第六章 次はあなた ②
次の日、公爵は私をベル嬢と呼んで、手帳を読み終えてから、葬礼服の袖に針を通していた私に訊いた。
「受けるのか」
「まだ、決めてません」
「そうか」
「止めないんですか」
「受けるな、と言いたい」
針が止まった。
「言えばいいじゃないですか」
「……君にそう言うほど、俺は君を知らない」
「そうですね」
「なのに、言いたくなる」
何も言えなかった。今の彼は、私の記憶を消したときのことを覚えていない。それでも、そうすると決めた自分のことは、知っている。
「……困りますね」
「俺も困っている」
少しだけ、笑いそうになった。
笑う代わりに、ずっと訊きそびれていたことが口から出た。
「最初の日に、どうして追い返さなかったんですか」
「最初の日?」
「私が来た日です。あの日の公爵様は、私のことを覚えてたんでしょう」
公爵は手帳を、ずいぶん前のほうまで戻った。
「追い返しても、陛下は別の形で君を寄越す、と書いてある。なら、目の届くところにいたほうがいい、と」
「それだけですか」
「もう一つある」
公爵の目が、作業台の隅の銀の円盤へ行った。
「あれを置いたのも、前の俺だ。君が布に触れれば、鳴るかもしれないと思ったらしい」
「鳴りましたね」
「半分は、当たった」
「もう半分は」
「何か見つかる前に、陛下が君を次の候補にした」
公爵は、それ以上は読み上げなかった。
午後になって、ミーナが青いドレスを取りに来た。
試着すると、ちょうどよかった。母親の服だった面影は残っているのに、もうちゃんとミーナの服になっていた。
「動いてみて」
ミーナがくるりと回ると、裾が少しだけ広がった。
「どう?」
「軽い」
「よかった」
ミーナは長いあいだ、鏡を見ていた。
「私、何て言ってたんですか」
約束していたので、袖を整えながら答えた。
「小さい頃のあなたが、これ着るのって訊いてた」
「それだけ?」
「それだけ」
「もっと何かないんですか」
「服は、そんなに親切じゃないので」
ミーナは少し残念そうな顔をして、それからまた鏡を見た。
「これにも、残ります?」
「何が」
「私のこと」
少し考えた。
「着てれば、たぶん」
「じゃあ、いいです」
それだけ言って、ミーナは青いドレスを着たまま帰っていった。空になった紙箱だけが、作業台の端に残った。
捨てる前に、裾を切ったときに出た青い端切れを、私は箱の底から拾い上げた。
次の朝、公爵は私が部屋に入ると、珍しく手帳を開く前に口を開いた。
「君の店の裏口は、まだ立て付けが悪いのか」
足が止まった。
「……どうして、それを」
公爵は、自分で言ったことに少し驚いた顔をしていた。
「知らない。そう思った」
一年以上前の、まだ顔見知りでしかなかった頃。店の裏口の扉が開かなくて困っていた私の後ろから、通りがかりの男の人が、黙って肩で押し開けてくれたことがあった。礼を言う前に、その人はもういなかった。
「店は、もう閉めました」
「そうか」
「裏口も、もう開けなくていいです」
「……そうか」
白い枝は、八本になっていた。
王太后陛下の喪服が仕上がったのは、その次の日だった。
左袖の裏には、先王の外套だった布が入っている。表からは見えないけれど、触れば少しだけ厚みが違う。
「着てみてください」
陛下が袖を通して、侍女が背中を整えた。
「どうですか」
「重くなったわ」
「裏地を足したので」
「違う意味で」
陛下は、左の袖を撫でた。
「何か、分かるんですか」
「いいえ」
少し、間があった。
「でも、前より捨てにくくなった」
「困りましたね」
「ええ」
陛下が笑ったとき、銀の円盤が小さく鳴った。
「陛下、少し、触っても」
「どうぞ」
袖に指を置くと、今度は男の人の声が先に来た。
