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冷血公爵は毎朝わたしを忘れ、毎晩もう一度恋をする  作者: 臥裳斗真


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第五章 自分の縫い目 ①


 十八日目の朝、公爵は私のカップに砂糖を落として、そのことに気づかなかった。

 ギルベルトさんが置いていった砂糖壺の蓋を開けて、角砂糖を一つ入れて、蓋を閉める。そのあいだ、公爵の目はずっと手帳のページの上にあった。


「ありがとうございます」


「何がだ」


「砂糖」


 公爵は顔を上げて、私のカップを見た。それから、自分の右手を見た。


「入れたか」


「入れました」


「……そうか」


 四日前は、訊く前に入れていた。今日は、入れたことすら知らない。

 私はしばらくカップの中を見ていた。


「何だ」


「何がです」


「見ている」


「見てません」


 公爵はそれ以上追及せずに、手帳へ戻った。前なら、もう少し嫌なところで粘られた気がする。

 袖口から見える白い枝は、十三本だった。

 昼に、エドガーさんの軍服が仕上がった。裂けた背中を裏から補強して、元の縫い目をできるだけ拾い直した。血の染みには触れていない。洗えば薄くなるものでも、洗わないほうがいいことはある。

 受け取りに来たレオンさんは、吊っていない左手だけで包みを抱えた。


「ありがとうございます」


「お母様に、渡せそうですか」


「四日にしてもらったんで」


「一日増やしただけですよ」


「気持ちの問題です」


「そういうものですか」


「たぶん」


 レオンさんは、包みを抱え直した。


「兄貴の声のこと、母には言わないでおこうと思います」


「そうですか」


「俺に言った言葉なんで」


 私は頷いて、それ以上は何も言わなかった。布に残っているからといって、全部を誰かに渡せばいいわけではない。声にも、行き先があるらしい。

 レオンさんが帰ると、作業台が少し広くなった。残っているのは、公爵の葬礼服と、ミーナの青いドレスと、店を閉める前に届いていた、名無しの客の白いシャツだった。

 シャツを手に取ると、公爵が目を上げた。


「それは」


「店に来ていた仕事です」


「店はもうないんだろう」


「仕事まで消えるわけじゃありません」


 袖口のボタンが一つ、取れかけていた。残っている糸は二本で、どう考えても、わざわざ職人に送るほどの傷み方ではない。


「変なお客さんなんです。一年くらい前から、男物の服ばっかり送ってきて。直すところも、こんなのばっかりで」


「自分で縫えば済むな」


「ですよね」


「金持ちなんだろう」


「相場の倍、払ってくれます」


「なら、金持ちだな」


「公爵様みたいな?」


「俺がそんな無駄遣いをするように見えるか」


 見えない、と答えようとして、襟元に目が止まった。裏返すと、襟の内側に小さな補修跡があった。

 赤い糸だった。細かい針目で、でも完全には揃っていない。返し縫いの二針目だけが、少し左に寄っている。

 公爵の外套に残っていた赤い糸と、よく似ていた。

 指を置いた。洗われすぎていて、ほとんど何も残っていなかった。石鹸と、冬の冷たい空気と、誰かがボタンを留める指。それから、ほんの一瞬だけ、声が来た。


「これくらい、自分で直してください」


 女の声だった。

 私の声だった。

 指を離すと、公爵がこちらを見ていた。


「何だ」


「……私の声がしました」


「前に直したんだろう」


「たぶん」


 それなら、おかしくはない。私は服を直す仕事をしているのだから、自分の声が残った服なんてこれまでにもあった。

 ただ、私はこのシャツに向かって、これくらい自分で直してと言った覚えがない。言った相手の顔も、思い出せなかった。


「公爵様」


「何だ」


「このシャツ、見覚えあります?」


