よろしくね、夫人閣下
公爵家の紋章を戴く、六頭の甲殻地牛に牽かれた巨大な黒檀の馬車が、砕石と凍土に覆われた帝国の駅道を重々しく軋ませながら進んでいく。車輪の転がる音は鈍く、規則正しい律動を刻んでいた。
車軸に組み込まれた二重の衝撃緩和術式は極めて滑らかに機能し、窓枠の外では、太古絶嶺の数百里に及ぶ険阻な雪峰が、沈黙のうちに不可逆な速度で後方へと遠ざかっていく。
鉛色の荒涼たる雲は烈風に引き裂かれて千々に千切れ、痩せさらばえた亡霊の如き赤松の林が車窓の左右を矢庭に飛び去っていく。
戦火と術式に灼き溶かされ、再び冷え固まった黒褐色の残雪がそこここに散らばり、大地に刻まれた癒えぬ古傷の血痂を思わせた。
地平の彼方に広がる万年凍原の蒼白は、深秋に黄昏れる原野と連なる丘陵の波に、一寸、また一寸と呑み込まれていく。
半生の血潮を絞り尽くしたかの如く果てしなく、神の血と無数の屍を敷き詰めて駆け抜けたあの狩猟祭が、今、真の意味で……幕を閉じたのだ。
車内には贅を尽くした白貂の毛皮が幾重にも敷き詰められ、炭籠の白炭が微かな熱を放ち、外の骨を削る北風を跡形もなく遮断している。
ルシアはそのただ中で、カリーナの柔らかく、あまりに隙間のない抱擁に深く沈み込み、指一本動かすことすら叶わずにいた。
先刻、ルーカスとガルクが抜き差しならぬ斬り合いに雪崩れ込んだ際、カリーナは興を削がれたとばかりに、ルシアを連れて早々に北境へ引き揚げることを決めたのだ。
白髪紅瞳の女公爵は、馬車に乗り込んで以来その腕を一度たりとも緩めようとしなかった。しなやかで、内側に熱情を孕んだ掌は、精緻極まる鎖の如くルシアの腰と薄い背を優しく、されど抗いようのない力で抱き竦めている。
カリーナは顎をルシアの頭頂にそっと預けていた。鼻腔をくすぐるのは、黒髪の女に固有の、淡い薬草と墨の匂い。
馬車が揺れるたびに腕へ込められる力は、辛うじて取り戻したこの宝が二度と泡沫となって消え失せぬよう、肌の温もりを通して確かめているかのようであった。
ルシアは窮屈そうに首をわずかに傾げ、窓の外を飛び去る灰色の平原へ視線を投げた。その脳裏に、陣を引き払った折の光景がふと過る。
オースという、肚の底まで謀略に染まったあの教皇……不死鳥の猛威と各国の血腥い暗闘の最中にあって、驚くべきことにその細い命脈を繋ぎ止めてみせたのだ。
教廷の聖職者たちに抱えられ、白塗りの輜重車へと運び込まれた時の姿といえば、墓穴から掘り起こされたばかりのミイラさながらの有様であった。
咳き込むたびに包帯の端から血泡を零しながらも、包帯の裂け目から覗くその瞳だけは、相も変わらず人の神経を逆撫でする怠惰と悪意あるからかいを宿していた。
ほんの数分前までは面白半分に高見の見物を決め込んでいたというのに、いざ馬車へ乗り込む段になってあの満身創痍である。
長年の仇敵どもが「今を逃せば二度と手は下せぬ」と踏み、別れ際に散々叩きのめしたに違いなかった。
『ルシアさん、狩猟祭のこれっぱかりの手傷で、僕の命が果てるはずもありませんよ……』
あの男は去り際、車簾の隙間から、辛うじて動く指先を厭らしく振って見せたのだ。虫の息でありながら、その笑みはひどく刺々しかった。
『帝都へ戻られたら、せいぜい教廷へ僕を訪ねていらしてくださいね。なにせ……身分の高い方々が遺していった後始末の数々、大錬金術師たる貴女のお力添えがなければ、教廷の頑迷な年寄りどもは経典の一節すら満足に読めやしないのですから』
訪ねろ、だと?
教廷へ行けと?
