第八章 ほどく ①
服を儀式の間の中央に置いた途端、銀の円盤が鳴った。一度、二度、三度と、この数日で聞き慣れた音より、ずっと大きな音で。
それなのに、床に刻まれた白い線は、私の仕立てた服の手前で止まった。
「……止まりました」
王太后陛下は答えなかった。
窓のない、石造りの広い部屋だった。中央に円い台があって、そのまわりを古い文字が何重にも取り巻いている。壁際に公爵とギルベルトさんがいて、公爵の葬礼服の黒は、石の壁に半分紛れていた。少し離れたところにセシリア様が立っていた。
台の上には、人が着るためには作られていない一着の服が置いてあった。
マルタさんのご主人の、粉の染みた袖口。
ミーナのお母さんのドレスの襟。
レオンさんが北から持ち帰った軍服の、裂け目のまわり。
セシリア様のお母様の手袋。
城の使用人や、王都にいる北方の兵士や、その家族が、なくなるかもしれないと聞いたうえで、それでも渡してくれた布。
昨夜、全部を一着に縫った。それなのに、白い光はその手前で止まっている。
「反応はしているわ」
「はい」
「拒まれてもいる」
「……はい」
言われなくても分かっていた。
公爵の左の手首には、もう白い枝はない。今日の彼は、私のことを何も知らない。代わりに、私の前掛けのポケットには、名前を書いた受諾書が入っている。
封印がこの服を担い手と認めなければ、次に陛下が指すのは私だ。
残っているのは、儀式一つぶんの時間だけだった。
「もう一度、やります」
服を持ち上げて、台の中央へ少し寄せた。銀の円盤が鳴って、床の光が動いて、服の裾に触れて、そこでまた止まった。
「位置ではないな」
公爵が言った。
「分かってます」
「そうか」
今日初めて会った仕立て屋に言い返されても、公爵は腹を立てずに黙った。それが少しだけ、腹立たしかった。前のこの人なら、もう一言何か言った。
服の内側をめくった。昨夜は裾まで届いていた震えが、ここでは届かなかった。
布には、痕がある。一枚ずつなら、ちゃんと拾える。焼けた小麦と、子供の笑い声と、雪と、誰かの手の温度と、短い声。誰かを手放せなかった痕は、全部そこにある。
それでも、封印は止まる。
「リネット」
陛下が呼んだ。
「分かってます」
床の白い線が、少しずつ向きを変えていた。私のほうへ。右足のすぐ前まで、もう来ていた。
逃げても意味はない。受けると決めて、自分で名前を書いた。だからこそ、今はこっちを何とかしたかった。
「新しい糸では、届きませんでした」
「手紙の、もう一つのほうね」
「はい」
縫い目をつまんだ。黒と、青と、灰色と、白と。色も厚さも違う布を、一着になるようにつないである。痕と痕は、縫い目を越えて隣り合っている。陛下の喪服を直したときと、同じように。
つながっている。でも、つないだだけだった。
黒い布は黒い布。青は青。灰色は灰色。触れば、来る痕も全部違う。
一着にしたつもりなのに、私の指には、まだ何十枚もの布だった。
新しい糸は、布をつないでいた。痕までは、つないでいなかった。
壁際に、白い箱が置いてあった。ギルベルトさんが夜のうちに運んでくれたものだった。
ほどかずに済むほうは、昨夜試した。試して、ここで届かなかった。もう、確かめるものは残っていない。
箱の前に膝をつくと、ギルベルトさんが黙って蓋を開けた。
白い婚礼衣装が入っていた。私が一針だけ入れたところだけ、裾が直っている。
この服ができたら、結婚しようと言われた。できないまま、私の中から彼がいなくなった。
「それは」
陛下が言った。
「私の、婚礼衣装でした」
でした、と言えた。
公爵が白い布を見た。今日の彼は、それが誰の服なのかを知らない。自分が結婚してほしいと言った相手の服だということも。
「使うのか」
「はい」
「大事なものじゃないのか」
「かなり」
「なら」
「大事だから、使います」
言ってから、少しきれいに言いすぎたと思った。
「それに、途中のまま置いておくの、嫌なので」
こっちのほうが本当だった。公爵の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「変な仕立て屋だな」
「今日、二回目です」
「そうか」
今日の分だけは、覚えている。それでいいと思った。
服を持ち上げた。内側を、赤い糸が一本、胸元から裾まで走っていた。外套を直したときに余った糸。一年前の私が、少し縫っては止め、また続きを縫って、胸元から裾まで切らずにつないだ糸。赤い糸に指を置いた。針を引く感触と、指先に残った細かな熱が、途切れ途切れに返ってきた。止めて、また縫い始めるたびに、何かが残っている。
鋏を取って、少し考えて、置いた。
「ほどきます」
糸端を探した。いちばん最後に縫った場所は、自分の癖ならすぐに分かる。爪を入れて結び目を解くと、赤い糸の端が、白い布から出てきた。
引いた。胸の奥が痛んだ。白い服から、赤だけが少しずつ消えていった。
「ベル様」
「はい」
「よろしいのでしょうか」
手が止まった。いいのかと訊かれると、困る。よくはなかった。完成させたかったし、着たかった。この人と結婚するために、自分の手で作っていた服だった。
