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冷血公爵は毎朝わたしを忘れ、毎晩もう一度恋をする  作者: 臥裳斗真


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14/18

第七章 他人 ②

その夜は、遅くまで縫った。

 作業室に残っていたのは私と公爵だけで、ギルベルトさんは何度か食事を勧めに来たけれど、最後には諦めて、パンとスープだけを置いていった。

 七枚を裁つ。大きくは切らずに、痕の残っているところを避けずに拾っていく。


「それ、食べろ」


「今、手が離せないので」


「冷める」


「もう冷めてます」


「なら、なおさら食べろ」


 糸を引くたびに、銀の円盤がときどき小さく鳴った。糸を替えるたびに、その震えが一度途切れた。まだ完全には一つにならない。それでも、昨日より長く続いた。

 焼けた小麦と、石鹸と、雪。子供の手と、男の人の笑い声と、誰かのため息。全部、知らない人のものだった。それでも、手放せなかった痕だけは、どれも少し似ていた。


「受諾書は」


 公爵が言った。


「書いてません」


「そうか」


「安心しました?」


「少し」


「少し?」


「新しい方法が失敗したら、困るからな」


「そっちですか」


「違う」


 針が止まった。公爵も、黙った。

 続きは来なかった。私も訊かずに、また針を進めた。


「手帳には」


「はい」


「俺が、君を好きだったと書いてある」


 針先が、布の中で止まった。顔は上げなかった。


「知ってます」


「君は、全部思い出したんだったな」


「はい」


「なら、俺より知っている」


「そうですね」


 それが、嫌だった。

 彼がどんな顔で笑ったか。どんなふうに結婚してくれと言ったか。どんな声で、私の中から自分を消すと言ったか。全部、私しか知らない。


「今の俺は、君をほとんど知らない」


「はい」


「今朝、名前も手帳で確かめた」


「はい」


「恋人だった頃のことも、何一つ残っていない。結婚したかった理由も、分からない」


「もう、十分です」


「でも」


 公爵が、こちらを見たのが分かった。私は見なかった。


「何です」


「君が他の誰かと結婚するのは、嫌だ」


 針を落とした。床ではなく、膝の上に落ちた。それでも、拾うのに少し時間がかかった。


「……何ですか、それ」


「俺にも、よく分からない」


「知らない人なんでしょう、私」


「そうだな」


「じゃあ、どうして」


 公爵は答えなかった。答えないまま、目も逸らさなかった。

 腹が立った。ひどく。


「勝手ですね」


「そうらしい」


「そこは認めるんですか」


「手帳に、何度も書いてある」


「昨日までの公爵様たち、余計なことばっかり残してますね」


「俺も、そう思う」


 笑ってしまった。公爵も、ほんの少しだけ口元を緩めた。その顔を見たら、もう駄目だった。


「明日、もっと忘れますよね」


「ああ」


「今のことも」


「ああ」


 雪の夜と、同じ会話だった。あのときは、私からキスをした。

 今日は、しなかった。


「手帳に、書きます?」


 公爵は少し考えた。


「君は、書いてほしいのか」


「分かりません」


「俺もだ」


 二人とも、まるで役に立たなかった。

 しばらくして、公爵は机に向かって、手帳を開いた。私は見ないようにした。紙にペン先が触れる音だけが聞こえて、しばらくして止まった。手帳が閉じられた。


「一つだけ、手帳に書かずに言っておく」


「明日、忘れるのに?」


「ああ」


 公爵は、私を見た。昨日までの誰でもない、今朝、私の名前を紙で確かめた人の目だった。


「好きだ」


 息が止まった。意味が、すぐには入ってこなかった。


「……誰を」


「君を」


「どうして」


「今、そう思った」


「理由になってません」


「一つだけある」


 公爵は、作業台の上の七枚を見た。


「今日、君は布を返させた。時間がないのに」


「……はい」


「あれを、見ていた」


 言い訳も、説明もなかった。困ったのは、私のほうだった。


「ずるいです」


「何が」


「明日には、忘れるから」


「そうだな」


「私だけ、覚えてるんですよ」


「ああ」


「前にも、言いました」


「そうか」


 それでも、撤回はしなかった。

 好きです、と返すのは違う気がした。昔から好きだったし、今も好きだ。でも、今日のこの人にその答えを渡したら、何かを急いで埋めてしまうような気がした。


「……ありがとうございます」


 結局、そんな返事になった。


「礼を言われることか」


「知りません」


「そうか」


 公爵が、少しだけ笑った。


 翌朝、白い枝は二本になっていた。

 公爵は私を見て、手帳を開いた。ページをめくる指が、昨日より少しだけ長く止まった。


「今日は、何て書いてあります?」


「何が」


「私のこと」


 訊いてから、後悔した。


「仕立て屋。王太后の依頼で来た。次の担い手の候補」


「それだけ?」


「他にもある」


「何です」


「見せない」


 昨日の、好きだ、を書いたのかどうかは分からなかった。本人には訊かなかった。

 作業台には、縫いかけの服があった。もう服と呼んでいいくらいには形になっていた。人が着るものではない。前も後ろも曖昧で、袖もない。大きな布で何かの身体を包むように仕立てて、その内側に七つの痕を縫い込んである。


