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重度カードゲーマー女子、過労死転生した異世界でも恋愛をプレミして詰んだ件  作者: 酣睡


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不器用な教授の庇護と、気紛れな女公爵の所有権

帝都魔法学院の教員執務室の中は、羊皮紙をめくる微かな擦過音だけが支配していた。


深い色合いのウォールナット長机の奥で、ビクター教授は背筋を真っ直ぐに伸ばして腰掛けている。深く刻まれた法令紋が際立つ痩躯の輪郭は極限まで張り詰め、眉間に落ちた影は深い。


片眼鏡の奥にある眼光は、まるで精密なメスのように手元の研究報告書を寸分違わず舐めるように検分していた。


机の向かい側で、ルシアは首をすくめ、両手を揃えて膝の上に置き、背中を板のように強張らせていた。


一歩外に出れば、帝国の誰もが平伏する公爵夫人である。しかし、冷え冷えとしたシダーウッドインクの香りが立ち込めるこの部屋にあっては、ただの身の程を弁えた、叱責を待つ身の実習教員に過ぎない。


椅子の上で針の筵に座らされている心地だった。


ビクターの指先は酷く緩慢に紙を繰る。骨張った痩せた指先が時折羊皮紙の縁を軽く叩くたび、その重苦しい微小な音がルシアの心臓を跳ね上がるように痙攣させた。


やがて、彼は報告書を机の上へ無造作に放り出すと、背もたれに身を預け、冷徹な視線を彼女に向けた。


低く落ち着いた声には怒声の荒々しさこそないが、痩せぎすの学者特有の有無を言わせぬ威圧感が宿っていた。


「体は戻ってきたようだが、魂はまだ外に置き忘れてきたのか?」


ルシアは顎をさらにローブの襟元深くへと埋め、墨緑色の瞳を机の上のインク壺へと泳がせながら、呼吸すら極力押し殺した。


「これほどの長期間無断欠勤しておきながら、学院の規程を飾りとでも思っているのか。それとも、後ろ盾となっている御身分を笠に着れば、私がお前を処分できないとでも侮ったか?」


ビクターは片眼鏡を外し、深く刻まれた眉間を痩せた指で押さえた。その眼差しに滲む厳格さは隠しようもない。


「無断欠勤の件はひとまず追及を棚上げにしてやろう。だが、この提出物は一体誰を誤魔化すつもりで書いた?」


彼は骨張った指の関節を曲げ、羊皮紙を二度、硬く叩いた。


「データの推論は杜撰を極め、肝心の接点の公差に至っては目を疑うほどに粗雑だ。行間から滲み出ているのは軽薄な焦りばかり。外で騒ぎを起こすのは勝手だが、研究室に戻ってきてまで最低限の厳密さすら放棄するとはな。こんな半端な出来損ないしか出せないのなら、無理矢理就任させられたこの任期が延びることなど、端から恐れてもいないようだな」


ビクターはその報告書の束を前へと押しやり、その場から消え去りたいとばかりに縮こまる若い教え子を見下ろした。声音に抑揚は一切なく、容赦のない冷徹さだけが漂っていた。


「持ち帰って最初から全て計算し直せ。その頭の中の不純物を洗い流してくるまで、二度とこんな紙屑で私の時間を浪費させるな」


建国式典が正式に幕を開けるまでの間、ルシアが毎朝目を覚まして最初にすることは、自分が過労死するまであと何マイクロメートル残されているかを計算することだった。


片付けなければならない職務は山積していたが、長生寺の件だけはまだ気楽だった。何しろ神殿の守護者という肩書きを盾に、規則などいくらでも自分で書き換えられるからだ。


社畜特有の「邪魔者対策」を熟知しているルシアは、正殿の入り口に何の変哲もない黒い石板を設置し、その隣に恭しい注意書きを立てておいた。


【守護者への挑戦を望む者は、両手を石板の上に平らに置き、十秒間静止せよ】


一見すれば古風で厳粛な認証儀式のように思えるが、実際はルシアの悪趣味が極限まで詰め込まれた防衛トラップである。


挑戦者が両手を石板に密着させた瞬間、特製の魔導回路が瞬時に閉ループを形成し、間髪入れずに魔力封じの拘束術式が発動する。


直後、石板内部に圧縮された高圧コンデンサが一気に放電される——魔力による防御が完全に遮断された状態で、純粋な高圧交流電流が一切の忖度なく、相手の中枢神経と骨格筋へ平等に親身な挨拶を叩き込むのだ。


