様変わりした女公爵と、甘やかな痛み
午後の日差しがシルヴィア侯爵邸の豪奢なステンドグラスを通り抜け、ビロード張りの長いソファの上にまだらな光の影を落としていた。
室内は静まり返り、銀のポットから立ち上る上質な白茶の白い湯気と、一匹の「ボロ雑巾」が時折漏らすかすかな喘ぎ声だけが響いている。
ルシアはすっかり骨抜きになったように脱力し、クレアの柔らかく温かな太ももに顔を深く埋めていた。両腕はソファの両脇へ力なく垂れ下がり、過度の疲労のせいで指先すら白く強張っている。
身にまとったシルクのシャツは皺だらけで襟元も歪み、ぼさぼさに乱れた黒髪は枯れ草のようにクレアの華麗なドレスの上に散らばっていた。その姿たるや、まるで十頭ものマンモスに代わる代わる踏み虙じられた挙句、部屋の隅に投げ捨てられて埃と怨嗟を吸い尽くした廃棄雑巾そのものだった。
クレアの手入れの行き届いた細く優美な指が、ルシアの髪をゆっくりとすき抜け、的確な力加減で熱を帯びるほど凝り固まったこめかみを揉みほぐしていく。
「それで? 私たちの気高く万能なる奥様は、本日まだ立ち上がることができて?」
クレアの口元には微かな笑みが浮かんでいた。その声音には三分の労わりと、残り七分の商売人らしいからかいと呆れが滲んでいる。
「……無理です」
ルシアはクレアの太ももの奥から、くぐもった声を絞り出した。まるで廃車寸前の蒸気バルブのように嗄れた声だ。
「物理的な意味で……背骨も神経シナプスも完全に破断しました……棺桶には放熱孔と魔晶石の接続ポートを空けておいてください、よろしくお願いします……」
過ぎ去ったこの丸一ヶ月は、ルシアにとって太古の絶嶺の猛吹雪よりも過酷な連続拷問以外の何物でもなかった。
狩猟祭が終わるや否や、長老会と神殿のくたばり損ないどもが山のような公文書を抱えて押し寄せてきたのだ。彼女が逆演算して崩壊させた古代術式やその他の学術論文にケリをつけるため、毎日最低三万文字以上の『術式公差及び構造逆流分析報告書』を提出させられた。
インクは指の節々まで染み込み、羽ペンは優に三ダースを摩耗させ、偏屈な学者連中には魔導回路展開図の端の公差が〇・二ミリを超えていると難癖をつけられる始末。
さらに悲惨だったのは帝都魔法学院だ。彼女が過去に忘却されていた期間の遅れを取り戻すためと称し、役員どもはこともあろうに「一日十コマぶっ続け」という地獄のカリキュラムを正当な顔でねじ込んできた。
早朝の初歩魔導力学から始まり、黄昏時の禁呪回路パッケージング講義に至るまで。教壇の下から向けられる純粋な知識欲(しかしルシアが黒板消しに頭を打ち付けたくなるほど不器用な)に満ちた貴族の坊ちゃんや令嬢たちの視線を受け止め続け、授業が終わる頃には喉から煙が出るほど嗄れ果て、終業のベルが鳴った瞬間に教壇の上で事切れたふりをしたくなる毎日だった。
ただ講義をして報告書を書くだけなら、かつて地球で社畜をやっていたルシアという女はまだ耐えられたかもしれない。
だが、長生寺の一件こそが純粋な精神汚染だった。
長生寺の守護者であることが露見して以来、大陸のいずことも知れぬ僻地から湧き出た大量の隠遁僧や熱狂的な挑戦者どもが、連日寺の門前に陣取っては「天外の真理」を拝ませろと喚き立てるようになったのだ。
ルシアは毎週のようにカリーナによって馬車で現地へ護送され、タイムカードを押すように出勤させられた――剣を抜く気力すらなく、無表情のまま『走馬灯』を取り出し、詠唱すら省いて術式の残滓を乱暴に励起させると、その重い走馬灯をただの物理的なレンガのように挑戦者たちの頭上へ容赦なく叩き落とす。
