、ビクターとデイジーは、燃え尽きようとしているミアをその腕に抱きしめながら、その底なしの深淵と直面しているのだ。
傍観者の立場にいた頃は、ただの「逃れ得ぬ悲劇」としか映らなかった。
けれど、己自身がこれほどまでに重苦しい絆を背負った今、骨身に沁みるような共感の冷気が、残酷なまでに生々しくルシアの心臓を締め上げる。
かつての自分がどれほど向こう見ずで、あの独善的な英雄ごっこが、身近な者たちの心をどれほど深く傷つけてきたのか――今になって、嫌というほど思い知らされていた。
思考は、あの薄暗く息の詰まる破壞神殿の記憶へと引き戻される。
堕天使の放つ狂気の「受難同調」を前に、部隊の半数が倒れ、自身の魔力も底を突きかけたあの死線において、彼女は躊躇うことなく分厚い水銀の術式結界を展開し、クレアを安全圏の外側へと強引に隔絶した。
あの瞬間、結界の向こう側に残されたクレアは、半狂乱になって泣き崩れていた。普段は傲慢で、優雅で、あらゆる打算を手玉に取る商会の若き女帝が――
爪が割れるのも構わず、拳を真っ赤に染めながら狂ったように水銀の障壁を叩き続け、涙でぐしゃぐしゃになった顔を歪ませて、魂を千切られるかのように絶叫していたのだ。
今になってようやく、あの眼差しの意味が痛いほど理解できた。
己の命よりも大切で、骨の髄まで愛し抜いた人間が、目の前で引き裂かれ血肉を撒き散らしているというのに、冷たい壁一枚に阻まれて触れることすら叶わない――
その無力感の激痛は、喉元を刃で掻き切られて殺されるよりも、一万倍残酷だったに違いない。
(……とはいえ、全部私のせいってわけでもないだろうけどさ)
心の奥底で、ルシアは身に覚えのある居心地の悪さを振り払うように小さく毒づいた。
この途方もない濡れ衣ばかりは、どう転んでも自分一人で背負い込む気にはなれない。
あの時点で、クレアがすでに自分へ深く執着していたなど、誰が予想できただろうか。
当時のルシアの認識では、二人は出会ってからまだ数日しか経っておらず、精々が遺跡を共に探索する貴族の令嬢と雇われのしがない錬金術師という関係に過ぎなかったのだ。
奴らは揃いも揃って前世の血塗られた記憶を抱え込み、脳内を病的なまでの情念と巻き戻りの因果で満たしていたくせに、誰一人として前もってネタバレしてくれようとはしなかったではないか。
知り合ったばかりの見ず知らずの令嬢のために神殿の守護者を食い止めたというのに、それで「自分を置いて勝手に死のうとした」だの罪人扱いされるなど、因果の筋道としてどう考えても理不尽極まりない。
そこまで思考を巡らせたところで、ルシアの脳裏に、あのとき水銀の壁に縋り付いていたクレアの姿が不意に過った。
客観的に見て、クレアという女の美貌はあまりにも反則が過ぎる。
あのように取り乱し、絶望に打ちひしがれていた瞬間ですら、微かに波打つ艶やかな紫髪が白磁のうなじへと乱れ落ち、涙に濡れた長い睫毛が激しく震え、泣き腫らした瞳は痛々しいほどの緋色を帯びていた。
噛み締めた紅唇から滲む血の雫すら……忌々しいほどに、破滅的な被虐の美を放っていたのだ。
あろうことか記憶を反芻した刹那、ルシアは己の心拍が、切迫感や罪悪感の他に、ごく微かな疼きと昂ぶりを覚えていたという戦慄すべき事実に思い当たってしまった。
「……チッ」
ルシアは思わず内心で己の頬を引っぱたき、引き攣った面持ちで眉間を強く押さえた。
この期に及んで、あの女の泣き顔がどれほど美しかったかを反芻して見蕩れるなど、一体どこのどいつの脳味噌だ。
徹夜でカードゲームを回して心不全でくたばった一世のオタクだろうと、傷だらけで泥を啜る今世の錬金術師だろうと、骨の髄に刻み込まれた「無類の面食い」という業ばかりは、世界のリセットを経ても微塵も初期化されていなかったらしい。
思い返せば、第二世でこの世界へ転生してきた当初からして、自分がどれほど的外れで頭の沸いた妄想を抱いていたか、ルシア自身が一番よく分かっている。
