逃避ばかりの私が、誰かのなりたい自分だった件
中央広場のど真ん中、頑丈な丸太と防水帆布で組み上げられた仮設の高舞台の前は、すでに黒山の人だかりで身動きすら取れないほどに埋め尽くされていた。
舞台の両脇には巨大な魔導蓄光灯が掲げられ、華麗な衣装を纏った役者たちの姿を鮮明に照らし出している。それは帝都が百年の大祭を迎えるたびに必ず演じられる不朽の名作劇——初代皇帝が騎士団を率いて血路を切り拓き、領土を広げた古き英雄叙事詩であった。
甲高く激越な詠唱の調べが、舞台裏の金管楽器の轟きを伴って肌寒い夜空へと響き渡り、舞台を取り囲む幾千もの平民や異邦の旅人たちを熱狂させ、地鳴りのような拍手喝采が幾度となく湧き起こっていた。
そんな熱気の渦から少し離れ、後方に一段高く設えられた露天の客席で、ルシアは一人、ゆったりとしたクッション付きの長椅子を贅沢に独占していた。
本来なら左右にぴったりと張り付き、片時も離れようとしない二人の妻は、あいにく今は側にいない。
先ほど祝祭の鐘が鳴り響いて間もなく、汗だくになった北境親衛隊の兵が人波を強引に掻き分けて駆け込んできたのだ。
礼儀を弁える余裕すらない様子で、カリーナの耳元へと切迫した報告を囁きかけた。ほぼ時を同じくして、クレアの専属侍女も音もなく現れ、沈痛な面持ちで商会の最高機密を示す封蝋が施された通信玉を手渡した。
北境防衛線の一角を成す要塞で異常な魔力反応が観測されたこと、そして帝都内にある商会系列の物流ハブが、大祭によって押し寄せた膨大な物資の影響で深刻な権限衝突を起こしたのだという。
たとえ帝国法で半月もの公的な休暇が定められていようと、北境の生殺与奪を握る女大公と、帝国の経済的動脈を統括する実質的な後継者にとって、「休暇」の二文字など名ばかりの飾り物に過ぎない。
真なる権力の頂に座す者には、絶え間ない責務と謀略、そして突発的な暗流が常に付きまとう。
立ち去る間際、カリーナの艶やかな美貌には誰の目にも明らかな殺気と不機嫌さが滲み出ていた。ルシアが宥めすかして押し出さなければ、あの白髪紅瞳の女公爵はその場で剣を抜き、凶報を届けた親衛を叩き出していたに違いない。
一方のクレアは、優しくも諦め顔でルシアの防寒マントのフードを整え、絶対に一人で歩き回らず、自分たちが戻るまで大人しく座っているようにと念を押していった。
足早に去っていく二人の背中を見送りながら、ルシアの胸に去来したのは、過保護に縛られる煩わしさよりも、むしろ淡いいたわりと感嘆の念だった。
最も高い玉座に座す者は、一息吐くことすら代償を支払わねばならないのだ。
それに比べれば、今の己の境遇はあまりに贅沢が過ぎるというものだ。
ルシアは両手で、すぐ側の屋台で買い求めた温かいミルクティーの陶器杯を包み込んでいた。杯の外側には小型の低温保温符文が貼り付けられており、掌に適度な心地よい熱を伝えてくる。
そっとひとくち口に含むと、濃厚でまろやかな乳の甘みと、キャラメルと紅茶の微かな渋みが舌先でほどけ、食道を通って胃の奥へとじんわりと温もりを広げていく。
その心地よさに、ルシアは日向ぼっこを満喫する猫のように、墨緑の瞳を細めた。
膝の上に乗せた刻刻が、微かにキチキチと歯車の噛み合う音を立てた。暗金色の硝子玉が夜気の中で静かに動き、ひんやりとした金属の爪でルシアのスカートの生地をしっかりと掴み、主の身辺に近づく雑踏の気配を警戒している。
舞台の上では、金色の模造鎧を纏った騎士が高らかに長剣を掲げ、帝国を守護する誓いを虚空へと叫んでいた。客席の民衆も興奮に顔を上気させ、熱狂的に腕を振り上げている。
そんな熱狂の奔流の只中に身を置きながら、ルシアはただ暗がりの中に身を潜め、甘く温かい飲み物をゆっくりと口に運んでいた。
生死の境を彷徨う極限の演算も、神殿が放つ骨身に沁みる威圧もない。ましてや、あの二人の妻による重苦しく腰にくる「甘美なる制裁」も、今は一時的に免れている。