「変な服だな」


「昨日も、似たようなこと言ってました」


「俺は昔から、君の作るものに文句を言っていたのか」


「……たまに」


「そうか」


 公爵が布の端を持ち上げた。その持ち方を見て、胸が跳ねた。

 片手で襟をつまんで、裾が床につかないように少しだけ持ち上げる。一年以上前、初めて古着屋に外套を持ち込んだ日の、あの持ち方だった。


「ここが、曲がっている」


 公爵が言った。


「……何て?」


「縫い目が」


 指差された場所は、本当に少し曲がっていた。


「直せるか」


 しばらく、何も言えなかった。

 あの日の外套の前で、この人は同じことを言った。名乗りもしないで、直せるかだけを訊いた。私はそのとき、感じの悪いお客さんだと思った。


「ベル嬢?」


「……直せます」


「そうか」


「直す前提で、言ってます?」


「何が」


「いえ」


 同じ会話ではないけれど、少しだけ似ていた。

 午後に、王太后陛下に仕立てかけの服を見せた。


「これを、封印に?」


「まだ、試してみないと分かりません」


「人ではないわ。命もない。封印は、担い手と認めないかもしれない」


「分かってます」


「痕が足りないかもしれない」


「それも」


「では、どうするの」


「増やします」


「どこまで」


「足りるまで」


「時間は」


 公爵の袖口を見た。二本。


「ありません」


「そうね」


 陛下は少し黙った。


「必要なものは?」


「痕の強い布です。誰かが、ずっと捨てられなかったもの」


 陛下の指が、指輪のほうへ動いた。


「それから?」


「その痕が消えるかもしれないと分かったうえで、使っていいと言ってくれる人」


「難しい注文ね。王命では集められない」


「駄目です」


「分かっているわ。聞いただけ」


「本当に?」


「疑うのね」


「一度、ひどいことをされてるので」


「そうだったわね」


 陛下は怒らなかった。


「では、頼みましょう。人に」


「広すぎません?」


「王太后なので、そのくらいは知っているわ」


「王命には、しないでください」


「しないわ。断っても何もない、と書かせる」


 夜、公爵は手帳を机に置いたまま、窓辺に立っていた。


「明日、俺は君を、どこまで知っている」


「分かりません」


「手帳ではなく」


 針を止めて、少し考えた。


「たぶん、最初に会った頃くらいまで」


「俺は、何を言った」


「教えません」


「なぜ」


「明日、答え合わせするので」


「俺は覚えていない」


「私がします」


「ずるいな」


 今日の公爵は、そこで笑った。

 帰り支度をしている私の後ろで、公爵が手帳を開いた。紙をめくる音がして、ペン先が止まって、また動いた。長かった。


「ずいぶん、書きますね」


「あと何回書けるか、分からないからな」


 手が止まった。


「明日の朝には、もう、君について書ける俺ではないかもしれない。だから、今日の分は今日書く」


「……見ませんよ」


「見せるつもりはない」


「知ってます」


「明日の公爵様には、何て書くんですか」


「教えない」


「ずるいですね」


「お互いさまだ」


 ペン先が、また止まった。


「明日は、これを読まない」


「どうしてですか」


 公爵は少し考えた。


「最後くらい、手帳なしで会ってみたい」


 私は先に部屋を出た。扉を閉める前に一度だけ振り返ると、公爵はまだ書いていた。黒い手帳の、ずいぶん後ろのほうのページだった。


 次の朝、作業室の扉を開けるまでに、少しだけ時間がかかった。

 白い枝は、あと一本。分かっていた。取っ手に手をかけて、開けた。

 公爵は窓際にいて、手帳は机の上に閉じたまま置いてあった。表紙に、小さな紙が一枚挟んであった。公爵の字で、読むな、とだけ。私を見て、少しだけ目を細めた。知らない顔ではない。でも、知っている顔でもなかった。


