6.期待されない人
その日は閉店間際だった。
店長は先に帰り、紬と同僚の二人だけが残っていた。
本棚の間に、薄い夕方の光が落ちている。
「なあ、紬」
同僚が脚立の上から声をかける。
「はい」
「お前ってさ」
間がある。
「期待されるの、平気?」
紬は少し考える。
「どういう意味ですか」
同僚は笑う。
「俺さ、しんどいんだよね。ちゃんとしてるって思われるの」
脚立を降りる。
「できるやつだって思われると、できなくなったときが怖い」
紬は黙って聞く。
「だからさ、たまに思うんだよ」
軽い声で言う。
「誰にも期待されなきゃ、楽なのにって」
紬はその言葉を受け止める。
冗談の形をしている。
でも、奥が重い。
「本気ですか」
紬が聞くと、同僚は肩をすくめる。
「半分は」
沈黙。
同僚は、ふと紬を見る。
「お前はいいよな。なんか、いなくても大丈夫そうで」
冗談の調子。
紬はうなずく。
「そうかもしれません」
その瞬間、同僚の表情が少しだけ曇る。
「……違うだろ」
小さな声。
紬は言葉を探す。
見つからない。
同僚は机に肘をつく。
「本気でさ。期待されない自分になれたら、楽かなって」
紬は、ゆっくり手を伸ばす。
「形が変わるだけです」
同僚は眉をひそめる。
「何が?」
紬は触れる。
ほんの一瞬。
重くはない。
でも、深い。
“ちゃんとしている自分”。
頼られる感覚。
名前を呼ばれる声。
それが胸に落ちる。
同時に、何かが抜ける。
同僚は目を瞬く。
「……あれ」
少し考える。
「まあ、いいや」
脚立をたたむ。
「お疲れ」
いつもより、軽い声。
⸻
店を出て、シャッターを閉める。
紬は立ち止まる。
胸の奥に、残っている。
誰かに頼られた感覚。
名前を呼ばれる声。
温度がある。
でも、自分のものではない。
紬は思い出そうとする。
誰かに必要とされた記憶。
小さいころ。
母に呼ばれた声。
出てこない。
空白。
完全な空白。
紬は息を吸う。
分かっている。
これは、最後に近い。
やめればいい。
今なら、まだ。
胸の奥で、言葉が浮かぶ。
「私は——」
続かない。
古書店の扉が、内側から小さく鳴る。
風だろう。
紬は振り返る。
明日も、開く。
誰かが来る。
紬はゆっくり息を吐く。
「どうされましたか」
声は静かだった。




