病弱な青衣の娘と、嫉妬深い奥方
暮色は完全に沈みきり、中央広場全体が無数の獣脂カンテラと色鮮やかな紙提灯によって、溶け合うような温かみのある橙色に染め上げられていた。
通りの大道芸人は竹馬に乗って息とともに火炎を夜空へと吹き上げ、それを見上げる子どもたちから一斉に歓声が湧き上がる。
鉄板の上でじゅうじゅうと音を立てて焼かれるソーセージからは、香ばしい肉の匂いが肌寒い夜風に乗って漂い、人々は肩を擦り合わせながら行き交い、哄笑と素焼きの杯が打ち鳴らされる涼やかな音がそこかしこで響き渡っていた。
先ほどまでのどこか張り詰めていた空気も、この市井の生活感あふれる熱気のなかに呑み込まれ、いつしか穏やかな喧騒へと溶けていく。
一行は人の波に身を任せ、肩を並べてこの賑やかな祝祭の目抜き通りをそぞろ歩き始めた。
ビクターは両手を後ろに組み、露店の粗雑な保温術式にぶつぶつと難癖をつけつつも、その足取りは目に見えて緩やかになっていた。デイジーは彼の腕にそっと手を添え、その目元には優しい笑みが浮かんでいる。
ルシアは相変わらずカリーナとクレアに左右をしっかりと挟まれ、いつの間にか手の中には焼き立ての香ばしい木の実の小袋が握らされていた。
そのとき、デイジーの傍らにずっと大人しく寄り添っていた青い服の娘が、おずおずと顔を上げた。
意を決したように小さく息を吸い込むと、細やかな足取りでルシアの側へと半歩歩み寄り、裾を引いてこの上なく優美な淑女の礼を執った。
「あ、あの……初めまして、ルシア様」
その声は、春の夜に葉の先をそっと撫でていく微風のように柔らかく、微かな緊張と羞恥を含んでいた。
「私はミア、デイジー姉さんの実の妹です。ずっと……貴女に関する数々の伝説をお聞きしておりました」
ルシアは墨緑の瞳を瞬かせ、木の実を噛む口を止めて不思議そうに小首を傾げた。
「私の……伝説?」
「はい!」
ミアと名乗った娘はこくりと頷き、その瞳に純粋な憧れと笑みを滲ませた。
「博識で、息を呑むほどお美しく、そして底知れぬ強さをお持ちの錬金術師様だと伺っております。狩猟祭では古代の巨獣を退け、伝説の石板をも手にされたとか」
そこまで言うと、ミアは傍らで景色を眺めるふりをしながら聞き耳を立てているビクターをちらりと盗み見、堪えきれないといった様子で袖口に口元を隠し、瞳を細めてくすくすと笑った。
「ただ……個人的に耳にするお話は、もっと面白いものばかりでして。皆様、ルシア様は類まれな才能をお持ちなのに、学院では怠けることばかり考えておられて、義兄さんからは三日とあけずに雷を落とされていると。それに、あの気性の激しいヴァレリー様からは毎日のように悪戯で追い回され、お二人で廊下をめちゃくちゃにして騒いでおられるのだと……」
「おい! あれはあいつが一方的に絡んできてるだけで、私は毎日サボってばかりじゃないわよ!」
ルシアは頬を微かに赤らめ、気まずそうにむっとして言い返した。
隣で聞いていたカリーナの唇の端が楽しげに跳ね上がり、クレアもまた口元に手を当てて忍び笑いを漏らし、その瞳には甘やかな慈しみが揺れていた。
先ほどまでミアの纏っていたどこか捉えどころのない蒼白な気配も、こうした他愛のない親密な掛け合いのなかで、静かに綻びを見せていた。
ルシアは木の実を咀嚼しながらも、その墨緑の瞳で油断なくミアの様子を観察していた。
ミアの体躯は世間一般的な女性と何ら変わりない。確かに華奢ではあるものの骨格は整っており、幾多の死線をくぐり抜けて栄養失調じみた己の小柄で薄っぺらな身体とはまるで違う。
だが、あの淡い青のワンピースの奥から、どうしても拭い去れない重苦しい病弱さが滲み出ていた。
それは風邪を引いたような一時的な衰弱などではなく、本来なら精緻に噛み合って動くはずの機械の歯車と回転軸が、内側から見えない錆に静かに蝕まれているような感覚に酷似していた。