「おはようございます」


「ああ」


 しばらく、見られていた。


「どこかで、会ったか」


 胸の奥が冷えた。


「はい」


「そうか」


 それだけだった。名前は、出なかった。


「仕立て屋です。前に、一度」


「何を直した」


「外套を」


「俺の?」


「はい」


「それで、ここに?」


「今は、別の仕事です」


「王太后か」


「はい」


「なら、面倒だな」


 笑いそうになった。昔も、たぶん同じようなことを言っていた。


「そうですね」


「君も、そう思うのか」


「かなり」


 公爵の口元が、ほんの少しだけ動いた。それだけで、昔のこの人が一瞬そこにいるように見えた。

 でも、違う。この人は、私が砂糖を一つ入れることを知らない。雨の日に頭が痛くなることも、左の指をよく刺すことも、一度、この人と結婚しようとしたことも。


「名前は」


 とうとう、来た。


「リネット・ベルです」


「リネット」


 初めて聞いた名前を、確かめるような言い方だった。


「俺は」


「知ってます。有名なので」


「便利だな」


「そうですね」


 笑ったのは、私だけだった。

 公爵の袖口から、最後の白い枝が覗いていた。数えなくても分かった。


「それは」


 公爵が、作業台の服を見た。


「まだ、名前はありません」


「服なのか」


「一応」


「誰が着る」


「誰も」


「変な仕立て屋だな」


 最初の頃なら、少し腹が立ったと思う。今日は、嬉しかった。


「よく言われます」


 公爵は布に近づいて、手を伸ばしかけて、止めた。


「触っていいか」


 息が詰まった。この屋敷に来た最初の日、外套の前で同じことを訊いたのは、私のほうだった。


「……はい」


 公爵が布に触れた。銀の円盤が、小さく鳴った。


「何だ、今のは」


「封印の警報具です」


「これに反応したのか。面白いな」


「私は、かなり必死です」


「そうなのか」


「公爵様のせいでもあります」


「俺の?」


「かなり」


 公爵が、困った顔をした。


「悪かった」


 思わず笑った。


「何も知らないのに、謝るんですか」


「君が、泣きそうだから」


 笑いが止まった。


「泣いてません」


「そうか」


「はい」


「なら、悪かった」


「何で増えたんですか」


「知らない」


 本当に、何も知らない。そのことが、もう笑えた。

 昼前に、王太后陛下から使いが来た。封印の儀式を、明朝行うという知らせだった。夜が明ければ、最後の枝が消える。


「リネット・ベル様にも、ご出席をとのことです。それから、お預けしている受諾書は、今夜までにお決めくださいと」


 前掛けのポケットから、折り畳んだままの紙を出した。封印継承の受諾書。私の署名欄は、まだ空いていた。

 広げると、公爵が紙を覗き込んだ。


「何だ、それは」


「私が、あなたの次になるための紙です」


「俺の、次?」


「そういうことになってます」


「嫌なのか」


 少し迷った。


「嫌です」


「なら、書かなければいい」


 あまりにも簡単に言われた。


「人が、死ぬかもしれません」


「それでも嫌なんだろう」


「はい」


「なら、嫌だと言えばいい」


 一年前の彼は、それを言わせてくれなかった。今の彼は、何も知らないまま言わせてくれる。


「……そうですね」


 午後になって、公爵は儀式の確認のために王太后陛下に呼ばれた。扉のところで、一度だけ振り返った。


「リネット」


 息が止まった。


「……名前、覚えてたんですか」


「今朝、聞いたばかりだろう」


「そうでした」


 今日のことは、まだ消えていない。


「明日も、来るのか」


「はい」


「そうか」


 少し考えてから、公爵は言った。


「なら、また」


「はい」


 明日の彼は、今日の私を知らない。それでも、その約束には返事をした。

 公爵は扉に手をかけて、それから一度だけ、机の上の黒い手帳を見た。表紙には、自分の字で、読むな、と挟んである。

 触れなかった。

 今度は振り返らずに、出ていった。


 夜になって、作業室に布が届き始めた。

 パン屋のマルタさんから、ミーナから、レオンさんから。城の使用人から、王都に滞在している北方の兵士から、その家族から。説明を聞いたうえで、それでも使っていいという短い手紙と一緒に。

 マルタさんからは、ご主人の上着の袖口が届いた。いちばん粉の染みた、本当は最後まで手元に置いておくはずだった場所だった。

 ミーナからは、お母さんのドレスの襟。仕立て直したとき、ここだけは切らないでと言われたところ。

 レオンさんからは、軍服の、あの裂け目のまわり。

 どれも、端切れではなかった。残しておきたかった場所の一部を、本人が自分で選んで切ってあった。

 一枚ずつ、触った。匂いと、温度と、短い声。笑い声と、怒った声。帰りたい、という感じと、待っている、という感じ。名前のつかないものばかりだった。

 服はね、人より長く覚えてることがあるんだよ。マダムの声が、聞こえた気がした。

 一枚ずつ縫った。夜が深くなっていくあいだ、銀の円盤はずっと鳴っていた。

 途中で糸が足りなくなって、結び足した。結び目の先で、円盤の震えがぷつりと途切れた。結び目をほどいて、別の糸で縫い直しても、同じだった。

 新しい糸巻きをほどいて、端から端まで一本で通してみた。今度は途切れなかった。

 ただ、縫い目に指を置くと、布と布の境目で、ごく短く震えが弱まった。気のせいだと言えば、気のせいで済むくらいの短さだった。

 弱まっても、裾までは届いていた。

 マルタさんの袖口の、古い縫い目を少しだけほどいた。ご主人が何年も着ているうちに、粉の染みついた糸で、指の長さほどしかない。その糸で、袖口と隣の布を二針だけ縫ってみた。