狭苦しいアパートで過労死した社畜の魂を引きずったまま目を覚ました彼女は、貴族と騎士、魔法と豪奢な夜会が支配するこの帝国の光景を目の当たりにし、現実感を完全に欠落させたまま、「前世でよく見かけた乙女ゲームの世界にでもトリップした」のだと本気で思い込んでいたのだ。
公爵邸の回廊で初めてカリーナを見かけたあの瞬間――腰まで流れる、極北の初雪のように冷徹で眩い銀白の長髪、そして彫刻のように研ぎ澄まされた気高く美しい貌。ルシアの理性は一瞬で美貌の前に焼き切れ、オタク特有の熱情が爆発したのだ。
「こいつは間違いなくゲーム内最高難易度のメインヒロイン枠だ、真っ先に攻略するしかない!」と。
カリーナの金魚のフンよろしく三年間にわたって追い縋り、茶を淹れ、雑用をこなし、凍てつくような冷徹な眼差しで睨まれ続けようとも、豚のように喜んで尻尾を振っていたあの日々。
それどころか、ルシアの胸の内にある決して人には言えない浅ましい算盤の中では、すでに狡猾な皮算用すら出来上がっていたのだ――カリーナという難攻不落の氷山を完全に融解させてエンディングを迎えた暁には、次なる獲物として、あの夜の薔薇のように妖艶な紫髪をなびかせるクレアを口説き落としに行こう、と。
両手に花、ハーレムエンド――当時はそんな軽薄極まりない幸福な妄想に頭を侵されていた。
まさかこの世界が、砂糖菓子のように甘い恋愛シミュレーションなどでは断じてなく、何処の馬の骨とも知れぬ刺客が放った圧縮爆裂火球一発で胸を風穴だらけに穿たれ、儚い夢ごとミンチにされるような理不尽の坩堝だったとは夢にも思わずに。
命をチップにして「もう一回」を強行し、血塗られた因果の円環という代償を支払って、ようやくあの天災染みた女二人をこの身の隣へと完全に繋ぎ止めるに至ったのだ。
その代償として、世界の様相はあまりにも変わり果ててしまったけれど。
ルシアはゆっくりと頭を仰ぎ、冷たい椅子の背もたれに後頭部を預けると、王立図書館の高く、複雑を極めた絢爛な円蓋天井を虚ろに見上げた。
黄金の浮彫は偽りの神々が施す恩寵を描き出し、精巧なステンドグラスは差し込む光を冷淡でまだらな青紫へと濾過して、頭上から重苦しく垂れ込めている。
もう……二度と、失敗したくなどない。
二度の生を越え、無数の血の海と忘却の深淵を跨ぎ越してようやく手に入れた今を、あの二人の妻が自分のために狂い、世界を滅ぼしてまで取り縋るような絶望の淵へ叩き落とす光景など、金輪際見たくはなかった。
愛する者が冷たく凍りついていくのを、ただ手をこまねいて見届ける無力感――その重みは、もう十分に味わい尽くした。
ルシアは再び視線を落とし、卓上に広がる死の帳に覆われたミアの予測魔導器を見つめると、その胸裏に痛切で揺るぎない覚悟が兆した。
今のミアだって、間違いなく同じ想いを抱えているはずだ。
ビクターを苦しめたくない、デイジーを絶望させたくない。病魔に蝕まれ息も絶え絶えになりながらも、決して見えない心の片隅で、必死に生きるための微光にしがみついているに違いないのだ。
地球の霊安室から這い戻り、破壞神殿で己の限界を力づくでへし折り、エターナル・スノウフラワーの輝きを以てフェニックスの劫火をねじ伏せてみせた自分なのだから――。
今度こそ、相手が概念の外側に座す混沌の古神だろうと、この大陸を縛るすべての既定の規則を引き裂いてでも、運命の頸木からミアの命をもぎ取ってやる。
松節油の微かな匂いと羊皮紙の渋みが鼻腔を掠め、長机の周囲を満たす静寂は、まるで解けることのない霜のように凝固していた。
ルシアは深く背もたれへと体重を預け、冷え切った己の腕を持ち上げると、額の上へと横たえた。上方から降り注ぐ過剰な金箔の装飾と、魔晶が放つ淀んだ黄光を遮るように。
視界が、人工的に作られた薄闇へと沈む。
遮られた狭隘な影の中で、思考は錨を失った浮草のように、果てのない暗がりへと拡散していく。