この沸き立つ古の帝都において、束の間の浮世に得たこの静けさは、奇妙なほど現実的で、穏やかな安らぎに満ちていた。
「ルシアお姉様……お一人なのですか?」
舞台の長々しく熱っぽい台詞回しに瞼を重くし、こくりこくりと船を漕ぎかけていたその時、すぐ背後から極めて柔らかな声が降ってきた。
ルシアが振り返ると、墨緑の瞳に微かな驚きが浮かんだ。長椅子の斜め後ろに、慎ましやかに立ち尽くすミアの姿があったのだ。
両手を前で揃えて控えめに重ね、栗色の髪が夜風にふわりと揺れ、その白皙の横顔の儚げな美しさを際立たせていた。
この病弱な娘が、まさか一人で足を運んでくるとは思いもよらなかった。厳格そのもののビクターも、物腰柔らかなデイジーの姿も見当たらない。
「ええ。家の二人は公務に呼び出されて大忙しだからね」
ルシアは取り繕うこともなく、長椅子の奥へと体をずらし、空いた隣の席をぽんぽんと軽く叩いて座るよう促した。
彼女にとって、二人の妻に手綱を握られ、こうした大祭の日に一人置き去りにされることなど、恥じ入るような出来事ですらない。とっくに笑い話のような日常の一部と化していた。
ミアは淡い青の裾を控えめに引き、言われた通りにルシアの隣へと行儀よく腰を下ろした。その澄み渡った緑の瞳は瞬きもせず、隣に座る小柄な黒髪の少女をじっと見つめ、その瞳の奥には隠しようもない熱い憧憬が揺らめいていた。
「私、ルシアお姉様のことが本当に羨ましいのです……美しくて、その上とてもお強くて。ご自身の身体が決して頑強とは言えず、それどころか……少し儚げでいらっしゃるのに、常人を遥かに超えた強靭さをお持ちで。それを思うたび、憧れずにはいられないのです」
あまりに真っ直ぐで敬虔な賛辞を受け、ルシアは困惑したように目を瞬かせ、温かいミルクティーを抱えたまま苦笑交じりに首を横に振った。
彼女の価値観からすれば、純粋に「優秀」という言葉を冠するならば、帝立学院の教授として君臨する本物の怪物たちのほうが、怠けることばかり考えている自分のような半端な錬金術師などより遥かにその名に値するはずだった。
ビクターは言うに及ばず。無数の魔導書と厳格な規律、病的なまでの精密さによって組み上げられた魔術の巨塔であり、基礎理論において彼の右に出る者は帝国中を探しても存在しない。そしてもう一人、さらに人外と呼ぶべき存在がヴァレリーだった。
ワインレッドの長髪を揺らし、黄金の瞳を輝かせるあの女は、文字通り神に愛された天賦の才覚の持ち主だった。
この世に彼女が習得できぬ術式など存在しないに等しい——どれほど難解で複雑を極める高位法陣であっても、一度横目で流し見ただけで七、八割の神髄を即座に模倣し、三日も与えれば完全に己の血肉へと昇華してしまう。
何より恐ろしいのは、ヴァレリーが己一人で完結する天才に留まらない点だ。極めて抽象的で難解な魔力の流動を、もっとも直感的で、もっとも凡人にも理解しやすい言葉へと噛み砕いて学生たちに叩き込む指導力を持っていた。
周囲の人間や教え子たちを強引に引き連れて高みへと押し上げる、それこそが真の意味で手が届かない天才というものだ。ルシアの本音としては、崇拝するなら自分などではなく、あの二人にこそ憧れを向けるべきだと思っていた。
「私自身は、自分のことを大層な人間だなんて思っちゃいないわよ」
ルシアは視線を落とし、温く甘いミルクティーを一口啜り、淡々とした自嘲混じりの口調で言った。
「現に、家の中で二人の妻が焼く嫉妬ひとつ上手くあしらえなくて、毎日家の中をひっくり返して騒ぎ立ててる始末なんだから。そんな日常の些細なことすら解決できない人間が、優秀だなんて笑わせるわ」
それは見せかけの謙遜などではなく、二度の死線を潜り抜け、異なる世界を渡り歩いてきたルシアが、己という存在を冷徹に見つめ直した結論だった。
彼女は己の本質を誰よりも理解している——前世である地球の物理法則、機械工学の公差概念、そして材料力学の知識を不正に持ち込んだだけのインチキ者に過ぎない。