 焼けた小麦の匂いが、隣の布の雪へ、弱まらずに渡った。

 糸にも痕が残っていれば、あの弱まりは消えるのかもしれない。二針ぶんの長さで分かるのは、そこまでだった。

 全部を通しきる長さがあって、痕の残った糸。一本だけ、心当たりがあった。地下の、白い服の内側に。

 あれをほどけば、あの服はもう、一年前の二人が縫っていたものには戻らない。

 新しい糸でも、裾までは届いている。届いているなら、通るかもしれない。通るなら、あの服は箱の中に残しておける。

 どちらも、今夜のうちには確かめようがなかった。

 私は、新しい糸のほうで最後まで縫うことにした。

 それから、ギルベルトさんを呼んだ。


「地下の白い服を、儀式の間へ運んでおいてもらえますか」


 老執事は、少しだけ長く私の顔を見た。


「お使いになるのですか」


「使わずに済めば、いいんですけど」


「承知いたしました」


 それ以上は、何も訊かれなかった。

 机の上に、黒い手帳が残っていた。午後に公爵が置いていったまま、ずいぶん厚くなっていた。

 手を伸ばしかけて、止めた。

 この屋敷に来た最初の日も、同じことをした。外套のポケットから出てきた紙の、一行目だけ見て閉じた。


「見ませんよ」


 誰もいない部屋で言って、手帳を少し遠くへ押しやった。最後のページがどこにあるのかも、見なかった。

 代わりに、もう一つの紙を広げた。封印継承の受諾書。空いたままの署名欄。

 嫌だ、と言っていいと、今日の彼は言った。嫌だった。今も嫌だ。

 それでも、二つとも駄目だったとき、北の誰かが死ぬほうが嫌だった。

 ペンを取った。

 名前を書いた。

 インクが乾くのを待ってから、受諾書を畳んだ。

 それから、陛下に短い手紙を書いた。新しい糸で通るかもしれないこと。通らなかったときのために、白い服を儀式の間へ運ばせたこと。それでも駄目なら、受諾書を出すこと。

 ギルベルトさんに預けると、夜明け前に返事が来た。


 両方、持ってきて。受諾書も。


 陛下の字は、思っていたより大きかった。

 私はもう一度、針を取った。今夜は、そっちのほうが大事だった。


 窓から白い光が入ってくる頃に、最後の縫い目を結んだ。銀の円盤が一度だけ大きく鳴って、それから、静かになった。

 ほとんど眠らないまま、出来上がった服を抱えて、儀式の間へ向かった。

 廊下の向こうから、公爵が歩いてきた。

 黒い服を着ていた。私が仕立てた葬礼服だった。仕上げてギルベルトさんに預けたのは一昨日で、袖を通したところを見るのは、これが初めてだった。肩も、袖丈も、合っていた。

