第七章 他人 ②
その夜は、遅くまで縫った。
作業室に残っていたのは私と公爵だけで、ギルベルトさんは何度か食事を勧めに来たけれど、最後には諦めて、パンとスープだけを置いていった。
七枚を裁つ。大きくは切らずに、痕の残っているところを避けずに拾っていく。
「それ、食べろ」
「今、手が離せないので」
「冷める」
「もう冷めてます」
「なら、なおさら食べろ」
糸を引くたびに、銀の円盤がときどき小さく鳴った。糸を替えるたびに、その震えが一度途切れた。まだ完全には一つにならない。それでも、昨日より長く続いた。
焼けた小麦と、石鹸と、雪。子供の手と、男の人の笑い声と、誰かのため息。全部、知らない人のものだった。それでも、手放せなかった痕だけは、どれも少し似ていた。
「受諾書は」
公爵が言った。
「書いてません」
「そうか」
「安心しました?」
「少し」
「少し?」
「新しい方法が失敗したら、困るからな」
「そっちですか」
「違う」
針が止まった。公爵も、黙った。
続きは来なかった。私も訊かずに、また針を進めた。
「手帳には」
「はい」
「俺が、君を好きだったと書いてある」
針先が、布の中で止まった。顔は上げなかった。
「知ってます」
「君は、全部思い出したんだったな」
「はい」
「なら、俺より知っている」
「そうですね」
それが、嫌だった。
彼がどんな顔で笑ったか。どんなふうに結婚してくれと言ったか。どんな声で、私の中から自分を消すと言ったか。全部、私しか知らない。
「今の俺は、君をほとんど知らない」
「はい」
「今朝、名前も手帳で確かめた」
「はい」
「恋人だった頃のことも、何一つ残っていない。結婚したかった理由も、分からない」
「もう、十分です」
「でも」
公爵が、こちらを見たのが分かった。私は見なかった。
「何です」
「君が他の誰かと結婚するのは、嫌だ」
針を落とした。床ではなく、膝の上に落ちた。それでも、拾うのに少し時間がかかった。
「……何ですか、それ」
「俺にも、よく分からない」
「知らない人なんでしょう、私」
「そうだな」
「じゃあ、どうして」
公爵は答えなかった。答えないまま、目も逸らさなかった。
腹が立った。ひどく。
「勝手ですね」
「そうらしい」
「そこは認めるんですか」
「手帳に、何度も書いてある」
「昨日までの公爵様たち、余計なことばっかり残してますね」
「俺も、そう思う」
笑ってしまった。公爵も、ほんの少しだけ口元を緩めた。その顔を見たら、もう駄目だった。
「明日、もっと忘れますよね」
「ああ」
「今のことも」
「ああ」
雪の夜と、同じ会話だった。あのときは、私からキスをした。
今日は、しなかった。
「手帳に、書きます?」
公爵は少し考えた。
「君は、書いてほしいのか」
「分かりません」
「俺もだ」
二人とも、まるで役に立たなかった。
しばらくして、公爵は机に向かって、手帳を開いた。私は見ないようにした。紙にペン先が触れる音だけが聞こえて、しばらくして止まった。手帳が閉じられた。
「一つだけ、手帳に書かずに言っておく」
「明日、忘れるのに?」
「ああ」
公爵は、私を見た。昨日までの誰でもない、今朝、私の名前を紙で確かめた人の目だった。
「好きだ」
息が止まった。意味が、すぐには入ってこなかった。
「……誰を」
「君を」
「どうして」
「今、そう思った」
「理由になってません」
「一つだけある」
公爵は、作業台の上の七枚を見た。
「今日、君は布を返させた。時間がないのに」
「……はい」
「あれを、見ていた」
言い訳も、説明もなかった。困ったのは、私のほうだった。
「ずるいです」
「何が」
「明日には、忘れるから」
「そうだな」
「私だけ、覚えてるんですよ」
「ああ」
「前にも、言いました」
「そうか」
それでも、撤回はしなかった。
好きです、と返すのは違う気がした。昔から好きだったし、今も好きだ。でも、今日のこの人にその答えを渡したら、何かを急いで埋めてしまうような気がした。
「……ありがとうございます」
結局、そんな返事になった。
「礼を言われることか」
「知りません」
「そうか」
公爵が、少しだけ笑った。
翌朝、白い枝は二本になっていた。
公爵は私を見て、手帳を開いた。ページをめくる指が、昨日より少しだけ長く止まった。
「今日は、何て書いてあります?」
「何が」
「私のこと」
訊いてから、後悔した。
「仕立て屋。王太后の依頼で来た。次の担い手の候補」
「それだけ?」
「他にもある」
「何です」
「見せない」