叩きのめされた挑戦者たちは、記憶を失って号泣するか、頭を抱えて門前に跪き悟りを開いたと絶叫するかの二者択一だったが、ルシア自身も自分の脳漿が走馬灯と共に搾りかすになるまで磨り潰された気分だった。
だが――
これらすべてすら、ラクダの背をへし折る最後の藁には及ばない。
ルシアを真の意味でボロ雑巾へと干からびさせたのは、屋敷へ戻った後の「新婚生活」だった。
カチャリ。
寝室の外の廊下から、極めて微かだが、特有の冷徹な重圧を孕んだ軍靴の足音が響いてきた。
ルシアはびくりと反射的に身を震わせ、怯えたハムスターのようにクレアの下腹部とスカートの襞へと頭をさらに深く押し込み、苦悶の呻きを漏らした。
「……帰ってきた」
「愛しのカリーナ公爵閣下が?」
クレアは低く忍び笑いを漏らし、無防備なルシアの耳たぶを意地悪く摘まんだ。
「結婚前は『遠くから見守っているだけで十分だ』なんて嘯いていた自制的な女公爵様が、今やあなたが学院で女子生徒に視線を向けただけで、真夜中に公爵邸全体の気温を氷点下まで叩き落とす始末ですものね」
ルシアは苦痛に満ちた顔で目を閉じた。今日シルヴィア侯爵邸に逃げ込んできたのだって、純粋に追い詰められた結果だった。
結婚前のカリーナは間違いなく体面を保ち、孤高で、自制的で、互いの距離感を弁えた北境の白狼だった。だが、あの一枚の婚姻誓約書に血判が押された瞬間、彼女の内側にあった何らかのストッパーが音を立てて砕け散ったのだ。
独占欲は狂った蔦のように際限なく膨れ上がった。日中の激務を終え、折れそうな身体を引きずって夜這い戻ったルシアを待っているのは、温かい風呂ではなく、ベッドの縁に腰掛け、無表情のまま抜き身の佩刀を磨きながら恐るべき低気圧を放つカリーナの姿。
『今日の三コマ目、最前列の左端に座っていた伯爵令嬢は、なぜ質問の際に半メートルと離れていなかった?』
『帰りが十三分遅かったな。身体から長生寺の線香の匂いがする……あそこで誰と言葉を交わした?』
『ルシア、なぜ私を見ない? 私を堅苦しく退屈な女だと侮っているのか? 私の傍にいることを後悔しているのか?』
その患得患失の度合いは、もはや背筋が凍る領域に達していた。
たとえ瞼に鉛を流し込まれたように重く、大脳のニューロンが限界警報をけたたましく鳴らしていようとも、ルシアは最後の力を振り絞って這い寄り、カリーナの冷え切った大きな手に自らの指を重ねて一本一本撫でながら、嗄れた声で宥めすかさなければならないのだ。
『カリーナだけだよ……全大陸を探したって、私の魂と公差なく噛み合うのは貴女だけだ……後悔なんてしてない、変な想像はやめて……』
するとカリーナは狂気にも似た満ち足りた表情を浮かべ、あばら骨をへし折らんばかりの力で彼女を抱きすくめ、息も絶え絶えになるまで首筋に口づけを落とし続けるのだ。
「クレア……」
ルシアは温かな太ももの上に突っ伏したまま、疲労と悔しさから生理的な涙を滲ませた。
「今日こそは……カリーナが何を言おうと……私がすでに息絶えたと伝えて……私の遺体はこのソファの下に手厚く葬って……せめて八時間は寝かせて……」
クレアは胸元で完全に溶け崩れた無防備なボロ雑巾を見下ろし、その瞳の奥に昏く愉悦の光を宿らせた。優雅に身を屈め、赤みを帯びたルシアのうなじへと浅く歯を立てると、抱きしめた身体が細かく震え、いっそう脱力していく感触を楽しむ。