なにしろ、ルシアの人生はすでに三周目に突入しているのだ。二度の死を真っ向から経験し、異なる二つの世界を渡り歩いてきた彼女は、本能と呼べるほどの絶対的な直感を研ぎ澄ましていた。
幾度となく死地を脱してきた戦場や、張り巡らされた謀略のなかで、彼女の直感が外れたことなどただの一度たりともない。
そして今、彼女の第六感は神経の端々に明確な警報を送り届けていた。目の前のミアの身体には、間違いなく常軌を逸した異様な病が巣食っている、と。
「ミア、何か少し食べる? あそこの羊肉の串焼き、脂がのっていてとても美味しそうよ」
デイジーが目尻を下げ、年長者らしい慈愛に満ちた声でミアの意向を尋ねた。だが、その言葉が最後まで紡がれるより早く、傍らのビクターが尻尾を踏まれた猫のように、硬く刺々しい声で割って入った。
「ならん! あんな粗悪な香辛料をまぶして煤煙で燻した下品なもの、脂も匂いも強すぎる!」
ビクターは眉間に深い溝を刻み、刃で刻んだようなほうれい線を強張らせ、早口に吐き捨てるように言った。
「手前の角に滋養の利く食材を扱う店があったはずだ。身体に障らんものを買ってきてやる。貴様らは全員その場を一歩も動かずに待っておれ」
一同が口を挟む間すら与えず、痩せこけた中年学究はそのまま身を翻して大股で去っていった。
その足取りは異様なまでに速く、正面から千鳥足で近づいてきた酔漢たちと衝突しかけた刹那、その身に極めて淡い青い光を帯びさせた——帝都の市場の往来で、こともあろうに魔法を用いて人をすり抜けてみせたのだ。
その切迫した背中を見れば、内心どれほど焦燥に駆られているかは誰の目にも明らかだった。これこそがビクターの不器用な優しさなのだ。
いつだって嫌われ者の仏頂面を張りつけ、口を開けば辛辣で冷淡、耳障りな言葉ばかりを並べる。だが、その窪んだ眼窩の奥にある灰褐色の瞳は、身内の一挙手一投足を音もなくつぶさに観察している。
少しでも不審な兆候を感じ取れば、誰よりも早く真っ先に飛び出し、もっともへそ曲がりなやり方で事態を片付けてしまう男だった。
指導教官の尋常ならざる慌てぶりを目の当たりにして、ルシアの確信は深まるばかりだった。
ミアの身体には、間違いなく重大な疾患が潜んでいる。おそらくデイジーは祝祭の賑わいに気を取られ、病身に与える食事の刺激まで配慮が及ばなかったのだろう。だからこそビクターは取り乱さんばかりの剣幕でそれを制止したのだ。
ルシアは墨緑の瞳をわずかに細め、普段なら全学院から畏怖されるあの大教授が、元老院で大逆人を尋問するかのような冷酷で険しい表情のまま、湯気の立ち上る屋台の前に仁王立ちしている姿を遠巻きに見つめた。
哀れな屋台の店主は、ビクターから無意識に放たれる高位術者の重圧に冷や汗を流し、慌てふためいて何度も頭を下げながら、老魔術師の口うるさい温度管理と素材の指示に寸分違わず従って調理していた。
やがて、澄まし出汁で丁寧に煮込まれ、極めて几帳面に切り揃えられた柔らかな肉塊と甘みのある温野菜の串を手に、ビクターは仏頂面のまま大股で戻ってきた。
その手にはかなりの数が握られていた。ルシアがざっと見やったところ、この偏屈な男はカリーナやクレアがルシアを甘やかしていると罵倒しておきながら、二人の正妻の分まできっちりと勘定に入れて買い求めていた——皮肉なことに、己の口に入る分だけを綺麗に除いて。
「持て。帰り道に腹が減ったなどと泣き言を言って、私の配慮が足りんなどと吹聴されては叶わんからな」
ビクターは苦々しい顔のまま、まるで教本でも配るかのように、湯気を立てる串をカリーナ、クレア、そしてルシアへと順番に手渡していった。
そして最後にミアの前に立つと、もっとも丹念に選り分けられ、脂分を完全に除いた一本をそっと少女の掌へと預けた。