昨日の、好きだ、を書いたのかどうかは分からなかった。本人には訊かなかった。
作業台には、縫いかけの服があった。もう服と呼んでいいくらいには形になっていた。人が着るものではない。前も後ろも曖昧で、袖もない。大きな布で何かの身体を包むように仕立てて、その内側に七つの痕を縫い込んである。
「変な服だな」
「昨日も、似たようなこと言ってました」
「俺は昔から、君の作るものに文句を言っていたのか」
「……たまに」
「そうか」
公爵が布の端を持ち上げた。その持ち方を見て、胸が跳ねた。
片手で襟をつまんで、裾が床につかないように少しだけ持ち上げる。一年以上前、初めて古着屋に外套を持ち込んだ日の、あの持ち方だった。
「ここが、曲がっている」
公爵が言った。
「……何て?」
「縫い目が」
指差された場所は、本当に少し曲がっていた。
「直せるか」
しばらく、何も言えなかった。
あの日の外套の前で、この人は同じことを言った。名乗りもしないで、直せるかだけを訊いた。私はそのとき、感じの悪いお客さんだと思った。
「ベル嬢?」
「……直せます」
「そうか」
「直す前提で、言ってます?」
「何が」
「いえ」
同じ会話ではないけれど、少しだけ似ていた。
午後に、王太后陛下に仕立てかけの服を見せた。
「これを、封印に?」
「まだ、試してみないと分かりません」
「人ではないわ。命もない。封印は、担い手と認めないかもしれない」
「分かってます」
「痕が足りないかもしれない」
「それも」
「では、どうするの」
「増やします」
「どこまで」
「足りるまで」
「時間は」
公爵の袖口を見た。二本。
「ありません」
「そうね」
陛下は少し黙った。
「必要なものは?」
「痕の強い布です。誰かが、ずっと捨てられなかったもの」
陛下の指が、指輪のほうへ動いた。
「それから?」
「その痕が消えるかもしれないと分かったうえで、使っていいと言ってくれる人」
「難しい注文ね。王命では集められない」
「駄目です」
「分かっているわ。聞いただけ」
「本当に?」
「疑うのね」
「一度、ひどいことをされてるので」
「そうだったわね」
陛下は怒らなかった。
「では、頼みましょう。人に」
「広すぎません?」
「王太后なので、そのくらいは知っているわ」
「王命には、しないでください」
「しないわ。断っても何もない、と書かせる」
夜、公爵は手帳を机に置いたまま、窓辺に立っていた。
「明日、俺は君を、どこまで知っている」
「分かりません」
「手帳ではなく」
針を止めて、少し考えた。
「たぶん、最初に会った頃くらいまで」
「俺は、何を言った」
「教えません」
「なぜ」
「明日、答え合わせするので」
「俺は覚えていない」
「私がします」
「ずるいな」
今日の公爵は、そこで笑った。
帰り支度をしている私の後ろで、公爵が手帳を開いた。紙をめくる音がして、ペン先が止まって、また動いた。長かった。
「ずいぶん、書きますね」
「あと何回書けるか、分からないからな」
手が止まった。
「明日の朝には、もう、君について書ける俺ではないかもしれない。だから、今日の分は今日書く」
「……見ませんよ」
「見せるつもりはない」
「知ってます」
「明日の公爵様には、何て書くんですか」
「教えない」
「ずるいですね」
「お互いさまだ」
ペン先が、また止まった。
「明日は、これを読まない」
「どうしてですか」
公爵は少し考えた。
「最後くらい、手帳なしで会ってみたい」
私は先に部屋を出た。扉を閉める前に一度だけ振り返ると、公爵はまだ書いていた。黒い手帳の、ずいぶん後ろのほうのページだった。
次の朝、作業室の扉を開けるまでに、少しだけ時間がかかった。
白い枝は、あと一本。分かっていた。取っ手に手をかけて、開けた。
公爵は窓際にいて、手帳は机の上に閉じたまま置いてあった。表紙に、小さな紙が一枚挟んであった。公爵の字で、読むな、とだけ。私を見て、少しだけ目を細めた。知らない顔ではない。でも、知っている顔でもなかった。
「おはようございます」
「ああ」
しばらく、見られていた。
「どこかで、会ったか」
胸の奥が冷えた。
「はい」
「そうか」
それだけだった。名前は、出なかった。
「仕立て屋です。前に、一度」
「何を直した」
「外套を」
「俺の?」
「はい」
「それで、ここに?」
「今は、別の仕事です」
「王太后か」
「はい」
「なら、面倒だな」
笑いそうになった。昔も、たぶん同じようなことを言っていた。
「そうですね」
「君も、そう思うのか」
「かなり」
公爵の口元が、ほんの少しだけ動いた。それだけで、昔のこの人が一瞬そこにいるように見えた。