彼女が見せつけてきた強さの大半は、致命的なまでの「知識の差」と「認識のズレ」を突いた結果に過ぎなかった。
その知識という外付けの装甲を剥ぎ取ってしまえば、肉体は脆弱を極め、魔力総量も哀れなほどに乏しい。一歩踏み外せばそれだけで砕け散る脆い存在なのだ。
だが最近では、そうした欠陥だらけの己を受け入れられるようにもなっていた。痛いのは嫌だし、すぐに疲れるし、カリーナとクレアの強引な愛の前に為す術もなく組み伏せられる。そんな情けない自分を認めたところで、今ここに立っている事実が揺らぐわけではない。
「いいえ、そんなことはありません」
だが、隣に座るミアは強く首を横に振った。その声は依然として鈴の音のように可憐であったが、緑の瞳にはかつてないほどの確固たる意志の光が宿っていた。身を乗り出し、膝の上の青い布地を両手できつく握りしめ、その声音を微かに震わせる。
「あの狩猟祭で、フェニックスを打ち倒す活路を切り拓き、その後におびただしい魔獣が巣を抜け出して天地すら色を失ったあの時……残骸の廃墟の上に毅然と立ち、皆の胸を打つ演説を放たれたのは、他ならぬルシアお姉様でした。絶望的な死局を前にして、恐怖に呑まれ闘志を失いかけていた三大帝国の戦士たちを、貴女は言葉ひとつで再び束ね上げられたのです……」
ミアの目元が微かに潤み、白磁のような頬に、興奮のあまり病的な紅潮が差した。それは、魂の最奥から湧き上がる純粋な共鳴そのものだった。
「あの時、貴女を見上げて思いました……この世界に、あれほど偉大で、あれほど眩しい背中が他にあるものかと」
ミアの熱を帯びた言葉に触れ、ルシアの脳裏にあの日の絶嶺の光景がおぼろげに蘇った。
観衆にとっては死線を覆した英雄の武勇伝なのだろうが、当の本人にとっては追い詰められた末の泥縄の茶番に過ぎなかった。
三大帝国の軍勢をひとつに束ね上げたあの勇ましい演説は、決して己の内に秘めた大志から発したものではない——前世の地球で目にした、とある歴史の断片を拝借しただけなのだ。
ある土地が独立を宣言せんとする暗黒の淵において、突如現れた正体不明の演説家が、劇的で宿命めいた言葉を紡いで絶望の夜を切り裂いたという記録。
ルシア自身、指導者たる器量も資質も持ち合わせていないことは自分が一番よく知っている。命のやり取りの中で、あの状況に最も都合の良さそうな「英雄」という役柄を、持ち前のインチキ知識で不恰好に演じきっただけのこと。
唯一の違いがあるとするなら、運が味方し、その虚勢の効き目が予想以上に跳ね上がったという一点に尽きる。
「でも、私の根っこには何の志もないのよ」
ルシアは甘い湯気を白く吐き出し、やり切れない苦笑を漏らした。
「かつてヴァレリーに、いつか必ず遥かな故郷へ送り返してやると約束したわ。でも現実を見て頂戴……その約束だって、まだほんの一歩進んだかどうかのところよ。そう思うだけで、自分がどれほど不甲斐なく、情けない人間なのか思い知らされるの」
ヴァレリーのために古の石板を揃えるという約束を思い出すたび、ルシアは言い知れぬ頭痛と倦怠感に苛まれるのだ。
今手元にある一枚の石板にしても、狩猟祭の混乱に乗じたただの僥倖に過ぎない。大陸全土を見渡せば、残る六枚の石板は未だ底知れぬ未知の帳の奥に眠っている。
その果てしない距離を計算するだけで、部屋の隅に丸くなっていたい怠け猫のような彼女の気力はあっけなく底をついてしまう。
ましてや、破壊神殿の堕天使が放ったあの息の詰まるような威圧感をじかに味わった後では、尚のこと痛感していた——神殿の深淵に巣食い、神々の残滓を貪る守護者たちは、耳触りの良い詭弁や付け焼き刃の錬金罠でどうにかできる相手ではない。
その道程はあまりに険しく、そして彼女自身はどこまでも日和見な逃亡者に過ぎないのだから。
「それでも……私がルシアお姉様に憧れることの、何の妨げにもなりません」