 三十日後に葬礼服を着る人です、と言った日のことを思い出した。言われた本人は、もう覚えていない。

 左の手首を見た。白い枝は、もうどこにもなかった。

 分かっていた。それでも、足が止まった。

 公爵も、私の前で止まった。何の引っかかりもない目だった。

 砂糖も。

 針山も。

 雨の日も。

 裏口も。

 赤い糸も。

 少なくとも、彼の目には、何一つ残っていなかった。


「初めまして」


 一度だけでいいと思っていた言葉は、ちゃんと痛かった。

 私は服を抱え直した。


「リネット・ベルです」


 公爵の視線が、私の抱えているものに落ちた。


「それは」


「今日、必要な服です」


「誰の」


 少し考えた。


「まだ、誰のものでもありません」


 公爵は怪訝そうな顔をしたけれど、それ以上は訊かなかった。


「一つ、先に言っておきます」


「何だ」


「儀式の間に、白い箱が置いてあると思います」


「ああ。ギルベルトが運んでいた」


「あれも、私のです」


「それも使うのか」


「使わずに済めば」


 公爵は、私の顔と腕の中の服を見比べた。


「変な仕立て屋だな」


 昨日も聞いた。この人は、それも知らない。


「王太后陛下から、あなたを儀式の間まで案内するよう言われている」


「公爵様が?」


「ああ」


「私のこと、知らないのに」


「命令だからな」


「そうですか」


 少しだけ、笑った。


「では、お願いします」


 公爵が歩き出して、私はその半歩後ろを歩いた。今日は、半歩後ろ。今は、それでいい。

 曲がり角のところで、公爵が何も言わずに歩く速さを落とした。私の抱えている服が大きくて、歩きにくそうだったからだと思う。本人は振り返らなかった。

 私も何も言わずに、同じ速さで歩いた。

 畳んだ受諾書が、前掛けのポケットの中で、少しだけ重かった。その夜は、遅くまで縫った。

 作業室に残っていたのは私と公爵だけで、ギルベルトさんは何度か食事を勧めに来たけれど、最後には諦めて、パンとスープだけを置いていった。

 七枚を裁つ。大きくは切らずに、痕の残っているところを避けずに拾っていく。


「それ、食べろ」


「今、手が離せないので」


「冷める」


「もう冷めてます」


「なら、なおさら食べろ」


 糸を引くたびに、銀の円盤がときどき小さく鳴った。糸を替えるたびに、その震えが一度途切れた。まだ完全には一つにならない。それでも、昨日より長く続いた。

 焼けた小麦と、石鹸と、雪。子供の手と、男の人の笑い声と、誰かのため息。全部、知らない人のものだった。それでも、手放せなかった痕だけは、どれも少し似ていた。


「受諾書は」


 公爵が言った。


「書いてません」


「そうか」


「安心しました?」


「少し」


「少し?」


「新しい方法が失敗したら、困るからな」


「そっちですか」


「違う」


 針が止まった。公爵も、黙った。

 続きは来なかった。私も訊かずに、また針を進めた。


「手帳には」


「はい」


「俺が、君を好きだったと書いてある」


 針先が、布の中で止まった。顔は上げなかった。


「知ってます」


「君は、全部思い出したんだったな」


「はい」


「なら、俺より知っている」


「そうですね」


 それが、嫌だった。

 彼がどんな顔で笑ったか。どんなふうに結婚してくれと言ったか。どんな声で、私の中から自分を消すと言ったか。全部、私しか知らない。


「今の俺は、君をほとんど知らない」


「はい」


「今朝、名前も手帳で確かめた」


「はい」


「恋人だった頃のことも、何一つ残っていない。結婚したかった理由も、分からない」


「もう、十分です」


「でも」


 公爵が、こちらを見たのが分かった。私は見なかった。


「何です」


「君が他の誰かと結婚するのは、嫌だ」


 針を落とした。床ではなく、膝の上に落ちた。それでも、拾うのに少し時間がかかった。


「……何ですか、それ」


「俺にも、よく分からない」


「知らない人なんでしょう、私」


「そうだな」


「じゃあ、どうして」


 公爵は答えなかった。答えないまま、目も逸らさなかった。

 腹が立った。ひどく。


「勝手ですね」


「そうらしい」


「そこは認めるんですか」


「手帳に、何度も書いてある」


「昨日までの公爵様たち、余計なことばっかり残してますね」


「俺も、そう思う」


 笑ってしまった。公爵も、ほんの少しだけ口元を緩めた。その顔を見たら、もう駄目だった。


「明日、もっと忘れますよね」


「ああ」


「今のことも」


「ああ」


 雪の夜と、同じ会話だった。あのときは、私からキスをした。

 今日は、しなかった。


「手帳に、書きます?」


 公爵は少し考えた。


「君は、書いてほしいのか」


「分かりません」


「俺もだ」


 二人とも、まるで役に立たなかった。

 しばらくして、公爵は机に向かって、手帳を開いた。私は見ないようにした。紙にペン先が触れる音だけが聞こえて、しばらくして止まった。手帳が閉じられた。


「一つだけ、手帳に書かずに言っておく」


「明日、忘れるのに?」


「ああ」


 公爵は、私を見た。昨日までの誰でもない、今朝、私の名前を紙で確かめた人の目だった。


「好きだ」


 息が止まった。意味が、すぐには入ってこなかった。


「……誰を」


「君を」


「どうして」


「今、そう思った」


「理由になってません」


「一つだけある」


 公爵は、作業台の上の七枚を見た。


「今日、君は布を返させた。時間がないのに」


「……はい」


「あれを、見ていた」


 言い訳も、説明もなかった。困ったのは、私のほうだった。


「ずるいです」


「何が」


「明日には、忘れるから」


「そうだな」


「私だけ、覚えてるんですよ」


「ああ」


「前にも、言いました」


「そうか」


 それでも、撤回はしなかった。

 好きです、と返すのは違う気がした。昔から好きだったし、今も好きだ。でも、今日のこの人にその答えを渡したら、何かを急いで埋めてしまうような気がした。


「……ありがとうございます」


 結局、そんな返事になった。


「礼を言われることか」


「知りません」


「そうか」


 公爵が、少しだけ笑った。


 翌朝、白い枝は二本になっていた。

 公爵は私を見て、手帳を開いた。ページをめくる指が、昨日より少しだけ長く止まった。


「今日は、何て書いてあります?」


「何が」


「私のこと」


 訊いてから、後悔した。


「仕立て屋。王太后の依頼で来た。次の担い手の候補」


「それだけ?」


「他にもある」


「何です」


「見せない」


 昨日の、好きだ、を書いたのかどうかは分からなかった。本人には訊かなかった。

 作業台には、縫いかけの服があった。もう服と呼んでいいくらいには形になっていた。人が着るものではない。前も後ろも曖昧で、袖もない。大きな布で何かの身体を包むように仕立てて、その内側に七つの痕を縫い込んである。