「似合わないな」
続いて、黒い手袋が、誰かの袖をつかむ感触が来た。
「あなたが、寒そうなのよ」
女の人の声だった。王太后陛下の声だった。そこで、消えた。
私は息を止めていた。
「何と?」
「……陛下の声も、ありました」
「私の?」
「はい。男の人に、寒そうだって」
陛下が目を閉じた。長くはなかった。
「そう」
泣かなかった。指輪に触れて、少しだけ笑った。
「その人、寒がりだったんですか」
「知らないわ。でも、私なら言いそう」
記憶は戻っていない。それでも、その人とのあいだに自分がいた痕だけは、布に残っていた。
「二つの布を縫うと、こうなるの?」
「毎回じゃありません」
「でも、起きることはある」
「はい」
陛下は私ではなく、銀の円盤を見ていた。何かを考えている顔だった。
私も見た。二つの布、二つの痕、一つの縫い目。頭の隅に、何かが引っかかった。まだ形にはならない。針の先ほどの、小さな引っかかりだった。
次の日の朝、公爵は手帳を読みながら訊いた。
「昨日の俺は、君を何と呼んでいた」
「ベル嬢です」
「それだけか」
「どうして訊くんです」
「手帳に、名前がある」
「何て」
「リネット」
「呼びたいんですか」
「分からない」
「……一回だけなら、いいです」
公爵が、こちらを見た。
「リネット」
言い直さなかった。
「はい」
その次の日、王太后陛下から正式な書類が届いた。封印継承の受諾書で、名前を書く欄があって、その下に条件が小さな字で並んでいた。読めるけれど、読みたくなかった。いちばん下に、署名した者には儀式の線が先に向く、とあった。
「書かなくていい」
公爵が言った。
「北がどうなっても?」
「それを、俺に言わせるのか」
「公爵様の領地です」
「ああ」
「人が、死ぬかもしれない」
「ああ」
「それでも?」
公爵は書類を見た。
「君の一生を、領民の数で量る気はない」
少し腹が立った。
「格好つけないでください」
「つけていない」
「じゃあ、困ってください」
「困っている」
「もっと」
「無茶を言うな」
私は書類を折り畳んで、前掛けのポケットにしまった。署名はしなかった。まだ。
白い枝が四本になった朝、私は作業台の上に三枚の布を並べていた。
マルタさんの上着の襟を補強したときに外した、粉の染みた古い当て布。ミーナのドレスの裾を切ったときに出た、青い端切れ。エドガーさんの軍服を直したときに、裂けて使えなくなった灰色の布。
どれも、捨てる前に本人に確かめて、もらってきたものだった。役に立つとは思っていなかった。ただ、捨てるには少しだけ痕が残っていた。
「何をしている」
「試してます」
「何を」
「まだ、分かりません」
三枚を少しずつ重ねて、糸を通した。
一針目で、銀の円盤が揺れた。
二針目で、焼けた小麦の匂いがした。
三針目で、子供の笑い声がした。
四針目で、雪と、短い男の声がした。
別々の痕だった。それなのに、糸を進めるあいだ、一度も途切れずに続いた。焼けた小麦と、日の当たる部屋と、雪。何のつながりもない。誰も同じ人を愛していない。それでも布だけは、一枚の中で隣り合っていられた。
銀の円盤は、縫い目が増えるほど長く震えた。私の手でも、公爵でもなく、縫い合わせた布のほうへ向いて鳴っていた。
公爵が円盤を取って、裏返した。
「変だな」
「何がです」
「人ではなく、布のほうへ寄っている」
私は、三枚をほどかなかった。
顔を上げると、公爵が私を見ていた。
「今、何を縫った」
誰かが捨てきれなかった布と、誰かが形を変えて残した布と、誰かが持ち帰った布の切れ端。
「まだ、分かりません」
そう答えながら、もう一針入れた。銀の円盤が震えた。
公爵の袖口に、白い枝が四本見えた。
私は今度は、それを数えなかった。




