26 - 与えられていた合鍵にて
「“メフィストフェレス”っていう名前、あれはそもそもヨハン・ウォルフガング・フォン・ゲーテが書いた『ファウスト』っていう戯曲に出てくる悪魔の名前でね。自分を召喚したファウスト博士を願いを聞くことで堕落させて魂を地獄に連れていこうとしてるワケ。まぁ、物語では最後に神様の力で負けちゃうんだけど」
「はぁ」
得意げに話すヴァイオレット相手に俺は生返事で答える。
トルネルとスンドグレーンの二人が尋問室から出て行ってだいたい五分後かそこら、俺は話題が転がったついでにメフィストフェレスについてコイツから色々聞いていた。あんなにも好き勝手煽って来たんだ、知ってることは有り難く教えて貰おうってな具合に。
……で、こうなっている。
さっきこそ“今は精神を落ち着かせるためにも好きなことについて語らせた方がストレス軽減になるかも知れない”だとか思ったのは事実だが、だからってこんな長々と語られたらさすがに……。
「ゲーテはね、昔に実在したって言われてるファウスト博士と悪魔の伝説を下地にしてこの戯曲を書いたって言われてるの。当時としては有名な与太話だったみたい。で、あらすじなんだけど、本題が始まる前に色々あって。まずゲーテはこの作品を発表する二十年も前にファウストのプロトタイプ版を——
「あー……その、悪ィけど早く本題に入ってくれ。今は時間が無い」
いや、何ていうか、長い。まだ序章らしいのにここまでが既に長い。このままいけば話の最後まで延々と語り続けるだろう。
正直さっきの時点である程度は『こういう性格なんだろう』と思ってこそいた。話の内容的に古典文学好きとかか? そりゃこんなどこで使うか分からないような知識を持ってるヤツだ、世に言うオタク的なタイプの人間であっても何もおかしくはない。おかしくはないが……。
「何でよ! ……まぁ良いか、あんまり関係ないのはそうだし。まず序章なんだけど、天使たちが歌う中で神様に向かって一匹の悪魔が進み出て“賭け”を提案するワケ、これがメフィストフェレス。言うなれば“誘惑の悪魔”ってとこかな。曰く、『人間てのはまるでなっちゃいねぇ。神サマ、あいつらはアンタから与えられた理性をロクなことに使いやしねぇじゃないですか?』って話しかけるの」
「いや結局まだ序章なんじゃねェか! 時間無いっつってんだろが」
こうやって我慢の限界が来るほうが先だった。
つーか無駄に役になりきって悪魔の口調を演じられても困る。コイツ本当に自爆寸前にまで追い詰められてるのか?
「何⁉︎ さっきあんたが教え……ろ、って……」
「待てってオイッ‼︎」
俺からツッコミを受けて食ってかかろうとしたヴァイオレットだったが、怒鳴り返そうとしたところで明らかに不調をきたし始めたようだった。少女の目が裏返って白目になり、口の端から泡が流れ落ちる。そして顔色は目に見えて蒼白に染まっていく。倒れてもなお引き攣って硬直していく体。
つまりストレス限界値の突破。
いやいや、怒鳴り返しただけでコレか……俺は相当危ない状況で長いことヴァイオレットの自爆を防いでいたらしい。
……てかそれだけの時間かけてまで取ってきたあの札まだ効いて来ねェのかよ。それとも、最大限の時間稼ぎとして効力はもう発揮してるんだろうか。
「気をしっかり持て! いま息は出来るか⁉︎ 気を落ち着けろ、息を吸って……吐い——いやこれだと出産だろ……」
思わず自分で自分にツッコミを入れて、若干自分で勢いを削いでしまった気がする。そんなこと思ってる暇すらないタイミングなのはまぁそうなんだが。どうも俺自身が思う以上に慌てているらしかった。
とにかく、俺はヴァイオレットに駆け寄って肩をゆする。治まっていたハズの、鉄骨が尋問室に向かって捻じ曲がり軋む重い音が壁の奥底から部屋全体に響いた。
「おい気絶しないでくれ! いま意識まで無くされたら……‼︎」
それこそつまり、タイムリミット。
『オイッ、前科モン! 今どうなってる、開けるぞ⁉︎』
と、扉の向こうからガンガンと戸が殴打される音が聞こえる。間違いなくスンドグレーンだった。軋む刑事局庁舎もそうだが、木戸の隙間から俺の声が漏れ聞こえてたらしい。
そして、ほぼ無理やり蹴破られるような勢いで扉は開けられた。
「どうした、ヴァイオレットちゃんに何かあったのか! 無事か⁉︎」
「加勢は必要か⁉︎ どうなってる⁉︎」
慌てふためいて騎士二人が飛び込んでくる。さっきからイヤに必死なスンドグレーンの後ろでトルネルもまた深刻そうな顔だ。
「だー、エラく必死じゃねェかクソッ! 俺の扱いとは大違いだ」