ルシアの唇の端に、ひどく乾いた自嘲の笑みが浮かぶ。胸の奥底から込み上げてきたのは、途方もなく空虚な茫漠であった。
狩猟祭は終わった。不死鳥は屠られ、ガルクは生き延び、地を覆い尽くしていた上位魔獣は奈落へと退いた。
全軍を巻き込んだあの焼き芋の茶番劇すら、すでに過去の幻煙に過ぎない。
太古絶嶺の霜雪の中にあって、彼女の思考は残酷なまでに単純明快であった。公差を弾き、術式を編み、泥を啜って生き延び、傍らの狂人どもを一人たりとも死なせないこと。
あの頃の世界は暗く、身を切るように冷たかったが、少なくとも、次にどの凍石へ踏み出すべきかだけは疑いようもなく明瞭であった。
だが、今はどうだ。
戦火が鎮まったその先に、一体何が待ち受けているというのか。
間もなく辿り着く帝都、水面下で蠢く貴族たちの社交、セリフィア帝国の双子皇子が胸に秘めるそれぞれの野心、魔法学院にいまだ燻る政治的権謀術数……そして何より、背後から己を抱き締め、邸へ戻り次第「深酒の自傷歴を一から十まで清算する」と静かに宣告してきたカリーナの存在。
自分はまるで、猛吹雪の中で限界を超えて稼働し続け、歯車の目をすべて磨り減らしてしまった機械人形のようだった。
嵐が過ぎ去り、張り詰めていたぜんまいが緩んだ今、どの方向へ足を運べばよいのか、まるで見当もつかない。
道がどこへ通じているのかも分からず、繁栄を誇る帝都の敷石の下にどんな汚濁の罠が仕掛けられているのかも知れず、ましてやこの脆く傷だらけの肉体が、運命という理不尽な重車輪の軋みにあと何度耐え得るのかも、知る由がなかった。
迷妄は、骨髄へと音もなく染み入る冷雨のように、すべての思索を白く、鈍く浸食していく。
揺れる車室が心地よい微睡みを誘い、カリーナの胸の奥から響く規則正しい鼓動が、衣服越しにルシアの頬へと伝わってくる。
極限まで張り詰めていた神経が解けた刹那、耐え難い疲労が雪崩を打って押し寄せてきた。
窓外を流れる枯木と山影が滲み、重なり合い、やがて混沌とした灰色へと溶けていく。
鉛を流し込まれたかのように瞼は重く、女公爵の放つ冷涼な香気――牢獄の如くして温床でもあるその胸元で、小柄な女は墨緑の瞳をそっと閉じ、地を撫でる車輪の轟きに身を委ねながら、深く淀んだ浅い眠りの中へと落ちていった。
腕の中で小動物めいた黒髪の女の瞼が落ち、警戒をかなぐり捨てて身を沈めていく様を見下ろして、カリーナは細い切れ長の涼やかな目を眇めた。
呆れと苛立ちの混じり合った吐息を漏らし、しなやかで冷ややかな指先を伸ばすと、ルシアのまだ幼さの残る白い頬を迷いなく摘み上げ、容赦なく外側へと引っ張った。
「こんなところで狸寝入りを決め込んで、やり過ごせるつもりか? 帝都へ戻れば、貴様には山のような務めが待っているというのに」
女公爵の声は、いつもの揺るぎなき威厳と冷徹さを帯び、ルシアの耳朶を撫でるように低く落ちた。
「忘れたわけではあるまいな。貴様は名目上、帝都魔法学院の講師試補の身だ。皆が貴様を忘れ去っていたのをいいことに、随分と長逗留の無断欠勤を決め込んでくれたものだ――この職務の穴は、戻り次第、寸分違わず埋め合わせてもらうからな」
「むぅ……っ!」
頬を引っ張られたルシアは、尾を踏まれた猫のように跳ね起き、睡魔など一瞬で霧散した。微かに赤らんだ頬を押さえ、信じ難いものを見る目で仰ぎ見る墨緑の瞳には、抗議と狼狽がありありと浮かんでいた。
「そ、それを私の落ち度にされるのは心外です! 皆が私の存在を綺麗さっぱり忘れていたのに、私が勝手に講壇へ戻ったところで、学生や教授陣に不審者扱いされて叩き出されるのがオチだったじゃないですか……!」
その弁明なら、太古絶嶺の凍てつく夜の間に百度も千度も反芻していた。いかにも理路整然と、堂々たる口吻であった。
だが、カリーナは見下ろす視線を微塵も動かさず、血を宿した紅瞳にすべてを見透かした嘲りを浮かべていた。
帝都魔法学院は皇室と大貴族の後ろ盾を持つ最高学府であり、教職員の記録は厳重な魔導謄本によって管理されている。