「箱に戻しておくより」
赤い糸を引いた。
「今のほうが、この糸には仕事があるので」
それで十分だった。
床の白い線は、もう私の靴の先に触れていた。
台の上の服を、裏返した。
縫い合わせた場所を、全部ほどく必要はない。必要なのは、この一本が、全部の布を通ることだった。
赤い糸を最初の布へ入れる。一針だけ拾って、次へ送る。黒から青へ。青から灰色へ。白へ。
一針目で、銀の円盤が鳴った。
二針目で、焼けた小麦の匂いがした。
三針目で、小さな女の子の手が触れた。
四針目で、先に帰れ、と男の人が言った。
そこから先は、数えなかった。手を止めずに、次の縫い目へ糸を送った。
目の奥が熱くなった。
「リネット」
「続けます」
糸を引くたびに、赤い色が、ばらばらの布のあいだを走っていった。銀の円盤は、今度は鳴りやまなかった。床の白い線が私の靴先から離れて、服のほうへ這っていく。裾に触れて、今度は止まらなかった。
「来た」
公爵の声だった。
白い光は、何枚もの布へは散らなかった。いったん赤い糸へ集まって、そこから、黒い布にも、青い布にも、灰色にも、白にも、枝分かれするように広がっていった。誰も触れていないのに、服がほんの少しだけ台から浮いた。床の文字が、いっせいに光った。
「認めたの?」
セシリア様が言った。陛下は目を細めて、服を見ていた。
「器としては」
白い光は、服の胸元まで来て、そこで止まっていた。
喉が乾いた。赤い糸まで入れた。服は、一着になった。
何人もの誰かが、何人もの誰かを手放せなかった痕。
その真ん中を通っている赤い糸だけは、誰のものか分かっていた。一年前の私が、一人のために使った糸だった。
それでも、床の別の線は、まだ私のほうを向いたままだった。
次を指すのは、儀式を預かる人だ。まだ陛下は、誰も指していない。床の線が追っているのは、名前を書いた紙をポケットに入れている人間のほうだった。
「リネット。受諾書を」
陛下の声は静かだった。
「その紙を出せば、私はあなたを指せる。北は確実に守れる」
「知ってます」
「人を担い手にするやり方なら、何百年も続いてきた。服は、まだ一度もない」
「知ってます」
ポケットに手を入れた。自分で書いた名前の紙が、指に触れた。
陛下は、私の手元を見ていた。それから、台の上の服を見た。最後に、自分の左の袖を見た。私が直した喪服で、その内側には、先王の外套の裏地が縫い込んである。
長い沈黙だった。
「……待って」
陛下は、私のほうへ左腕を差し出した。
「ほどいて。これも、あの服に入れて」
「もう、形にはなっています」
服は、もう一つになっている。足りないのは、布ではなかった。
「足りるかどうかは、あなたが決めればいいわ。何を差し出すかは、私が決める」
陛下は、腕を下ろさなかった。
「あなたに選ばせると言いながら、断れない形にしたのは私よ」
「……はい」
「私も、そちらに賭けるわ」
すぐには動けなかった。
「なくなるかもしれません」
自分で何度も言ってきた言葉を、もう一度言った。陛下は頷いた。
「聞いたわ」
「あの声も」
「ええ」
「二度と」
「たぶんね」
陛下は指輪に触れた。擦り減った細い金の、顔も声も分からない人の、残っているもの。
「リネット」
「……はい」
糸切り鋏を入れて、このあいだ縫ったばかりの袖を開いた。中から、古い黒い布が出てきた。冬の外套だった布。切り離して差し出すと、陛下は自分の手でそれを受け取った。
しばらく、黒い布を握ったまま目を閉じていた。
「まだ、何か残っている?」
目を閉じたまま、陛下が訊いた。私は、陛下の手の上から布に触れた。
「似合わないな」
聞こえたとおりに、伝えた。陛下は目を開けなかった。
「知っているわ。あなたに聞いたもの」
「はい」
「でも、もう一度聞けて、よかった」
目を開けた陛下は、笑っていた。いつもより、少しだけ下手な笑い方だった。
「二度目は、いらないわ」
嘘だと思った。言わなかった。
黒い布を受け取って、赤い糸を通して、服のいちばん内側に縫いつけた。
一針目で、銀の円盤が小さく鳴った。それだけだった。
焼けた小麦と、花の匂いと、雪と、石鹸。男の人の笑い声と、子供の声と、誰かの手。誰かの帰りたかった気持ちと、誰かの待っていた気持ち。混ざらないのに、離れない。全部別々のまま、一着の中にあった。その中に、冬の外套の冷たさが一つ増えた。
床の線は、まだ私を向いていた。
陛下が、服の前に立った。
「これが拒まれれば、次はあなたよ」
「分かっています。署名もしました」
公爵がこちらを見た。今日初めて会った女が、自分の次の生贄になる紙に名前を書いている。そういう顔だった。
「なぜ」
「嫌でしたけど、書きました」
それ以上は言わなかった。
陛下は、服から目を離さなかった。
「成功しても、ここにある痕は、たぶん戻らない」
「分かってます。皆さんも、知ってます」
陛下は目を閉じた。ほんの一瞬だった。開いたときには、声が変わっていた。王太后の声だった。
「この服を、次の担い手として差し出します」




