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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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春泥の息吹、あるいは鏡面の繾綣

窓から吹き込んでくる風には、かつて骨の髄まで削り取ったような酷寒の気配は微塵も残されていなかった。


カリーナの理不尽極まりない権能による干渉を受け、グラフィエン公爵領全土の万丈の凍土は、まるで無理やり厳冬の底から引きずり出されたかのようだった。


雪解けの清冽な湿気が目覚めたばかりの大地の芳香と混ざり合い、庭園で数百年間も凍りついていた古木たちは競うように緑の芽を吹き出している。


見渡す限りの野山には名も知れぬ淡い桜色や純白の花々が咲き乱れ、風に舞い散る花弁が窓辺をかすめては、室内に微かな甘みを含んだ春の息吹を散らしていた。


ルシアはようやく、手元にあった忌々しい研究報告書と防衛陣列の維持管理を完全に片付け終えたところだった。


めったにない束の間の暇を得た彼女は、いま三人がかりの背丈ほどもある巨大な姿見の前に立ち、魂の抜け落ちた精巧な人形のように、十数人もの公爵家と侯爵家の侍女たちに取り囲まれていた。


長机の上にも、長椅子の上にも、帝都中の名立たる高級仕立屋から徹夜で届けられた式典用の豪奢なドレスが所狭しと積み上げられている。


「絶対に駄目です! この背中を大胆に開けた地紋織りのシルクドレスこそ、ルシア様の華奢なお体に最も映え、優雅さと神秘性を兼ね備えているというのに!」


侯爵家から派遣されてきた古参の侍女が、両手を腰に当てて語気を荒らげた。


「何を分かったような口を! そんな軽薄な意匠で、あのお方の純潔と気品を際立たせられるわけがないでしょう! 北境の氷晶石を散りばめたこの純白のバッスルドレスこそが正統です! 首元のレースは顎の真下まで留めるべきなのです!」


公爵家の侍女も負けじと金切り声を上げ、一歩も引かずに食ってかかる。


「顎まで留めるだなんて、それは修道士の法衣でしょうが! 今日は建国式典なのですよ! 公爵家の方々の美意識は、氷漬けにでもなって凍結してしまったのですか?!」


「凍結とは聞き捨てなりませんね?! そちらが侯爵家から持ち込んできた布切れこそ、ただの破廉恥な布屑ではありませんか!」


押し問答は瞬く間に激化し、両家の侍女たちは袖をまくり上げると、口先だけの舌戦から髪の引っ張り合いや裾の奪い合いという実力行使の肉弾戦へと発展していた。高価な絹織物や飾り羽が、更衣室の中を紙吹雪のように舞い散る。


その凄まじい混乱の最中にあって、桃香は両手で湯気の立つ生姜茶の器を抱え、部屋の片隅に敷かれた畳の座布団の上に静かに正座していた。


黒い双眸で取っ組み合う侍女たちを平然と眺めながら、時折、何事もないかのように茶を啜っている。まるで目の前で繰り広げられる激しい乱闘劇が、茶受けの余興に過ぎないと言わんばかりの落ち着きぶりだった。


ルシアは首を縮こまらせ、深い溜息をついた。


あの婚姻誓約書にサインを交わして以来、彼女の人生は「平穏」という二文字から完全に切り離されてしまったらしい。


グラフィエン公爵邸にいようと、シルヴィア侯爵邸にいようと、どちらの屋敷も毎日のようにこうしたお祭り騒ぎに満ちていた。


賑やかなのは結構だが、前世で静かに数式を組み立て、公差を計算することに慣れきった元・社畜にとっては、この過剰な日常の熱量は少々胃に堪えるものがある。


その時、更衣室の開け放たれた扉から、どこかからかいを含んだノックの音が二度響いた。


コン、コン。


次の瞬間、侍女たちの乱戦など視界にも入っていない様子で、長身の影が堂々と足を踏み入れてきた。


クレアの父親であるカエサル・シルヴィア侯爵だった。


仕立ての良いトラウザーのポケットに片手を突っ込み、トレードマークである紫の髪を揺らしながら、紫銅色の瞳にいつもの人を食ったような薄笑いを浮かべている。


彼は薄く目を細めると、試着用のアンダーキャミソール一枚しか身につけておらず、白い鎖骨とほっそりとした素足を惜しげもなく晒しているルシアの姿を、上から下へと値踏みするように眺め回した。