物理法則と術式を融合させたこの卑劣極まりない罠の戦果は、凄まじいの一言に尽きた。


自信過剰な貴族の天才であろうと、頑強な肉体を誇る異国の狂戦士であろうと、これまで例外なく全員が認証開始からわずか二秒で焦げた臭いを漂わせ、白目を剥いて泡を吹き、痙攣しながら崩れ落ちていった。


その結果、長生寺の門前には常時二台の担架が配備され、当番の僧侶たちがアフロヘアーのように爆発した頭の勇者たちを次々と医務室へ運び出すのが日常茶飯事となっていた。


物理法則の残酷さは、異世界においても何一つ揺るぎはしない。


しかし、そんな小細工で長生寺の業務負担を極限まで削ぎ落としたところで、帝都魔法学院の煩雑極まりない手続きを前にすれば、ルシアはやはり底知れぬ無力感に苛まれるのだった。


締め切りに背中を追われるこの窒息感は、前世で卒業制作のために徹夜を重ね、画面を埋め尽くすエラーログに発狂していた頃の吐き気すら思い起こさせる。


そして何より厄介なのが、ビクターという男の存在だった。


かつて決闘の場で陰険な手を尽くして引き分けに持ち込み、学院上層部と結託して辞令一枚で彼女を実習教授の席へと力ずくで縛り付けた元凶である。


この階級の厳しい象牙の塔において、二人は最も厳格な師弟としての連帯責任で結ばれていた。ルシアが半日無断欠勤しようが、書類を一枚出し遅れようが、学院の規律委員会が真っ先に呼び出して詰問するのは、他ならぬ彼なのだ。


そして今日、無断欠勤の後ろめたさを抱えたルシアは、その痩せた中年教授の執務室で、静かながらも圧倒的な圧迫感を放つ声によって、霜枯れた茄子のように散々に打ちのめされたばかりだった。


ビクターに容赦なく突っ返された膨大な研究報告書を抱え、ルシアはうなだれながら、鉛のように重い足取りで自室へと引き返した。


背後で重厚なオーク材の扉が「カチリ」と音を立てて閉まり、廊下の喧騒を遮断すると同時に、彼女の全身から最後の気力すら吸い取っていった。


彼女はぐったりと革張りの肘掛け椅子に倒れ込み、赤インクでびっしりと訂正を入れられた羊皮紙を机に投げ出すと、生ける屍のような顔で天井のシャンデリアを見つめて呆然とした。


「……もう辞表出そうかな。どうせ北境の領地なら、どこへ行っても一生遊んで暮らせるし……」


ルシアは疲れた手つきでこめかみを揉みほぐし、億劫そうに上体を起こすと、習慣通りに机の中央にある進行管理用の書類箱を引き出した。


建国式典までに、元老院からの調査案件や指導案の審査、術式測定が一体あと何十件残っているのかを把握するためだ。


しかし、木製の仕切りの中で指先を滑らせていたルシアは、唐突にその動きを止めた。


箱の奥に整然と並べられていたのは、催促に追われる白紙の書類束などではなかった。そこには、【帝国技術審査院・特級検印済】の金の封蝋が押された、正式な公文書がずらりと連なっていたのだ。


