心を半分、片方は雪へ、片方は薔薇へ
公爵邸の清晨は、極めて細く、極めて密やかに、まるで果てることのない淅瀝たる雨音の中で目を覚ました。
その雨音はあまりにも微かで、幾重もの厚い硝子窓を隔てると、あたかも生きた蚕が桑の葉を食むような微かな擦れ音としてしか届かなかった。
さらさらと、北境の融け残る残雪と青石の段鼻を鈍く重く圧し沈めている。
天地の間には、年季の入った灰白の油絹が一枚被せられたかのようで、光は透るでもなく翳るでもなく、気だるげに中空へと漂っていた。
ルシアはその湿り気を帯びた冷気の中で、極めて緩慢に、寸刻を惜しむようにして意識を眠りの深淵から手繰り寄せた。
目覚めは遅く、そして儚かった。瞼は鉛を流し込まれたように重く、幾世を巡り歩いたか知れぬ遥かな古き夢があまりに長く、あまりに荒唐無稽であったがゆえに、目覚めるための力すらこの脆弱な肉身から借り受けてきたかのようだった。
夢の中には、おそらく幾許かの炎や逃げ惑う足音があったはずだが、目覚めてみれば欠片一つ拾い集めることすら叶わず、舌根の奥底にはただ渇きと苦味の混ざり合った渋みだけが取り残されていた。
彼女は微かに墨緑の瞳を開き、頭上に広がる陰影の深い天蓋を見つめ尽くしていた。
身の回りには、何一つ残されていなかった。
四、五人がゆうに横たわれる公爵家の大臥台は、途方に暮れるほどに広すぎた。錦の寝具は冷ややかな光沢を放ち、その左右にかつて温かな身体が寄り添っていたはずの窪みは、疾うの昔、夜の半ばに冷え切ってしまい、今や誰も踏み入ることのない荒れた墓碑のように平らかだった。
カリーナは夜が明けぬうちに、あの厳めしい甲冑に身を固めた近衛を動かしに向かったはずだった。鋼が擦れ合う冷たい響きが、今なお回廊を巡る余韻の中に燻っているかのようだ。
クレアもおそらく、とっくに商会の密室へと籠もり、帳簿と各所の密偵からもたらされた密書を素早く繰っているに違いない。昨夜あれほど人を酔わせた幾重にも重なる冷薔薇の芳香も、今ではただ微かな残り香の糸として漂うばかりだった。
彼女たちは、帝国という巨大な挽肉機の運行に欠くべからざる歯車であり、生殺与奪を司り、命脈をその手中に収めている。
ゆえに、この広大な荘園も、極上の贅を尽くしたこの寝所も、この灰色の朝にあっては、当然のようにただ一人の人間へと遺棄されていた。
ルシアは身を翻し、細身の身体を小さく丸めた。寝具の隙間から冷たい気が忍び寄り、喉元に触れて、細かく乾いた咳を誘い出した。
彼女は空虚な枕席を見つめながら、深き愛も栄華の極みも、突き詰めれば所詮はこのような形骸に過ぎないのだとふと思った。
彼女たちは闇の奥底でルシアのために殺戮を繰り広げ、ルシアは白日の縁でただ独り凍え続けている。
賑わいはこの帝国のもの、この公爵邸のものであり、天鵝絨の堆積の中に横たわる孤寂だけが、ルシアただ一人のものだった。冷え冷えとして清らかで、吐く息すら余計なもののように思えた。
「ルシア様、お目覚めになられましたか? これよりお召し替えと身支度を整えましょうか……それとも、今少しお休みになられますか?」
不意に、物怖じしながらも鈴を転がすような澄んだ声音が響き、寝室の凝固しかけた陰鬱を破った。
ルシアはその声に誘われるように首を傾げ、冷え切った枕の縁から視線を外した。
半ば引き上げられた帳の影の奥に、十七、八とおぼしき若い娘が佇んでいた。仕立ての良い、だが明らかに商会お抱えの標識が縫い留められた深青の軽法衣を纏い、高貴な門閥の屋敷に不慣れな初々しさと堅さをその眉宇に滲ませている。
だが、その前で重ねられた素手は些かの乱れも見せなかった。細くしなやかな十指が虚空を軽やかに舞い、肉眼では捉え難い淡銀の魔力糸が指の隙間を魚のように音もなく泳ぎ回り、極めて精緻で複雑な小型の術式回路を瞬く間に編み上げていく。
最高階梯に属する『因果牽引』と『領域越境定角座標』の刻印だった。
