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冷血公爵は毎朝わたしを忘れ、毎晩もう一度恋をする  作者: 臥裳斗真


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第五章 自分の縫い目 ②

 その瞬間だった。

 いつもの痕とは違った。布の向こうから来たのではない。忘れていたものが、私の中から開いた。

 雪の匂いがして、公爵の外套が目の前にあった。私は赤い糸で、ほつれた裾を繕っていた。


「曲がっています」


「どこが」


「全部です」


「直せるか」


「直す前提で持ってきたんでしょう」


 雪が消えて、夜の古着屋の裏口になった。マダムはもう帰っていて、壁に背をもたせた公爵が、所在なさそうに立っていた。


「今日は、何を壊したんですか」


「何も」


「じゃあ、帰ってください」


「顔を見に来た」


「……そういうの、急に言うのやめてください」


「なぜ」


「針を刺すので」


 左の人差し指に、血の粒が浮いていた。公爵が私の手首をつかんでいた。


「だから、針山は右に置けと言った」


「毎回刺すわけじゃありません」


「毎回見ている」


「毎回来てるからでしょう」


「そうだな」


 広くて冷たい床の部屋だった。私は礼装の袖をつかんで、小さく数を数えていた。


「足を見るな」


「踏みます」


「俺を見ていろ」


「無理です」


「なぜ」


「近いので」


 公爵が、笑った。

 湯気の立つ紅茶のカップを、大きな手が私の前から遠ざけた。


「まだ熱い」


「子供じゃないです」


「昨日、舌を火傷した」


「忘れてください」


「無理だ」


 この部屋だった。真ん中の裁ち台に、まだ形になる前の白い布が広げてあった。私は赤い糸を、胸元の内側に通していた。


「白だけじゃ、つまらないです」


「婚礼衣装だぞ」


「だからです」


「なぜ赤なんだ」


「外套に使った糸が、余ってるので」


「そんな理由か」


「そんな理由です」


「内側だけ、この一本を切らずにつなげます。胸元から裾まで」


「見えないぞ」


「私が知ってればいいんです」


 同じ部屋で、公爵が私の前に立っていた。指輪も花もなくて、ただ、ひどく緊張した顔をしていた。


「これが、終わったら」


「何がです」


「この服が」


「はい」


「俺と、結婚してくれ」


 手から針が落ちた。


「今ですか」


「今だ」


「もっと普通の場所で言えなかったんですか」


「思いつかなかった」


「公爵様って、そういうところありますよね」


「返事は」


「服が完成してから」


「今、聞きたい」


「せっかちですね」


「君にだけは言われたくない」


 私は笑って、それから、はいと答えた。

 同じ部屋が、暗くなっていた。もう誰も笑っていなかった。公爵が、私の両肩をつかんでいた。


「聞け」


「嫌です」


「次は、君になる」


「何がですか」


「封印の担い手だ。王太后の次は、俺だ。その次に陛下が指すのは、たぶん君だ」


「どうして、私が」


「君は、俺を失いたくない」


 公爵の顔が、歪んでいた。


「封印が受け入れるのは、そういう人間だけだ。陛下は、それを知っている」


「だったら、一緒に逃げれば」


「北を捨てろと?」


「じゃあ、何とかしてください」


「する」


 嫌な声だった。


「何を」


 公爵は答えなかった。


「アルヴィン」


 そのとき初めて、私は彼を名前で呼んだ。呼ばれた顔を、私は知っていた。嬉しそうで、それよりずっと、苦しそうな顔だった。


「君の中から、俺を消す」


「……何を、言ってるんですか」


「俺を愛していなければ、君は次になれない」


「そんなことができるなら、封印のほうを何とかしてください」


「封印には、触れられない」


 もう決めてしまった人の声だった。


「俺にできるのは、君の中の俺に、蓋をすることだけだ。使えば術式ごと手放す。一度しか使えない」


「嫌です」


「生きてくれ」


「勝手に決めないで」


「忘れれば、苦しくない」


「あなたが決めることじゃない!」


 今の私より、ずっと怒っている声だった。


「私に、選ばせてください」


 公爵が目を閉じた。


「それが、できない」


「どうして」


「君が、俺を選ぶからだ」


 公爵の手が、白い服の上に紙を置いていた。私はそれを見ていた。


「もし、俺が間違っていたら」


「今の時点で、間違ってます」


 公爵は少しだけ笑って、笑ってしまった自分に腹を立てるような顔をした。


「鍵は、この服に残しておく。君がもう一度ここへ来て、それでもこの服を直そうと思ったら、開く」


「何が、ですか」


「君がなくしたものが」


「だったら、そう書いておいてください。知らないで直すのは、嫌です」


 公爵は、少し黙った。


「……書く」


「すまない」


