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空白に触れる  作者: 世華
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5.声の行方

その女性は、入ってきた瞬間に分かった。


 重い。


 年齢は四十前後だろうか。

 黒いコートの袖口を、強く握っている。


 「ここで……」


 声が少しかすれる。


 紬はうなずく。


 「たぶん」


 カーテンの奥へ。


 向かい合って座ると、女性はすぐに言わなかった。


 長い沈黙のあと、口を開く。


 「泣き声を、思い出さないようにしたいんです」


 紬は、息を止める。


 「誰の、ですか」


 分かっているのに、聞く。


 女性は少しだけ笑う。


 「息子です」


 その笑いは、音にならない。


 「去年、事故で」


 そこで言葉が途切れる。


 紬は何も言わない。


 女性は続ける。


 「泣き声が、ずっと頭に残ってるんです。最後の日じゃないです。もっと前の、小さいころの」


 手が震える。


 「夜泣きとか、わがままとか、そういう声ばっかり」


 沈黙。


 「笑い声は、薄れていくのに」


 女性は顔を伏せる。


 「どうして、泣き声だけ残るんでしょうね」


 紬はゆっくり言う。


 「強いから、だと思います」


 女性は小さくうなずく。


 「全部、消えますか」


 紬は答える。


 「全部は、消えません」


 「……どこまで?」


 「形が変わるだけです」


 女性は長く息を吐く。


 「それでもいい」


 しばらくして、続ける。


 「本当は、忘れたくないんです」


 紬は目を上げる。


 女性はまっすぐ紬を見る。


 「忘れたら、ひどい母親みたいでしょう」


 声は静かだ。


 「でも、泣き声を思い出すたびに、息が止まる」


 紬は、ほんの少しだけ指を動かす。


 「覚えていたいものは、ありますか」


 女性は考える。


 「重さは、残したい」


 「重さ?」


 「抱き上げたときの、重さ」


 紬はうなずく。


 手を伸ばす。


 触れた瞬間。


 強い。


 小さな体の熱。

 泣き声。

 湿った頬。


 胸が圧迫される。


 息が詰まる。


 女性の手が、ゆっくりと緩む。


 目を開ける。


 「……静か」


 それだけ言う。


 涙は出ていない。


 「泣き声が、遠い」


 紬はうなずく。


 女性は立ち上がる前に言う。


 「ありがとうございます」


 そして、付け足す。


 「でも、完全に静かじゃない」


 少しだけ笑う。


 「それでいいです」



 女性が帰ったあと、紬はしばらく動けなかった。


 胸の奥に、重さが残っている。


 小さな体の重さ。


 泣き声は、まだある。


 消えていない。


 紬は口を開く。


 笑ってみようとする。


 音が出ない。


 喉の奥が、空っぽだ。


 代わりに、胸の奥が重い。


 紬は椅子に座る。


 これは、減っている。


 分かっている。


 でも、女性の「静か」という声が、まだ耳にある。


 静かにしてあげられた。


 それだけで、体温がある。


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