最後の花火が消え去った後、教皇は馬車の中で囁く
初日の建国祭がついに幕を閉じた。
夜は深く沈み、昼の光と半ば過ぎた夜の熱気に沸き立っていた帝都中央大通りは、狂乱が去った後に薄い冷え冷えとした静寂を滲ませていた。
石畳の上には踏みにじられた色紙、燃え尽きた魔導花火の燃え殻、そして固まりかけたエールの泡が散乱している。
公爵家と侯爵家の精鋭護衛たちによる厳重な警護の中、ルシアは足掛けに足を乗せ、両家の複雑な紋章が刻まれた豪奢な馬車へと静かに乗り込んだ。
遥か高みにおいて、最後の巨大な魔導花火が掠れた残響を引きずりながら轟然と咲き誇り、夜空を埋める暗い流金となって帝都の静まり返った屋根瓦の間へと音もなく消え去っていく。
ルシアはとうとう、心から愛するあの二人を待ちわびたまま、その姿を見届けることはできなかった。
未練が微塵もないと言えば、それは紛れもない強がりというものだろう。胸の奥の柔らかな片隅に、微かな冷気を孕んだ名残惜しさと寂寥感がどうしても疼いてしまう。
だが、ルシアは決して理不尽に駄々をこねるような女ではなかった。公爵と商会の後継者たる二人が、帝国の屋台骨を揺るがすこの大祭において、どれほど重苦しい政治の駆け引きを背負わされているか、誰よりも理解していたからだ。
二人の妻の身動きの取れぬ立場を呑み込み、ただ花火が消えゆく最後の瞬間まで、隣に立つ青い衣の薄幸な少女と長く見つめ合っていた。
やがて、焦燥の色を滲ませ、疲労の色濃い顔をしたデイジーが引き潮のような人混みをかき分けて駆け寄り、そのあまりに冷たすぎる小さな手をルシアの掌から引き取った時、ルシアはようやく視線を引いたのだった。
すれ違いの一瞬、ルシアはデイジーのミアと寸分違わぬ緑の瞳の奥に、全く異なる光を見た——
それは純粋な姉妹の情愛などではなく、幾年月もの時間をかけて煮詰められ、暗く濁りきった負い目と償いの感情だった。
けれど突き詰めて考えれば、デイジーはミアに何を借りがあるというのだろう。実家の綻びを繕うため、生き長らえるための見せかけの体面を守るため、デイジーは己を交渉の駒として妹の代わりに嫁ぎ、愛のない歪な婚姻を営むことすら強いられたのだ。
彼女の差し出した犠牲はとうに常人の耐えうる限度を超えており、部外者であるルシアには、この姉妹の間に横たわる自己破滅に等しい共生関係をどうしても完全に呑み下すことができなかった。
それはまるで、他人の命を繋ぎ止めるためだけに自らの皮膚と肉を喜んで剥ぎ取り、相手が幻の温もりに浸っていられるのなら己の人生の重みすら無造作に投げ棄てるようなものだ。
そんな背筋の凍るほど凄まじい「大義」など、ルシアは一生涯持ち合わせることはないだろうと自認していた。
夜風が半開きの車窓から静かに吹き込み、ルシアの額にかかる黒髪の前髪を揺らした。彫刻の施された木扉が閉じられようとしたその瞬間、幾重にも重なる護衛の肩越しに、遠くの街灯の陰からじっと己を見つめる一対の蒼藍の瞳を捉えた。
帝国の皇太子、クロード。
彼女がとうに二人の女を正妻に迎えた既婚者であると知りながら、暗がりの中から執拗に焦がれるような、熱く頑なな眼差しを向けてくる男。
クロードの胸の内に、純真とすら呼べる理想の火が燃え盛っていることを、ルシアはよく知っていた。彼はこの腐敗した帝国の骨組みを根本から変え、鉄血と慈悲によって貧困と階級の差を白日の下に消し去りたいと願っているのだ。
だが、そんなものは決して辿り着けぬ絵空事に過ぎない。たとえ彼が将来あの至高の皇位に就き、天下を統べる絶大な権力を握ろうとも、結果は同じ徒労に終わるだけだ。
