もしも本気で恋い焦がれているとしたら
雨糸は先ほどよりも密度を増し、冷たい風に煽られて斜めに傾ぐ灰色の網となって、帝都の威容を誇る白石の大通りを、息苦しいほどの湿気で塗り込めていた。
ルシアは傘を差していなかった。ただ深青色のマントのフードを深く被り、両手を大きな袖の中に引き籠もらせ、地表に淀む雨水を一歩、また一歩と踏み締めながら、緩慢に歩を進めていた。
靴底が水溜まりを踏み砕き、微かな水音を立てるが、それも瞬く間に降りしきる雨音の底へと呑み込まれていく。
彼女の後方、二歩ほど離れた距離を、オレンジ色の髪の少年が静かに追従していた。
ガルクは普段の跳ねっ返りで悪戯っぽい気性を、珍しく影を潜めさせていた。
彼もまた雨除けのショートケープを羽織り、腰には携行用の短刃を吊るし、両手をポケットに突っ込んだまま、雨水を踏む足音を極限まで殺している。
それは傍らに侍りながらも、決して主の邪魔をすまいとする若き猟犬の佇まいであった。
彼は何度か視線を上げ、冷雨と風に吹かれれば今にも吹き飛んでしまいそうなルシアの頼りない背中を見つめ、喉仏を上下させたが、結局は唇を固く引き結び、あらゆる問い掛けと懸念を無理やりに腹の底へと呑み下した。
ガルクには痛いほど解っていたのだ——あの茶館の前でデイジーがミアを引き取っていったあの瞬間から、自分が「アネさん」と呼ぶこの女性の纏う気配が、完全に凍てついてしまったことを。
それは錬金術師が数値を弾き出す時の冷徹さではない。退路をことごとく塞ぎ切った、残酷なまでの決死の覚悟であった。
ルシアは長き通りの尽頭、雨幕の奥深くに朧げに浮かび上がる壮大な宮殿を見据えていた。
金曜石の尖塔が雲霧を貫き、漆黒にして天を突く鉄鋳の宮門が、まるで帝都の心臓部に蹲る巨獣のごとく、冷酷に地上の有象無象を見下ろしている。
皇宮の大門であった。
あの名状しがたき混沌の肉塊を突き止め、ミアの骨髄の奥底に巣食う禁呪の原典を解き明かすための記録は、ノーランド帝国広しと言えど、ただ一箇所にしか存在しない——皇室秘閣。
そして、その禁忌の扉の鍵を握る者こそが帝国の皇族であり、ルシアがここへ赴いた目的もまた、クロードに逢うことであった。
その名を思い浮かべた刹那、ルシアの胃腑は抑えがたい痙攣と悪寒に見舞われた。
彼女は、あの男が嫌いだった。
その嫌悪は、教廷の偽善に満ちた神官たちへの拒絶すらも凌駕し、本能の神経末梢に直接根を下ろしている。
クロードが彼女に向ける視線は、初めから一度として潔白であった試しがない。
宮廷の夜会、内閣の議場の回廊、あるいは偶然を装ったあらゆる逢瀬の場で、あの男の眼差しは常に人波を越え、彼女の肌に臆面もなくねっとりと貼り付いてきた。
それは決して愛する女を見つめる者の目ではない。ましてやカリーナのように彼女を血肉に溶かし込もうとする狂暴な愛執でも、クレアのように掌中の珠として慈しむ病的な溺愛でもない。
それは上位者が、世に二つとない「稀代の逸品」を眺め、極めて高い実用性を持ちながらも精緻で脆い「道具」を値踏みする視線であった。
クロードの傲慢で冷え切った眼差しの奥に、ルシアは魂への尊厳など微塵も見出したことはなかった。
彼が彼女に執着するのは、人智の及ばぬ特立錬金術を有しているからであり、北境の軍権と帝国の商会を同時に揺るがすことのできる唯一の梃子だからに他ならない。
あの男が浮かべる曖昧で独占欲に満ちた眼差しは、冷酷な蒐集家が雨の夜、硝子ケース越しに、政敵の心臓を刺し貫く猛毒を帯びた、息を呑むほどに美しい短剣を撫で回している姿そのものであった。
