終章 二度目の初恋 ①
終章 二度目の初恋
公爵が私の店に来たのは、封印の儀式から三か月が過ぎた頃だった。
店といっても、大通りから二本外れた路地に借りた、小さな仕立て部屋だ。窓が一つに、作業台が一つ。試着用の鏡だけはマダムが前の店から運び込ませたもので、部屋の広さに対して少し大きすぎる。おかげで、狭い部屋が鏡の中ではちょうど二倍になって、狭さも二倍に見える。
借りるお金は、葬礼服の代金から出した。王家の払いは、仕立て屋が一年かけて稼ぐくらいの額だった。人が死ななかった葬礼服の代金で店が開けたことについては、あまり深く考えないことにしている。
入口の看板には、まだ角の立った新しい字で、リネット仕立店と書いてある。
名前を考えるのが面倒になった結果だった。
「四十一年やってきた店の後継ぎが、その程度の名前かい」
開店の日、看板を見上げたマダムは言った。
「じゃあ、考えてください」
「オルガ古着店」
「それは閉めた店です」
「いい名前だったろう」
採用しなかった。
マダムは今、週に二度だけ店に来る。腰のために長くは座らない。代わりに、お客さんが帰るたびに、その人の服の傷み方について私より詳しい講評をして、満足して帰っていく。
その日の午後、私は窓際で、男物の上着の袖を詰めていた。
北から届いた仕事だった。
最近は、北からの依頼が少しずつ増えた。封印のための服ではない。兵士の上着や、子供の外套や、粉屋の前掛けといった、ただの服だ。
北の兵士たちのあいだでは、死人の服を触る女ではなく、帰ってこられなかった人の服を家まで帰してくれる店、と呼ばれているらしい。長いので、看板にはしていない。
ただ、ときどき、その荷に小さな布切れが一枚添えられていることがある。
捨てられなかった袖口。
子供が着られなくなった上着の端。
もういない人が使っていた襟。
王命では集めない。届いた布には、なくなるかもしれないことを書いた手紙を返す。嫌なら、取りに来てくれていいとも書く。
人を担い手に指す決まりも、変わった。指すには、陛下のほかに北方公と、指される本人が選んだ立会人がそろって頷かなければならない。三人のうち一人でも首を振れば、指せない。代価と期限は、受諾書より先に本人へ渡す紙に書く。その紙が本当に渡されたかどうかは、立会人が確かめる。署名したあとでも、儀式の前なら取り下げられる。
立会人を頼まれたら引き受ける、とマダムは誰にも頼まれないうちから言っている。
それに、今は服がある。人が断っても、その朝に北が落ちるわけではなくなった。
それでも預けると返事が来たものだけを、月に一度、まとめて城へ持っていく。
霜に覆われた服は、今も儀式の間で封印を抱えている。
月に一度、減ったぶんを見ながら、預かった布を縫い足す。赤かった糸を一針すくえば、新しい布も迷わずつながる。縫い込んだ布から痕が消えると、そのぶんだけ白い枝が増えた。
一人から全部はもらわない。どこまで続けられるのかは、まだ誰にも分からない。
だから、減ったら直す。
服なのだから、それでいいと思うことにしている。
儀式が終わったあと、立ち会った人たちには、一つだけ頼んだ。
「こちらからは、何も話さないでください。訊かれたら、隠さないで」
陛下は、面倒な頼み方ね、と言った。断られはしなかった。セシリア様は、言うわけないでしょう、と笑った。
儀式の次の日、公爵のほうも、自分が訊くまでは何も話すなとギルベルトさんに言ったと、あとで聞いた。
それから三か月、公爵は何も訊かなかったらしい。
別に、数えていたわけではない。
針を抜いたところで、窓の外を銀色の髪が通った。
手が止まった。
王都は広いし、銀髪の男なんて、探せばそれなりにいる。そう考えて、針を布に戻しかけたところで、その髪が戻ってきた。
一度、窓の前を通り過ぎて。
三歩ほど戻って。
看板を見上げて、それから窓の中を見た。
目が合った。
アルヴィン・レイヴァルト公爵だった。
「……何してるんですか」
硝子越しなので、もちろん聞こえていない。
公爵はもう一度看板を見て、少し眉を寄せた。名前に文句があるときの顔だった。それから、扉を開けた。
扉の上の鈴が鳴った。
「いらっしゃいませ」
口が勝手にそう言っていた。
公爵が、戸口で止まった。
「客には、そう言うのか」
「お客さんなら」
「なら、言われていい」
「何か、壊しました?」
「まだ何も頼んでいない」
まだ、と言った。私は上着を作業台に置いた。
公爵は店の中を見回した。作業台と、棚と、大きすぎる鏡と、隅の椅子。全部を見るのに、そう時間はかからなかった。
「狭いな」
「帰ってください」
「悪かった」
「早いですね」
「君の顔が、本気だった」
本気だった。
公爵は鏡の前で少し身体の向きを変えて、鏡に映った自分の銀髪を見て、すぐに目を逸らした。狭い部屋で鏡に二人ぶん映っているのが、落ち着かないらしかった。
「どうして、ここが」
「通りかかった」
「お屋敷からここ、通りかかる道じゃないですよ」
「知っている」
「じゃあ、どうして」
「先週、北通りの市場で、君を見た」
先週。北通りの市場には、布を買いに行った。
「それで、どうしてここが」
