第六章 次はあなた ①
次の朝、公爵は私をベル嬢と呼んだ。
「おはようございます」
「おはよう、ベル嬢」
それだけだった。昨日、私が頼んでリネットと呼んでもらったことは、もうこの人の中に残っていない。
分かっていた。分かっていたから、ちゃんと返事もできた。
「おはようございます」
「それは聞いた」
「……そうでした」
二回言っていたらしい。私は糸箱を開けた。針山は右端にあって、紅茶には砂糖が一つ入っている。針山も、砂糖の数も残っている。昨日、一度だけ呼んでもらった名前のほうが、先になくなった。
この屋敷に来たばかりの頃は、その順番が逆だった気がする。
「昨日、地下へ入ったらしいな」
「はい」
「思い出したのか」
「全部」
「そうか」
公爵は手帳を閉じた。
「手帳には、何て書いてあったんですか」
「君が思い出した、とだけ」
私は裁ち台に葬礼服を広げた。
「公爵様は、知ってるだけなんですよね」
「ああ」
「私たちが恋人だったことも、結婚の約束も」
「知っている」
「どんなふうだったかは」
「知らない」
平らな声だった。
私は針を取った。左の指を刺さないように。今日の公爵は、それを見ても手を伸ばさなかった。
昼前に、王太后陛下がいらした。
前と同じ黒いドレスで、前と同じ擦り減った指輪を、手袋の上から嵌めていた。今日はギルベルトさんの後ろに侍女が二人いて、二人がかりで大きな箱を運んできた。
「これを、見ていただきたいの」
箱の中には、黒いドレスが入っていた。古いけれど、捨てられてはいない。襟元にも袖口にも直した跡があって、黒一色に見えるのに、よく見ると使われている布が少しずつ違った。
「葬礼服ですか」
「喪服よ。先王が亡くなったときに着たもの」
手が止まった。陛下が、誰かをとても愛していたらしい人。
「左の袖が裂けたの。直せるかしら」
見ると、袖の内側が少し開いていた。
「直せます」
「捨てずに済む?」
「直せば」
「では、お願い」
軽い言い方だった。指輪に触れている指だけが、少し強かった。
「触っても、いいですか」
「ええ」
布に指を置いた。
最初に来たのは、冷たい石の床だった。香の匂いがして、たくさんの人の気配があるのに、誰も声を出していない。黒い手袋の手が、誰かの袖をつかんでいた。つかまれた袖は、動かなかった。
「あなたが、寒そうなのよ」
小さな声だった。返事はなかった。そこで途切れた。
「何か?」
陛下に訊かれて、少し迷った。
「女の人の声が」
「何と」
「あなたが、寒そうなのよ、って」
指輪に触れていた手が、止まった。
「……私ね」
「たぶん」
「誰に言ったのかしら」
答えられなかった。喪服を着た人が、寒そうだと声をかける相手は、たぶん一人しかいない。陛下も、それ以上は訊かなかった。
裂けた袖を裏返すと、古い裏地がだいぶ弱っていた。
「同じ布はありますか」
「ないわ」
「なら、似たものを当てます」
「新しい布?」
「はい」
「それだと、そこだけ何も残らないのね」
陛下が侍女に目配せをした。差し出された小さな包みの中には、細長く切られた古い黒い布が入っていた。
「先王の外套の裏地よ」
「……切ったんですか」
「ずっと前に」
「いいんですか」
「しまっておくより、使ったほうがいいでしょう」
意外だった。指輪を外せない人が、そう言うとは思わなかった。
受け取った布に、指が触れた。
冬の外気が来た。大きな外套が、誰かの肩にかけられる。かけた手は男の人の手で、かけられた肩は、ずいぶん細かった。
「似合わないな」
遠い声だった。そこで途切れた。
顔を上げると、陛下が待っていた。
「男の人の声が。似合わないな、って」
誰も何も言わなかった。公爵も、ギルベルトさんも、侍女たちも。
少しして、陛下が小さく笑った。