俺は返事代わりに悪態を一つと、それから軽口も一つ。
「言ってる場合かよ! そら野郎よりかは対処に必死になるっての‼︎」
「……トルネル、刑事局勤めの騎士としては若干いただけないセリフだぞ」
軽口だか本音だか分からないリアクションのスンドグレーンと真面目ながら何かズレた感じのトルネル。いや、ここでコイツらとトリオ漫才してる場合じゃない。事態解決の糸口を探らないと……。
「とにかく! そんなんより今はこっちが先だ‼︎ ヴァイオレットが気を失っちまう、そうなったら打つ手が無くなる! どうにかして意識を取り戻させてェんだ‼︎」
「意識だぁ⁉︎ そんな便利なモンあるワケが……」
狼狽えるスンドグレーン、しかしそんな同僚を押し退けてトルネルが前に進み出る。
「気付け薬があれば良いのか?」
「何かあんのか?」
「貸せ」
そう言ってトルネルは彼女の前にかがみ込んで、それから懐から小瓶を取り出した。瓶の中はクシャクシャに丸めた布切れが入っている。……布切れには何かシミみたいのが滲んでいた。
そして騎士は小瓶の蓋を開けるとヴァイオレットの鼻の前で軽く振ってみせる。
効果は直ぐに表れた。
「けほっ、かハ、ゲホゴホッ、げひっ‼︎」
ビクビクと体を引き攣らせていたヴァイオレットは嘘のように目を覚ます。というか水を飲み込みそこねた時みたいに咽せている。取り敢えず目を覚ましはしたが……。
一方でスンドグレーンは目を白黒させている。
「お、おいトルネル、そりゃ何だ⁉︎ 一体どこからそんな便利なモン……?」
「これは気付けにつかう『嗅ぎ塩』というものでな、興奮剤の一種だ。“向こうの世界”の古い貴族文化か何からしい。セムテシアでも、貴族のご婦人がたが持ち歩いているそうだ。香油に溶かしたものを布に染み込ませ、小瓶に封入して使う。クサカみたいな転移者連中が持ち込んだ物で……そうだ、たしか『炭酸アンモニウム』と呼ばれるものと——
「いまそんな解説なんか要らねェって、早く替われ! 後は俺がやる‼︎」
そう、トルネルにはここからヴァイオレットを救う手立てがない。しかしここまで来れば、後は。
「おい前科モン! さっきから何かアイディアはあるらしいが結局何するつもりだ⁉︎ 一体どうやって⁉︎」
ここまで見ていたスンドグレーンは疑い半分という様子だ、まぁ無理もない。
でも今までの“前提”から考えて間違いはないハズだ。なぜか今の俺には揺るぎない自信があった。
俺はトルネルに変わってビクビクと震えるヴァイオレットを抱き抱え、距離も考えずに叫ぶ。
「おいヴァイオレット、聞こえてるか⁉︎ 聞こえてたら俺の目を見ろ‼︎」
「こほ……ショーゴうるさいっ! 急に何——
「良いから目を見ろ‼︎ 早く‼︎‼︎‼︎」
相変わらず情緒不安定に振り回されがちなヴァイオレットに俺は怒鳴りつける。至近距離で怒鳴られてヴァイオレットの顔には戸惑いと怯えが見えた。こんなことをすれば自爆までの猶予なんてすぐに掻き消えそうだが、ならそれよりも先に解決すればいい。
そして、ここで洗脳が使えないと俺たちは全滅する。準備万端だ。
「“怯えるのも戸惑うのも分かるが”気にすんな、良いか? 今から“元の世界での磁石に関する記憶を全部忘れろ、厄介なトラウマなんて忘れちまえ”」
やったことは簡単、そしてこれは誰の目から見ても俺にしか出来ない。つまり洗脳を応用して都合の悪い記憶を忘れさせたのだ。
俺はメフィストフェレスの言動やしたことを思い出す。
今までの俺の体験から、アイツがトラウマを利用した異能を転移者に仕掛けていたのは間違いなかった。そしてトラウマによるストレスが溜まることで転移者たちは時限爆弾のように自爆する。ここまで来れば仮説を立てることは簡単だ。
……つまり、洗脳を使って記憶を直接操作すれば自爆は制御できるんじゃないか?
ヴァイオレットは強張っていた体から嘘のように力が抜けてぐったりとなった。
熱に浮かされているみたいに額は汗で濡れている。
「お、おいコレ……大丈夫なのか? 明らかにヴァイオレットちゃん……」
スンドグレーンがおっかなびっくり尋ねてくる。
だが大丈夫だ、自信を持って俺はそう判断した。
「周り見るなり聞き耳立てるなりしてみろ。鉄骨が歪んで軋む音はもう聞こえて来ない」
「それは……そうだが……」
トルネルもまだ不安げなようで、ボソボソと声を絞り出す。
しかし当の俺自身はやり切った感で一杯だった。少なくともここで俺たち全員が死んでしまう展開は遠ざけられたという確信がある。
俺はヴァイオレットを抱き抱えたままその場にへたり込んだ。