「変な服だな」


「昨日も、似たようなこと言ってました」


「俺は昔から、君の作るものに文句を言っていたのか」


「……たまに」


「そうか」


 公爵が布の端を持ち上げた。その持ち方を見て、胸が跳ねた。

 片手で襟をつまんで、裾が床につかないように少しだけ持ち上げる。一年以上前、初めて古着屋に外套を持ち込んだ日の、あの持ち方だった。


「ここが、曲がっている」


 公爵が言った。


「……何て?」


「縫い目が」


 指差された場所は、本当に少し曲がっていた。


「直せるか」


 しばらく、何も言えなかった。

 あの日の外套の前で、この人は同じことを言った。名乗りもしないで、直せるかだけを訊いた。私はそのとき、感じの悪いお客さんだと思った。


「ベル嬢?」


「……直せます」


「そうか」


「直す前提で、言ってます?」


「何が」


「いえ」


 同じ会話ではないけれど、少しだけ似ていた。

 午後に、王太后陛下に仕立てかけの服を見せた。


「これを、封印に?」


「まだ、試してみないと分かりません」


「人ではないわ。命もない。封印は、担い手と認めないかもしれない」


「分かってます」


「痕が足りないかもしれない」


「それも」


「では、どうするの」


「増やします」


「どこまで」


「足りるまで」


「時間は」


 公爵の袖口を見た。二本。


「ありません」


「そうね」


 陛下は少し黙った。


「必要なものは?」


「痕の強い布です。誰かが、ずっと捨てられなかったもの」


 陛下の指が、指輪のほうへ動いた。


「それから?」


「その痕が消えるかもしれないと分かったうえで、使っていいと言ってくれる人」


「難しい注文ね。王命では集められない」


「駄目です」


「分かっているわ。聞いただけ」


「本当に?」


「疑うのね」


「一度、ひどいことをされてるので」


「そうだったわね」


 陛下は怒らなかった。


「では、頼みましょう。人に」


「広すぎません?」


「王太后なので、そのくらいは知っているわ」


「王命には、しないでください」


「しないわ。断っても何もない、と書かせる」


 夜、公爵は手帳を机に置いたまま、窓辺に立っていた。


「明日、俺は君を、どこまで知っている」


「分かりません」


「手帳ではなく」


 針を止めて、少し考えた。


「たぶん、最初に会った頃くらいまで」


「俺は、何を言った」


「教えません」


「なぜ」


「明日、答え合わせするので」


「俺は覚えていない」


「私がします」


「ずるいな」


 今日の公爵は、そこで笑った。

 帰り支度をしている私の後ろで、公爵が手帳を開いた。紙をめくる音がして、ペン先が止まって、また動いた。長かった。


「ずいぶん、書きますね」


「あと何回書けるか、分からないからな」


 手が止まった。


「明日の朝には、もう、君について書ける俺ではないかもしれない。だから、今日の分は今日書く」


「……見ませんよ」


「見せるつもりはない」


「知ってます」


「明日の公爵様には、何て書くんですか」


「教えない」


「ずるいですね」


「お互いさまだ」


 ペン先が、また止まった。


「明日は、これを読まない」


「どうしてですか」


 公爵は少し考えた。


「最後くらい、手帳なしで会ってみたい」


 私は先に部屋を出た。扉を閉める前に一度だけ振り返ると、公爵はまだ書いていた。黒い手帳の、ずいぶん後ろのほうのページだった。


 次の朝、作業室の扉を開けるまでに、少しだけ時間がかかった。

 白い枝は、あと一本。分かっていた。取っ手に手をかけて、開けた。

 公爵は窓際にいて、手帳は机の上に閉じたまま置いてあった。表紙に、小さな紙が一枚挟んであった。公爵の字で、読むな、とだけ。私を見て、少しだけ目を細めた。知らない顔ではない。でも、知っている顔でもなかった。