手中に収め、黄金の鎖を嵌め、この道具を我が物とすることで、皇室の至高なる征服欲を誇示したいのだ。
あの粘つき、冷え切った視線に撫でられるたび、ルシアは冷たく湿った毒蛇に肌を這い回られたような吐き気を覚えるのだった。
「……アネさん」
背後のガルクが、ついに耐えかねたように口を開いた。
雨音に混じる少年の掠れた声には、奥歯を噛み締めるような切迫した悔しさが滲んでいた。
「もうすぐ宮殿の防衛線ッスよ。本当に……あの殿下に逢いに行く気なんスか? 公爵様や会頭が知ったら……」
ルシアは足を止めず、ただ微かに首を巡らせた。
フードの落とす陰影が青白い顔の輪郭を覆い隠し、ただその墨緑の瞳だけが雨幕の向こうで幽かな光を放ち、凍てついた深淵のごとく静まり返っていた。
「ガルク」
彼女は平淡な、感情の波立たない声で少年の言葉を遮った。
「あの人にしか、開けられない扉があるのよ」
視線を前へと戻し、再び顎を上げる。襟元へと滑り落ちていく冷雨が、張り詰めた神経を刺すように冷やしていった。
危険を冒している自覚はある。あの門を潜れば、どれほど吐き気を催す視線と試練に晒されるかも解りきっている。
だが、あの男の手から真実を暴く権限を買い取れるのなら。雨の中で天の恵みを味わい、笑みを浮かべたまま死へと駆け抜けていくあの少女を、わずか一寸でも引き戻すことができるのなら——。
野心と欲望の渦巻く黄金の鳥籠に足を踏み入れることになろうと、厭う理由などどこにもなかった。
重厚にして冷厳な黒鉄の宮門の前では、彫刻の施された槍先から雨水が絶え間なく滴り落ちていた。
重装甲に身を包んだ近衛軍の兵士が二列に並び、彫像のように雨の中に直立している。交差された長戟は、本来であれば職務通りの冷徹さと殺気を漂わせているはずであった。
だが、ルシアが防衛線のわずか数歩手前で足を止め、冷雨に濡れた深青色のフードを静かに押し上げたその瞬間、大気はあたかも凍りついたかのように凝固した。
立ち込める水煙の微光の下、病的なまでに華奢でありながら、凛とした冷涼さを宿す白皙の小顔が、何の遮りもなく露わになる。
最前列に立っていた近衛隊長の瞳孔が鋭く収縮し、落雷を浴びたかのように背筋を跳ね上げた。彼は形式的な尋問の手順すら頭から吹き飛ばし、血相を変えて傍らの腹心の親衛に鋭く低く命じた。
「急げ! 抜け道を通ってクロード殿下へ直ちに報告しろ——ルシア様が直々にお見えになったと、一刻の猶予も許されんとな!」
命を受けた親衛は、甲冑に滴る雨水を払う間すら惜しみ、躓くようにして内廷の奥へと駆け出していった。
そして、宮廷において冷酷無比と恐れられていたその隊長が、数十名の部下の面前であるにもかかわらず、極めて恭しく、卑屈とすら言えるほどの礼をルシアに向かって執ったのだ。
彼は腰の佩刀の威圧を解き、あえて自ら身を退いて手先で進路を示した。それは皇族の肉親を迎える際にのみ許される、最高位の先導の礼であった。
「ルシア様、雨足が強まっております。どうか私めについて、内廷の回廊へお入りください……殿下のお部屋では、すでに暖炉と熱い茶の支度が整えられているはずでございます」
背後に控えるガルクはその様子に嘲弄の険を宿し、袖の中で拳を固く握り締めたが、ただ黙して従った。
ルシアは微かに眉を寄せ、墨緑の瞳に偽りのない困惑と荒唐無稽さを滲ませた。白玉で磨かれた宮殿の階段を踏みしめ、肩口に残る水滴を払いながら、雨気に濡れた冷淡な声を発する。