でも、違う。この人は、私が砂糖を一つ入れることを知らない。雨の日に頭が痛くなることも、左の指をよく刺すことも、一度、この人と結婚しようとしたことも。
「名前は」
とうとう、来た。
「リネット・ベルです」
「リネット」
初めて聞いた名前を、確かめるような言い方だった。
「俺は」
「知ってます。有名なので」
「便利だな」
「そうですね」
笑ったのは、私だけだった。
公爵の袖口から、最後の白い枝が覗いていた。数えなくても分かった。
「それは」
公爵が、作業台の服を見た。
「まだ、名前はありません」
「服なのか」
「一応」
「誰が着る」
「誰も」
「変な仕立て屋だな」
最初の頃なら、少し腹が立ったと思う。今日は、嬉しかった。
「よく言われます」
公爵は布に近づいて、手を伸ばしかけて、止めた。
「触っていいか」
息が詰まった。この屋敷に来た最初の日、外套の前で同じことを訊いたのは、私のほうだった。
「……はい」
公爵が布に触れた。銀の円盤が、小さく鳴った。
「何だ、今のは」
「封印の警報具です」
「これに反応したのか。面白いな」
「私は、かなり必死です」
「そうなのか」
「公爵様のせいでもあります」
「俺の?」
「かなり」
公爵が、困った顔をした。
「悪かった」
思わず笑った。
「何も知らないのに、謝るんですか」
「君が、泣きそうだから」
笑いが止まった。
「泣いてません」
「そうか」
「はい」
「なら、悪かった」
「何で増えたんですか」
「知らない」
本当に、何も知らない。そのことが、もう笑えた。
昼前に、王太后陛下から使いが来た。封印の儀式を、明朝行うという知らせだった。夜が明ければ、最後の枝が消える。
「リネット・ベル様にも、ご出席をとのことです。それから、お預けしている受諾書は、今夜までにお決めくださいと」
前掛けのポケットから、折り畳んだままの紙を出した。封印継承の受諾書。私の署名欄は、まだ空いていた。
広げると、公爵が紙を覗き込んだ。
「何だ、それは」
「私が、あなたの次になるための紙です」
「俺の、次?」
「そういうことになってます」
「嫌なのか」
少し迷った。
「嫌です」
「なら、書かなければいい」
あまりにも簡単に言われた。
「人が、死ぬかもしれません」
「それでも嫌なんだろう」
「はい」
「なら、嫌だと言えばいい」
一年前の彼は、それを言わせてくれなかった。今の彼は、何も知らないまま言わせてくれる。
「……そうですね」
午後になって、公爵は儀式の確認のために王太后陛下に呼ばれた。扉のところで、一度だけ振り返った。
「リネット」
息が止まった。
「……名前、覚えてたんですか」
「今朝、聞いたばかりだろう」
「そうでした」
今日のことは、まだ消えていない。
「明日も、来るのか」
「はい」
「そうか」
少し考えてから、公爵は言った。
「なら、また」
「はい」
明日の彼は、今日の私を知らない。それでも、その約束には返事をした。
公爵は扉に手をかけて、それから一度だけ、机の上の黒い手帳を見た。表紙には、自分の字で、読むな、と挟んである。
触れなかった。
今度は振り返らずに、出ていった。
夜になって、作業室に布が届き始めた。
パン屋のマルタさんから、ミーナから、レオンさんから。城の使用人から、王都に滞在している北方の兵士から、その家族から。説明を聞いたうえで、それでも使っていいという短い手紙と一緒に。
マルタさんからは、ご主人の上着の袖口が届いた。いちばん粉の染みた、本当は最後まで手元に置いておくはずだった場所だった。
ミーナからは、お母さんのドレスの襟。仕立て直したとき、ここだけは切らないでと言われたところ。
レオンさんからは、軍服の、あの裂け目のまわり。
どれも、端切れではなかった。残しておきたかった場所の一部を、本人が自分で選んで切ってあった。
一枚ずつ、触った。匂いと、温度と、短い声。笑い声と、怒った声。帰りたい、という感じと、待っている、という感じ。名前のつかないものばかりだった。
服はね、人より長く覚えてることがあるんだよ。マダムの声が、聞こえた気がした。
一枚ずつ縫った。夜が深くなっていくあいだ、銀の円盤はずっと鳴っていた。
途中で糸が足りなくなって、結び足した。結び目の先で、円盤の震えがぷつりと途切れた。結び目をほどいて、別の糸で縫い直しても、同じだった。
新しい糸巻きをほどいて、端から端まで一本で通してみた。今度は途切れなかった。
ただ、縫い目に指を置くと、布と布の境目で、ごく短く震えが弱まった。気のせいだと言えば、気のせいで済むくらいの短さだった。