「おはようございます」


「ああ」


 しばらく、見られていた。


「どこかで、会ったか」


 胸の奥が冷えた。


「はい」


「そうか」


 それだけだった。名前は、出なかった。


「仕立て屋です。前に、一度」


「何を直した」


「外套を」


「俺の?」


「はい」


「それで、ここに?」


「今は、別の仕事です」


「王太后か」


「はい」


「なら、面倒だな」


 笑いそうになった。昔も、たぶん同じようなことを言っていた。


「そうですね」


「君も、そう思うのか」


「かなり」


 公爵の口元が、ほんの少しだけ動いた。それだけで、昔のこの人が一瞬そこにいるように見えた。

 でも、違う。この人は、私が砂糖を一つ入れることを知らない。雨の日に頭が痛くなることも、左の指をよく刺すことも、一度、この人と結婚しようとしたことも。


「名前は」


 とうとう、来た。


「リネット・ベルです」


「リネット」


 初めて聞いた名前を、確かめるような言い方だった。


「俺は」


「知ってます。有名なので」


「便利だな」


「そうですね」


 笑ったのは、私だけだった。

 公爵の袖口から、最後の白い枝が覗いていた。数えなくても分かった。


「それは」


 公爵が、作業台の服を見た。


「まだ、名前はありません」


「服なのか」


「一応」


「誰が着る」


「誰も」


「変な仕立て屋だな」


 最初の頃なら、少し腹が立ったと思う。今日は、嬉しかった。


「よく言われます」


 公爵は布に近づいて、手を伸ばしかけて、止めた。


「触っていいか」


 息が詰まった。この屋敷に来た最初の日、外套の前で同じことを訊いたのは、私のほうだった。


「……はい」


 公爵が布に触れた。銀の円盤が、小さく鳴った。


「何だ、今のは」


「封印の警報具です」


「これに反応したのか。面白いな」


「私は、かなり必死です」


「そうなのか」


「公爵様のせいでもあります」


「俺の?」


「かなり」


 公爵が、困った顔をした。


「悪かった」


 思わず笑った。


「何も知らないのに、謝るんですか」


「君が、泣きそうだから」


 笑いが止まった。


「泣いてません」


「そうか」


「はい」


「なら、悪かった」


「何で増えたんですか」


「知らない」


 本当に、何も知らない。そのことが、もう笑えた。

 昼前に、王太后陛下から使いが来た。封印の儀式を、明朝行うという知らせだった。夜が明ければ、最後の枝が消える。


「リネット・ベル様にも、ご出席をとのことです。それから、お預けしている受諾書は、今夜までにお決めくださいと」


 前掛けのポケットから、折り畳んだままの紙を出した。封印継承の受諾書。私の署名欄は、まだ空いていた。

 広げると、公爵が紙を覗き込んだ。


「何だ、それは」


「私が、あなたの次になるための紙です」


「俺の、次?」


「そういうことになってます」


「嫌なのか」


 少し迷った。


「嫌です」


「なら、書かなければいい」


 あまりにも簡単に言われた。


「人が、死ぬかもしれません」


「それでも嫌なんだろう」


「はい」


「なら、嫌だと言えばいい」


 一年前の彼は、それを言わせてくれなかった。今の彼は、何も知らないまま言わせてくれる。


「……そうですね」


 午後になって、公爵は儀式の確認のために王太后陛下に呼ばれた。扉のところで、一度だけ振り返った。


「リネット」


 息が止まった。


「……名前、覚えてたんですか」


「今朝、聞いたばかりだろう」


「そうでした」


 今日のことは、まだ消えていない。


「明日も、来るのか」


「はい」


「そうか」


 少し考えてから、公爵は言った。


「なら、また」


「はい」


 明日の彼は、今日の私を知らない。それでも、その約束には返事をした。

 公爵は扉に手をかけて、それから一度だけ、机の上の黒い手帳を見た。表紙には、自分の字で、読むな、と挟んである。

 触れなかった。

 今度は振り返らずに、出ていった。


 夜になって、作業室に布が届き始めた。

 パン屋のマルタさんから、ミーナから、レオンさんから。城の使用人から、王都に滞在している北方の兵士から、その家族から。説明を聞いたうえで、それでも使っていいという短い手紙と一緒に。

 マルタさんからは、ご主人の上着の袖口が届いた。いちばん粉の染みた、本当は最後まで手元に置いておくはずだった場所だった。

 ミーナからは、お母さんのドレスの襟。仕立て直したとき、ここだけは切らないでと言われたところ。

 レオンさんからは、軍服の、あの裂け目のまわり。

 どれも、端切れではなかった。残しておきたかった場所の一部を、本人が自分で選んで切ってあった。

 一枚ずつ、触った。匂いと、温度と、短い声。笑い声と、怒った声。帰りたい、という感じと、待っている、という感じ。名前のつかないものばかりだった。

 服はね、人より長く覚えてることがあるんだよ。マダムの声が、聞こえた気がした。

 一枚ずつ縫った。夜が深くなっていくあいだ、銀の円盤はずっと鳴っていた。

 途中で糸が足りなくなって、結び足した。結び目の先で、円盤の震えがぷつりと途切れた。結び目をほどいて、別の糸で縫い直しても、同じだった。

 新しい糸巻きをほどいて、端から端まで一本で通してみた。今度は途切れなかった。

 ただ、縫い目に指を置くと、布と布の境目で、ごく短く震えが弱まった。気のせいだと言えば、気のせいで済むくらいの短さだった。

 弱まっても、裾までは届いていた。

 マルタさんの袖口の、古い縫い目を少しだけほどいた。ご主人が何年も着ているうちに、粉の染みついた糸で、指の長さほどしかない。その糸で、袖口と隣の布を二針だけ縫ってみた。