たとえ世界の理が狂い、すべての人間から「ルシア」という名が抜け落ちようとも、学府の奥底に眠る魔力紋と雇用名簿をほんの一瞥すれば、彼女が正真正銘の教員であることなど即座に証明できたのだ。
要するに、この黒髪の狐は学院の煩瑣な講義日程に嫌気が差し、渡りに船とばかりに職務を放り出し、現実に背を向けたに過ぎない。
かつて皆に忘れ去られた時も同じだ――公爵邸の庭に大人しく留まり、カリーナとクレアに記憶と感情を紐解くためのわずかな猶予を与えていればよかったのだ。
骨の髄まで刻まれた癖や、残された公文書の痕跡を手繰り寄せ、二人の当主はたとえ名を思い出せずとも、この女が己らにとってどれほど欠くべからざる存在であるかを悟ったはずだった。
それなのに、ルシアの根底には、危難に直面するや否や殻に閉じこもり、あまつさえ逃亡を企てる悪癖が染み付いている。
他者を頼ることを頑なに拒み、大陸中を逃げ回り、風雪の中で自らの身を擦り減らすことを選ぶのだ。
そこまで思い至ると、カリーナの指先に籠もる力が無意識のうちに強まった。胸の奥底で、この小柄な愛人を純金の檻に閉じ込め、二度と外の空気を吸えぬよう躾け直してやりたいという暗い嗜虐の念が、再び鎌首をもたげ始めていた。
「見苦しい言い訳をするな。これとて、まだ手始めの一件に過ぎん」
カリーナは手を引くと、今度は慈しむようにルシアの乱れた黒髪を梳き始めた。その平坦な声の調べは、聴く者の背筋を凍りつかせるに十分であった。
「神殿の儀は当面、桃香が代行する手筈となっている。だが、『守護者』の権能と刻印を帯びた以上、貴様が永遠に放擲することなど許されん。つまり、学院の講義と昇任審査に追われながら、定期的に境を越え、極東の温泉郷へ赴いて長生寺の政務を執る必要があるということだ」
言葉を切り、カリーナの眼差しが一層暗く沈んだ。薄い唇が冷ややかに開き、もっとも致命的な刃を突きつける。
「そして何より――帝国の開闢以来、グラフィエン公爵家とシルヴィア侯爵家の家名を、どこの馬の骨とも知れぬ外部の者が勝手に騙ってよい法など存在せぬ。ルシア、貴様はすでに、ノースランド帝国の禁忌たる僭称の大罪を、その足で踏み抜いているのだ」
頭の中で、雷鳴が轟然と爆ぜた。
ルシアの顔から瞬時に血の気が引き、紙の如く蒼白に染まる。
あの狩猟祭の修羅場において、三帝国の戦士たちが戦意を喪失した極限の状況下、人心を掌握し虎の威を借るため、彼女はこの二人の当主の許しを一切得ぬまま、「グラフィエン」と「シルヴィア」の家名を都合のよい隠れ蓑として白昼堂々と弄んだのだ……。
血統の純潔と貴族の特権を至高とするこの国において、当主の血盟なき門閥の僭称は、極刑をもって断頭台へ送られても何一つ抗弁の立たぬ重罪であった。
「そ、それは……あの場を収めるための、緊急避難で……」
ルシアはからからに乾いた喉で唾を呑み込み、声の震えを隠すことすらできなかった。
しかし、奈落へ突き落とされたルシアの狼狽を余所に、向かいの革張りの長椅子に気怠げに身を預けていたクレアは、その高貴な紫眸を細め、計略が余すところなく結実した悦びを隠そうともせずに微笑んでいた。
「ですからね、これを解決する方法はただ一つ、わたくしたちが正式な書面を皇室の内務省と長老院へ差し出すことだけなのです」
クレアは身を優雅に滑らせ、洗練された冷やかな薔薇の芳香を漂わせながら近づいてきた。細く滑らかな指先が、血色の失せたルシアの頬に触れる。熱を帯びたその指腹が、強張った顎の輪郭を愛おしげに辿っていく。
「帝都の貴顕すべてに、わたくしたち三人が初めから神聖にして不可分な婚姻の契りを結んでいたと認めさせさえすれば……家名を騙った大罪も、愛する夫人が我が家の栄光のために奔走した麗しき美談へと早変わりいたしますわ。――そういうわけですから、これからの長き日々、どうぞよろしくお願いいたしますね。公爵、並びに侯爵夫人閣下?」