弱まっても、裾までは届いていた。
マルタさんの袖口の、古い縫い目を少しだけほどいた。ご主人が何年も着ているうちに、粉の染みついた糸で、指の長さほどしかない。その糸で、袖口と隣の布を二針だけ縫ってみた。
焼けた小麦の匂いが、隣の布の雪へ、弱まらずに渡った。
糸にも痕が残っていれば、あの弱まりは消えるのかもしれない。二針ぶんの長さで分かるのは、そこまでだった。
全部を通しきる長さがあって、痕の残った糸。一本だけ、心当たりがあった。地下の、白い服の内側に。
あれをほどけば、あの服はもう、一年前の二人が縫っていたものには戻らない。
新しい糸でも、裾までは届いている。届いているなら、通るかもしれない。通るなら、あの服は箱の中に残しておける。
どちらも、今夜のうちには確かめようがなかった。
私は、新しい糸のほうで最後まで縫うことにした。
それから、ギルベルトさんを呼んだ。
「地下の白い服を、儀式の間へ運んでおいてもらえますか」
老執事は、少しだけ長く私の顔を見た。
「お使いになるのですか」
「使わずに済めば、いいんですけど」
「承知いたしました」
それ以上は、何も訊かれなかった。
机の上に、黒い手帳が残っていた。午後に公爵が置いていったまま、ずいぶん厚くなっていた。
手を伸ばしかけて、止めた。
この屋敷に来た最初の日も、同じことをした。外套のポケットから出てきた紙の、一行目だけ見て閉じた。
「見ませんよ」
誰もいない部屋で言って、手帳を少し遠くへ押しやった。最後のページがどこにあるのかも、見なかった。
代わりに、もう一つの紙を広げた。封印継承の受諾書。空いたままの署名欄。
嫌だ、と言っていいと、今日の彼は言った。嫌だった。今も嫌だ。
それでも、二つとも駄目だったとき、北の誰かが死ぬほうが嫌だった。
ペンを取った。
名前を書いた。
インクが乾くのを待ってから、受諾書を畳んだ。
それから、陛下に短い手紙を書いた。新しい糸で通るかもしれないこと。通らなかったときのために、白い服を儀式の間へ運ばせたこと。それでも駄目なら、受諾書を出すこと。
ギルベルトさんに預けると、夜明け前に返事が来た。
両方、持ってきて。受諾書も。
陛下の字は、思っていたより大きかった。
私はもう一度、針を取った。今夜は、そっちのほうが大事だった。
窓から白い光が入ってくる頃に、最後の縫い目を結んだ。銀の円盤が一度だけ大きく鳴って、それから、静かになった。
ほとんど眠らないまま、出来上がった服を抱えて、儀式の間へ向かった。
廊下の向こうから、公爵が歩いてきた。
黒い服を着ていた。私が仕立てた葬礼服だった。仕上げてギルベルトさんに預けたのは一昨日で、袖を通したところを見るのは、これが初めてだった。肩も、袖丈も、合っていた。
三十日後に葬礼服を着る人です、と言った日のことを思い出した。言われた本人は、もう覚えていない。
左の手首を見た。白い枝は、もうどこにもなかった。
分かっていた。それでも、足が止まった。
公爵も、私の前で止まった。何の引っかかりもない目だった。
砂糖も。
針山も。
雨の日も。
裏口も。
赤い糸も。
少なくとも、彼の目には、何一つ残っていなかった。
「初めまして」
一度だけでいいと思っていた言葉は、ちゃんと痛かった。
私は服を抱え直した。
「リネット・ベルです」
公爵の視線が、私の抱えているものに落ちた。
「それは」
「今日、必要な服です」
「誰の」
少し考えた。
「まだ、誰のものでもありません」
公爵は怪訝そうな顔をしたけれど、それ以上は訊かなかった。
「一つ、先に言っておきます」
「何だ」
「儀式の間に、白い箱が置いてあると思います」
「ああ。ギルベルトが運んでいた」
「あれも、私のです」
「それも使うのか」
「使わずに済めば」
公爵は、私の顔と腕の中の服を見比べた。
「変な仕立て屋だな」
昨日も聞いた。この人は、それも知らない。
「王太后陛下から、あなたを儀式の間まで案内するよう言われている」
「公爵様が?」
「ああ」
「私のこと、知らないのに」
「命令だからな」
「そうですか」
少しだけ、笑った。
「では、お願いします」
公爵が歩き出して、私はその半歩後ろを歩いた。今日は、半歩後ろ。今は、それでいい。
曲がり角のところで、公爵が何も言わずに歩く速さを落とした。私の抱えている服が大きくて、歩きにくそうだったからだと思う。本人は振り返らなかった。
私も何も言わずに、同じ速さで歩いた。
畳んだ受諾書が、前掛けのポケットの中で、少しだけ重かった。その夜は、遅くまで縫った。