 焼けた小麦の匂いが、隣の布の雪へ、弱まらずに渡った。

 糸にも痕が残っていれば、あの弱まりは消えるのかもしれない。二針ぶんの長さで分かるのは、そこまでだった。

 全部を通しきる長さがあって、痕の残った糸。一本だけ、心当たりがあった。地下の、白い服の内側に。

 あれをほどけば、あの服はもう、一年前の二人が縫っていたものには戻らない。

 新しい糸でも、裾までは届いている。届いているなら、通るかもしれない。通るなら、あの服は箱の中に残しておける。

 どちらも、今夜のうちには確かめようがなかった。

 私は、新しい糸のほうで最後まで縫うことにした。

 それから、ギルベルトさんを呼んだ。


「地下の白い服を、儀式の間へ運んでおいてもらえますか」


 老執事は、少しだけ長く私の顔を見た。


「お使いになるのですか」


「使わずに済めば、いいんですけど」


「承知いたしました」


 それ以上は、何も訊かれなかった。

 机の上に、黒い手帳が残っていた。午後に公爵が置いていったまま、ずいぶん厚くなっていた。

 手を伸ばしかけて、止めた。

 この屋敷に来た最初の日も、同じことをした。外套のポケットから出てきた紙の、一行目だけ見て閉じた。


「見ませんよ」


 誰もいない部屋で言って、手帳を少し遠くへ押しやった。最後のページがどこにあるのかも、見なかった。

 代わりに、もう一つの紙を広げた。封印継承の受諾書。空いたままの署名欄。

 嫌だ、と言っていいと、今日の彼は言った。嫌だった。今も嫌だ。

 それでも、二つとも駄目だったとき、北の誰かが死ぬほうが嫌だった。

 ペンを取った。

 名前を書いた。

 インクが乾くのを待ってから、受諾書を畳んだ。

 それから、陛下に短い手紙を書いた。新しい糸で通るかもしれないこと。通らなかったときのために、白い服を儀式の間へ運ばせたこと。それでも駄目なら、受諾書を出すこと。

 ギルベルトさんに預けると、夜明け前に返事が来た。


 両方、持ってきて。受諾書も。


 陛下の字は、思っていたより大きかった。

 私はもう一度、針を取った。今夜は、そっちのほうが大事だった。


 窓から白い光が入ってくる頃に、最後の縫い目を結んだ。銀の円盤が一度だけ大きく鳴って、それから、静かになった。

 ほとんど眠らないまま、出来上がった服を抱えて、儀式の間へ向かった。

 廊下の向こうから、公爵が歩いてきた。

 黒い服を着ていた。私が仕立てた葬礼服だった。仕上げてギルベルトさんに預けたのは一昨日で、袖を通したところを見るのは、これが初めてだった。肩も、袖丈も、合っていた。

 三十日後に葬礼服を着る人です、と言った日のことを思い出した。言われた本人は、もう覚えていない。

 左の手首を見た。白い枝は、もうどこにもなかった。

 分かっていた。それでも、足が止まった。

 公爵も、私の前で止まった。何の引っかかりもない目だった。

 砂糖も。

 針山も。

 雨の日も。

 裏口も。

 赤い糸も。

 少なくとも、彼の目には、何一つ残っていなかった。


「初めまして」


 一度だけでいいと思っていた言葉は、ちゃんと痛かった。

 私は服を抱え直した。


「リネット・ベルです」


 公爵の視線が、私の抱えているものに落ちた。


「それは」


「今日、必要な服です」


「誰の」


 少し考えた。


「まだ、誰のものでもありません」


 公爵は怪訝そうな顔をしたけれど、それ以上は訊かなかった。


「一つ、先に言っておきます」


「何だ」


「儀式の間に、白い箱が置いてあると思います」


「ああ。ギルベルトが運んでいた」


「あれも、私のです」


「それも使うのか」


「使わずに済めば」


 公爵は、私の顔と腕の中の服を見比べた。


「変な仕立て屋だな」


 昨日も聞いた。この人は、それも知らない。


「王太后陛下から、あなたを儀式の間まで案内するよう言われている」


「公爵様が?」


「ああ」


「私のこと、知らないのに」


「命令だからな」


「そうですか」


 少しだけ、笑った。


「では、お願いします」


 公爵が歩き出して、私はその半歩後ろを歩いた。今日は、半歩後ろ。今は、それでいい。

 曲がり角のところで、公爵が何も言わずに歩く速さを落とした。私の抱えている服が大きくて、歩きにくそうだったからだと思う。本人は振り返らなかった。

 私も何も言わずに、同じ速さで歩いた。

 畳んだ受諾書が、前掛けのポケットの中で、少しだけ重かった。

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