「隊長閣下。貴方は正門の警備を束ねる将校のはずです。身分証の確認はおろか、身体検査の手続きすら省き、あまつさえ自ら案内を買って出るとは……そのような職務放棄、内廷の法務官に咎められるとは思わないのですか?」
半歩先を行く隊長は足を微かに緩め、苦笑を漏らすと、首を巡らせて声を潜めた。
「ルシア様、滅相もないことを仰いますな。この皇城の、いや、近衛軍の誰が、貴女様のお身体に触れられましょうか。誰が貴女様に不敬を働けましょう」
彼は警戒を怠らず、視線の端で人気の絶えた薄暗い大回廊を探り、背後のオレンジ色の髪の少年以外に人影がないことを確かめると、吐息のような声で内情を打ち明けた。
「……宮中では専らの噂でございますよ。北境の女公爵と、あの商会の令嬢との離縁さえ整えば……この国の次代の皇太子妃の座には、貴女様以外の誰も座らせる気はないと、殿下は仰せなのだと。未来の妃殿下に無礼を働ける者などおりませんよ。一族郎党、この帝都で命を捨てたいのでもない限りは」
その言葉を聞いた瞬間、ルシアの心臓は氷水に浸された汚布を詰め込まれたように軋み、先ほどまでの激しい吐き気が再び喉元まで競り上がってきた。身を切るような不条理と、胸の悪くなるほどの嫌悪。
次の皇太子妃?
己の指にはグラフィエンとシルヴィアの婚姻指輪が嵌められ、魂には二人の妻の魔力刻印が焼き付けられているというのに。
この巨大で腐敗しきった宮廷の目には、権勢を誇る二人の妻から与えられた一切も、特立錬金術師としての矜持すらも、皇太子が上から施す曖昧な恩情ひとつで跡形もなく塗り潰されてしまうというのか。
この宮殿の者たちは、彼女が「皇太子の手中に落ちる」未来を、すでに当然の前提としてなぞり始めているのだ。
ルシアは血の気を失った唇を結び、一言も発しなかった。墨緑の双眸は、氷柱が張り付いたかのように冷たく研ぎ澄まされている。
だが、媚びへつらうような実情を語り終えた近衛隊長は、不意に、深く重い息を吐き出した。
彼の歩調が緩み、ランプの火影に照らされた大柄な背中が、どこか沈鬱な陰りを帯びる。
彼は振り返り、大きなマントの中でひときわ小さく、ただ独り立ち尽くすかのような女を見つめた。
宮廷の汚濁を見慣れてきたその瞳から、あらゆる畏怖と追従が抜け落ち、極めて複雑な憐憫と痛ましさが浮かび上がっていた。
「……ですが、ルシア様」
東宮の控えの間へと続く水晶の扉の前で隊長は立ち止まり、吐息のように微かな、諦念に似た声で囁いた。
「誰の目にも明らかなのです。貴女様が、このようなものを望んでおられないことなど……。すでに妻を娶っておられる身でありながら、あのお方から日々追い詰められ、街中の者たちに色恋の駆け引きの種として噂される……」
血の気のない、けれど頑なに凍てついたままのルシアの横顔を見つめ、彼は低く言葉を落とした。
「さぞや……ずっと、苦しまれてきたのでしょうな」
ルシアは顔を上げ、全身に重甲を纏った大柄な男を見据えた。
虚飾の追従が渦巻き、誰もが舌の裏に三枚の毒刃を忍ばせるこの皇宮にあって、これほど無骨で不躾なまでの同情は、磨かれていない粗石のように浮いていた。
彼女の凍てついた墨緑の瞳の奥に、極めて稀な、微かな波紋が揺れる。どこか皮肉めいたおかしみすら感じていた。
「貴方、意外といい人なのね」
ルシアの掠れた声には、あらゆる修羅場を潜り抜けてきた者特有の静けさと、冷ややかな苦笑が微かに混じっていた。