作業室に残っていたのは私と公爵だけで、ギルベルトさんは何度か食事を勧めに来たけれど、最後には諦めて、パンとスープだけを置いていった。
七枚を裁つ。大きくは切らずに、痕の残っているところを避けずに拾っていく。
「それ、食べろ」
「今、手が離せないので」
「冷める」
「もう冷めてます」
「なら、なおさら食べろ」
糸を引くたびに、銀の円盤がときどき小さく鳴った。糸を替えるたびに、その震えが一度途切れた。まだ完全には一つにならない。それでも、昨日より長く続いた。
焼けた小麦と、石鹸と、雪。子供の手と、男の人の笑い声と、誰かのため息。全部、知らない人のものだった。それでも、手放せなかった痕だけは、どれも少し似ていた。
「受諾書は」
公爵が言った。
「書いてません」
「そうか」
「安心しました?」
「少し」
「少し?」
「新しい方法が失敗したら、困るからな」
「そっちですか」
「違う」
針が止まった。公爵も、黙った。
続きは来なかった。私も訊かずに、また針を進めた。
「手帳には」
「はい」
「俺が、君を好きだったと書いてある」
針先が、布の中で止まった。顔は上げなかった。
「知ってます」
「君は、全部思い出したんだったな」
「はい」
「なら、俺より知っている」
「そうですね」
それが、嫌だった。
彼がどんな顔で笑ったか。どんなふうに結婚してくれと言ったか。どんな声で、私の中から自分を消すと言ったか。全部、私しか知らない。
「今の俺は、君をほとんど知らない」
「はい」
「今朝、名前も手帳で確かめた」
「はい」
「恋人だった頃のことも、何一つ残っていない。結婚したかった理由も、分からない」
「もう、十分です」
「でも」
公爵が、こちらを見たのが分かった。私は見なかった。
「何です」
「君が他の誰かと結婚するのは、嫌だ」
針を落とした。床ではなく、膝の上に落ちた。それでも、拾うのに少し時間がかかった。
「……何ですか、それ」
「俺にも、よく分からない」
「知らない人なんでしょう、私」
「そうだな」
「じゃあ、どうして」
公爵は答えなかった。答えないまま、目も逸らさなかった。
腹が立った。ひどく。
「勝手ですね」
「そうらしい」
「そこは認めるんですか」
「手帳に、何度も書いてある」
「昨日までの公爵様たち、余計なことばっかり残してますね」
「俺も、そう思う」
笑ってしまった。公爵も、ほんの少しだけ口元を緩めた。その顔を見たら、もう駄目だった。
「明日、もっと忘れますよね」
「ああ」
「今のことも」
「ああ」
雪の夜と、同じ会話だった。あのときは、私からキスをした。
今日は、しなかった。
「手帳に、書きます?」
公爵は少し考えた。
「君は、書いてほしいのか」
「分かりません」
「俺もだ」
二人とも、まるで役に立たなかった。
しばらくして、公爵は机に向かって、手帳を開いた。私は見ないようにした。紙にペン先が触れる音だけが聞こえて、しばらくして止まった。手帳が閉じられた。
「一つだけ、手帳に書かずに言っておく」
「明日、忘れるのに?」
「ああ」
公爵は、私を見た。昨日までの誰でもない、今朝、私の名前を紙で確かめた人の目だった。
「好きだ」
息が止まった。意味が、すぐには入ってこなかった。
「……誰を」
「君を」
「どうして」
「今、そう思った」
「理由になってません」
「一つだけある」
公爵は、作業台の上の七枚を見た。
「今日、君は布を返させた。時間がないのに」
「……はい」
「あれを、見ていた」
言い訳も、説明もなかった。困ったのは、私のほうだった。
「ずるいです」
「何が」
「明日には、忘れるから」
「そうだな」
「私だけ、覚えてるんですよ」
「ああ」
「前にも、言いました」
「そうか」
それでも、撤回はしなかった。
好きです、と返すのは違う気がした。昔から好きだったし、今も好きだ。でも、今日のこの人にその答えを渡したら、何かを急いで埋めてしまうような気がした。
「……ありがとうございます」
結局、そんな返事になった。
「礼を言われることか」
「知りません」
「そうか」
公爵が、少しだけ笑った。
翌朝、白い枝は二本になっていた。
公爵は私を見て、手帳を開いた。ページをめくる指が、昨日より少しだけ長く止まった。
「今日は、何て書いてあります?」
「何が」
「私のこと」
訊いてから、後悔した。
「仕立て屋。王太后の依頼で来た。次の担い手の候補」
「それだけ?」
「他にもある」
「何です」
「見せない」
昨日の、好きだ、を書いたのかどうかは分からなかった。本人には訊かなかった。