特立錬金術師たるルシアには、その術式の正体が即座に見て取れた。尋常の防御障壁などではなく、極めて手間の掛かる、追跡と感知の能力において覇道とも言える位置特定のための刻印である。
明白だった。この術は彼女のために誂えられたものだ。今日この荘園を一歩踏み出し、祭典の場に身を置くならば、如何なる異変が生じようとも、僅かな心拍の跳ね上がりや魔力の揺らぎ一つで、帝都の暗がりに潜む商会の術士や私兵が即座に空間を裂いて馳せ参じる手筈になっているのだ。
ルシアは形を成しつつある銀の陣式を見つめ、胸の内で得心がいった。目の前の娘の素性がたちどころに知れた。
あの驕奢に振る舞う商会の継承者クレアは、資源と情報を意のままに動かし、学院派の形骸化した陋習から完全に脱却するため、かつて極めて気侭に、かつ果断に魔術塔の筆頭の座を擲ったのだった。
だがクレアの魔術界における人望と手腕はあまりに絶大だった。彼女が去るや否や、彼女に心酔しその理念に殉じようとする青年魔術師や精鋭の研究者たちが、雪崩を打って塔を後にしたのである。
その身元確かな、天賦の才に恵まれた清新な血潮は、今やクレアの手によって余すところなく巨大商会へと吸い上げられ、彼女の掌中で最も隠微にして忠実な私兵集団となっていた。
挨拶にすら青さを残しながら、指先一つで上級追跡術を易々と紡ぎ出すこの若い娘も、クレアが大金を投じて抱え込み、ルシアの「監視」兼「護衛」として送り込んできた小魔術師の一人に違いなかった。
あの独占欲の強い女は、公務によって密室に縛り付けられていようとも、この無所不在の密網を張り巡らせ、ルシアを自らの視界の内に閉じ込めておかずにはいられないのだ。
ルシアはすぐには起き上がらず、錦の帳から冷えた素腕を覗かせ、身を支えながら、若い法術士が帳を静かに巻き上げるのを待った。
部屋の隅に置かれた青銅の小炉で香材を焚いていた残り炭は、疾うに白い灰へと帰しており、その隙を突いて冷気が肌へと纏わりついてくる。
彼女は単衣を一枚羽織り、緩やかな歩みで窓辺へと寄ると、重厚な硝子窓を細く押し開いた。
湿った土と草木の冷香を含んだ湿気が、音のない風を伴って、忽ちにその相貌を打った。
外の雨は相変わらず細く、密に、斜めに降り注いでは惨白たる天網を織り成し、この広大な公爵の深邸を底へと封じ込めていた。
北境は本来、吹き荒ぶ風雪と荒涼たる凍土の世界であるはずだった。それが今こうして反常の春の装いを呈しているのは、ひとえにカリーナの権能が大地を強奪した結果に他ならない。
だが、人工の手によって強引に手繰り寄せられた春情は、この綿々と続く陰雨に晒されるや、病的なまでの零落を露わにしていた。
白石の敷かれた回廊は曲折して空漠としており、異形の獣を模した雨樋の瓦先から雫がひとすじ、またひとすじと垂れては水溜まりに落ち、瞬く間に消えゆく輪を描いていく。
金石の澄んだ音はなく、ただ低く重い微かな響きだけが、巨邸の奥深くから漏れ出る沈重な吐息のように満ちていた。
庭園に咲き誇る薄桃色の花房は、本来であれば満開の盛りであったはずだった。昨夜までは油を注いだ炎のように咲き競っていたというのに、この半夜の細雨に打たれ続け、花弁は重い水気を吸い尽くして半透明に張り付き、その虚飾の誇りを支えきれずに、項垂れるように枝を落としていた。
冷雨に散らされた幾片かの花弁は黒い土に塗れ、赤と白が入り混じり、黒ずみ、柔らかく腐爛して、まるで誰かに踏みにじられ路傍に打ち捨てられた薄絹の残骸のようだった。
荘園のあらゆる一隅が、奥深く、端然と整えられていた。
整然と刈り込まれた灌木は水に洗われた暗緑色を沈ませ、青黒い大理石の回廊柱は雨煙の底で冷たい光を鈍く放っている。
曲がり角に配された白石の神像噴水では、泉口から湧く水と降り注ぐ雨沫が混じり合い、音もなく水盤の縁を越えて、暗緑の苔が生す敷石の隙間を伝い流れていた。
四方に人の気配はなく、平生であれば巡回している鉄甲の衛士たちすら、この果てしない雨網に声を吸い取られてしまったかのようだった。