『第三四半期 魔導地脈観測概論』——結審済。

『長老院 初階学徒実戦指導案改訂』——保管済。

『古代ルーン対干渉公差データ表』——通過済。


分厚い書類の山は、すべて彼女が無断欠勤していた期間に学院側から最も厳しく催促され、少しでも不備があれば職務怠慢の烙印を押されかねなかった重要案件ばかりだった。


記された数式は寸分の狂いもなく完璧に整理され、数理モデルの筆致の端々は、偏執的なまでに冷徹な直角を描いている。


箱の中に残されていたのは、先ほどビクターに突き返された、手元にある核心の研究報告書ただ一つだけだった。


ルシアは目を瞬かせ、躊躇いがちに公文書を一冊抜き取ると、その最終頁を開いた。


責任者署名欄には、あの見慣れた剛勁な筆跡で、紛れもなく彼女の名が記されていた——【第一執筆者:実習教授 ルシア】。


そして傍らの指導教官承認欄には、社交辞令の飾り文句すら一切添えず、ただ冷ややかな筆致でこう殴り書きされていた。


『本報告書は当研究室が全責任を負って裏書きする。他者が差し挟む余地は一切ない』


執務室の中は静まり返り、窓の外からは式典のリハーサルを告げる陽気な楽の音が微かに風に乗って届いていた。


ルシアはそのずっしりと重い羊皮紙の束を抱えたまま、ゆっくりと首を巡らせ、半開きになった扉の向こう、廊下の突き当たりに佇む特級教授室の固く閉ざされた扉をじっと見つめた。


彼女は、唐突にすべてを悟った。


あの男は、降りかかる厄介事のすべてを彼女の顔面に叩きつけて放り出すことだってできたはずなのだ。それなのに、ルシアの首が飛びかねない元老院からの面倒な要求を、裏で一言も漏らさずに独りで背負い込んでいた。


だが同時に、彼女を完全に甘やかして放任する気など毛頭なく、最も根幹となる研究だけを手元に残し、徹夜でやり直すよう突き放したのだ。


これこそがビクターという男だった。


法令紋の刻まれた痩せた面相で、まるで全世界から天文学的な借金を背負わされているかのように常に不機嫌な顔を崩さない。


声を荒らげることなどないのに、人を針の筵に座らせ、冷汗を流させるほどの圧迫感を放つ。


しかし、その厳格で偏屈な学者の骨組みの奥底で、彼は驚くほど不器用で、ひねくれていて、決して口には出さない残酷なまでの優しさを以て、身内が被るはずだった嵐を、誰にも気づかれぬよう全て一人で防ぎ止めていたのだ。


ルシアは深く息を吐き出すと、金の封蝋が輝く公文書を机の隅へと丁寧に押しやり、中央に真新しい羊皮紙を一枚広げた。


羽ペンを握り直し、たっぷりとインクを吸わせ、残された核心の報告書と刺し違える覚悟を決めたその時——開け放たれた執務室の木扉から、控えめなノックの音が二度響いた。


コン、コン。


急かす風でもなく、聞く者の強張りを自然と解きほぐすような、柔らかく穏やかなリズムだった。


ルシアは微かに虚を突かれ、顔を上げた。


「どうぞ」


扉が静かに押し開かれ、姿を現したのは、濃いベージュ色のウールショールを纏った中年の貴婦人だった。


目尻や唇の端には歳月の積み重ねを感じさせる細やかな皺が刻まれていたが、飾らぬ素顔からは落ち着いた気品が漂っている。


濃い栗色の髪は乱れなく夜会巻きに結い上げられ、手には清潔な麻布を掛けた籐編みの小さな籠を提げていた。


ルシアはすぐにその人物に気づき、慌ててペンを置いて立ち上がった。


「奥様? どうぞお掛けになってください、そんなにお気を使わずに」


デイジーは微笑みを浮かべて歩み寄った。その緑色の瞳には、包容力に満ちた温かな光が湛えられている。


彼女はルシアの散らかった机の片隅に籠をそっと置くと、麻布をめくった。香ばしく焼き上げられたバターとオーツ麦の濃厚な甘い香りが冷え切った部屋にふわりと広がり、微かな湯気さえ立ち上った。