「それは、あの人だわ」
「分かるんですか」
「言いそうですもの」
記憶ではないのだと思う。それでも、その返事だけは迷っていなかった。
「自分の外套を着せておいて、似合わないって言うんですか」
「言うでしょうね」
「ひどいですね」
「ええ。ひどい人だったと思うわ」
思う、という言い方が痛かった。陛下は黒い布に指を滑らせた。
「顔も、声も、もう分からないのに。性格だけ、ところどころ腹が立つの」
私は少しだけ、公爵のほうを見た。似たようなことを言う人を、知っている気がした。公爵は気づいていなかった。
陛下は私の顔を見て、少しだけ笑った。
「全部を、同じ形で残しておかなくてもいいでしょう」
ミーナの青いドレスを思い出した。箱に入ってるより、着てるほうがいいです。
喪服の袖に、先王の外套の裏地を当てた。仮留めをして、一針、二針、三針。
作業台の隅で、銀の円盤が鳴った。
「前にも、ありました」
「続けろ」
公爵が言った。陛下も、小さく頷いた。
もう一針、糸を引く。銀の円盤が震えて、同時に、指先に何かが来た。
冷たい石の床と、動かない袖。さっきの声が、もう一度来た。
「あなたが、寒そうなのよ」
そのすぐあとに、別の布から、冬の外気と男の人の外套が来た。
「似合わないな」
二つの声が、縫い目を境にして、途切れずに続いた。
作業台の隅で、銀の円盤が跳ねた。鳴ったのではなく、跳ねた。置いてあった場所から、指一本ぶんずれていた。二枚の布のどちらでもなく、その両方をまたいでいる糸のほうへ。
私は針を止めた。
「……つながった」
「何が」
公爵が近づいてきた。
「別の布の痕が、縫い目をまたいで、続けて来たんです」
会話ではなかった。片方は喪服の日で、もう片方は、たぶんずっと前の冬だった。答えにもなっていない。二つの声は、縫い目をはさんで隣に並んでいるだけだった。混ざったわけではない。
陛下は何も言わなかった。指輪に触れている指が、白くなっていた。
「もう一度、できるか」
「分かりません」
「やってみて」
陛下に言われて、針を進めた。今度は何も来なかった。銀の円盤だけが、かすかに揺れた。
「駄目でした」
「でも、さっきは起きた」
公爵は布を見ていた。陛下も同じところを見ていた。
二枚の布と、二つの痕と、一本の糸。縫ったから、なのだろうか。
修繕が半分ほど進んだところで、陛下が侍女を下がらせた。ギルベルトさんも。
残ったのは、私と公爵と陛下の三人だった。身分の高い人が人払いをすると、だいたい、いい話は始まらない。
「リネット・ベル」
「はい」
「あなたに、話しておかなければならないことがあります」
陛下は、公爵の左手首に目をやった。白い枝が、十本。
「その印が尽きれば、北の封印は次の担い手を求めます」
私は針を持ったまま、待った。
「次に指すつもりなのは、あなたです」
待っていたはずなのに、手が止まった。
公爵が動いた。私と陛下のあいだに、半歩だけ入った。
「陛下」
「あなたも知っていたでしょう」
「可能性だけだ」
「ほかに、誰がいるの」
陛下は淡々としていた。
「どうして、私なんですか」
訊かなくても、もう知っていた。一年前の、あの暗い部屋で聞いた。
「次を指すのは、儀式を預かる者よ。今は、私」
「……陛下が、私を」
「人を担い手にするなら、封印が受け入れるのは、命より失いたくない人を持っている人だけ。代価を知って、それでも受ける人は、多くないの」
陛下は、自分の左の手首に目を落とした。そこにはもう、何もない。
喉が乾いた。
「私が、アルヴィンを」
陛下は、私の言葉の続きを言わなかった。代わりに、まっすぐこちらを見た。
「あなたをこの屋敷に呼んだのは、私です」
知っていた。最初の日に、依頼状の差出人として。