ただ遥か宮門のあたりから、丸太を打ちつけるような重い靴音が、途切れ途切れに届くのみであった。
それは極めて美しく、極めて豪奢な鳥籠であった。その梁の一筋、草木の一寸に至るまで至高の権力と富が積み上げられているがゆえに、人の声が絶えた清朝にあっては、あたかも見事に装飾された巨大な石室のように冷え切っていた。
ルシアは、窓枠の銅環に雨の雫が凝結し、膨らみ、ついに「ぽつり」と泥濘の中へ堕ちていく様をただ見つめていた。
この荘園に息づく草木と自分との間に、本質的な差異など何もないのだと、彼女はふと思った。
どちらも、あまりに強大で苛烈な意志によって檻へと囲い込まれ、手厚く飼い殺されている玩弄物に過ぎない。
カリーナは軍勢と権能をもって風雪を遮り、クレアは金山と密網をもって欠乏を祓う。彼女たちの与えるものはあまりに満ち、あまりに重く、息が詰まるほどであった。
だが、この見えざる災厄が俄かに頭上へ降り注ぎ、彼女たちが血風と謀略を帯びて暗がりへと奔走した時、この美しき彫梁の下に残されるのは、散りゆく花を見つめながら何の力も持たぬ、ただの余分な人間でしかないのだ。
天の地は灰色であり、人の心は冷たかった。雨音は相変わらずさらさらと鳴り続け、どこまでも均質に、どこまでも泰然として、人の世が辛うじて飾り立てた繁華と温もりのすべてを、この無言の摩耗のうちに、冷徹な虚無へと洗い流していくようだった。
ルシアは結局、背を向けた。
室内の空気は未だ淀んでおり、若い法術士の手の中の銀糸は疾うに結びを終え、中空に浮かんで幽かな光を放った後、朝霧のような大気の中へと素直に消え去っていった。
侍女たちは両手を垂らし、小足で進み出たが、その動作は軽やかでありながら麻木しており、呼吸を持たぬ人形のようだった。
昨日身に纏っていた幾重もの織錦の和服は、今日、唐木の衣桁へ端然と掛けられ、錦の金糸が灰色の光の中で光沢を失っていた。ルシアはただ淡く一瞥しただけで、小さく首を横に振った。
彼女はその繁雑な重ね着と束縛を手に取ろうとはしなかった。侍女たちはその意を察し、足音も立てずに、実直な仕立ての素色の長袍を着せ掛け、その上から青灰色の羊毛の肩掛けを緩やかに羽織らせた。
凝った刺繍もなく、金銀の縁取りもない。裾は踝のあたりまで柔らかく垂れ、二世を生き抜いて蓄積された倦怠のすべてを、このありふれた布地の中へ包み込んだかのようだった。
彼女はただ、誰の目にも留まらぬ、極めて平凡な過客の姿のままで、この果てしない冷雨の中へと歩み出したかったのだ。
寝室を出て、すべての足音を呑み込む厚い絨毯の回廊を抜けると、公爵邸の本館を閉ざす城門のごとき銅張りの彫刻扉が、門番たちの手によって細く押し開かれた。
吹き抜けの風が湿り気を含んだ雨沫を巻き込んで吹き込み、ルシアの首筋の細い髪を揺らした。彼女が衣の裾をつまみ、階段を降りようとしたまさにその時、視界の片隅に不意に鮮烈な橙色が飛び込んできた。
門の外、雨を避ける石柱の影に、若い人影が寄りかかっていた。
ガルクだった。
平生であれば烈火のように逆立ち目を引くあの橙色の短髪が、今は雨霧を吸って重く濡れ、額と耳元に力なく張り付いており、陰影を深めたその顔立ちからも、かつて恐れを知らなかった軽躁と傲岸さが削ぎ落とされていた。
少年は両手を革の上着のポケットに突っ込み、背を冷たい大理石の柱身に預け、爪先で敷石の上の水溜まりを無意味に踏み躙っていた。濡れた靴底が水気と擦れ合い、極めて微かな軋み音を立てている。
おそらくは、この一面の灰雨に気骨を削がれてしまったのだろう。
普段であれば屋根を吹き飛ばすほどの大声を張り上げ、疾風のように駆け回るこの大柄な少年が、今日ばかりは石の割れ目に生えた枯木のように押し黙っていた。
ルシアの忍び足を聞きつけると、彼は弾かれたように顔を上げた。光を失いかけていた瞳の奥に火花のような光が宿り、喉仏が動いたが、珍しく喚き立てることもなく、ただ雨簾の縁に直立したまま、数歩隔てた湿気越しに、どこか窮屈そうに彼女を見つめていた。