「帰っていく方向を、少しだけ見ていた」
「声、かけてくださればよかったのに」
「かける理由がなかった」
「今日は、あるんですか」
「まだ、ない」
また、まだ、と言った。
「理由もないのに、ここまで」
「遠回りした」
「どうして」
「知らない」
公爵は、自分でも納得していない顔で言った。
「この道を遠回りしたのは、今日で三回目だ」
窓の前を通り過ぎて、三歩戻った今日が、三回目だったらしい。前の二回は、通り過ぎたまま戻らなかったのだと思う。
「座ってください。お茶、淹れます」
「客だからか」
「立ってると、狭いので」
公爵は隅の椅子に座った。座っても、部屋はあまり広くならなかった。
お湯を沸かして、二人ぶん淹れた。作業台の端に自分のカップを置いて、反対側に公爵のぶんを置く。それから、針山を取ろうとして手を伸ばした。
針山は、作業台の右側にあった。
さっきまで、左にあったはずだった。
公爵は自分のカップを見ていた。私の手元は、見ていなかった。
「……熱いですよ」
「知っている」
公爵はカップを持ち上げて、それから、私のカップを作業台の奥へ少しだけ押しやった。私の肘から、遠いほうへ。
何も言わなかった。私も、何も言わなかった。
お茶の湯気が、狭い部屋の中でまっすぐ上がっていった。
「それで、ご用は」
「服を頼みたい」
思わず、公爵を見た。
「公爵様が?」
「ああ」
「うちで?」
「ああ」
「もっといい仕立て屋、ご存じですよね」
「知っている」
「じゃあ、そちらへ」
「嫌だ」
「子供ですか」
「二十七だ」
「知ってます」
公爵がカップを置いた。
「あの日、君は泣いていた」
急に言われて、返事が遅れた。
「……覚えてるんですか」
「あの日のことなら、全部」
全部、と言った。あの日の朝に初めましてと言われて、儀式の間まで半歩後ろを歩かれて、帰りは隣を歩いて、それからの三か月を、この人はちゃんと持っている。朝になっても、もう何も落ちていかない。
今日ここへ来るまで、ちゃんと話した私は、あの日一日分しかいなかった。
「困れ、と言われた」
「困ってましたよ」
「そうだったか」
「そうでした」
公爵は少し考えて、頷いた。そこは素直だった。
「それと、変な仕立て屋だと思った」
「よく言われます」
「三回目の遠回りで、悪口ではなかったと分かった」
返事が、すぐには出てこなかった。
「どんな服ですか」
訊くと、公爵はすぐには答えなかった。カップを見て、鏡を見て、それから私を見た。
「君と出かけるのに、困らないものを」
針を落とした。
作業台の縁で一度跳ねて、床まで転がっていった。拾わなかった。拾えなかった、というほうが近い。
「……何ですか、それ」
「服だ」
「それは分かります」
「なら、問題ないだろう」
「あります」
「何が」
「どうして、私と出かけるんですか」
公爵が黙った。
私は待った。前なら、こういうところで黒い手帳を開く人だった。今は、何も開かずに、自分の膝のあたりを見ていた。
「知らない」
知らない、と来た。
「知らないのに、服から作るんですか」
「仕立て屋に会いに来たんだ。服の話から始めるのが、筋だろう」
「筋じゃないです」
「そうか」
「用途が分からないと、作れません」
「食事だ」
「どこで」
「まだ決めていない」
「お昼ですか、夜ですか」
「君は、どちらがいい」
そこでやっと、分かった。この人は、服の注文をしに来たわけではない。
たぶん、本人も途中まで分かっていなかった。窓の前を三歩戻ったときにも、まだ。
「公爵様」
「何だ」
「先に、誘ってください」
「何に」
「食事にです」
「今、誘っている」
「服から入らないでください」
「仕立て屋には、そのほうが通じるかと」
「通じません」
「そうか」
公爵は真面目な顔で、少し考えた。
「では、ベル嬢」
そこで、公爵が止まった。
自分の口から出たものを、確かめるみたいな顔だった。それから、一度だけ短く息を吸った。
「……リネット」
言い直した。
前は、反対だった。名前を言いかけて、慌ててベル嬢に直す人だった。本人は、そんなことは知らない。
「今度、食事に行かないか」
「はい」
返事のほうが、先に出ていた。
一年前にも、同じ返事をした。仕立てかけの白い服の前で。
あのときとは、訊かれたことが違う。だから、同じ返事でいいのだと思う。
「では、服を」
「いりません」
「さっきまで、作る話をしていた」
「公爵様、服、ありますよね」
「ある」
「それで来てください」
「何でもいいのか」
「変なのじゃなければ」
「判断が難しいな」
「北方公なんですから、そのくらい自分で決めてください」
「北方公は関係ない」
「そこですか」
公爵が、笑った。口の端だけではなくて、ちゃんと。
見たことのある笑い方だった。それでいて、見たことのない笑い方だった。一年前の笑い方とも、毎朝私を忘れていた頃の笑い方とも、少しずつ違う。
明日の朝になっても、この人はこの笑い方をしたことを覚えている。私はもう、それをなくす心配をしなくていい。
「日は」
「お任せします」
「三日後」
「早くないですか」
「嫌か」
「嫌とは、言ってません」
「なら、三日後だ」
「勝手ですね」
「ああ」