作業台には、縫いかけの服があった。もう服と呼んでいいくらいには形になっていた。人が着るものではない。前も後ろも曖昧で、袖もない。大きな布で何かの身体を包むように仕立てて、その内側に七つの痕を縫い込んである。
「変な服だな」
「昨日も、似たようなこと言ってました」
「俺は昔から、君の作るものに文句を言っていたのか」
「……たまに」
「そうか」
公爵が布の端を持ち上げた。その持ち方を見て、胸が跳ねた。
片手で襟をつまんで、裾が床につかないように少しだけ持ち上げる。一年以上前、初めて古着屋に外套を持ち込んだ日の、あの持ち方だった。
「ここが、曲がっている」
公爵が言った。
「……何て?」
「縫い目が」
指差された場所は、本当に少し曲がっていた。
「直せるか」
しばらく、何も言えなかった。
あの日の外套の前で、この人は同じことを言った。名乗りもしないで、直せるかだけを訊いた。私はそのとき、感じの悪いお客さんだと思った。
「ベル嬢?」
「……直せます」
「そうか」
「直す前提で、言ってます?」
「何が」
「いえ」
同じ会話ではないけれど、少しだけ似ていた。
午後に、王太后陛下に仕立てかけの服を見せた。
「これを、封印に?」
「まだ、試してみないと分かりません」
「人ではないわ。命もない。封印は、担い手と認めないかもしれない」
「分かってます」
「痕が足りないかもしれない」
「それも」
「では、どうするの」
「増やします」
「どこまで」
「足りるまで」
「時間は」
公爵の袖口を見た。二本。
「ありません」
「そうね」
陛下は少し黙った。
「必要なものは?」
「痕の強い布です。誰かが、ずっと捨てられなかったもの」
陛下の指が、指輪のほうへ動いた。
「それから?」
「その痕が消えるかもしれないと分かったうえで、使っていいと言ってくれる人」
「難しい注文ね。王命では集められない」
「駄目です」
「分かっているわ。聞いただけ」
「本当に?」
「疑うのね」
「一度、ひどいことをされてるので」
「そうだったわね」
陛下は怒らなかった。
「では、頼みましょう。人に」
「広すぎません?」
「王太后なので、そのくらいは知っているわ」
「王命には、しないでください」
「しないわ。断っても何もない、と書かせる」
夜、公爵は手帳を机に置いたまま、窓辺に立っていた。
「明日、俺は君を、どこまで知っている」
「分かりません」
「手帳ではなく」
針を止めて、少し考えた。
「たぶん、最初に会った頃くらいまで」
「俺は、何を言った」
「教えません」
「なぜ」
「明日、答え合わせするので」
「俺は覚えていない」
「私がします」
「ずるいな」
今日の公爵は、そこで笑った。
帰り支度をしている私の後ろで、公爵が手帳を開いた。紙をめくる音がして、ペン先が止まって、また動いた。長かった。
「ずいぶん、書きますね」
「あと何回書けるか、分からないからな」
手が止まった。
「明日の朝には、もう、君について書ける俺ではないかもしれない。だから、今日の分は今日書く」
「……見ませんよ」
「見せるつもりはない」
「知ってます」
「明日の公爵様には、何て書くんですか」
「教えない」
「ずるいですね」
「お互いさまだ」
ペン先が、また止まった。
「明日は、これを読まない」
「どうしてですか」
公爵は少し考えた。
「最後くらい、手帳なしで会ってみたい」
私は先に部屋を出た。扉を閉める前に一度だけ振り返ると、公爵はまだ書いていた。黒い手帳の、ずいぶん後ろのほうのページだった。
次の朝、作業室の扉を開けるまでに、少しだけ時間がかかった。
白い枝は、あと一本。分かっていた。取っ手に手をかけて、開けた。
公爵は窓際にいて、手帳は机の上に閉じたまま置いてあった。表紙に、小さな紙が一枚挟んであった。公爵の字で、読むな、とだけ。私を見て、少しだけ目を細めた。知らない顔ではない。でも、知っている顔でもなかった。
「おはようございます」
「ああ」
しばらく、見られていた。
「どこかで、会ったか」
胸の奥が冷えた。
「はい」
「そうか」
それだけだった。名前は、出なかった。
「仕立て屋です。前に、一度」
「何を直した」
「外套を」
「俺の?」
「はい」
「それで、ここに?」
「今は、別の仕事です」
「王太后か」
「はい」
「なら、面倒だな」
笑いそうになった。昔も、たぶん同じようなことを言っていた。
「そうですね」
「君も、そう思うのか」
「かなり」
公爵の口元が、ほんの少しだけ動いた。それだけで、昔のこの人が一瞬そこにいるように見えた。