「それは困りますわ、私の可愛い奥様」
耳元で囁く吐息は蘭の花のように甘く、絹のように滑らかでありながら、決して退かぬ強欲さを秘めていた。
「今夜はカリーナが城壁の巡察に向かいましたから、私の当番ですもの。八時間の睡眠? 先週あなたが私の商会から引き出した三件の投資見積もりについて、今夜はベッドの中でじっくりと『釈明』していただかなくてはなりませんわ」
ルシアは完全に生命活動を停止した。魔力を吸い尽くされた紙切れのように、クレアの膝の上でただ尊厳を失った水たまりと化した。
太古の絶嶺で命を削っていた頃、こんな新婚生活が待ち受けていようとは夢にも思わなかった。
忘却の呪縛を打ち破り過去の記憶を取り戻したフェリンが傍にいてくれ、何事にも抜け目なく常に真っ先に後始末を引き受けてくれる桃香が控え、さらには大雑把なガルクが非番のたびに大きな包みを抱えて見舞いにやってくる。
ただ、そのガルクがルシアの胸に押し込んでいくのは、決まって教会秘蔵の最高級滋養強壮薬や骨髄の強壮膏ばかりだった。
言いたげで、畏怖と憐憫の入り混じったあの居心地の悪い視線は、ルシアに屈辱的な現実を容赦なく突きつけてくる――今や帝都の高官たちの間では、新公爵夫人が二人の正妻による閨の「過度な愛撫」によって骨の髄まで搾り取られているという噂で持ちきりなのだ。
「……勘弁してくれ」
ルシアがクレアの太ももの上で生ける屍と化し、指一本動かせずにいたその時、重厚で冷たい金属音を響かせ、温室の彫刻扉が無造作に押し開かれた。
晩秋の肌寒い隙間風を纏い、カリーナがまるで命を刈り取る死神のごとく足を踏み入れてきた。
防衛軍の本営から戻ったばかりの黒い軍外套を肩に羽織り、腰に佩いた長剣の留め具が静寂の中で不穏な音を立てる。
その深紅の双眸が長ソファを射抜き、黒髪のルシアがクレアの胸元で丸まり、硬く目を閉じながらも緊張で細い眉根を引き攣らせているのを目にした瞬間、カリーナを包む大気は一瞬にして氷点下へと叩き落とされた。
悔しさと苛立ちの入り混じった名状しがたい怒火が、胸の奥で爆発する。
この女は……狸寝入りを決め込んでいる。
あろうことかクレアの目の前で、こんな見え透いた手口で自分から逃れようとしているのだ。
「私の妻よ」
カリーナは一歩、また一歩と歩み寄った。革手袋に包まれた拳がぎしぎしと軋み、氷刃のように冷たい声が落ちる。
「私をそのように遇するべきではないな」
カリーナとて分かっていないわけではない。この一ヶ月、自分がルシアを追い詰めすぎていることも、ほとんど狂気に片足を突っ込んでいることも自覚していた。
だが、それがどうしたというのだ? すべてはルシアが先に蒔いた種ではないか!
前世において、最初に手を出したのはどちらだ?
この命知らずの錬金術師が、自ら閉ざされた氷の世界へ踏み込んできて、その不器用で傲慢な愛で乱暴に心を揺さぶったのだ。そのくせ、庭園の奥で勝手に命を落とし、禁忌を尽くして時間遡行の輪廻へ身を投じるよう彼女を狂わせた。
ようやく運命を塗り替えたと思えば、今度は忘却の石板による過酷な記憶の剥奪。どれほどの永夜の孤独と痛哭を耐え忍び、ようやくすべてを思い出し、万民の注視のもとで正々堂々とルシアを「妻」と呼べる立場を勝ち取ったというのに――
今さら、ようやくこの手の中に収めた命が、自分の前で目を閉じて死んだふりをするだと?