やがて、恐るべき未来の光景をありありと幻視したかのように、侯爵は白い歯を見せて口元を歪め、わざとらしく言い放った。


「そんな薄着で……もしそのまま表へ出ようものなら、カリーナの奴、怒り狂って帝都ごと叩き割るんじゃないかね?」


言い捨てるや否や、ルシアの反応を待つこともなく、ましてや侍女たちの乱闘を仲裁する気などさらさらない様子で、侯爵はまるで気紛れな幽霊のように大股で踵を返して去っていった。


長い廊下の向こうから、他人の災難を心底面白がるような、遠慮のない豪快な笑い声だけが響いてくる。


その笑い声が遠ざかるのを聞きながら、ルシアは露わになった己の鎖骨と膝下を見下ろし、思わず首筋に冷たいものが走るのを覚えた。


近頃のカリーナは、あの獲物に執着する大型犬のように、喪失を恐れる偏執的な気質をますます募らせている。


少し目を離せば全身の毛を逆立てる猛獣よろしく、ルシアを丸ごと抱き込んで誰の目にも触れぬ場所に隠したがるのだ。


もしこんな背中の開いたスリット入りのドレスを着て、人混みでごった返す帝都の大通りを歩こうものなら、あの女の赤い瞳は間違いなく血走り、視界に入る雄という雄を挑発者と見做して片っ端から両断しかねない。


身の安全を考えるならば、肌の露出は極限まで抑えるに越したことはなかった。


「ルシア様、もし装いにお悩みであるならば、和服をお召しになってはいかがでしょうか」


片隅で茶を飲んでいた桃香が、抑揚のない静かな声で口を開いた。


「典雅にして礼を失せず、肌を一寸たりとも晒すこともございません。その上、紋様や仕立ての幅も広く揃っております」


その提案は、無数の洋装に辟易していたルシアの目を一瞬にして輝かせた。


彼女はようやく思い出したのだ——あの《太古絶嶺狩猟祭》の狂騒が収まって以来、山積する職務に追われるあまり、目の前にいる影のような女忍者が、他ならぬ温泉郷の現領主であることを完全に失念していた。


桃香にとって、最高級の織物や伝統的な和服を取り寄せるなど、指先ひとつの密令で事足りる児戯に等しい。


ましてや、あの大皇子の死に端を発する激震ののち、温泉郷はカリーナの手際よく冷徹な事後処理によって、正式にグラフィエン公爵領の管轄へと編入されていた。


かつて行われていたような血生臭い生贄の儀式は跡形もなく根絶され、徹底的に近代化された観光保養地として生まれ変わっている。


現代的な管理思想に基づき、最高級の湯治場や檜造りの休息所、洗練された茶寮が次々と整備された結果、今や帝都で権謀術数に明け暮れる貴族たちも、わずかな暇さえあればこぞって温泉郷へ足を運び、湯煙の中で凝り固まった骨の髄まで癒やそうと列を成しているのだ。


その土地の頂点に立つ桃香にとって、至高の伝統衣装を用意することなど造作もなかった。


「それなら、黒留袖はあるかしら?」


ルシアは期待に瞳を揺らしながら急いで尋ねた。


「格式高くて、落ち着いた柄のものがいいのだけれど」


「御意」


桃香は淡々と応じると、白磁の茶器を机に置いた。


器の底が木目を打つ微かな音が消え去るよりも早く、空気中にわずかな気流の渦だけを残して、彼女の姿はルシアの目の前から完全に掻き消えていた。


「……これが噂の瞬身の術ってやつなのかな」


鏡の前に座り込んだルシアは、まじまじと瞬きを繰り返しながら心の中で呟いた。


ぽっかりと空いた座布団を見つめていると、前世の地球で親しんだ世界的な忍者漫画の記憶が脳裏をよぎる。


当時、彼女は口元を覆い、掌に凶暴な雷光を宿して戦う白髪の美男子が密かにお気に入りだった。


だが、この剣と魔法の世界に転生してから、錬金術式と魔導回路を組み合わせてあの手の近接雷撃スキルを再現しようと試みたものの、結果はコンデンサの過負荷による自爆とブレーカー落ちを繰り返すばかりで、結局は諦めざるを得なかったのだ。