「……おはようッス、アネさん」
ガルクはきまり悪そうに手を上げ、雨に濡れた蓬髪を乱雑に掻き回した。指先は中空を彷徨い、喉がこの早春の冷気によって塞がれてしまったかのように視線のやり場に困り、やがて力なく手を引っ込めると、手のひらをズボンの脇で強く擦り合わせた。
ガルクは居心地悪そうにルシアの傍らへと歩み寄り、今の彼女の姿を見つめたまま、微かに呆然としていた。
ルシアは肩に掛けた青灰色の羊毛の肩掛けを引き寄せた。冷ややかな雨風が、薄い長袍の裾を痩せ細った脚の骨へと張り付かせる。
「あなたがここに立っているということは……」
ルシアは少年の視線を静かに受け止め、抑揚のない声で言った。波風一つ立たない、静謐な声だった。
「昨夜、オースと私の妻たちの密談がまとまったということね。あなたは彼から命じられて、今日の私の護衛としてここへ寄越された。違うかしら?」
端的にして、核心を突いていた。
ガルクはいつものように軽口を叩いて茶化すこともなく、ただ石段の雨影に立ったまま、極めて重々しく頷いた。
この橙髪の少年は、普段こそ神経が太く無鉄砲な荒くれ者に見えるが、彼と真に向き合った者だけが知っていた——その粗野で奔放な少年の貌の下に、どれほど鋭敏で繊細な心が隠されているかを。
幼少の頃から帝都の底辺の泥濘に塗れ、市井の生離死別と数多の悲劇を見届けてきたからこそ研ぎ澄まされた、獣のごとき直感。
他人の骨の髄に刻まれた、繕われた傷口や感情の揺らぎを、彼はあまりに容易く嗅ぎ取ってしまうのだ。
そしてそれこそが、ルシアがこの少年を真に嫌忌したことのない理由でもあった。
今、ガルクは目の前の華奢で清瘦な黒髪の女をじっと見つめていた。
ルシアの全身を覆い尽くしている、あの鉛のように重く濃密な沈鬱を、彼は痛いほど鮮明に感じ取っていた。その瞳を、彼はかつて見たことがあった。
カリーナとクレアが記憶を奪われ、ルシアの存在を完全に忘れ去っていたあの頃、ルシアはまさに今のように、暗い片隅に身を縮めて夜通し酒を煽り続けていたのだ。
あの時の彼女の瞳も、今と同じ、寒々とした死水のように枯れ果てていた。
この瞬間、ガルクはようやく一つの確信を得た。この神秘的で超然とした特立錬金術師は、その骨の髄において、孤独というものを極限まで恐れているのだと。
彼の知るルシアは、疑いなく強大であり、果断であった。
どれほど険悪な渦中にあろうと、あるいは人の精神を破滅させる絶望的な死局を前にしようと、彼女が運命に易々と屈することなどなく、暗黒の泥濘の中にあってなお、万に一つの逆転の機を冷徹に計算し尽くすことができる女だった。
何と言っても、彼女は二度の死を潜り抜けてきた女なのだ。生死の境を幾度も踏み越えてきた彼女の、命の重みに対する捉え方、危機を見据える視線が、常人のそれを絶した強靭さと冷徹さを帯びているのは当然であった。
だが彼女は神などではなく、まして無敵であるはずもなかった。
二世を生きたその魂の底土は、今なお薄氷のように脆い陶器のままなのだ。
彼女は何よりも孤独を恐れていた。全幅の警戒を解き、全身全霊で誰かを愛し抜いたその果てに、唐突に広大な屋敷へと置き去りにされた時——
世界から遺棄されたその巨大な荒涼は、実体を持った棘となって彼女の神経を執拗に貫き、自らを傷つけて麻痺させずにはいられないほどの苦痛を与えるのだ。
そして今、彼女はその真心を、等しく眩く、等しく重い二人の女へと分かち与えていた。
深く愛したがゆえに置き去りにされる苦痛は、雨糸の綿々と続くこの無人の清晨にあって、残酷なまでに公平に……二倍へと膨れ上がっていた。
空の光はどこまでも重く沈み、水気を吸って膨らんだ灰白の宣紙のように、睫毛の上へと重苦しく圧し掛かっていた。