嫉妬と不安が毒茨のようにカリーナの神経を締め上げた。瞳の奥に病的な血走りを浮かべ、強引に身を屈めると、スカートの裾から覗くルシアの細いふくらはぎを鷲掴みにした。
手加減など毛頭なかった。己すら制御できぬ狂暴な独占欲に突き動かされるがまま、指先に無慈悲な力を込める――
バキッ!
耳障りで小気味よい骨の折れる破砕音が、温室の穏やかな静寂を無惨に引き裂いた。
電流のような激痛が全身を駆け巡り、ルシアは唇を強く噛み締めた。口内に滲む鉄の味。それでも彼女は声を漏らさず、瞼を開くことすらせず、額から冷や汗を滴らせながら、意地でも死んだふりを貫き通した。
正直なところ、嫉妬に狂ったカリーナに怪我を負わされるなど、この一ヶ月の新婚生活ではもはや日常茶飯事の余興に過ぎない。
この北境の猛々しき牝狼は、婚姻を結んで以来、狂気じみたまでに神経質になっていた。ルシアが道行く誰かに目を留めようものなら、学院で生徒と言葉を交わそうものなら、帰宅が五分遅れようものなら、カリーナの情緒の天秤はたちまち崩壊する。
激情に駆られて狂暴化し、奪われた我が子を取り戻さんとする野獣のように目の前のすべてに牙を剥く。だが、ひとたびルシアを傷つけてしまえば、次の瞬間には暴君から泣き叫ぶ幼子へと無様に退行するのだ。
取り乱して涙を流しながら、惜しげもなく最高階位の治癒魔力をルシアの体へと注ぎ込み、贖罪のように貴重な霊薬を次々と運んではベッドの傍らを片時も離れず、口づけと涙でルシアを溺れさせる。
その病的な反復は、今やグラフィエンとシルヴィア両家の侍女たちにとって見慣れた光景と化していた。
今となっては付き添いの桃香ですら、クレアを相手に「本日のルシア様が日没まで無傷でいられるか否か」で賭けを行う始末だった。
だが、ルシアが本気で腹を立てたことは一度もない。
彼女はカリーナという人間を理解しすぎていた。この女が背負ってきた人生の業はあまりに重く、苦しく、暗すぎたのだ。
幼くして敬愛する兄を失い、敵意に満ちたグラフィエンの家督争いと過酷な宿命の狭間で、ただ一本の剣を頼りに血反吐を吐きながら道を切り拓いてきた。喪失に慣れきり、冷たく頑丈な鉄の甲冑で己を覆うことでしか生きられなかった女公爵。
そんな無防備な鎧の隙間へ、身の程知らずにも強引に踏み込み、無理やり抱きしめてその温もりを暴き出しておきながら、残酷にもあっけなく消え去ったのはルシア自身なのだから。
ゆえに、ルシアには痛いほど分かっていた。目の前で取り乱し、涙に暮れ、嫉妬に狂うカリーナこそが、誰にも見せなかった魂の原風景なのだと。
統帥の威厳を脱ぎ捨て、公爵の冠を下ろした彼女は、侵すべからざる氷の彫像などではない。ただ見捨てられることを何よりも恐れている、脆く傷つきやすい一人の女に過ぎない。
実のところ、ルシアはこのカリーナにどこか病みつきになっていた。今のカリーナは生々しく温かく、息を呑むほど鮮烈な女の湿り気と依存を剥き出しにしてくれる。
……ただ、この女をからかう代償がいつも己の骨であるというのは、いささか高くつきすぎるきらいはあるが。
ソファの上で、クレアは最初から微動だにしなかった。
澄ました顔で紅茶を一口啜り、普段は向かうところ敵なしの従姉が、膝の上で死んだふりを続けるルシアという糸に操られ、いとも容易く感情を翻弄されている様を見下ろしている。
クレアの唇の端が意味深に吊り上がった。胸の奥底で、かすかな感嘆が漏れる。