「謝るなら、やめて」


「それは、できない」


「嫌いになりますよ」


「それでいい」


「嘘」


 頬に、手が触れた。

 光が見えて、針が床に落ちる音がした。

 息をしていなかったことに、苦しくなってから気づいた。吸い込んだ空気が乾いていて、胸と頭が同じくらい痛かった。目の前の白い服が、にじんで見えた。

 泣いていると分かったのは、頬に落ちたものを手で触ってからだった。


「……最悪」


 声が震えた。


「本当に、最悪」


 扉を開けると、公爵が立っていた。

 ついこの間、初めて会ったと思っていた人。

 一年前、何度も店の裏口に来ていた人。

 私の砂糖の数と、雨の日の頭痛を知っていた人。

 針山を、右に置く人。

 この服ができたら結婚しようと言った人。

 私の中から、自分を消した人。


「どうした」


 公爵が言った。

 近づいた。一歩、もう一歩。殴りたいのと、抱きつきたいのと、どちらも同じくらい強くて、結局、胸元をつかんだ。


「私の記憶を、消しましたね」


 公爵の顔が止まった。長い、沈黙があった。


「……消した」


「知ってたんですか」


「知っていた」


「最初から」


「ああ」


「全部」


「全部ではない」


 公爵は、私の手を払わなかった。


「君を消すと決めたことは、覚えている。決めるまで、一人で考えていたことも」


「じゃあ」


「でも、君と最後に何を話したかは、もう残っていない」


 同じ夜のことなのに、彼が一人で決めたぶんだけが、彼の手元に残っている。二人のあいだにあったぶんは、新しいほうから、もう持っていかれている。

 腹が立った。知っていたことにも、知らないことにも。


「前に会ってないって、言いましたよね」


「言った」


「手帳にも、そう書いてあるって」


「あれは、嘘だ」


「最低ですね」


「知っている」


「今は、どこまで覚えてるんですか」


 公爵は少し考えた。


「君が、店の裏で俺に文句を言っていた頃までだ」


 裏口の、立て付けの悪い扉の前。まだ恋人でも何でもなかった頃。そこから先が、もう彼の中にない。


「私たち、恋人でした」


「知っている」


「……覚えてるんですか」


「知っているだけだ」


「結婚するって、言いました」


「それも、知っている」


「どんなふうに言ったかは」


 公爵は答えなかった。少しして、首を横に振った。


「この部屋でした。仕立てかけの服の前で。指輪もなくて、花もなくて」


「……そうか」


「それだけですか」


「何と言えばいい」


「知りません」


「俺も分からない」


 廊下の向こうで、ギルベルトさんが動く気配がした。来なかった。たぶん聞いている。


「あのシャツも、あなたですね」


「……ああ」


「どうして」


 公爵は、少しだけ目を伏せた。


「君の縫い目を、手元に置いておきたかった」


 それ以上は言わなかった。言われなくても、もう十分だった。


「あなたも、私を愛してました」


「それは、疑っていない」


「どうして」


 少し、間があった。


「忘れている女に、ここまで腹が立つ理由が、他にない」


 思っていた答えと違った。


「腹が立つんですか」


「ああ」


「私に?」


「主に、自分に」


 公爵は、開いたままの扉の向こうを見た。白い婚礼衣装が、灯りの下にあった。


「今の俺まで、同じ女を気にしているなら」


 そこで言葉が止まった。続きは、なかった。

 私は待った。公爵は言わなかった。今は、それでよかった。それより先に、言わなければならないことがあった。


「公爵様」


「何だ」


「私を守りたかったなら」


 喉が詰まった。一年前の自分の声と、今の自分の声が、重なって聞こえた。


「最初から、私に選ばせてください」


 公爵の顔は、動かなかった。謝られるのも違う気がした。やった本人ではあるけれど、それを言われたときの顔を、この人はもう覚えていない。

 それでも、身体だけは逃げなかった。


「……そうだな」


 少し、間があった。


「覚えていないから、昨日の俺の責任ではない、とは言わない」


「じゃあ、どうするんですか」


「次は、君の答えを俺が決めない」


 それだけだった。

 私は胸元をつかんでいた手を離した。皺になっていたので、反射的に伸ばした。こんなときまで服が気になる自分が、本当に嫌になる。


「ベル嬢」


「リネットです」


 言ってから、自分でも驚いた。公爵も、少しだけ驚いた顔をした。


「今だけで、いいので」


「リネットと、呼んでください」


 公爵は黙っていた。左の袖口から、白い枝が覗いていた。十一本。あと十一回、朝が来る。


「……リネット」


 今度は、言い直さなかった。

 胸の奥が痛んだ。嬉しいからなのか、遅すぎるからなのか、分からなかった。


「はい」


 返事をするのが、精一杯だった。

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