「まあ、この城で長年勤めていれば、嫌でも色々と見えてしまいますからな」
近衛隊長は照れる風もなく、低く快活に喉を鳴らした。
鋼鉄の胸甲がその笑いに合わせて小気味よい擦過音を立てる。宮廷の風霜に晒されて身についた如才なさが一瞬だけ剥がれ落ち、軍人特有の無骨さと達観が顔を覗かせていた。
それ以上言葉を重ねることなく、彼は彫刻の施された重厚なオーク材の扉を押し開き、作法通りにルシアとガルクを東宮専属の客間へと導いた。
部屋には毛足の長い深紅の絨毯が敷き詰められ、暖炉の中では音もなく魔導薪が燃え盛っている。押し寄せる熱気が、ルシアのマントに残る冷雨の名残を白い湯気となって立ち上らせた。
だが、隊長が身を翻して扉を閉ざそうとしたその刹那、彼の足がぴたりと止まった。
彼は鉄手套に覆われた右手を何気なく持ち上げ、まだ入室しきれずにいたガルクの目の前で、ひらりと軽く揺らしてみせた。
薄暗く温かな火影の下、冷たい燐光を放つ数振りの精緻な短刃が、その無骨な掌の上に整然と横たわっていた。
ガルクの瞳孔が、瞬時に針の先ほどに縮み上がる。
少年の全身の産毛が一斉に逆立ち、右手は条件反射で稲妻のごとく自らの腰の後ろと大腿の外側へと伸びた——斥候として、暗殺者として、肌身離さず武器を隠し持っていた定位置。眠る時ですら手放したことのない場所。
だが、指先が触れたのは、空虚な革の鞘だけであった。
ガルクの呼吸が止まり、額から一筋の冷や汗が滑り落ちる。
帝都の路地裏で生き延び、その身のこなしの俊敏さと狡猾さには絶対の自負があった。それなのに、この屈強で鈍重に見える近衛隊長は、一体いつ間合いを詰めたというのか。
すれ違う刹那の刹那、いかなる手練れを用いて、彼の切り札を音もなく奪い去ったのか。
もしも先刻、相手にわずかでも殺意があったなら、自分の喉笛は疾うに切り裂かれていたはずだ。
扉口の隊長は嘲弄することもなく、驚愕に凍りつく少年に視線すら向けなかった。
彼はただ短刀を自らの革ベルトへと手際よく挟み込み、自然な動作で掌を握り直すと、訓戒の言葉ひとつ残さず背を向け、薄暗く冷え切った回廊の奥へと消えていった。
重々しい軍靴の跫音が遠ざかっていく。
これほど何気なく、神業のごとく武装を解除してみせたその腕前だけで、十分に証明されていた——長年宮門を護り続けてきたこの男が、ただの追従者に収まる器などではなく、爪を研ぎ澄まし続けた本物の歴戦の猛者であることを。
ガルクはその去り行く背中を睨み据え、歯を食いしばりながら強張った指を引き戻した。背中の裏地はすでに冷や汗でぐっしょりと濡れそぼっていた。
ルシアは温かな暖炉の前に佇み、冷徹にその一部始終を見届けながら、墨緑の瞳を一層深沈とさせていた。
門番の猟犬ですら、これほどの技量と鋭さを備えている。この煌びやかな東宮は、彼女の想定以上に厳重で、そして底知れず危険な場所であった。
客間の内装は息が詰まるほど豪奢を極め、傲慢なまでの威圧感を放っていた。
天蓋からは巨大な純銀のシャンデリアが下がり、無数の月光石が拳大の光を湛え、冷髄白玉で削り出された壁面を透徹の極みへと照らし出している。
暖炉の両脇には古代の純金器が並び、床に敷き詰められているのは羊毛などではなく、極北の深淵に棲まう幻の雪獣から剥ぎ取られた白絨毛であった。ガルクの靴底ですら半寸ほど沈み込み、足音ひとつ響かない。
空気には濃厚で高価な竜涎香が漂い、心を鎮める異国の魔導香が混じり合って、空間全体を粘着質に包み込んでいた。
