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行き先だけが同じだった  作者: みき


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第2話 元教師の話

 三十六年、国語の教師をしておりました。最後の十年は、生徒指導も兼ねて。


 教師というのはね、何百人もの生徒を送り出すんです。顔も名前も、正直、ほとんど忘れてしまう。薄情だと思われるかもしれませんが、忘れなければやっていけない仕事でもある。


 ただ、忘れられない生徒というのが、誰にでも、一人か二人いる。


 私の場合は、七年前に受け持った、ひとりの女子生徒です。仮に、Sさんとしておきましょう。


 Sさんは、よく図書室にいる子でした。私は図書室の担当もしていたので、自然と話すようになった。本の趣味が合いましてね。彼女は梶井基次郎が好きで、「先生、『檸檬』って爆弾の話じゃなくて、息継ぎの話だと思うんです」なんて言う。十四歳ですよ。たいしたものだと思いました。


 二年生の秋から、彼女は学校を休みがちになりました。


 教室で何かがあったらしい、というのは分かっていた。SNSで何かが回っている、というのも、断片的に耳に入っていた。私は学年主任に報告し、担任と共有し、保護者面談を設定し、スクールカウンセラーへの引き継ぎ書類を書きました。


 お分かりでしょうか。私は「手続き」は、すべてやったんです。


 一度だけ、廊下で彼女に呼び止められたことがあります。十一月の、寒い日でした。


「先生、ちょっとだけ話せますか」


 私はそのとき、職員会議に向かう途中でした。腕の中に資料の束を抱えて、五分後に始まる会議のことで頭がいっぱいだった。


「ああ、Sさん。——ごめん、今から会議でね。明日、図書室でどうかな。昼休みに」


 彼女は、笑ったんです。「はい、大丈夫です」って。いつも通りの、感じのいい笑い方で。


 翌日、彼女は学校に来ませんでした。その翌日も。

……ご安心ください、と言うのも変ですが、彼女は生きています。亡くなったわけではない。ただ、そのまま転校していきました。お母様の郷里に引っ越すと。手続きはすべて書面で済んで、私は最後に会うことも、結局できなかった。


 転校の少し前、彼女が図書室の返却ポストに、借りていた本を返していきました。本に、栞が挟まったままでした。星ノ浦の灯籠巡礼祭の、小さなパンフレットです。隅に、丸い字でメモがありました。


「いつか行く。手紙、出す相手はまだいないけど」


 それを見たとき、私は思ったんです。彼女はあの日、廊下で、私に何を話そうとしたのだろうと。


 それから七年、ずっと考えています。会議は、五分遅れて入っても、誰も困らなかった。資料は、机に置いてくればよかった。「明日」なんて、教師が一番言ってはいけない言葉だった。子どもの「ちょっとだけ」は、大人の「ちょっとだけ」とは重さが違うんです。それを、三十年もやっていて、私は知っていたはずなのに。


 この春、退職しました。送別会で、いい教員人生でしたと言われました。花束をもらって、頭を下げて、帰り道で、なぜか星ノ浦のパンフレットのことを思い出した。


 だから、行くんです。


 Sさん宛てではありません。彼女の住所も知りませんし、今さら私から何かが届くのは、迷惑でしょう。


 手紙はね、あの日の彼女に書きました。七年前の十一月の廊下に、まだ立っているかもしれない、十四歳の彼女に。


「先生は今、時間があります。何時間でも聞きます」と。


 届くわけがないのは、分かっています。灯籠は過去には流れない。でもね、教師を三十六年やった結論がひとつあるとすれば——届かないと分かっていても言うべき言葉が、世の中にはあるということです。


 私の話は、以上です。お粗末さまでした。

 

 堀口先生が腰を下ろしたあと、誰も、すぐには口を開かなかった。


 浅井さんが、ぽつりと言った。


「……先生。それ、先生のせいなんすかね。手続き、全部やったんですよね」


「やりました。だから七年、『私のせいではない』と思おうとしてきました」堀口先生は静かに答えた。「でも、責任の話と、後悔の話は、別なんですよ。若い人」


 僕は、膝の上のリュックを、知らないうちに強く掴んでいた。


『今、ちょっとだけ話せる?』


 廊下のSさんと、画面の中の航が、重なって見えた。僕は目をそらすように、窓の外の雨を見た。


「……はーい、じゃあ次、いきまーす」


 場の重さを断ち切るように、軽い声がした。髪の明るい、機材ケースの女の人だった。彼女はマスクを顎まで下げて、よく通る声で言った。


「莉子です。本名じゃないです。職業、インフルエンサー。フォロワー、先月までは三十一万人いました」

「先月までは?」と浅井さん。


「うん。先月までは」


 彼女は、にっこり笑った。

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