ミアはふわりと目元を緩め、細やかな栗色の前髪を夜風に揺らした。その反論には棘など欠片もなく、春水のように穏やかで柔らかな包容力をもって、ルシアの強固な心の防壁をあっさりとすり抜けていく。
ルシアは微かに息を呑み、墨緑の瞳をその少女の瞳へと合わせ、思わず我を忘れて見入ってしまった。
ミアの瞳は、息を呑むほどに美しかった。
姉のデイジーと瓜二つの栗色の髪と澄んだ翠色の瞳を持ちながら、纏う空気は似ても似つかない。デイジーの雰囲気は陽だまりの床板のように温厚で、確かな生活の手触りを感じさせるのに対し、ミアの眉間には、どこか拭い去れぬ繊細で文系じみた憂いが漂っていた。
それは病床に長年縛り付けられ、色褪せた古書を通じてしか外界を窺い知ることのできなかった者だけが醸し出す、傷つきやすい多感さと、世俗から切り離された儚さそのものだった。
ルシアは居心地の悪さに長い睫毛を伏せ、誤魔化すようにカップの縁に唇を落とした。
正直なところ、こうした前触れのない純粋な崇拝や賛美には慣れておらず、本能的に後ずさりしたくなってしまうのだ。
ガルクのような単細胞の阿呆なら、まだ御しやすい——あの少年の頭の中には世界樹への登攀と果し合いしかなく、焼きたてのビスケットのように単純明快で、いくらでも手の平の上で転がせる。
だが、目の前で静かに微笑むこの青い服の病弱な娘は、ルシアにとって底の知れない深みと純粋さを宿していた。
その緑の瞳は曇りのない鏡のように澄み渡り、ルシアが張り巡らせた虚勢も自嘲もすべて見透かして、魂の奥底に横たわる疲弊を直接覗き込んでいるかのようだった。
「……お見通しです。ルシアお姉様のお身体が、決して健康ではないということも。そしてその根底では、いつだって逃げ出したいと願っていらっしゃることも」
ミアは不意に言葉の矛先を変えた。声の調子は相変わらず水のように静かであったが、紡ぎ出された一節は、あまりに薄く鋭利な解剖刃のように、ルシアの最も隠された脆い急所を音もなく貫いていた。
ルシアがカップを握る指先が僅かに止まったが、反論の言葉は口をついて出なかった。憤慨する気すら起きなかった。
なぜなら、ミアの言う通りだからだ。二度の生を終え、異世界を渡り歩いてきた人間にとって、己が虚弱であることも、安全な殻に閉じこもりたい臆病者であることも、今さら恥じるようなことではなかった。
「ですが……」
ミアの緑の瞳は微塵も揺らぐことなくルシアを見つめ、その声音にはほとんど祈りにも似た微かな震えが宿っていた。
「この世界には、同じように病弱で痛みに苛まれる身体を持ち、過酷な運命の前でただ逃げ続けることを選ぶ人々が星の数ほどおります。けれど胸に手を当てて考えてみてください……この広大な世界のどこに、貴女と同じ軌跡を描ける者がいるというのでしょうか? 伝説の古代石板を手にし、帝国の数百年におよぶ常識を覆して二重回路の閉塞を打ち破る天才教授となり、太古の巨獣を真っ向から迎え撃って粉砕し、あまつさえ、退路を断ったただ一度の演説で、瓦解しかけていた三大帝国の戦士たちの命をひとつに束ね上げるなどということが」
一言、また一言と紡がれる言葉が、長椅子の上の狭い空間に重々しく打ち込まれていく。
ルシアは完全に沈黙の中に落ちていた。
怠惰で、隙あらばサボることばかり考えているというのは動かし難い事実だ。だが、ミアが次々と口にした、帝国の歴史に刻まれるような狂気じみた偉業の数々もまた、紛れもない事実だった。
ルシアはずっと、己をちっぽけな存在だと頑なに思い込んできた。己の栄光など地球の物理知識を剽窃し、情報格差を盾にして、幾度となく綱渡りの末に拾った幸運に過ぎないのだと。
だが、もしも……その欠陥だらけの肉体と、雀の涙ほどの魔力量と、今にも軋んで折れそうな華奢な骨格を、脳内に眠る突飛な知識ごとそっくりそのまま他人に委ねたとして——本当に、同じ真似ができる人間が他にいるだろうか?