その雨は極めて細く、極めて密に、鉛色の天蓋から音もなく零れ落ちていた。激しい豪雨の気配はないが、石を穿つような陰惨さを孕み、北境に聳えるこの公爵邸を骨の髄まで冷たい湿気へと沈め尽くしていた。
青黒い石の目地からはじわりと湿り気が滲み出し、白石の階段に散った花弁は無残に踏み躙られて泥濘と化し、周囲はただ雨糸が軒先を撫でるさらさらという擦れ音だけが支配していた——それは音ではない。
天地のすべてが、少しずつ空洞へと削り取られていく微かな響きだった。
ルシアは回廊の陰にただ独り立ち尽くし、素色の長袍の裾から冷気が寸刻を惜しんで這い上がってくるのを感じていた。
彼女は誰よりも弁えていた。自分がどれほど深く、狂おしいまでにあの二人の女を愛しているかを。
カリーナのあの鉄血の甲冑と冷酷な権力の底に隠された、不器用な優しさを愛していた。万余の軍勢を統べ、北境の風雪の鋭利さと血腥さを常に纏いながら、深夜にだけはすべての防壁を解き、あの白くしなやかな手で恐る恐る己の腰を抱き寄せ、熱く疲れ果てた心臓のすべてを差し出してくるあの女を。
クレアのあの手の施しようのない溺愛を愛していた。商海を縦横無尽に泳ぎ、皇室すら眼中に置かぬあの令嬢が、己の前に金山のすべてを投げ出し、重弁の冷薔薇の芳香を帯びた温かな肉体でルシアを押し潰さんばかりに抱きしめ、泣き声に近い声音でその体温を確かめてくるあの傲慢を。
それはあまりに熾烈で、あまりに眩い二つの愛だった。冷徹で残酷な異世界にあって、その二つの愛こそが、泥濘と荒野から彼女を引き戻してくれた唯一の命綱であり、二度死に、とっくに傷だらけになっていたその残魂に、生きるための熱を貪るように吸わせてくれたものだった。
だが、彼女たちはあまりに強大すぎ、あまりに多くを背負いすぎていた。
彼女たちは盤上の指し手であり、この巨大な帝国が運命を軋ませる時に欠かすことのできぬ巨輪そのものだった。
ゆえに狂乱が傾き、嵐が吹き荒れようとする時、彼女たちは己の重鎧と責任を纏い、振り返ることもなくあの底知れぬ暗夜へと踏み込んでいくのだ。
彼女たちはあまりに当然のように、あまりに迷いなく去り、残された約束すら息が詰まるほどに重い——だがその果てにルシアへと残されるのは、いつだって朝靄の微光の中に冷え切った寝具と、人影のない深邸の回廊だけであった。
雨は依然として降り続き、逃げ場のない網のように細かく、ルシアの細い身体を幾重にも絞め上げていた。
愛が深ければ深いほど、静寂が降り立った時の痛みは徹底的なものとなる。
大義を解さぬわけではない。理非を弁えぬわけでもない。だがその骨の髄において、彼女は二世を生きてもなお己の置き所を見出せぬ、ただの懦弱な女に過ぎなかったのだ。
彼女は孤独を極限まで恐れていた。骨の髄が軋み、神経が痙攣するほどに恐れていた。かつてカリーナとクレアが彼女を忘れ去ったあの夜、強い酒を煽り続け、自壊を望んだあの絶望の刻印が、この降り頻る冷雨によって無慈悲にも暴き立てられていく。
彼女は己のひとつの心を一片の留保もなく二つに裂き、片方を雪へ、片方を薔薇へと差し出した。
だが暴風雨が真に訪れたこの清晨、その尽きることのない愛は身を温める薪となるどころか、二倍の空洞と荒涼へと姿を変え、二振りの鈍刀となって、音のない灰色の天地の中で、とっくに傷だらけとなった彼女の心を寸刻みにしていくのだ。
胸の奥で眠っていた古傷と虚無感が激しく収縮し、呼吸のたびに血泡が混じるような痛みが走った。ルシアは蒼白く細い指先を伸ばし、分厚い羊毛の肩掛けの上から己の胸元を強く圧し折らんばかりに押さえつけた。力んだ指節が青白く浮き上がっている。
これほどまでに巨大で、これほどまでに果てしない孤寂の前にあって、彼女は叫び声を上げることすら叶わなかった。
誰一人として、彼女を振り返りはしない。彼女はこの細雨が煙る冷風の中に立ち尽くし、「置き去りにされた」という名の骨を刺す激痛が、己の脆く崩れかけた肉身を、少しずつ、完全に粉々に擂り潰していくのを、ただ受け止めることしかできなかった。




