第七章 他人 ①
白い枝が三本になった朝、公爵は私の顔を見てから、手帳を開いた。
いつもと順番が逆だった。
「おはようございます」
「ああ」
名前は呼ばれなかった。ベル嬢とも、リネットとも。
公爵は手帳を二枚ほどめくって、途中で眉を寄せた。それからもう一度、私の顔を見た。
「古着屋の、仕立て屋だな」
「……はい」
「君が、リネット・ベルか」
「はい」
「王太后の依頼で、俺の葬礼服を作っている」
「はい」
「以前、オルガ古着店にいた」
「いました」
一つずつ確認されるたびに、自分の名前の横に値札を貼られているような気分になった。
紙で知ったことまで、もう朝を越えられなくなっているらしかった。
「それから」
公爵が、次のページに目を落とした。私は聞きたくないような、聞きたいような顔で待っていた。かなり変な顔だったと思う。
「俺たちは、結婚の約束をしていた」
「……はい」
「俺が、君の記憶を消した」
「はい」
「今は戻っている」
「戻ってます」
「君は、次の封印の担い手に選ばれかけている」
「そこまで書いてあるんですね」
「重要だからだろう」
他人の話をしているような声だった。
私は作業台のほうに目を逃がした。昨日縫い合わせた三枚の端切れが、そのまま置いてあった。
「それは」
「昨日、一緒に試したものです」
「俺と?」
「はい」
公爵は、隣の銀の円盤を見た。
「反応した、とある」
「かなり」
「何をした」
「痕の残った布を、三枚つないだだけです」
公爵が布を手に取った。粉の染みた黒っぽい当て布と、青いドレスの端と、灰色の軍服の切れ端。見た目だけなら、どう考えても一緒にする布ではない。
「ひどい配色だな」
「実験です」
「仕立て屋として、許せるのか」
「かなり我慢してます」
「そうか」
少しだけ、笑いそうになった。一つ見つけるたびに、明日またなくなる。
「昨日、考えたんです。これ、一着にしたらどうなるんだろうって」
「手帳にある」
「じゃあ、聞かなくても」
「君の口から聞きたい」
顔を上げた。公爵は、普通の顔をしていた。普通すぎて、かえって困った。
「どうして」
「紙だと、どこまでが昨日の俺の推測なのか分からない」
「私が言えば?」
「少なくとも、今日の君がそう思っているとは分かる」
今日の君、という言い方が、少しだけ胸に残った。
私は三枚の布を指で押さえた。
「封印が取ってるの、記憶だけじゃない気がするんです」
「何だ」
「分かりません。だから縫います」
「たかが布だろう」
「今、服を馬鹿にしました?」
「していない」
「ちょっとしました」
「面倒だな、君は」
「前からです」
言ってから、部屋が少し静かになった。前の私を、この人は知らない。
「……そうらしいな」
手帳を見ながら言われた。その返事は、思っていたより痛かった。
昼前に、王太后陛下がいらした。
陛下は三枚の布と、銀の円盤を順に見た。
円盤は、思い出したように小さく震えていた。
「私が受けた日も、それはこう鳴ったわ」
「人のときも、ですか」
「儀式の間で、ずっと」
公爵が円盤を取り上げて、裏返した。手つきに迷いがなかった。昨日も同じことをしたと、手帳に書いてあったのかもしれない。
「なら、封印が見ているのは人じゃない」
「記録には、そうは書いていないわ」
「記録を書いたのは、人を差し出した側だ」
陛下が黙った。
公爵は円盤を机に戻した。
「命より失いたくない一人、というのは、人の中で手放せない痕を一つながりで持っていられるのが、そういう人間しかいなかった、というだけかもしれない」
一つながり、という言葉が、針の先に引っかかった。
ばらばらのものを一つながりにするのは、私の仕事だ。
「じゃあ、持っていかれるのも」
「人なら、痕は頭の中にある」
「……だから、頭の中から」
「布なら」
公爵は、そこで止まった。続きを知っている人は、この部屋にいなかった。
「布の中にあるぶんだけ、だといいわね」