光と影、ルーンの軌跡、名状しがたき肉塊の輪郭、そして記憶の底で明滅するカリーナの冷徹な銀白の残光と、クレアの咽び泣くような幽紫の面影――混濁した神経の網の目で、それらが激しく交錯しては消えていく。
胸の奥底で渦巻く焦燥を無理やりにねじ伏せれば、それは脈動となって、こめかみの裏側を鈍く重々しく打ち据えた。
「……ルシア先生」
澄んでいて、どこか普段通りの気怠さを滲ませたその呼び声は、図書館の重苦しい結界をいとも容易く貫通し、ルシアの拡散しかけていた意識を現世へと引き戻した。
額に乗せていた腕をわずかにずらし、睫毛を震わせながら、ルシアは逆光の立ち込める通路から歩み寄ってくる見慣れた人影へと目を細めた。
「……ルーカス?」
ルシアは身じろぎして上体を起こすと、その墨緑の瞳に明らかな驚きの色を走らせた。
王立図書館の禁呪重典区域の警備は、帝国でも指折りの厳重さを誇る。教廷の枢機卿、あるいは内閣の特務通行証を持たない限り、並の皇族ですら近衛騎士によって青銅の門前で追い払われる場所だ。
「どうやって入ってきたの? ここは学院の校舎みたいに、窓から適当に忍び込めるような場所じゃないはずだけど」
ルーカスは魔法学院の制定礼服のポケットに両手を突っ込んだまま、まるで私室の廊下でも歩くかのような優雅で奔放な足取りで近づいてきた。
その傲岸不遜な佇まいは、周囲を威圧する古色蒼然とした書棚の群れの中で、著しく異彩を放っている。
彼は口元をわずかに吊り上げ、どこか自嘲めいた、それでいて当然とばかりの薄い笑みを浮かべた。
「グラフィエンの家名を侮ってもらっちゃ困るな。この帝国の敷石の継ぎ目という継ぎ目には、多かれ少なかれ我が北地の鉄と血が染み込んでいる。公爵家と皇室の間には、嫌でも千々に縺れた因縁があるのさ。利害だろうが牽制だろうが、この血筋を振りかざせば、大抵の場所でちょっとした特権や融通くらいは利くもんさ」
ガルクが野獣じみた鋭い眼光で彼を睨みつけたが、ルーカスは審判所のオレンジ髪の少年など歯牙にもかけないといった風に冷淡に視線を流すと、再びルシアの蒼白な顔面へと焦点を戻した。
その双眸から軽薄な色が薄れ、どこか興奮と奇妙な戦慄が入り混じった異様な眼差しが宿る。彼は声を潜め、ルシアへと身を寄せた。
「だが、わざわざ特権を行使してまでここに潜り込んできたのは、血統の優位性を講釈するためじゃない。最新の報せを届けに来たんだよ――」
ルーカスは一度深く息を吸い込んだ。まるで、自分自身が先ほど目撃したばかりの荒唐無稽な光景を、胃の腑に無理やり押し込もうとするかのように。
「ほんの三十分前、政務庁の回廊でな……叔母上が、数十人の近衛騎士たちの目の前で、あの思い上がりも甚だしい皇太子殿下の顔面を、原型を留めないほどボコボコに叩きのめした」
ルシアが冷め切った茶杯へと伸ばしかけていた指先が、ピタリと硬直した。
ルーカスの目元が微かに引き攣り、その声音には隠しきれない不条理への呆れが滲んでいた。
「形式的な詰問すら挟まなかったぜ。殴り倒した後、叔母上はまるで息絶えた野良犬でも引っ張るみたいに、クロードの手首を片手で掴み上げると、絨毯の上に長々と血の跡を引きずりながら……そのまま真っ直ぐ、皇帝陛下の御前へ『落とし前』をつけに乗り込んで行っちまった」
ルシア自身、クロードがいずれ手痛い報いを受けるであろうことは薄々察してはいたものの、カリーナがここまで容赦のない実力行使に出るとは、流石に想定の埒外だった。
だが、あの皇太子が公衆の面前で公爵夫人へ色目を使い、あからさまに戯れ言を弄したのだ。
それが万が一にも世間に漏れ聞こえれば、世論の猛反発を食らって炎上するのは皇帝の方である。何より、極北のグラフィエン家はノーランド帝国の安寧を一手に引き受ける国防の最前線そのものなのだ。
今頃、玉座の間で頭を抱えている皇帝自身も――いっそのこと、己の手でクロードをもう一発ぶん殴ってやりたい衝動に駆られているに違いない。