 公爵はシャツを見た。少し長いあいだ、見ていた。


「ない」


 嘘には見えなかった。

 私は黙ってボタンを縫いつけた。針が布をくぐるたびに、なぜか公爵の袖口ばかりが気になった。


 翌日は、朝から雨だった。

 雪よりましだと思っていたけれど、こめかみのあたりが重い。針に糸を通していると、公爵がこちらを見た。


「頭が痛いのか」


「少し」


「雨だからか」


 手が止まった。


「……なんで知ってるんですか」


 公爵も止まった。今日は、手帳へ逃げなかった。


「知らない」


「またですか」


「ああ」


 私は額に手を当てた。雨の日に頭が痛くなるのは昔からで、マダムなら知っている。でも公爵に話した覚えはない。少なくとも、ここへ来てからは。


「横になれ」


「仕事があります」


「針を指に刺す」


「雨と関係ないです」


「怪我は怪我だ」


 前にも聞いた。同じ人だから、同じことを言う。そう片づけられるはずなのに、今日はうまく片づかなかった。


「公爵様」


「何だ」


「私たち、前に会ってません?」


 公爵の顔から、動きが消えた。


「ない」


「即答ですね」


「手帳にも、そう書いてある」


「何て?」


「君と以前会ったことはない、と」


「わざわざ?」


「ああ」


 変だと思った。会ったことのない相手について、会ったことはない、なんてわざわざ書く人がいるだろうか。

 手帳のほうを見ると、公爵はその上に手を置いた。閉じたまま。


「見せませんよね」


「見せない」


「ですよね」


 公爵には、それ以上は訊かなかった。訊く相手を、変えることにした。

 代わりに、ミーナの青いドレスを広げた。

 裾はもう切ってある。母親の形には、もう戻らない。腰を詰めて、肩を直して、袖を短くした。昔の服だったものが、少しずつミーナの服になっていく。


「それは、直しているのか」


「はい」


「元と違う」


「着る人が違いますから」


「残さなくていいのか」


「本人が、着たいと言ったので」


「そうか」


 公爵は、ドレスを見ていた。


「君は、残す仕事をするんだと思っていた」


 針が止まった。


「私も、そう思ってました」


「違うのか」


 考えた。マルタさんの上着と、エドガーさんの軍服と、ミーナのドレス。どれも、同じようには直していない。


「残したいものまで、同じじゃないので」


「……そうか」


 それだけだった。私は針を進めた。


 次の日の朝、公爵が来客で席を外しているあいだに、廊下でギルベルトさんを呼び止めた。


「一つ、訊いてもいいですか」


「何なりと」


「私、前にこのお屋敷へ来たことがありますか」


 老執事の手が、止まった。


「公爵様は、ないと言います。手帳にもそう書いてあるそうです。でも、私の縫い目が、このお屋敷の服に残ってるんです」


「……それで」


「確かめたいんです。自分で」


 ギルベルトさんは、しばらく私を見ていた。それから、何も言わずに頭を下げて、作業室へ戻っていった。

 公爵が戻ってきたあと、もう一度部屋に入ってきたギルベルトさんの足音は、ほんの少しだけ遅かった。


「ベル様。少々、お時間をいただけますでしょうか」


 ギルベルトさんは、私より先に公爵を見た。公爵が眉を寄せる。


「俺に許可を取るな。本人に言え」


「では」


 老執事は、私に向き直った。


「地下の衣装庫に、確認していただきたいものがございます」


「葬礼服に使うものですか」


 少し、間があった。


「……分かりかねます」


 ギルベルトさんが分からないと言うのを、初めて聞いた。


「どなたからの、ご指示ですか」


「旦那様からでございます」


 公爵が顔を上げた。


「一年ほど前の、旦那様から。ベル様が再びこの屋敷へいらして、ご自分で以前のことを確かめたいとおっしゃった場合に限り、と」


 部屋が静かになった。