前世である地球の現代社会であろうと、神々と魔力によって織り成されたこの異世界であろうと、人間の本質に巣食う強欲と残酷さ、そして利己的な本能は、爪の先ほども変わりはしないのだから。
いつの時代も、人間の本質は変わらない。
それはルシア自身とて例外ではなかった。
かつて「村雨」と呼ばれたあの拠り所のない孤独な魂であろうと、帝都に名を馳せる希代の錬金術師となった今であろうと、危急の際には真っ先に荷物をまとめて逃げ出そうとする保身の性根は、一度たりとも完治したことなどない。
そしてその臆病さと同時に、誰よりも偏屈で頑固なへそ曲がりの気質が同居している。二度死に、世界の理を跨いで転生しようとも、己という人間は救いようのないほどにあの頃のままなのだ。
「ふぅ……」
ルシアは手を伸ばし、身に纏った防風のフード付き大衣の襟元をさらにきつく引き寄せた。
内側に着込んだ和服そのものも上質な仕立てで十分に温もりを保っていたが、クレアが別れ際に従者へ無理やりに命じて羽織らせたこの大衣には、あの商会の後継者が愛用する重弁の薔薇の冷やかな残り香が今も色濃く染み付いていた。
微かに甘く、傲慢で、けれど抗いがたい安らぎを孕んだ香り。
ルシアは顎を襟元へと深く埋め、鼻先をくすぐる馴染みの香りを吸い込みながら、ぽっかりと空いていた心の隙間に、言いようのない陶酔の熱がじわりと広がるのを止められなかった。
熱烈な愛に囚われた凡人とは、誰もがこうなってしまうものなのだろう。
ほんの一時間余り離れていただけで、ただ一度の短い花火を共に見られなかっただけだというのに、夜風に吹かれて思慕が募るにつれ、その空白はまるで百年もの歳月が流れたかのように長く感じられてしまうのだ。
ルシアが衣の裾を持ち上げ、彫刻の施された足掛けへと足をかけようとしたまさにその時、背後の薄暗がりから、軽薄な笑みを帯びた聞き覚えのある呼び声が不意に投げかけられた。
「おや、これは珍しい……まさか、お一人とはね。ルシアさん」
その声はどこまでも滑らかで温かみに満ちていたが、耳にした瞬間、ルシアの背筋は微かに強張った。
姿を現したのは、教皇オースだった。
あの超越者を気取りながら腹に無数の謀略を巡らせる危険な男。
かつて悪辣な罠を張り巡らせ、世界の法則を動かしてカリーナとクレアの記憶から己の存在を根こそぎ消し去った張本人であり、守護者の座に据えた後も暗躍して追い詰め、己の拠り所である忘却の石板を奪い取ろうとした元凶に他ならなかった。
幾多の巡り合わせを経て、表向きの情勢がどうにか平穏を取り戻した今でさえ、彼に対する警戒と嫌悪の念が薄れたことなど一度もない。
彼女の人生の流転と底知れぬ恐怖の半分以上は、この男によってもたらされたものなのだ。本音を言えば、爪の垢ほども関わり合いになりたくない相手だった。
ルシアは振り返り、フードの影から墨緑の瞳で冷ややかに彼を射抜いた。その胸中では瞬時に冷徹な計算が巡っていた——
狩猟祭の動乱は収束し、神殿が己に及ぼす影響もとうに峠を越えたはずだ。すなわち、二人の妻が不在のこの間隙を縫って、底の知れぬこの男が今ここで牙を剥き、再び力ずくで石板を強奪しに来たとしても何ら不思議ではない。
だがオースは、彼女の瞳の奥に張り詰めた警戒心を一目で見抜いたようだった。あるいは、因果と未来を垣間見るというあの双眸が、この一見して無力な女を敵に回すことが破滅的な報復を招くだけだと、疾うに警告を下していたのかもしれない。