「焼きたてのオーツ麦と蜂蜜のビスケットよ。少し持ってきてあげたの」


デイジーは穏やかに囁き、机の上に散らばる複雑怪奇な術式の計算式へと視線を落とすと、どこか可笑しそうに口元を綻ばせた。


「さっき廊下で見かけたのよ。あの人の部屋から首をうなだれて出てくるあなたの姿を……あの方、またあなたに当たり散らしたのでしょう?」


ルシアは気恥ずかしそうに乱れた黒髪を掻き、曖昧に笑った。


「いえ……私が長く席を空けていたのが悪いですし、報告書も本当にやっつけ仕事でしたから」


「あんな人の肩向を持たなくてもいいのよ。あの男のへそ曲がり加減なんて、私が一番よく知っているわ」


デイジーは首を横に振り、傍らにあった背もたれ椅子を引き寄せて優雅に腰を下ろした。その瞳には、純粋な感心と好奇心が宿っている。


「正直なところ、あの方が高位教職に就いてからというもの、下についた実習学者は怒鳴り散らされて泣き出すか、自ら配置転換を願い出るかで、五人や六人じゃきかなかったわ。一体どれほど辛抱強い若い方ならあの方の下で耐えられるのかしらと、ずっと気になっていたの……今日あなたを見て、ようやく腑に落ちたわ」


ルシアは温かいビスケットの香気に包まれながら、張り詰めていた神経が次第に緩んでいくのを感じていた。目の前の品の良い婦人を見つめながら、ふと思い出したように口を開く。


「そういえば、奥様……あのお子様は元気になさいましたか? 先月、教授から風邪気味だと伺っていたのですが」


まだ乳飲み子である我が子の話題が出た途端、デイジーの目元は信じられないほど柔らかに崩れ、目尻の小皺さえも母となった幸福な輝きを帯びた。


「あなたのおかげで、今は驚くほど元気よ。よく飲み、よく眠って……昨夜なんて父親の髪を力任せに引っ張って離そうとしないものだから、あの人ったら眼鏡を絨毯の上に落としてしまって、しばらく怒る気力すら失っていたくらい」


そこまで語ると、デイジーはルシアの目の下に薄く差している青隈に気づき、その声音を慈しむような落ち着いた調子へと落とした。


「それよりもあなたよ、ルシアさん……式典前の仕事が立て込んでいるのでしょう? あまり自分を追い詰めすぎては駄目よ」


彼女は冷え切っていながらも羽毛のように柔らかな手を伸ばし、机の上に置かれたルシアの手の甲を優しく包み込んだ。


「学問を修めるのも立派だけれど、お体あってのものよ。もしあなたが倒れてしまったら……あなたを深く愛している方々は、どれほど心を痛めるかしら」


ルシアの指先が微かに震えた。脳裏には、血走るほどに泣き腫らしたカリーナの赤い瞳と、唇を固く引き結んで気丈を装うクレアの横顔が自然と過り、喉の奥がきゅっと窄まるような感覚を覚えた。


デイジーは曇りがちな窓の外の空を見つめた。その視線は遠い過去の彼方へと透徹しているかのようで、表情には割り切れぬ切なさと追憶の色が滲んでいた。


「何年も前のことよ。学院の大訓練場で……私も、あの方をあのように見つめていたことがあったわ」


婦人の声は囁くように小さかったが、魂に焼き付いた記憶の重みを含んでいた。


「あの頃の彼も、あなたと同じように牛のように頑固でね。皆の前で自分の術式の正しさを証明しようと意地になっていたの。その結果……あの方は校長の前に轟然と倒れ伏し、魔力の暴走に呑まれて血まみれになって、息をしているのかどうかすら分からない状態になってしまった」


デイジーは伏し目がちにスカートの微かな皺を撫で、掠れた声で零した。


「あの瞬間、訓練場の脇で立ち尽くしていた私は……自分の心臓が生きたまま握り潰されたかのように感じたわ。あんなにも無力で、ただ最愛の人が倒れていくのを眺めることしかできない苦しみなんて……この生涯で二度と味わいたくないもの」


彼女は顔を上げ、再び柔らかな微笑みを浮かべると、籠をルシアの前へとそっと押し進めた。


「だからね、お家であなたの帰りを待っている方たちのためにも、このビスケットを食べて少し息をお抜きなさい。残りのことなんて、明日のお日様が昇ってから考えればいいのよ。世界が滅びるわけじゃあるまいしね」