 再び、という言葉が、胸の奥で嫌な鳴り方をした。私が公爵を見ると、公爵は窓のほうではなく、まっすぐギルベルトさんを見ていた。

 地下の衣装庫は、屋敷のいちばん奥にあった。階段を二つ下りて、鍵のかかった扉を三つ通る。公爵も、黙ってついてきた。


「公爵様も、知らないんですか」


「何があるかは、知らない」


「何があるかは?」


「置いたことは、知っている」


 変な答えだった。それ以上訊く前に、最後の扉の前に着いた。ギルベルトさんが鍵を差したまま、手を止めた。


「ここから先は、ベル様お一人で、と」


「俺も入れないのか」


「はい」


「誰の命令だ」


「旦那様の」


「面倒な男だな」


「否定はいたしません」


 ギルベルトさんは即答した。公爵が睨んでも、老執事は涼しい顔のままだった。


「怖いなら、待つ」


 公爵が言った。


「怖いとは言ってません」


「顔が言っている」


「公爵様より嘘が下手なので」


「それは困るな」


 同じ言葉だった。いつか、どこかで聞いた。


「行ってきます」


 扉が開いた。

 中は衣装庫というより、小さな作業室だった。窓はなく、壁際に古い棚が並び、真ん中に大きな裁ち台が置いてある。布を守るためなのか、空気がひどく乾いていた。

 灯りを点けると、最初に白が見えた。

 裁ち台の上に、一着の服が広げてあった。途中までしかできていない女物で、袖は片方しかついていないし、裾もまだ仮留めのままだ。胸元に細い銀糸が入っていて、その裏を、赤い飾り糸が一本、裾まで長く巡っていた。

 婚礼衣装だった。

 王都で流行っている形とは、少し違う。もっと簡素で、動きやすくて、裾も必要以上に長くない。仕立てた人間が、着る人の歩き方をよく知っている形だった。

 胸元の仮縫いに、顔を近づけた。赤い糸の、返し縫い。二針目だけが、少し左に寄っている。

 息が止まった。

 職人なら、自分の縫い目くらい分かる。これは私が縫ったものだった。分かるのに、覚えていない。婚礼衣装なんて縫ったことはないし、まして、自分が着るためのものなんて。

 布に触れた。声も匂いも来なかった。代わりに、自分の手の動きだけが残っていた。針を持つ指と、糸を引く癖と、縫い目の向きを直す爪の角度。全部私のもので、全部知らなかった。

 裁ち台の端に、小さな箱が置いてあった。中に赤い糸巻きが一つ入っていて、その下に、折り畳まれた紙があった。

 リネットへ、と書いてあった。公爵の字だった。

 開いた。短かった。


 この服は、捨てていい。

 直せば、君がなくしたものに触れる。


 二行だけだった。説明も、謝罪も、何の服なのかさえ書いていない。なくしたものが何なのかも。


「……勝手ですね」


 声に出た。書いた本人は、扉の向こうにいる。今の本人は、何も知らないのだけれど。

 捨てていい、と書いてある。だったら捨てればいい。誰に頼まれた仕事でもないし、私には関係のない服だ。そう思って、一歩下がった。

 裾の仮留めが、一か所外れかけていた。そのままにしておけば、生地がそこから引かれていく。胸元の赤い糸も、端の始末が途中で止まっている。

 気になった。腹が立つくらい、気になった。


「……そこ、曲がってる」


 自分の声だった。

 外套に残っていた声と、同じだった。曲がっています。最初の日に聞いた、あの声。

 裁ち台の右端に、針山が一つ置いてあった。私が手を伸ばせば、左手を使わずに済む場所に。

 直せば、触れる。何に触れるのかは分からない。分からないものに触れて、いいことがあった試しはあまりない。

 それでも、捨てていいと書いてある途中の服を、このままにしておきたくなかった。自分で縫ったものなら、なおさら。


「一針だけですから」


 誰に言い訳しているのか、分からなかった。

 赤い糸を通して、外れかけた裾を拾う。針先が、白い布を抜けた。

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