でも、その意味までは知らなかった。
「どうして、今まで黙ってたんですか」
「知ったら、あなたは私の喪服を縫わなかったでしょう」
縫い合わせた二枚の布が、まだ作業台の上にあった。
「……そのために、ですか」
「あなたが、もう一度アルヴィンを選ぶかもしれないと知っていて、呼びました」
「同じでしょう」
「ええ」
ひと言も、言い訳がなかった。
「アルヴィンが封印を受けた日に、代価があなただと分かった。その日から、次に誰を指せるか、考えていたわ」
「ひどいですね」
「ええ」
「本当に、ひどいです」
「そう聞こえるように、話しているの」
私は顔を上げた。
「どうして」
「そうしなければ、続けられなかったから」
初めて、陛下の声に疲れのようなものが混じった。指輪に触れる。
「私も、そうやって言われたことがあります。次は、あなただと」
「そのとき、先王陛下は」
「まだ生きていたわ」
「断れなかったんですか」
「断れたわ」
意外だった。
「断ったら」
「封印が落ちる。北に封じられているものが出て、どれだけの人が死ぬかは分からない」
「それ、断れるって言います?」
陛下は少し黙った。
「私は、そう言われたわ」
何も返せなかった。
作業台の隅の銀の円盤に、目が行った。
「人の代わりに、物を使ったことは」
「何度も。全部、拒まれたわ」
陛下は、少しだけ間を置いた。
「物だから、拒まれたのかどうかも、確かめていないの」
「じゃあ」
「持ち主を失った服を、保管庫から出して置いただけだった。残された人にとって何なのかまでは、確かめなかった。足りなかったのがそこなのかも、分からないまま」
陛下は、私の手元の針に目をやった。
「それに、痕を見分けて、残したままつなげられる人間もいなかった」
「……だから、私を」
「それも、半分」
「受諾書は、空欄のまま渡します」
私に、選ばせてください。一年前の自分の声が、耳の奥で鳴った。
「……いつまでに」
「彼の枝が、すべて消えるまで」
十本。あと十回、朝が来る。
「消えた朝に、継承が始まるわ。終わるまでには、少しだけ間がある」
「少しって」
「儀式一つぶん」
「陛下のときは、何年ももったんですよね」
「北が、年々重くなっているの。同じだけ払っても、もう長くはもたない」
「受けたら、何を失うんですか」
「受けた瞬間に、その人が命より失いたくない一人が、代価になるの」
「……私の場合は」
「アルヴィンよ」
言われる前から、分かっていた。
「今の、私を忘れているアルヴィンでも?」
「同じよ」
陛下は、公爵の袖口を見た。
「封印は、いちばん失いたくない人から奪うの」
公爵は、何も言わなかった。
「彼が失っているのは、あなたです」
「全部?」
「少しずつ。新しいほうから。最後には、あなたが誰なのかも、その想いが誰に向いていたのかも、分からなくなるでしょう」
「全部、ですか」
「手に染みたものまで消えるのかは、知らないわ」
陛下は、指輪を見下ろした。
「私のように」
喪服と、似合わないな、という声と、誰かをとても愛していたらしい、という言い方。
公爵の顔を見た。見てしまった。
「嫌です」
口のほうが先に出た。
「そう」
「嫌です」
「二回言わなくても、聞こえているわ」
「でも、北の人が死ぬんですよね」
「封印が解ければ」
「だったら、断れないじゃないですか」
「それでも、あなたが決めるの」
腹が立った。
アルヴィンにも。
王太后陛下にも。
封印にも。
選べと言われることにも。
選ばせてもらえなかったことにも。
「陛下は、後悔してますか」
陛下はすぐには答えなかった。長いあいだ、指輪を見ていた。
「分からない」
公爵と同じ答えだった。
「何を失ったのか、もう分からないもの」
それが、いちばん嫌な答えだった。