『夫人』――その二文字がクレアの艶やかな唇から零れ落ちた時、それは戯れの装いを纏いながらも、逃れ得ぬ鉄の戒めの重みを持って響いた。
奇妙なことに、最初の衝撃が引いた後、その病的な執着を孕んだ美貌を見つめるルシアの胸の鼓動は、思いのほか凪いでいた。
ふと鼻腔を掠めた香りに気づく。クレアもカリーナも、己の精神状態を細やかに見定め、心を鎮める効能を持つ香を纏い分けているのだ。
その微かな気遣いの端々に、二人が己に注ぐ執心の底知れなさが透けて見えた。
太古絶嶺で死線の狭間を彷徨いすぎた故か、あるいは魂の深奥において、いつかはこの二匹の牝獣に骨の髄まで喰らい尽くされる運命を予感していたからか。
端から端まで周到に張り巡らされた檻であることは痛いほど分かっていたが、疲弊しきった心臓は、もはや抗うための力すら呼び起こせなかった。
帝都へ戻ったとて、道程は果てしなく遠い。
彼女はヴァレリーの求めに応じ、共に大陸を巡って禁忌の眠る七つの神殿を踏破し、理の石板を揃えて地球への帰還を果たすと約束した。
だが、互いに絡め取られた現状を鑑みるに、故郷への道は予想を遥かに超えて険しく、遠い。
今の状況は、あまりに奇妙で、滑稽ですらあった。
ヴァレリーと石板を集める約束を交わしながら、皮肉にもその石板を現時点で唯一その身に宿している人間こそが、ルシア自身なのだ――
それは即ち、彼女自身が、同郷の友たるヴァレリーにとって打倒すべき宿敵として立ち塞がることを意味していた。
だが、ルシアの胸中に危機感は薄く、むしろこれでよいとすら思えていた。
現代からの転移者同士、いずれ決着をつけねばならぬ運命だとしても、この世界の土着民のように血反吐を吐き散らし、脳漿をぶち撒け合って争う必要がどこにあろうか。
卓を囲んで茶を啜り、菓子を摘みながら、チェス盤の上で、あるいは厳密な規則に則った遊戯で白黒をつける方が、余程理知的で美しい決着ではないか。
石板の謎は頭上に暗雲として垂れ込め、己は生ける秘宝と化し、その上、二大門閥の共有物たる「夫人」の軛まで課せられた。
この世界へ落とされたばかりの頃の自分なら、血眼になって逃げ道を模索していただろう。
だが、今はどうだ……。カリーナの温かな胸元に頭を預け、車室に満ちる安寧の香りを吸い込みながら、ルシアの胸中にあった現代人特有の合理主義と怠惰な諦観が、奇妙な調和を見せていた。
地球への帰還が気の遠くなるほど遠い夢であるならば、この異邦の地に留まることも……案外、悪くはないのではないか。
毎日生き残るための算段に追われ、魔獣の顎に命を投げ出す過酷さに比べれば、公爵夫人、侯爵夫人という至高の身分を傘に着て、帝国の心臓部で侍女にかしずかれ、湯水のように金貨を浪費し、暇潰しに精巧な機械梟のぜんまいを巻いては微睡む安穏な貴婦人の生涯……。
ルシアの瞼が、再び鉛のように重く落ちていく。
世界の救済など、土台面倒なばかりだ。心地よい惰眠に身を委ね、ただ平穏に飼い殺される道を選べるというのなら、誰が好き好んで身を削る修羅の道を歩もうとするだろうか。
腕の中の黒髪の女がようやく観念したように、重たげに瞼を閉じ、骨を抜かれた綿の塊となって己の胸の奥深奥へと沈み込んでいく様を、カリーナは見つめていた。
今度は、その赤らんだ頬を摘み上げることはしなかった。
ただ、極めて緩やかに、慈しむように睫毛を伏せ、腕の力を僅かに引き締める。
網を絞る猟師のように、かつて己とクレアが忘却の淵に沈んだが故に、自暴自棄となって強い蒸留酒を煽り、己の肉体を無残に痛めつけたこの女を、一片の隙間もなく胸壁の内に閉じ込めた。
車内は静まり返り、凍石を轢き潰す車輪の重い響きだけが、地底の遠雷のように低く響いている。
炭籠の銀炭が時折、微かな爆ぜる音を立て、銘木の粉末を焚き染めた香気が立ち上り、狭隘な空間を濃密に、肌にまとわりつくほど重く満たしていく。
いつの間にかクレアも座を滑らせ、絨毯の上に片膝をついていた。温もりを帯びた細い掌が毛皮の隙間から滑り込み、カリーナの重ねられた手背の上にそっと重なる。