大通りの冷雨と泥濘は、完全に遮断されている。
権勢と金貨で鋳造された精巧なる檻。その細部に至るまでが、皇室の至高なる尊栄と支配力を無言のうちに誇示していた。
カチャリ、と。
奥の胡桃材の隠し扉が、音もなく押し開かれた。
暗金の刺繍を凝らした玄黒の常服を纏い、クロードが静かに歩み入ってきた。
均整の取れた長身は生まれながらの覇気を漂わせ、一糸乱れぬ金髪、冷酷なまでに整った美貌の唇には、あの無謬の温和を装った貴族特有の笑みが浮かべられている。
だが、暖炉の前に佇む、深青のマントに包まれた小柄な黒髪の少女を目にした瞬間、男の双眸の表面を覆う社交辞令の笑みは吹き飛んだ。雪原でついに幻の珍獣を仕留めた猟師のごとき、剥き出しの熱狂がその底から覗く。
彼はガルクの殺気立った警戒など歯牙にもかけず、謁見の儀礼すら踏み越えて、大股にルシアの前へと間合いを詰めた。
「ルシア」
クロードは親密にその名を呼んだ。あたかもそれが当然の権利であるかのように。
彼は滑らかな指先を伸ばし、ルシアの袖口から下がる手首を、強引に引き寄せた。
ルシアの指先が拒絶に強張り、引き戻そうとするが、男の握力は鋼のようにびくともしない。彼は優雅にその身を折り、袖口をすり抜けた唇を、雨気を含んで微かに冷えたルシアの白い前腕の内側へと、淫らなまでに押し当てた。
温かな吐息が敏感な皮膚を撫で、落とされた口づけとともに、総毛立つような戦慄が彼女の全身を駆け抜ける。
クロードは顔を上げ、氷のように透き通った冷酷な碧眼でルシアの蒼白な顔を見据えた。囁くような低音は、夜更けの恋人の語らいそのものであった。
「本当に……ずっと、そなたに逢いたかった。この宮殿は毎日雨ばかりだが、そなたが足を踏み入れてくれた今、ようやく光が差したようだ」
前腕に触れた皮膚から、毒蛇に舐め回されたような悍ましい鳥肌が這い上がってくる。
ルシアは目を伏せ、墨緑の瞳を凍りついた沼地のように凪がせていた。
取り乱して声を荒らげることもなく、身を引くこともなく、ただ唇の端を吊り上げて、刃のような皮肉を冷ややかに吐き出した。
「殿下、白々しいお芝居はおやめになってはいかがです? 特立錬金術師というこの道具は、北境の軍勢を揺さぶり、帝国の商会を封じ込め、今こうして自ら差し出されたのですもの——これほど使い勝手の良い手札は、他にはございませんでしょう」
皇室の纏う温情の皮を剥ぎ取る、骨の髄まで刺すような直言。傍らのガルクが、皇太子の逆鱗に触れたかと息を呑む。
だが、クロードの相好は微塵も崩れなかった。
唇の笑みは深まりこそすれ、手首を拘束する指の力はわずかも緩まない。
それどころか、彼はさらに半歩、距離を詰めた。
暖炉の炎が落とす巨躯の影がルシアの華奢な全身を完全に呑み込む。
二人の間にはわずか数寸の隙間しか残されておらず、男の長い睫毛に揺れる深い碧色の光彩すら見分けられるほどであった。襟元から漂う竜涎香の冷たい匂いが鼻腔を突く。
クロードは頭を垂れ、ルシアの冷え切った耳朶へと薄い唇を寄せた。風のない夜の陰鬱のように柔らかな囁きが、彼女の鼓膜を撫でる。
「では……私が本気で、そなたに恋い焦がれているのだとしたら?」
男の指が、手首の内側で微かに脈打つ血管を、執拗なまでに弄び始める。碧の瞳の奥に爛々と滾る独占欲と冷え切った狂気を覗かせながら、彼は嘲るように、甘く問いかけた。
「——そう言ったら、ルシア、そなたは信じてくれるのかい?」