そんな子供じみた懐旧に小さく苦笑していたところへ、更衣室の重厚なオークの扉が再び開いた。


ふわりと漂ってきたのは、気品のある薔薇の甘い香りだった。商会の物資補給の差配を終えたクレアが、しなやかな足取りで室内へと歩み寄ってくる。


波打つ紫の髪が肩に零れ、その双眸にはいつものように柔らかく落ち着いた光が揺れていた。


「和服をお召しになると伺いましたわ」


クレアはルシアの背後へと回り込むと、華奢な肩の上にそっと両手を添えた。水銀鏡に映るルシアの横顔を覗き込むその眼差しは、春の泉のようにどこまでも優しい。


「温泉郷の装束とは申しましても、それが貴女の元の世界に連なる伝統の品であることは承知しております……でしたら、私たち三人でお揃いの和服を身に纏い、式典へ出向くというのはいかがかしら?」


「——!」


ルシアは息を呑み、その墨緑の瞳をこれ以上ないほど見開いた。


それはあまりにも魅惑的な提案だった。


客観的に見て、クレアもカリーナも、大陸全土を狂乱させるに足る美貌の持ち主である。


しかし惜しむらくは、一方は厳格な法衣に身を包んで商会の帳簿と計算に没頭し、もう一方は刺々しい北境の軍装と甲冑を纏って他者を威圧する殺気を放ち続けていることだ。


その天賦の美しさは、あまりに堅苦しい装束の陰に覆い隠されてしまっていた。


もしも、あの非の打ち所がない二人の妻が、東洋の情緒を漂わせ、艶やかな肢体を包み込む和服に身を包んだとしたら——。


三度の生を通じて独身を貫いてきたルシアの手が、かつてない速度で動いた。迷う素振りすら見せず通信魔導器をひっつかむと、移動したばかりの桃香へ向けて、桜色の上品な一着と、淡い紫の優美な一着を追加するよう矢継ぎ早に命じ下した。


通信の向こうの桃香は、誰の衣装かを問うことすらなく、カリーナの豊満で長身な肉体美と、クレアの均整の取れた肢体の寸法を瞬時に脳裏へ思い浮かべ、「承知いたしました。直ちに手配いたします」と淡泊に応えて通信を切った。


「屋台に林檎飴、あるといいなあ……」


ルシアは肘掛け椅子に背中を沈め、締まりのない呟きを漏らした。


和服に身を包んだ二人の絶世の美女に両脇を固められ、慈しまれながら式典の雑踏を歩く——その極上の多幸感を想像するだけで、普段は厳格な実習教授の顔つきが、見る影もなく蕩けたものへと崩壊していくのを止められなかった。


その無防備な様を見て、クレアは深い愛おしさに耐えかねたように微笑み、白く滑らかな指先でルシアの柔らかい頬を優しく抓んだ。


「林檎飴のような菓子なら、商会の方ですでに手配させてありますわ。ですが、甘味のことばかりに気を取られていては駄目ですよ」


クレアは微かに笑みを収め、貴族特有の張り詰めた響きを声に滲ませた。


「今回は百年に一度の大式典。皇族の方々も総出でご臨席なさいます。会場では、くれぐれも警戒を怠らないようにしてくださいね」


その一言は冷や水のように、ルシアを甘美な空想から引き戻した。


数日前に公爵邸へ届けられた、豪奢な金箔押しの密書——皇太子クロード・レグニスの直筆による舞踏会の招待状の記憶が蘇る。


美辞麗句で塗り固められてはいたが、その本音はあまりにも下劣で明白だった。式典の幕開けを飾るファーストダンスの相手として、ルシアを指名してきたのだ。


三度の生を生きてきたルシアにとっても、ここまで面の皮の厚い男を見るのは初めてだった。


生まれたばかりの赤子か、婚姻の概念すら持たない路傍の野犬でもない限り、彼女がすでに正式な誓約を交わし、グラフィエン公爵とシルヴィア侯爵家の正統な伴侶となっていることなど帝国中の誰もが知っている。


