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冷血公爵は毎朝わたしを忘れ、毎晩もう一度恋をする  作者: 臥裳斗真


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第八章 ほどく ②

 私の足元の線が、ふっと離れた。床の光が、全部、服のほうへ向かっていった。

 床が揺れた。石の継ぎ目から、白い霜が噴き出した。

 公爵が、私の前に出た。


「下がれ」


「最後まで見る仕事です」


 返事は待たなかった。針箱を抱えたまま、服から目を離さなかった。

 床が、もう一度大きく揺れた。服が宙に持ち上がって、縫い目という縫い目から白い光があふれ出した。

 音がした。布が裂ける音ではなかった。もっと小さな、何かが一つずつ消えていく音だった。

 最初に、小麦の匂いがなくなった。

 次に、花の匂い。

 子供の笑い声。

 雪。


「先に」


 帰れ、まで聞こえる前に、消えた。

 届いた布に添えられていた、短い手紙のことを思い出した。マルタさんの手紙には、私はもう覚えてるから、次の人に忘れさせないために使って、と大きな字で書いてあった。

 男の人の笑い声が消えた。誰かの手の温度が消えた。外套の冷たさが消えた。

 陛下が、左の袖を押さえていた。私は、服に手を伸ばした。触れても、何も来なかった。隣の布も、その隣も。全部が、空になっていく。


「……持っていかれてる」


 声が震えた。


「リネット」


「大丈夫です」


 何が大丈夫なのかは分からなかった。それでも、針は離さなかった。

 赤い糸が、白くなっていった。婚礼衣装からほどいた糸。私とアルヴィンの痕が残っていた糸。


「私が知ってればいいんです」


 私の声がした。一年前の、少し笑っている私の声。それが最後だった。

 今の公爵が、振り返った。


「何だ」


「……何でもありません」


 赤い糸から、色が抜けた。触れても、もう何も来なかった。

 胸が痛かった。

 それでも、手は止めなかった。

 服の真ん中に、白い霜の枝が一本浮かんだ。

 二本、三本と、消えた痕の数だけ増えていくように、細い枝が縫い合わせた布の上へ広がっていった。途中からは、もう数えられなかった。

 公爵の手首には、何も出なかった。私の手首にも。

 陛下が、長く息を吐いた。


「……移った」


 陛下は、霜の枝に覆われていく服から目を離さなかった。


「痕が、枝になったのね」


 誰も、すぐには声を出さなかった。

 銀の円盤は鳴っていなかった。壊れたのかと思って指で触れたけれど、ただ静かなだけだった。


「封印は?」


 セシリア様が訊いた。陛下は目を閉じて、しばらくしてから答えた。


「保たれているわ」


「次の担い手は」


「求めていない」


 その言葉が入ってくるまで、少し時間がかかった。


「……本当に?」


「ええ」


 膝から力が抜けた。まずいと思って、床に手をつこうとした。

 つく前に、身体が止まった。腕が回っていて、背中と腰を支えられていた。

 公爵だった。


「危ない」


「……公爵様」


「何だ」


 本人も、少し驚いた顔をしていた。


「どうして」


「何が」


「今」


 公爵は自分の腕を見て、それから、私を支えている手を見た。


「知らない」


 少し、間があった。


「手が、動いた」


 少し考えてから、公爵は付け足した。


「誰が倒れても、たぶん支えた」


「……そうですね」


 笑った。笑ったら、今度こそ涙が出た。


「何だ」


「何でもありません」


「泣いているぞ」


「知ってます」


「そうか」


「そこは、困ってください」


「困っている」


 知らないくせに。何も知らないくせに。そこだけは、同じだった。

 陛下が、霜に覆われた服に近づいた。もう、元の色はほとんど見えなかった。陛下は自分の左の袖に触れた。そこにはもう、先王の布はない。


「何か、残ってます?」


「いいえ」


「寂しいですか」


 答えは、すぐには来なかった。


「たぶん」


 それだけだった。指輪には触れずに、陛下は霜の服を見ていた。


「これから、ずっとこれで保つのかしら」


「分かりません」


 答えてから、自分の前掛けの裾をつまんだ。オルガ古着店で、十二年使ってきた前掛けだった。


「一枚、試してもいいですか」


「今?」


「次に来たときに駄目だと分かるより、ましなので」


 陛下は止めなかった。

 糸切り鋏で、裾を掌ほど切った。指を置くと、店の床の軋みと、マダムの咳払いと、短い声が来た。


「そうしな」


 霜の服の、赤かった糸がいちばん浅く通っている場所を探した。新しい糸を針に通して、前掛けの切れ端をそこへ縫いとめる。最後に、赤かった糸を一針だけすくった。

 床の線が、まっすぐ切れ端へ伸びた。迷わなかった。

 そうしな、という声が遠くなって、消えた。服の上の白い枝が、一本だけ増えた。

 マダムの声は、私の頭の中には、ちゃんと残っていた。


「……縫い足せます」


「新しい糸で?」


「あの糸が、もう全部を通ってるので。そこへ一針かければ、つながります」


 陛下は、増えた一本の枝を見ていた。


「一枚ずつなら」


「はい。一枚ずつなら」


「また来るのね」


「直す仕事なので」


 陛下が、少しだけ笑った。


「そうだったわね」


 私はポケットから受諾書を出して、陛下に差し出した。


「これ、もういりませんよね」


 陛下は受け取って、少しだけ眺めてから、二つに破った。それをさらに二つに。細かくはしなかった。


「燃やして」


「承知いたしました」


 ギルベルトさんが、四枚になった紙を受け取った。公爵も、それを見ていた。


「儀式の記録も、書き直させるわ」


 陛下が言った。


「何と」


 公爵が訊いた。


「服でも保てる、と。今度こそ、起きたとおりに」


 公爵は、何の話か分からないという顔をした。三日前、それを言い出したのが自分だということも、この人は知らない。


「君が、次だったのか」


「はい」


「嫌だったんだろう」


「かなり」


「そうか」


 少し、間があった。


「よかったな」


 今日初めて会った女に、ずいぶん簡単に言う。


「……はい」


 それで、十分だった。

 部屋を出る前に、もう一度だけ霜の服に触れた。何も来なかった。ここへ預けられた布からは、もう何も聞こえない。マルタさんのご主人の袖口も、ミーナのお母さんの襟も、エドガーさんの裂け目も、赤い糸も。

 なくなった。

 それでも、マルタさんはご主人を知っている。ミーナはお母さんを知っている。レオンさんは、兄の最後の言葉を自分で覚えている。

 持っていかれたのは、服に残っていたぶんだけだった。


「終わったか」


 扉のところで、公爵が待っていた。


「はい」


「なら、行くぞ」


「どこへ」


「知らない。王太后に、君を休ませろと言われた」


「命令ですか」


「ああ」


「それなら、仕方ないですね」


「そうだな」


 公爵が先に歩き出した。

 私は針箱を抱え直して、その横へ並んだ。

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