でも、違う。この人は、私が砂糖を一つ入れることを知らない。雨の日に頭が痛くなることも、左の指をよく刺すことも、一度、この人と結婚しようとしたことも。
「名前は」
とうとう、来た。
「リネット・ベルです」
「リネット」
初めて聞いた名前を、確かめるような言い方だった。
「俺は」
「知ってます。有名なので」
「便利だな」
「そうですね」
笑ったのは、私だけだった。
公爵の袖口から、最後の白い枝が覗いていた。数えなくても分かった。
「それは」
公爵が、作業台の服を見た。
「まだ、名前はありません」
「服なのか」
「一応」
「誰が着る」
「誰も」
「変な仕立て屋だな」
最初の頃なら、少し腹が立ったと思う。今日は、嬉しかった。
「よく言われます」
公爵は布に近づいて、手を伸ばしかけて、止めた。
「触っていいか」
息が詰まった。この屋敷に来た最初の日、外套の前で同じことを訊いたのは、私のほうだった。
「……はい」
公爵が布に触れた。銀の円盤が、小さく鳴った。
「何だ、今のは」
「封印の警報具です」
「これに反応したのか。面白いな」
「私は、かなり必死です」
「そうなのか」
「公爵様のせいでもあります」
「俺の?」
「かなり」
公爵が、困った顔をした。
「悪かった」
思わず笑った。
「何も知らないのに、謝るんですか」
「君が、泣きそうだから」
笑いが止まった。
「泣いてません」
「そうか」
「はい」
「なら、悪かった」
「何で増えたんですか」
「知らない」
本当に、何も知らない。そのことが、もう笑えた。
昼前に、王太后陛下から使いが来た。封印の儀式を、明朝行うという知らせだった。夜が明ければ、最後の枝が消える。
「リネット・ベル様にも、ご出席をとのことです。それから、お預けしている受諾書は、今夜までにお決めくださいと」
前掛けのポケットから、折り畳んだままの紙を出した。封印継承の受諾書。私の署名欄は、まだ空いていた。
広げると、公爵が紙を覗き込んだ。
「何だ、それは」
「私が、あなたの次になるための紙です」
「俺の、次?」
「そういうことになってます」
「嫌なのか」
少し迷った。
「嫌です」
「なら、書かなければいい」
あまりにも簡単に言われた。
「人が、死ぬかもしれません」
「それでも嫌なんだろう」
「はい」
「なら、嫌だと言えばいい」
一年前の彼は、それを言わせてくれなかった。今の彼は、何も知らないまま言わせてくれる。
「……そうですね」
午後になって、公爵は儀式の確認のために王太后陛下に呼ばれた。扉のところで、一度だけ振り返った。
「リネット」
息が止まった。
「……名前、覚えてたんですか」
「今朝、聞いたばかりだろう」
「そうでした」
今日のことは、まだ消えていない。
「明日も、来るのか」
「はい」
「そうか」
少し考えてから、公爵は言った。
「なら、また」
「はい」
明日の彼は、今日の私を知らない。それでも、その約束には返事をした。
公爵は扉に手をかけて、それから一度だけ、机の上の黒い手帳を見た。表紙には、自分の字で、読むな、と挟んである。
触れなかった。
今度は振り返らずに、出ていった。
夜になって、作業室に布が届き始めた。
パン屋のマルタさんから、ミーナから、レオンさんから。城の使用人から、王都に滞在している北方の兵士から、その家族から。説明を聞いたうえで、それでも使っていいという短い手紙と一緒に。
マルタさんからは、ご主人の上着の袖口が届いた。いちばん粉の染みた、本当は最後まで手元に置いておくはずだった場所だった。
ミーナからは、お母さんのドレスの襟。仕立て直したとき、ここだけは切らないでと言われたところ。
レオンさんからは、軍服の、あの裂け目のまわり。
どれも、端切れではなかった。残しておきたかった場所の一部を、本人が自分で選んで切ってあった。
一枚ずつ、触った。匂いと、温度と、短い声。笑い声と、怒った声。帰りたい、という感じと、待っている、という感じ。名前のつかないものばかりだった。
服はね、人より長く覚えてることがあるんだよ。マダムの声が、聞こえた気がした。
一枚ずつ縫った。夜が深くなっていくあいだ、銀の円盤はずっと鳴っていた。
途中で糸が足りなくなって、結び足した。結び目の先で、円盤の震えがぷつりと途切れた。結び目をほどいて、別の糸で縫い直しても、同じだった。
新しい糸巻きをほどいて、端から端まで一本で通してみた。今度は途切れなかった。
ただ、縫い目に指を置くと、布と布の境目で、ごく短く震えが弱まった。気のせいだと言えば、気のせいで済むくらいの短さだった。