だが、竹串を手渡した刹那、ビクターの枯れ木のような右手はすぐには引かれなかった。
人差し指と中指を極めて自然に揃え、指先に肉眼では捉え難いほどの微かな魔力の輝きを纏わせると、ミアの白磁のような細い首筋の横へとそっと押し当て、二、三秒ほど留めたのだ。
少女の華奢な動脈と魔導回路の結節点を丹念に探り、その下で脈打つ微弱で乱れた拍動を確かめる。
危うい均衡がまだ崩れていないことを見届けると、老学究は何食わぬ顔で指を離し、何事もなかったかのように両手を深灰色の袖の中へと引き入れた。
先ほどの診脈など、落ち葉を払う程度の些細な仕草であったかのように装い、ごく自然にデイジーの傍らへと戻っていった。
「……さっきから、あの女ばかり熱心に眺めているな。何だ、ああいう手合いが好みなのか?」
すぐ隣から、低くかすれた、危うい響きを帯びた声が降ってきた。
カリーナは妖艶な血玉色の瞳を眇め、ルシアの横顔と少し離れた青い服の娘の間を冷ややかに往復させ、眉を寄せていた。
その口調からは、すでにお馴染みとなった暴力的ですらある独占欲と嫉妬の炎が、じわりと燻り始めている。
今宵のカリーナは、普段身にまとっている冷厳な軍服と重厚な甲冑を脱ぎ捨て、淡い桜色の留袖に身を包んでいた。
和服の仕立ては本来、淑やかで慎ましい所作を求めるものだ。それなのに、天賦の才というべき彼女の豊満な肢体の上に乗せられると、かえって息を呑むような扇情的な輪郭を浮き彫りにしていた。
ゆったりとした柔らかな織物であってもその高身長と豊かな曲線美を覆い隠すことは叶わず、帯で固く締め上げられた腰元は、豊満で引き締まった胸元とくびれた腰の起伏を際立たせている。
抜き衣紋の隙間から覗く白玉のようなうなじは息を呑むほど白く、初雪のように流れる銀白の長髪は、街頭で揺らめく薄暗いカンテラの光を浴びて、極上の冷鍛ミスリルのような眩い輝きを放っていた。
彼女の放つ存在感はあまりにも鮮烈すぎた。北境で培われた苛烈な殺気と和装のたおやかさが奇妙に融け合い、彫りの深い美貌には血色の良い紅が差し、血瞳は深淵のように熱を帯びている。
並の男であれば、この圧倒的な美しさと視線を交わしただけで呼吸を奪われ、その場に平伏してしまうだろう。
ルシアは呆然と見惚れてしまい、視線を逸らすことすら忘れていた。
胸の奥で、小さく吐息が漏れる。もしもいつの日か、カリーナが北境の女公爵という山のように重い責務を下ろし、煩雑な政務や戦乱の呪縛から解き放たれて、ただ毎日この世のものとは思えぬ美しい姿で傍らに寄り添ってくれたなら……。
そんな未来を想像しただけで、ルシアは骨抜きにされた無気力な腑抜けになり果て、この女の温かく柔らかな抱擁のなかで、窒息するまで永遠に溺れていたいとすら思ってしまうのだった。
「ルシア?」
耳元で、怪訝そうな柔らかい声が響いた。クレアが身を寄せ、紫水晶の瞳に微かな懸念を宿しながら、ルシアの左手を握る指先をほんの少し強めた。
ルシアの生活リズムや些細な表情の変化を誰よりも把握しているクレアにとって、ルシアが唐突に硬直することの意味は痛いほど分かっていた——
この女の頭が不意に動きを止める時というのは、十中八九、頭の中で力学計算や術式の論理構造、あるいは危機に対する第六感が限界突破の超高速回転を始めている証左なのだ。
そして、その超高速演算の果てには、決まって天が落ちてくるような巨大な厄介事が待ち受けているのが常だった。
だが、クレアもカリーナも夢にも思わなかっただろう。
この図太い小猫が、高尚な錬金術の式展開など微塵も考えておらず、純粋にカリーナの毒々しいまでの美貌に魂を抜かれ、あまつさえその豊満な胸元に飛び込みたいなどと不埒な妄想に耽っていただけだとは。
我に返ったルシアは取り繕うようにわざとらしく咳払いをし、口の中の食べ物を飲み下すと、これ以上なく真面目な顔をして声を潜めた。