もう一方の手は、ルシアの肩掛けから覗く白磁の手首を捉え、脈打つ皮膚を指腹で愛おしげに弄んでいた。
三人の女の呼気の満ち引きが、薄暗がりの中で、やがて寸分の狂いもなく同一の拍子へと噛み合っていく。
世の所謂「良識ある人々」というものは、己が内に秘めた醜悪な欲情に、得てしてもっともらしい看板を掛けたがるものだ。
この車中には豪奢な錦が敷かれ、極上の炭が熾り、外には万骨枯れる荒涼たる絶嶺が広がるというのに、中には長老院と内務省の朱印が捺された「婚姻の約定」が恭しく収まっている。
名分さえ整ってしまえば、断頭台へ直行するはずの僭称と冒涜の罪も、上流社会の閨房を彩る艶めかしい美談へと、易々と塗り替えられてしまうのだ。
だが、彼女らの胸を満たす歓喜だけは、紛れもなく本物であった。
カリーナは首を垂れ、乱れたルシアのつむじに鼻先を埋めた。その双眸に宿る病的な真紅は、炭火の光を吸って、飼い慣らされた獣のような倦怠を帯びていた。
これからの日々は、大凡このように過ぎていくのだろう。帝都にある公爵邸の奥深い回廊は暗く、庭には冬枯れを知らぬ鉄葉杉を隙間なく植えねばならぬ。
ルシアを二度と風雪の下へ晒すことは許さず、あの鼻を突く毒酒や硝石に触れさせることも金輪際禁じねばならぬ。
逃げることばかりを覚えたこの小鳥を、天鵝絨の積み重なる閨房深くに閉じ込め、朝には気の済むまで惰眠を貪らせ、昼下がりには書斎で学者肌の小言を漏らすのを眺め、夜には二人の肉体の狭間にきつく縛り付け、どれほど涙ながらに許しを乞うて身悶えようとも、爪の先ほども解放してやるつもりはなかった。
己の掌の内にありさえすれば、たまに茶器を蹴倒そうが、調合瓶を叩き割ろうが、それすらもこの上なく愛おしい光景に違いないのだ。
クレアの唇の端には、常に冷ややかで薄い笑みが貼り付いていた。侯爵家が帝都に誇る財力は、帝国全土の富を買い尽くすに足りる。
金貨と、類稀なる魔導貴金属と、底なしの甘美なる退廃をもって、この無知な術師の胸に残る「地球へ帰る」という未練を、一日、また一日と腐食させていく算段を、彼女はすでに心の中で冷徹に弾き終えていた。
朝の陽光が硝子窓を染める頃、乱れた髪のまま二人の間に挟まれ、弄ばれるように朝餉を口移しされるルシアの屈辱に濡れた貌。
あるいは建国慶典の夜、数式と機械ばかりを口にする無骨な女に、贅を尽くした豪奢な夜会服を着せつけ、顔を真っ赤に染めさせて二人の腕を取らせ、貴顕淑女らの嫉妬と羨望が渦巻く舞踏会の壇上へ、己らの戦利品として誇らしげに引き摺り出す光景。
それはまさしく、狂気的な独占欲に塗り潰された、救いようのない幸福の形であった。
ルシアとて、己の行く手に口を開ける底知れぬ深淵の暗さを、知らぬはずはなかった。この地に留まり、骨までしゃぶり尽くす二匹の毒蛇の共有物となること――
それは、残された人生における「自由」という名の一切が、円を描かれた一枚の羊皮紙の内に限定されることを意味している。
だが、極限の疲弊と揺り籠のような振動の中で、病んだ愛執を滾らせる二つの温もりに挟まれ、彼女の骨の髄に残っていた最後の抵抗すら、呆気なくほどけてしまっていた。
天下の騒乱も、神殿の石板も、遥かなる地球の土の匂いすら、荒野を轢き潰す重い車輪の響きの中に、遠く、遠くへと押し流されていく。
微睡みの混沌へ沈みゆく意識の淵で、クレアの忍び笑いと、耳朶に落とされたカリーナの湿り気を帯びた熱い口づけを、ルシアは確かに感じ取っていた。
抜き身の刃の冷たさも、降り注ぐ血煙も、帝国の未来を巡る謀略の数々すら、今の彼女にとっては塵芥ほどの価値も持たない。
この車がどこまでも走り続け、この方寸の檻が十分に温もりを湛えているのなら――
虚飾の礼法と甘美な鎖に縛られ、飼い殺されるだけの怠惰な貴婦人として、大凡、このまま泥の如く一生を終えてしまうのも、悪くはないのかもしれなかった。