弱まっても、裾までは届いていた。
マルタさんの袖口の、古い縫い目を少しだけほどいた。ご主人が何年も着ているうちに、粉の染みついた糸で、指の長さほどしかない。その糸で、袖口と隣の布を二針だけ縫ってみた。
焼けた小麦の匂いが、隣の布の雪へ、弱まらずに渡った。
糸にも痕が残っていれば、あの弱まりは消えるのかもしれない。二針ぶんの長さで分かるのは、そこまでだった。
全部を通しきる長さがあって、痕の残った糸。一本だけ、心当たりがあった。地下の、白い服の内側に。
あれをほどけば、あの服はもう、一年前の二人が縫っていたものには戻らない。
新しい糸でも、裾までは届いている。届いているなら、通るかもしれない。通るなら、あの服は箱の中に残しておける。
どちらも、今夜のうちには確かめようがなかった。
私は、新しい糸のほうで最後まで縫うことにした。
それから、ギルベルトさんを呼んだ。
「地下の白い服を、儀式の間へ運んでおいてもらえますか」
老執事は、少しだけ長く私の顔を見た。
「お使いになるのですか」
「使わずに済めば、いいんですけど」
「承知いたしました」
それ以上は、何も訊かれなかった。
机の上に、黒い手帳が残っていた。午後に公爵が置いていったまま、ずいぶん厚くなっていた。
手を伸ばしかけて、止めた。
この屋敷に来た最初の日も、同じことをした。外套のポケットから出てきた紙の、一行目だけ見て閉じた。
「見ませんよ」
誰もいない部屋で言って、手帳を少し遠くへ押しやった。最後のページがどこにあるのかも、見なかった。
代わりに、もう一つの紙を広げた。封印継承の受諾書。空いたままの署名欄。
嫌だ、と言っていいと、今日の彼は言った。嫌だった。今も嫌だ。
それでも、二つとも駄目だったとき、北の誰かが死ぬほうが嫌だった。
ペンを取った。
名前を書いた。
インクが乾くのを待ってから、受諾書を畳んだ。
それから、陛下に短い手紙を書いた。新しい糸で通るかもしれないこと。通らなかったときのために、白い服を儀式の間へ運ばせたこと。それでも駄目なら、受諾書を出すこと。
ギルベルトさんに預けると、夜明け前に返事が来た。
両方、持ってきて。受諾書も。
陛下の字は、思っていたより大きかった。
私はもう一度、針を取った。今夜は、そっちのほうが大事だった。
窓から白い光が入ってくる頃に、最後の縫い目を結んだ。銀の円盤が一度だけ大きく鳴って、それから、静かになった。
ほとんど眠らないまま、出来上がった服を抱えて、儀式の間へ向かった。
廊下の向こうから、公爵が歩いてきた。
黒い服を着ていた。私が仕立てた葬礼服だった。仕上げてギルベルトさんに預けたのは一昨日で、袖を通したところを見るのは、これが初めてだった。肩も、袖丈も、合っていた。
三十日後に葬礼服を着る人です、と言った日のことを思い出した。言われた本人は、もう覚えていない。
左の手首を見た。白い枝は、もうどこにもなかった。
分かっていた。それでも、足が止まった。
公爵も、私の前で止まった。何の引っかかりもない目だった。
砂糖も。
針山も。
雨の日も。
裏口も。
赤い糸も。
少なくとも、彼の目には、何一つ残っていなかった。
「初めまして」
一度だけでいいと思っていた言葉は、ちゃんと痛かった。
私は服を抱え直した。
「リネット・ベルです」
公爵の視線が、私の抱えているものに落ちた。
「それは」
「今日、必要な服です」
「誰の」
少し考えた。
「まだ、誰のものでもありません」
公爵は怪訝そうな顔をしたけれど、それ以上は訊かなかった。
「一つ、先に言っておきます」
「何だ」
「儀式の間に、白い箱が置いてあると思います」
「ああ。ギルベルトが運んでいた」
「あれも、私のです」
「それも使うのか」
「使わずに済めば」
公爵は、私の顔と腕の中の服を見比べた。
「変な仕立て屋だな」
昨日も聞いた。この人は、それも知らない。
「王太后陛下から、あなたを儀式の間まで案内するよう言われている」
「公爵様が?」
「ああ」
「私のこと、知らないのに」
「命令だからな」
「そうですか」
少しだけ、笑った。
「では、お願いします」
公爵が歩き出して、私はその半歩後ろを歩いた。今日は、半歩後ろ。今は、それでいい。
曲がり角のところで、公爵が何も言わずに歩く速さを落とした。私の抱えている服が大きくて、歩きにくそうだったからだと思う。本人は振り返らなかった。
私も何も言わずに、同じ速さで歩いた。
畳んだ受諾書が、前掛けのポケットの中で、少しだけ重かった。