デイジーの胸襟を開いた温かな言葉に、ルシアはまだ温もりの残る蜂蜜ビスケットを手のひらに包み込みながら、胸の奥深くに久方ぶりのぬくもりが染み渡っていくのを感じていた。


工科系の論理に三度の人生を浸してきた彼女にとって、公差、損失率、そして数値データこそが世界を理解するための言語であり、純粋な感傷を受け止めることにはいまだ慣れていない。


しかし、目尻に皺を刻んだこの壮年の婦人が向けてくれる優しさには、一片の偽りもなかった。


そして隣室で常に不機嫌面を晒し、重箱の隅をつつくような嫌味で自分を苛むビクターもまた、その陰で彼女の頭上を覆う嵐を一手に引き受けてくれていたのだ。それは言葉にされることのない、重厚極まりない庇護だった。


かつての彼がどれほど強大であったのか、ルシアには正確な実感が湧かなかった。


自らの実習教員の座を懸けたあの昇格試験において、ルシアはこの世界の人間が見たこともない術式を総動員して彼を床に叩き伏せた。


しかし、最終的な判定において、勝利を掴み損ねたのは彼女の側だったのだ。


学院の緻密な規則と、積み重ねられた術式の重厚な地層の前において、あの男が築き上げた高壁は真の意味で崩壊してはいなかった。


ルシアの認識において、ビクターとはその生涯の戦歴に「勝利」と「引き分け」の二文字しか刻まれていない怪物のような男だった。


そんな学院の雄獅子に完全なる敗北の苦汁を嘗めさせた存在——それこそが、かつて訓練場の冷たい石畳の上に彼をねじ伏せた、当代の学院長だった。


その校長の実力に疑いの余地はない。だが、その伝説的な偉人が最近晒した無様な姿を思い出すと、ルシアの視線は思わず虚空を彷徨いそうになる。


つい先日のことだ。廊下で偶然ルシアと出くわした校長は、好々爺然とした笑みを浮かべて長輩として励まし、気安く彼女の肩をぽんと叩いた。


その刹那、ちょうどルシアを迎えに執務室の外へ現れたカリーナが、何の予兆もなく影の中から姿を現したのだ。


帝国の最高学術の頂点に君臨する老人は、白髪の女公爵の双眸が純粋な狂気を孕んだ血赤色へと染まった瞬間、防御結界の初動術式を展開することすら放棄した。


後からルシアが耳にした噂によれば、幾星霜を生き抜いたあの底知れぬ校長閣下は、その場で見事な手際で頭を抱えて床に丸まり、カリーナという猛犬の氷のような嫉妬の炎が、廊下一帯を瓦礫の山へと変え尽くすのをじっと耐え忍んでいたという。


至高の強者としての尊厳など、塵芥のように踏みにじられていた。


何故なら、あの『事象干渉』という絶対の権能を前にしては、いかなる抵抗も事態を不可逆の虐殺へとエスカレートさせるだけだと誰もが弁えていたからだ。


彼女の気が済むまで殴られ役に徹することこそが、最も賢明な延命策だった。


婚姻を結んで初めて、ルシアはカリーナの持つ『事象干渉』が、どれほど絶望的な次元で理を捻じ曲げているかを骨の髄まで思い知らされることとなった。


前世において帝国全土を血祭りに上げ、大陸七つ分の理を力ずくで粉砕した狂気の権能。七大陸の頂点とされる最強の五人の中で、カリーナ自身が首位を自称したことなど一度もない。


しかし、残る四人の化け物たちは、その生涯を懸けてもこの女の論理基盤を打ち破る術を見出せなかった。


当初、ルシアは『事象干渉』の発動条件が極めて限定的なものだと無邪気にも思い込んでいた——カリーナ自身に直接結びつく事象にしか作用しない、と。


個の強大さなど、所詮は肉体の物理的限界に縛られるはずだった。だが、その甘い認識は、とある朝に無惨にも粉砕された。


その日、北境の公爵邸の分厚い羽毛布団の中で目を覚ましたルシアは、窓の外で猛威を振るう万年雪の吹き荒れる空を眺めながら、「少しお日様に当たりたいな」と何気なく呟いた。