彼はその口元から戯れの笑みを極めて自然に消し去り、意外なほどに穏やかな声で、ルシアにとって予想外の言葉を口にした。
「そんな、刺客でも見るような目を向けるのはやめていただきたいな。私は今や……間違いなく貴女の最も忠実な味方ですよ。何せ、自分の命が惜しく、夜更けに狂乱したカリーナに八つ裂きにされたくないのであれば、私は貴女を守り、手を貸し続けるより他にないのですから」
オースはわざとらしく溜め息を吐くと、一瞬で柄に手をかけた公爵家の護衛たちを一瞥すらすることなく、衣の裾を翻した。
その身のこなしは重さを感じさせぬ影のように軽やかで、あろうことかルシアよりも早く、豪奢な貴族の馬車の中へと滑り込んでしまった。
柔らかな天鵝絨の座席に腰を下ろした彼は、まるで己の馬車であるかのように寛ぎ、先ほど祭り市で買ったばかりの糖蜜がけのナッツの包みを取り出すと、手慣れた仕草で殻を割って口へと放り込んだ。
そこには至高の教皇が備えるべき厳かな威厳など、欠片も見受けられなかった。
「……今度は何の企みなの?」
ルシアはすぐには乗り込まなかった。足掛けの下で立ち止まり、意図的に二歩の安全な距離を保ったまま、胸に抱いていた機械梟の刻刻を車内の入り口へと先に送り込んだ。
丸みを帯びた真鍮の機体が車門の縁にしっかりと留まり、その硝子の瞳から警戒を帯びた暗金の光を放つ。内部の精密な歯車を微かに噛み合わせながら、冷徹な監視の目を図々しい男へと真っ向から固定した。
「そう警戒しないでくださいよ、小さな錬金術師さん」
オースはナッツを咀嚼し、指先に付いた甘い欠片を払うと、宥めるような口調で言った。
「貴女の身体にあるあの石板の法則は、今やカリーナの神魂とクレアの契約に完全に噛み合っている。仮に私が魔が差して手を出そうものなら、貴女の肌に擦り傷一つ、爪先ほどの傷がついただけで、あの恐ろしい二人の奥方様方はそれを察知し、帝都を更地にしてでも私を八つ裂きにしに来るでしょうからね」
その言葉に、ルシアは微かに眉を動かした。張り詰めていた警戒の糸が、ほんの少しだけ弛緩する。
それは彼女自身も確かに感じ取っていることだった——今の忘却の石板は、もはや単なる所持物などではない。己の魂の深奥に根を張り、胸の中で脈打つ第二の心臓のように、不可分な血肉の臓器と化しているのだ。
万が一、誰かが無理やりに石板を引き剥がそうとすれば、それは生きた人間から内臓を抉り出すに等しい劇痛と因果の崩壊を引き起こす。内城にいるカリーナとクレアが、その異変に瞬時に気づかないはずがない。
その代償は、確かにオースとて支払えるものではなかった。
「石板を奪いに来たわけじゃないなら、わざわざこの機を狙って接触してきた理由は何かしら?」
ルシアは冷ややかな声で問い詰めた。
「まさか、天下の教皇猊下が退屈しのぎに、私とお喋りでもしに来たとでも言うつもり?」
「お見事」
オースは口元を微かに吊り上げ、その瞳に戯れめいた笑みを浮かべた。
「本当に、貴女と少しばかり言葉を交わしたくてやって来たのですよ」
そう言いながら、彼はすんなりと伸びた指先を、馬車の片面魔導硝子の窓の斜め後ろへと無造作に向けた。
ルシアはその指先を追って視線を走らせた。
そこには、中央大通りの薄暗い列柱の陰に、華美な礼服を纏った皇太子クロードが静かに佇んでいた。傍らには重々しい気配を放つ近衛騎士を従え、凍てついた泉のような蒼藍の双眸で、残された祭りの微光を射抜くようにこの馬車を見つめていた。
ルシアの胸に微かな波紋が広がり、オースのこの無頼な振る舞いの真意が、瞬時に一本の線となって繋がった。