誰もがルシアを、この権力と情欲の遊戯における哀れな被害者であり、二人の正妻に弄ばれるボロ雑巾だと思い込んでいる。だが、人の性を知り尽くしたクレアだけは冷徹に見抜いていた――真に恐るべき支配者は、このルシアなのだと。
従順の仮面を被り、不器用な包容力を差し出し、あえて己の肉体を餌に差し出すことで、グラフィエンとシルヴィアという帝国屈指の誇り高き女を、己なしでは息もできぬ狂犬へと調教してみせたのだから。
少なくとも、このひと月足らずの新婚生活において、北境の歴戦の将将も商会の従僕たちも、等しく奇跡を目の当たりにした。
かつて世界に対して冷徹な沈黙しか返さなかったグラフィエン女公爵が、ルシアの腕の中で、ついに情欲と執着に身を焦がす「女」へと作り替えられたのだ。
折れた脚の鈍痛に耐えながら、ルシアは冷たい空気を深く吸い込み、ソファの柔らかな座面に両手をついて、紙のように薄い身体をどうにか反転させた。
クレアの滑らかな太ももからゆっくりと身じろぎして離れ、痛覚を失った脚を引きずりながらソファの端へと這い寄る。
殺気を漂わせ、瞳を充血させた白髪の女公爵を前にしても、ルシアは微塵も怒りを見せず、ただ諦めたように息を吐くと、細い両腕をゆるりと広げてカリーナを手招いた。
それは明白な合図だった――「おいで、抱きしめてあげるから」
先ほどまで極氷の地獄から這い出たかのように荒れ狂っていた北境の戦乙女の殺気は、その一瞬で跡形もなく崩壊した。
カリーナは佩刀がテーブルの端を叩く音すら構わず、よろめくようにしてルシアの華奢な胸元へと身を投げ出した。
高身長で豊満な肉体が、小柄な黒髪の少女を完全に覆い隠す。傷を負ってようやく巣へ帰り着いた巨大な白狼のように、美しくも冷たい顔をルシアの首筋と胸元へ無防備に埋め、彼女の体温、汗の匂い、そして微かな薬草の香りを、貪るように荒々しく吸い込んでいく。
ルシアは指先を伸ばし、呆れつつも限りなく愛おしそうに、カリーナの背に広がる白銀の長い髪を梳いてやった。
すべては計算づくだった。この黒髪の小狐は、カリーナの防壁を突き崩す術を誰よりも心得ている。前世の兄の亡霊に囚われ、万年氷の奥に心を凍りつかせていた鉄血の統帥に比べれば、この鮮烈で偏執的で、己に病的なまでに縋り付いてくるカリーナを、ルシアは心底から愛していた。
嵐のように目まぐるしい新婚生活ではあるが、胸を満たす確かな幸福感は、二度の生を合わせても味わったことのないものだった。
……もちろん、この公爵閣下が嫉妬の際のエネルギー放出公差をもう少し見直し、事あるごとに骨を粉砕するのではなく、首筋を甘噛みする程度の手法に切り替えてくれれば、言うことはないのだが。
温室の扉の外、廊下の物陰に控えていた侍女たちは、盆の上の茶菓子と煮出したばかりの接骨薬を手に息を殺していた。
「威風堂々たる帝国公爵が、小柄な学者の胸で赤子のように甘えている」という異様な光景にもとっくに慣れきり、むしろ温かな涙すら浮かべている。
それもそのはず、グラフィエン家に三代仕えた頑固一徹の老執事が、数十年笑み一つ見せなかった氷山のごとき令嬢が、あろうことかルシアの膝元で人並みに泣きじゃくる姿を目撃した際、あまりの感情の激動に脳卒中を起こして卒倒したのだ。