陛下はそれだけ言って、侍女に箱を運ばせた。
「もう一度、やってみて。別のものを持ってきたから」
侍女が置いた箱の中に、小さな布片が五枚入っていた。どれも古くて、色はばらばらだった。
「城の使用人たちから借りたものよ。捨てられずに持っている服から、少しだけ切ってもらったの」
「了承は」
「取ってあります」
「何に使うかも?」
「実験に、とだけ」
「足りません」
陛下の眉が、ほんの少しだけ上がった。
「何が」
「痕が、なくなるかもしれません」
縫い合わせたときには消えなかった。でも、封印に使ったらどうなるかは分からない。
「それを聞いて、それでもいいと言った人の布じゃないと、使いません」
陛下はしばらく、私を見ていた。
「分かったわ」
それだけ言って、侍女のほうを振り返った。
「返してきて。説明をし直して、それでもいい方のものだけ」
「陛下」
「何?」
「嫌じゃないんですか。時間がないのに」
陛下は公爵の袖口に目をやった。三本。
「嫌よ」
「じゃあ」
「でも、あなたが嫌がるでしょう」
今度は私が黙った。
陛下はそれ以上は言わずに、指輪には触れなかった。
午後には、セシリア様が来た。
最近は、一日に一人は身分の高い人が来ないと日が暮れない決まりでもあるのかもしれない。
「叔母様から聞いたわ。あなたが次だっていうところまで」
「かなりですね」
「それと、別の方法を探していることも」
「まだ方法じゃありません」
「知ってる。だから来たの」
差し出された小さな包みを開くと、白い布が入っていた。
「母の手袋の、内側よ」
「切ったんですか」
「少しだけ」
「でも、あれ」
「捨てられないって言ったわね。捨てるわけじゃないもの。使うの」
「痕が、なくなるかもしれません」
「聞いたわ。叔母様の説明、くどいのよ。王族だから」
セシリア様は笑って、すぐに笑うのをやめた。
「叔母様は、新しい方法が間に合わなければ、あなたに継がせるつもりよ」
「知ってます」
「叔母様は、昔から私をアルヴィン様の隣に置きたがっていたわ」
「……はい」
「アルヴィン様のことは、好きよ」
迷いのない声だった。私の胸のどこかが、変なところで止まった。
セシリア様は、白い布を私の手のひらに押し込んだ。
「でも、忘れた女の代わりになるくらいなら、要らないわ」
顔を上げると、セシリア様は少しだけ笑っていた。
「私、そこまで安くないの。だから、そっちで何とかして」
「急ですね」
「時間がないでしょう」
セシリア様は、少し離れた机で手帳を読んでいる公爵を一度だけ見た。何か言いかけて、やめて、そのまま帰っていった。
扉が閉まっても、私はしばらく白い布を見ていた。
「何を言われた」
公爵が、手帳から顔を上げずに訊いた。
「秘密です」
「そうか」
「気になりますか」
「知らない」
知らないのに訊くのは、この人の癖らしい。いつからの癖なのかを、私だけが知っている。
夕方になって、侍女が戻ってきた。五枚のうち、三枚だけを持って。
「お二人は、お断りになりました。お三方は、了承を」
「ちゃんと、なくなるかもしれないって」
「お伝えしております」
昨日の三人には、昼のうちに聞き直していた。三人とも、いいと言った。
三枚を受け取った。昨日の三枚と、セシリア様の白い布と合わせて、七つ。
「まだ、足りない」
思わず、声に出ていた。
七枚の布を並べた。誰かの夫と、誰かの母と、誰かの兄と、誰かの父と、誰かの子と。関係もばらばらで、痕の強さも違った。
重ねても、まだ七枚だった。昨日の三枚もそうだった。布切れを、布切れのまま重ねているだけ。
私は、仕立て屋なのに。
「……服にします」
「何を」
「これを」
公爵が七枚を見た。
「誰が着る」
「封印です」
言ってから、自分でも変なことを言っていると思った。公爵も、変な顔をした。
「採寸は」
「いりません」
「仕立て屋が、そんなことを言うのか」
「初めてです」