衆人環視の式典において、既婚の女性を手込めにするかのように手を取ろうとするなど、両家に対する明白な挑発以外の何物でもない。


相手が「皇太子」という都合のいい看板を掲げていなければ、あんな汚らわしい欲望を書面に認めて送りつけてきた時点で、カリーナという猛犬の手によって、とっくに何千回も八つ裂きにされていたはずなのだ。


ルシアには分かっていた。クロードの狙いは、彼女が錬金術を用いて数々の不可能を覆してきたその異端の才覚であり、大地をも揺るがすその力を皇室の檻に囲い込みたいだけなのだと。


だが、奴は致命的なまでに相手を見誤っている。


ルシアには、他の誰かを伴侶として受け入れる気など爪の先ほどもなかった。


三度の生を漂流してきた彼女の心は、あの凍てつく氷原と咲き誇る花畑の只中で固く閉ざされ、砂粒ひとつ入り込む隙間もないほど、あの二人だけで埋め尽くされている。


愛という感情は、本質的に利己的で排他的なものだ。


カリーナがルシアに対して狂気じみた独占欲を抱き、他者の視線がかすめただけで牙を剥くことは周知の事実だが、ルシア自身とて、決して物分かりの良い聖人などではない。


カリーナの怜悧で近寄りがたい美貌、白髪紅瞳の妖しげな佇まいには、どれほど威圧的な殺気を放っていようとも、死を恐れぬ不届き者が惹きつけられてしまう——


彼女に向けられる品定めのような視線に気づくたび、ルシアの胸裏に渦巻く縄張り意識の炎は、カリーナのそれと何ら変わらぬ激しさで燃え盛っていた。


そしてクレアに至っては、ノーランド帝国全土が公認する初恋の象徴そのものである。


全貴族の若者たちから羨望を集める完璧なる令嬢であり、紫の髪と瞳から醸し出される気品は、夜気に咲く薔薇のように甘美だ。


彼女に想いを寄せる者など、帝都の城門から北境の砦まで列を成すほどに存在している。


さらに呆れたことに、この世界には身の程を弁えぬ命知らずが後を絶たない。


先日など、三人まとめて自らの後宮に引き入れようと画策したどこかの権力者がいたらしいが、その男の首級は日没を待たずして自邸の門前に掲げられ、今なお見せしめの標識として晒されている。


いくら刈り取ろうと、世の尽きぬ欲望を完全に断つことは叶わない。


三人はすでに因果の次元で分かち難く結ばれているというのに、その美貌と力を狙う有象無耶の影は、払っても払っても纏わりついてくる。


権謀術数の澱みに思いを馳せ、ルシアは疲れ切ったように小首を傾げ、更衣室の豪奢な天井を見上げた。そして、ふと先ほど学院で目にした光景を思い出す。


ビクターとデイジー。


あの質素で、静かで、阿吽の呼吸で満たされた世俗の婚姻が、今のルシアには酷く眩しく、羨ましかった。


あの二人は互いの務めを果たしながら、日々の暮らしを慈しんでいる。それに引き換え、今の彼女たちの生活はどうだろう。


カリーナは北境の雪崩や魔獣の氾濫が起きれば、丸一週間も吹雪の彼方へ消え去り、便りすら届かなくなる。クレアも商会の大規模な交易に捕まれば、膨大な帳簿と交渉の山に埋もれて姿を消してしまう。


救いなのは、クレアが帝都魔法学院の正教授の肩書きを持っていることくらいか。時折、あの冷え冷えとした廊下ですれ違い、日当たりの良い研究室に身を潜めて温かい昼食を分かち合うことならできた。


だが、二人が背負う重責を思えば、胸が痛むのも事実だった。


カリーナは極北の広大な地を統べ、間引き切れぬ魔獣を自らの刃で屠りながら、数十万の民の暮らしと配給に気を配らねばならない。


彼女が容易に天候を書き換えようとしないのは、本来は雪景色を好んでいるからであり、ルシアが朝の光を見たいと零したからこそ、北境に不自然な春をもたらしたに過ぎないのだ。