老人は今なお半身不随のまま病床にあるというのに、毎日車椅子に己の身体を括り付けさせては温室の扉前まで運ばせ、口元を歪めて涙を流しながら、ルシアが如何にして脆い女公爵を手玉に取っているのかを満足げに「監視」し続けているのだから。
トクトクと刻まれるルシアの心音と優しい愛撫に包まれ、カリーナの乱れていた呼気はようやく凪ぎ、強張っていた筋肉も解れていった。
「……ん」
ふと、自分が失態を演じていた泥沼から我に返ったように、カリーナは先ほどへし折ってしまったルシアの脚の感触を思い出した。
決まり悪そうに、されど極めて強引に体勢を変えると、長い腕で小柄なルシアの身体を軽々と抱き上げ、己の温かな胸の中に囲い込みながら、クレアの隣へと腰を下ろした。
カリーナは赤らんだ瞳を伏せ、ルシアの折れた足首へそっと手を添えると、その掌から高位治癒魔法の柔らかな白い光を灯らせた。そうして、何食わぬ顔で話題を逸らす。
「そういえば……来週からの建国記念祭の休暇はどう過ごすつもりだ? 学院の補講は片付いたのだろう? 予定がないのなら……私と祭りを見物しに行かないか?」
「お祭り……?」
ルシアは微かに首を傾げた。その墨緑の瞳に一瞬の戸惑いが走り、次いで滅多に見せない興味の色が灯る。
泥濘と風雪の中で這い蹲っていた前世の錬金術師の時代も、魔法学院と神殿の間で摩耗し続けた今世の社畜生活においても、彼女の人生は常に術式と生存の脅威だけで埋め尽くされていた。
街に掲げられた色とりどりのリボン、夜空を彩る花火、芳ばしい焼き肉の匂いに包まれる祝祭を、普通の少女のように楽しむ余白など、半日たりとも与えられたことがなかったのだから。
彼女はカリーナの僅かな期待の滲む顔から視線を外し、温室の長い彫刻机の片隅へと何気なく目を向けた。
幾重もの恒温と防湿の結界が施された水晶の小箱の中に、帝国最高枢密院の金印が捺された婚姻誓約書の控えが何十通も整然と積み重なっている。
クレアの率いるシルヴィア商会の病的なまでの周到さと、カリーナの軍閥仕込みの横暴さが結託して生み出した産物――たとえ帝都の大図書館が灰燼に帰そうと、神殿が天罰を下そうと、この婚姻契約を物理的に消滅させることなど絶対に不可能な代物だ。
箔押しの羊皮紙には、「カリーナ・グラフィエン」と「クレア・シルヴィア」という、帝国を揺るがす二大貴族の名が並び立っている。
そしてその中央、二つの尊貴なる名に挟まれて刻まれているのが、「ルシア」の名だ。
ただ、「ルシア」の正式な署名の隣には、酷く目を引く二文字の四角い異国の文字が、精密な筆致で添えられていた――【村雨】。
符文回路と表音音節のみで構成されるこの世界の言語体系において、この二文字は公式の辞書のいかなる場所にも存在しない。
言うまでもなく、魔法学院で顔を合わせるたびに毒舌を吐き合ってきた親友にして好敵手、あのヴァレリーの仕業に違いなかった。酒に酔い潰れたか、あるいはこの二人に脅迫紛いの取引を持ちかけられ、ルシアの真名をあっさりと売り渡したのだろう。
カリーナの胸に抱き締められ、治癒魔法によって骨の軋みがむず痒い再生感へと変わっていくのを感じながら、隣では優雅に茶を口に運び、唇に愉悦の冷笑を浮かべるクレアが寄り添っている。
ルシアは長く息を吐き出した。その墨緑の瞳の奥に、自嘲と諦観の波紋が静かに広がる。
どうやらこの二人の女は、彼女の現在と未来を独占するだけでは飽き足らず、別世界に属する彼女の過去と魂の残滓に至るまで、何ひとつ逃さず喰らい尽くすつもりのようだった。