クロードの己に対する執着と企図は、もはや隠しようもなくなっていた。そして今夜、権勢を誇る公爵夫人と侯爵令嬢の二人は揃って身辺におらず、公爵家が残した数名の護衛だけでは、帝国の後継者の権力と強引な手腕を押し留めることなど到底不可能だった。
皇太子の目から見れば、平民上がりの錬金術師など、いかに才能が突出していようとも手中に収めることなど容易い。
もしこの機に乗じて皇室の勅令を盾にルシアを強引に連れ去ってしまえば、事後にカリーナたちが激昂しようとも、既成事実を前に即座に関係を破綻させることは難しいはずだった。
しかし、オースがこの馬車に乗り込んだ。
教皇の姿がルシアの隣にあるだけで、この場は「皇室による臣下の私的な召喚」から、「皇権と神権の正面衝突」という国家規模の構図へと跳ね上がる。
傲岸なクロードとて、神威の権能を握る得体の知れないこの男を前にしては、軽々しく一線を越えることなどできるはずがなかった。
オースは己の存在そのものを盾にして、目前に迫っていた厄介事を払いのけたのだ。
車内で平然とナッツを齧り続ける白袍の男を見つめ、ルシアは冷たい夜風を胸いっぱいに吸い込むと、扉に添えていた指先に力を込め、静かに馬車の中へと足を踏み入れた。
「もしカリーナが、あなたが私と同じ馬車の中にいると知ったら……あの狂気の女が嫉妬に狂って、あなたごと切り刻むとは思わなかったの?」
ルシアは防風の外套の襟元をさらに深く引き上げ、柔らかな天鵝絨のシートへと身を沈めながら、気怠げに皮肉を漏らした。
それは半分冗談で、半分は本気だった。あの独占欲の塊のような二人の妻と長く過ごしてきた身として、この手の修羅場など見慣れたものだったが、オースという男を前にしては、神経の根底にある警戒を完全に解くことなど到底できなかった。
この男はあまりに底が知れず、打つ手が苛烈すぎる。人の命も因果の巡りも、盤上の駒のように平然と弄ぶその佇まいがあまりに自然すぎて、彼が次に何を仕掛けてくるのか、その底線がまるで読めないのだ——狩猟祭の暗闘の中で、朝廷の無数の者たちが彼を骨の髄まで呪い、命を狙っていたのも無理からぬことだった。
「一時的には激怒するかもしれませんがね、後になれば今夜の私の『気の利かせよう』に、きっと感謝することになりますよ」
オースは再び殻を剥いたナッツを一粒口に放り込み、春風のように穏やかで、しかし寸分の隙もなく打算に満ちた笑みを口元に浮かべた。
「カリーナは根のところでは極めて聡明で道理の通じる女だ。何に刃を向け、何を後回しにすべきかを弁えている。そして私は……今夜こうして皇太子を退けたという小さな恩を売り、貴女のあの絶大な権勢を誇る二人の奥方様から、ほんの些細な支援を引き出したいだけに過ぎないのですよ」
彼は己の企図を包み隠そうともせず、白日の下に晒すように目的を堂々と口にした。
ルシアは僅かに眉を跳ね上げ、この老獪な狐の尻尾をようやく掴み取った。
「また何かの厄介事に巻き込まれたの?」
「ルシアさん、『また』は余計ですよ——私の人生など、端から巨大な厄介事の中に浸かっているようなものですから」
審問するようなルシアの墨緑の瞳を受け流しながら、帝国の頂に君臨する宗教の至高指導者は、ただ無力そうに両手を広げてみせた。その仕草には、開き直ったような自嘲の色すら滲んでいる。
ルシアは冷めた眼差しでそれを見つめていたが、彼の言葉が紛れもない事実であることは認めざるを得なかった。