「何でもないわよ……ただ、さっきから妙な違和感があるなって思って」
「違和感?」
カリーナが眉を跳ね上げ、クレアもまた小首を傾げた。
聡明な二人である。ビクターの挙動の不審さや、ミアの肌の異様な白さには疾うに気づいていた。
だが、それを「違和感」と呼ぶほどのことかといえば疑問だった。
このノーランド帝国はおろか七大国全土を見渡しても、どれほど英明な君主であろうと、大陸屈指の巨大商会であろうと、領内のすべての民から病苦を根絶することなど不可能なのだから。
ミアが何らかの重い持病を抱えているのは火を見るより明らかだが、血みどろの権謀術数を見慣れた公爵や大商会の継承者からすれば、それは市井に転がる数多の苦難のひとつに過ぎず、わざわざ詮索するほどの価値を見出していなかった。
「違うのよ。ビクターがあそこまでミアに執着してるの、どう考えても過保護すぎない?」
ルシアは二人の袖をくいと引き寄せ、さらに頭を寄せて墨緑の瞳を油断なく輝かせながら、密やかな調子で囁き立てた。
「それに一番引っかかるのはデイジーよ。ビクターがあんな剣幕で口を挟んであんな態度を取ったら、普通の妻なら疑うか気まずくなるはずでしょ? なのにデイジーは動揺するどころか、水を飲むのを見るみたいに平然としてたわ。これって何を意味してると思う? ああいうやり取りが、あの家じゃ日常茶飯事ってことよ」
ルシアは語るうちに熱を帯び、その口調には俗っぽい昼メロ劇の愛好家じみた色合いが滲み出ていた。
「つまり……あの三人は間違いなく一つ屋根の下で暮らしてる。さっきビクターが首筋に触れて容態を確かめた手つきの手慣れ具合といい、それを完全に受け入れて当然のように見守るデイジーといい……ねえ、この人間関係の裏側、相当ドロドロしてて面白そうだと思わない?」
「…………」
ルシアがまた帝国を揺るがす陰謀や神殿の不穏な兆候でも嗅ぎつけたのかと身構えていたカリーナとクレアは、一瞬にして表情を凍りつかせた。
目を輝かせ、瞳をくるくると動かして下世話な妄想に興じるルシアを前に、二人は顔を見合わせた。
宿っていたはずの張り詰めた緊張感は跡形もなく霧散し、呆れ果てた溜息と、どうしようもない甘やかしの感情が取って代わっていた——この娘は、またしても全力で的外れかつ不謹慎な方向へと暴走を始めている。
カリーナは薄く笑みを浮かべ、ルシアのふわふわとした柔らかい黒髪に指を差し入れ、心地よい力加減でわしゃわしゃと撫で回した。
頭皮を刺激する手の平の熱は確かに心地よく温もりを帯びていたが、細められた血玉色の瞳の奥からは、隠しようもない危険な光が放たれていた。
「ずいぶんと立派な講釈を垂れてくれたものだが……貴様がさっきから他の女を穴の開くほど凝視していたのも、紛れもない事実だな? クレア、今夜はどうやってこの身体を躾けてやろうか?」
反対側を歩くクレアは優雅に淡い紫の袂を整え、この上なく端麗でありながら、背筋が凍りつくような艶やかな笑みを唇に刻んだ。
「今回の建国祭はちょうど百周年の大祭、帝都は半月もの長期休暇に入りますわ。普段からお疲れのようですし……これから数日間は、ベッドの上で心ゆくまで『休養』を取っていただきましょう」
その宣告を耳にした瞬間、ルシアの背筋を冷たい悪寒が駆け抜け、腰の奥が早くもずっしりと痛み始めたような錯覚に襲われた。
彼女が怯えるのも無理からぬことだった。この二人の妻は、外見こそ冷徹無比な北境の女大公と、淑やかで物腰柔らかな商会の若き支配者だが、その実、寝台の上での独占欲と留るところを知らない貪欲さは、決して満たされることのない飢えた凶獣そのものなのだから。
この華奢な身体など、骨の髄まで幾度となく喰らい尽くされてしまう。
ルシアは誤魔化すように慌てて意識を切り替え、目前に迫る盛大な祝祭へと無理やり思考を逸らした。