ルシアはゆっくりと顔を上げた。墨緑の瞳はもう泳ぐことなく、目の前の青い服の少女を、かつてないほど真摯に、丹念に見据えた。
ミアの白く整った顔立ちの中に、媚びへつらいや世慣れた追従、あるいは貴族的な空虚な社交辞令の残滓を探し出そうとした。
だが、無駄だった。綻びなど微塵も存在しなかった。
デイジーの面影を宿しながらも、それより遥かに深く澄み切った翠の深淵に浮かんでいたのは、深い底なしの純粋な崇拝と、自らの境遇を恥じ入るかのような痛切な共鳴だけだった。
ミア自身が、病める肉体に囚われ、同じように弱く、本能のままに逃げ出すことしか知らぬ人間だからこそ。彼女は誰よりも痛感していたのだ。泥濘の底で足掻くことが、どれほど絶望的な業であるかを。
この大陸は数千年もの間、古き神々と異界の裂け目に引き裂かれ、不可解な召喚によって連れてこられた異邦人など幾千となく存在した。
だが、その星の砂ほどの漂流者の中で、教皇オースに最高機密の保護令を下させ、あらゆる代償を払ってでも守り抜くと誓わせた転移者など、後にも先にもルシアただ一人に他ならない。
帝国の誰もがはっきりと理解していた。この黒髪の少女には、神の祝福を受けた膨大な魔力もなければ、一騎当千の鋼の肉体もない。その基礎的な身体能力は、市井を行き交う名もなき平民より遥かに貧弱で脆いということを。
それにもかかわらず、彼女が神々の残骸を踏み越えて今日まで歩みを進めてこられたのは、己が強大だったからではない。
運命がその喉元に刃を突きつけてきた全ての死線の際において、彼女が文字通り、持てる全てをかなぐり捨てて賭けに出る覚悟を持っていたからだ。
ルーカスの未来と尊厳を奪わせまいと、学院で最も厳格なる大教授ビクターへと臆することなく決闘の誓約を突きつけたこと。
数百年もの間、教廷と学院が絶対の戒律としてきた禁忌をあざ笑うかのように、異界の数理と理論を白日の下に晒し、二重回路の術士たちを縛り付けていた呪縛の鎖を木っ端微塵に叩き壊したこと。
身分という絶望的なまでの天壌の隔たりを前にしながら、カリーナとクレアの、息が詰まるほどに狂おしく激しい愛を堂々と受け止めたこと。
そして大地を焼き尽くすフェニックスの黒煙が天を覆い尽くしたあの火海の前で、骨の髄まで干からびさせる灼熱に晒されながらも、瓦礫の山の上に天空へと跳躍するための軌道を描き出し、手ずから死局を穿つ跳躍台を組み上げてみせたこと。
何より、天の光が失われ、古き神の神威の前に誰もが膝を屈して平伏した絶望の刻において。ただ一人、踏み砕かれた肋骨の激痛を抱えながら、己の言葉で暗夜を切り裂き、その場にいた全ての者の胸中に尊厳と闘志の火を再び灯してみせたこと。
弱さと逃避は彼女の生まれ持った性分だ。だが、死線において全てを投げ打つ覚悟こそは、骨の髄に刻み込まれた消せぬ誇りだった。
深淵の縁において運命の引き金を躊躇なく絞る、その恐るべき覚悟の一点においてのみ——この大陸で何らかの欠落を背負い生きる者たちは皆、心からの敬意を彼女へと捧げずにはいられないのだ。
ミアの想いは、決して気まぐれなどではなかった。彼女は心の底からルシアに憧れ……そして、いつの日かルシアのようになりたいと、切実に願っていたのだ。