古き神権を握り、皇族すら裁いて死に至らしめる絶対の特権を持つ教皇など、皇室や名門貴族の目には喉元に刺さった最も目障りな骨に他ならない。
狩猟祭の平息など、表向きに抜き身の白刃を鞘に収めたに過ぎず、水面下で蠢く暗殺と呪詛、そして権謀術数は、この盛大な建国祭の陰でさらに激しさを増す一方なのだ。彼があの玉座に座り続ける限り、命を狙われる宿命から真に逃れることなど永遠に叶わない。
「ですがね、私が今夜わざわざ足を運んだのは、単に風を避けるためだけではありませんよ」
オースは口元の軽薄さを消し去り、僅かに身を乗り出した。温和に見えて、その実、神性特有の冷徹さを湛えた双眸がルシアを真っ向から射抜き、極限まで抑えられた声で、けれど一言一言に重みを込めて告げた。
「私はこの両の目で、これから訪れる未来を見たのです。ルシアさん——」
彼は言葉を区切り、外套に包まれたルシアの華奢な肩へと視線を落とした。
「遠からぬ未来、貴女は極めて凶悪で重篤な奇病に冒されることになる。あまりにも永い昏睡に沈み、生死の狭間を彷徨い続けることになるでしょう……ですがご安心を。貴女は最後には奇跡的に目を覚まし、全ては再び平穏な軌道へと戻ります。ただ……」
オースの瞳の深淵に不可思議な光が揺らめき、まるで定められた天災を淡々と宣告するかのような口調で続けた。
「貴女が倒れるのと時を同じくして、この建国祭の狂乱の頂点にある帝都は、未曾有の恐るべき疫病の蔓延に呑み込まれることになる。底辺の民が塗炭の苦しみに喘ぎ、街全体が恐慌と大混乱の泥沼に沈む時……暗がりに潜む者たちにとって、それは私を暗殺し、あるいはこの帝国そのものを覆すための、最良の黄金の好機となるわけです」
彼は未来を視通すという禁忌の情報を、交渉の切り札としてルシアの前に惜しげもなく差し出した。
ルシアの息が、微かに止まった。
彼女はその情報の重みを、痛いほどに理解していた。類稀なる錬金術師を襲う致命の重病の予知、そして帝都全土を巻き込む厄災規模の疫病に対する事前の警告——
この二つの情報が投げ込まれれば、カリーナとクレアが普段どれほどオースを八つ裂きにしたいと願っていようとも、ルシアの命と帝国の命運という絶対の天秤の前では、唇を噛み締めながら教皇と攻守同盟を結ばざるを得ない。
思考が電光石火の速さで巡り、ルシアの胸に澱んでいた幾重もの疑問が、冷水を浴びせられたかのように瞬時に一つの絵へと結実していった。
なるほど、そういうことか。
カリーナの己に対する偏執的なまでの執着を思えば、クレアのいつでも己を己の翼の下に囲い込もうとする強引な性分を思えば、宮廷の祭典行事と政務がとうに一段落していたはずの今夜、花火が尽きる最後の瞬間まで姿を見せなかったことなどあり得ないのだ。
オースはこの馬車に乗り込むより遥か前に、神殿の秘匿魔導器を通じて、この過酷な未来の凶報を二人の妻の元へと直接届けていたに違いなかった。
二人は決して花火を見限ったわけでも、社交に現を抜かして自分を置き去りにしたわけでもなかった。
突如もたらされた激震と恐怖の中、近衛の軍権を握る白髪の女公爵も、大陸全土に張り巡らされた情報網と莫大な富を統べる商会の後継者も、今はその鋭利な切っ先とすべての手駒を反転させ、この歌舞音曲に沸く帝都の夜の底で、厄災が爆発する前に未知の疫病の源流を突き止めようと、狂ったように駆け回っているに違いない。
二人は暗闇の中で、己のために命を削って戦っているのだ。
そして自分は、この温かな馬車の座席に深く沈み、外套の襟元から微かに漂う冷やかな薔薇の残り香に包まれているのだった。