彼女の腰を抱きしめて微睡んでいたカリーナは、寝起きの不機嫌さすら拭えぬまま億劫そうに赤い瞳を開き、ルシアの首筋に顔を擦り付けただけだった。


数秒後、北境全体の天候の概念が狂乱した。


連綿たる万丈の猛吹雪の天幕が、まるで巨大な刃で両断されたかのように引き裂かれ、眩いばかりの暖かな黄金の陽光が垂直に降り注いだのだ。


公爵邸の中庭で何百年も凍結していた古木たちが、悲鳴のような芽吹きの音を立てて狂ったように枝葉を伸ばし、翠緑の若葉と鮮血のような紅い花弁が氷原を埋め尽くすように爆発的な勢いで咲き乱れた。


ルシアはその光景に眠気など消し飛んで戦慄した。後にルーカスから説明を受けて初めて知ったのだ——カリーナの思考論理において、『自身』の定義とは『所有物』と同義であり、自らの肉体すらも『所有物』という概念の一端に過ぎないのだと。


北境の広大な凍土は、帝国の法において彼女の名の下にある。この大地はすべて私有財産なのだ。


従って、北境の空に雪が舞うか陽光が照るかは、この女が寝返りを打つ際の一時の気紛れひとつで書き換えられてしまう。


そして、この唯心的な支配が最も致命的な形で牙を剥いたのが、あの婚姻誓約書にサインを交わした瞬間だった。


署名を済ませたその刹那、ルシアという存在は「正当なる伴侶」として、因果律の次元においてカリーナの分かち難い『所有物』の領域へと完全に組み込まれてしまったのだ。


それは即ち、カリーナがルシアに対して絶対的な支配干渉権を握ったことを意味していた。彼女がその気になりさえすれば、ルシアの生体構造すら意のままに改竄できてしまうのだ。


あのあまりにも荒唐無稽な夜の出来事を、ルシアは生涯忘れることができないだろう。


あの晩、カリーナは何の気紛れに支配されたのか、無言のままその権能を振り翳し、ルシアの華奢で小柄な身体の下側——即ち、女の子としての特異な生体構造を、力ずくで男の器官へと作り変えてしまったのだ。


それは三度の生を経験してきたルシアにとっても、想像の埒外にある混乱の極みだった。


惜しむらくは、本来の身体に慣れきっていたルシアが一晩中ひどく居心地の悪さと戸惑いを拭えなかったこと、そして生粋の捕食者であるカリーナが、魂の深部に刻み込まれた独占欲ゆえに、ベッドの上で「侵入される側」へと回ることを生理的に激しく拒絶したことだった。


そのあまりにも歪な試みは、結局のところ一夜限りであっさりと封印されることとなった。


対照的だったのは翌朝のクレアだ。優雅に紅茶を啜りながら、その紫の瞳に隠しようもない濃厚な好奇心と爛漫たる悦楽を浮かべ、事あるごとにルシアへ「たまにはあのような趣向も悪くありませんわね」と執拗に仄めかしてくる始末だった。


もっとも、カリーナもクレアも自らの肉体構造を変える気など毛頭なく、ルシアもクレアの相手をする際に稀にカリーナへ頼み込む程度にとどまっていた。


何にせよ奇怪な体験であることに変わりはなく、その度にルシアは一刻も早く終わらせて元の身体に戻りたいと焦燥に駆られるばかりだった。


理不尽で、覇道で、自然の摂理など爪の垢ほども意に介さない。


『事象干渉』という力は、この常軌を逸した思考回路を持つ女の手に掛かれば、世人が想像するよりも百倍は深く、恐るべき支配力を発揮する。


彼女はこの大陸で最も危険な天災であると同時に、毎朝、ルシアの零した些細な呟き一つで、北境全土の極寒を春へと塗り替えてしまう偏執的な愛人そのものだった。

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