そしてクレアもまた、学院の教授であり、魔法塔の筆頭魔術師であり、シルヴィア商会という巨大な経済機構の次期当主として、息の詰まるような利権争いに忙殺されている。


片や、ルシア自身といえば実習教授の身分に甘んじ、長生寺では悪辣な交流電流の石板に仕事を丸投げして気楽な身分に見えるものの、二人の安否を案じるあまり心休まる暇などありはしなかった。


普通の夫婦のように、日暮れと共に扉を開け、生活の匂いに包まれながら愛しい者を腕に抱くことすら叶わない。


「……まったく、あの頑固親父が羨ましくてたまらないわ」


ルシアは頬を膨らませ、天鵞絨の背もたれに体を預けながら、拗ねたように愚痴を零した。


「貴女が他の方を羨むなんて、珍しいことですわね」


背後に佇むクレアの紫の瞳が、古井戸に小石を投げ入れたかのように微かに揺れ、悪戯っぽい光を宿した。


「羨ましいに決まってるじゃない、ビクターの奴! 日が暮れればさっさと家に帰って、あったかい奥さんを抱きしめられるんだから! 私たちときたら、北境の政務か商会の算盤ばかりで、ゆっくり顔を合わせる暇すらないんだもの!」


その叫びは子供の癇癪のように甲高く、がらんとした更衣室に乾いた反響を残した。


クレアは気分を害するどころか、その双眸の奥に湛えられた温もりを、炭火でじっくりと温められた古い蜜酒のように、いっそう濃密なものへと深めていった。


世の人間が彼女たちに求めるのは、手中に収めた権勢と黄金ばかりだ。それなのに、目の前の小さな娘が切望しているのは、どこにでもある寒村の炉端に立ち上るような、ささやかな温もりに過ぎないのだから。


部屋の中がふいに静まり返った。窓から差し込む光が斜めに落ち、二人の影を冷たい姿見の上に重ね合わせる。


クレアが歩みを進めた。足音ひとつ立てず、薔薇の冷ややかな芳香を纏った夜風のように、音もなくルシアの全身を包み込んでいく。


言葉はなかった。ただ、数々の権謀と算盤を操ってきた白く滑らかな手で、ルシアの顎をゆっくりと持ち上げた。


ルシアが顔を上げると、墨緑の瞳に至近距離の美貌が映り込む。


貴族特有の駆け引きも躊躇いもなく、クレアはそのまま身を屈め、己の唇を重ね合わせた。


それは通り一遍の愛撫などではなく、酷く緩慢で、どこまでも深い擦り合わせだった。最初は薄く柔らかな花弁が触れ合うような微かな甘美、やがてそれは逃れようのない熱を帯びていく。


細い首筋に吹きかかるクレアの吐息は熱く、舌先がわずかな隙間を押し広げて腔内へと滑り込み、暗がりの中で貪るように絡みついてくる。


まるでこの骨と皮ばかりの華奢な肉体の中から、何者にも侵されぬ安らぎの地を強引に抉り出そうとするかのようだった。


ルシアの喉から押し殺した微かな嬌声が漏れ、その指先は無意識にクレアの腰元の絹織物を強く掴んでいた。握り締められた布地は皺を作り、二人の熱を帯びた吐息に炙られていく。


その口づけは重く、狂おしいほどに繾綣としており、鈍い痛みに似た渇望を孕んでいた。


豪奢な装飾に囲まれた貴人などではなく、果てしない荒野で行き倒れかけた二頭の獣が、長い飢餓の果てにようやく手に入れた互いの血肉を確かめ合い、唾液で傷口を塗り込めているかのようだった。


息の詰まるような親密さだけが、外の世界の喧騒を遠く隔絶していた。


クレアの指先がルシアの震えるうなじを伝い、柔らかい黒髪の奥へと潜り込んで、その頭を逃さぬよう固く抱き留める。


唇が擦れ合うたびに熱は増し、口端から零れ落ちる銀の糸を拭う余裕すら与えられない。


鏡の奥で隙間なく重なり合う二つの影は、うたかたの浮世にあって、何人にも奪うことのできぬ唯一の真実を刻みつけているかのようだった。

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