建国祭自体は毎年の恒例行事だが、帝国の万年に及ぶ悠久の歴史において、百の節目を迎える年の大祭は規模が桁違いに跳ね上がり、太古より伝わる秘儀の数々が執り行われる。
この時期に帝都でもっとも忙殺されるのは皇室と教廷であり、幾重にも絡み合う諸勢力の利害調整と、煩雑を極める祭典の手順は星の数ほど存在した。
ルシア自身は詳細など端から興味がなかったが、開幕に先立ち、オースから泣きつくような救援の親書が届いていたことだけは微かに記憶していた。
厄介な魔導器の較正や儀式の設営をどうにか手伝ってほしいという懇願だった。
だが、その手紙がルシアの手の中で温まる時間は三秒すら与えられなかった。
差出人の名を目にした瞬間、カリーナとクレアの逆鱗に触れたのだ。
二人はルシアの眼前でその手紙を灰すら残さず焼き捨てると、翌日には怒気も露わに教廷へと殴り込みをかけ、哀れな教皇オースを床に組み伏せて徹底的に叩きのめした。
その可哀想な教皇は、あまりの制裁の凄まじさに丸三日執務机の下から這い出ることすら叶わなかったという。
そしてその一方的な暴力の嵐のなか、かつて傲岸不遜を絵に描いたようだったガルクは、驚くほど殊勝に縮こまっていた。
あの橙色の髪をした重剣の天才は部屋の隅に膝を揃えて直立不動で座り込み、両手をきっちりと膝の上に揃え、息を殺して怯えていた。
その惨めで怯えきった座り姿は、まるで今にも解体場へ引っ立てられる雨に濡れた大型犬そのものだった。
もっとも、ガルクが情けなく腰を抜かしたのも無理はなかった。
何しろこの少年は少し前、この二人の狂女が本気で牙を剥いた時の恐怖を、身をもって骨の髄まで刻み込まれたばかりだったのだから——他でもない、その両脚をカリーナの手によって叩き折られていたのだ。
理由は極めて単純だった。《太古絕嶺狩獵祭》の死闘の最中、ガルクは必殺の空中斬撃を放つため、ルシアの華奢な背中を強引に足場にして跳躍し、その衝撃でルシアの肋骨をへし折っていた。
生き残るための苦肉の策であり連携であったとはいえ、カリーナの理屈において、その落とし前は絶対に清算されねばならぬ負債だった。
女公爵は権力で踏み躙るような真似は好まない。己を天才と過信した若造に、頂に君臨する者と凡百の有象無象の間に横たわる絶対的な深淵を見せつけるため、極めて正式な手続きを経てガルクへ決闘を申し入れたのだ。
試練場に立ったガルクは当初、カリーナが手にした武器が食事用の小さな銀フォーク一本であるのを目にし、公衆の面前で侮辱されたと激昂した。
だが、湧き上がった怒りは即座に力づくでねじ伏せられた——狩猟祭の直前、ルシアとの立ち合いにおいて、あの女が酒を煽りながら片手間で術式を弄び、結果として自分があの化け物に完敗を喫した光景が脳裏に過ったからだ。
あの惨敗はガルクに精神的な大きな成長をもたらしていた。彼は即座に冷静さを取り戻し、侮られた屈辱を振り払い、立ち合いの合図とともに体内の全闘気を爆発させた。暴風を纏う橙色の業火と化し、眼前の北境の覇者に剣を抜かせんと渾身の突進を繰り出したのだ。
彼は指先ひとつ分すら油断していなかった。
だが、残酷な現実は三秒の時間すら彼に恵まなかった。
銀器が空を裂く涼やかな風切り音と、耳を塞ぎたくなるような嫌な骨の砕ける音が重なり合った。
全力を解放したはずの重剣の天才は、相手の衣の端に触れることすら叶わず、たった一本の小さな銀フォークによって重心を完全に奪われ、無表情のカリーナによって無慈悲に石畳へと叩き伏せられた。
圧倒的な魔力の圧制に息をすることすら封じられ、地面に這いつくばるガルクの脚を、カリーナは平然と踏み砕いた。
かつて向かうところ敵なしと驕った天才は、泥水に塗れてただ哀れに咽び泣く、従順な負け犬へと叩き直されたのだった。




