終章 二度目の初恋 ②
認めるところまで、変わっていなかった。
公爵は立ち上がって、それから、思い出したように上着の内側へ手を入れた。
「そうだ。これを」
黒い革表紙だった。
手が止まった。
「屋敷に残っていた。毎朝、俺が読んでいたものらしい」
「……読んだんですか」
「一行だけ」
「一行?」
「表紙に、読むなと挟んであった。俺の字で。それでも、一度だけめくった」
「それで」
「明日の俺へ、とあった。自分で自分に残したものだと分かった。だから、そこで閉じた」
最初の日、私も、同じ一行で閉じた。
残した本人のことは、何も覚えていないのに。
「何が書いてあるかは、今朝、ギルベルトに訊いた」
「今朝」
「ここへ来ると決めてからだ」
公爵は、それを先に言っておきたかったみたいな顔をしていた。
「君のことばかりだそうだ」
作業台の上に、手帳が置かれた。
「君が持っていたほうがいい気がする」
「どうして、私が」
「俺が捨てると、君は怒りそうだ」
「怒ります」
「だからだ」
公爵は戸口まで行って、一度だけ振り返った。
「看板の名前は、もう少し考えたほうがいい」
「帰ってください」
「帰る」
鈴が鳴って、扉が閉まった。
窓の向こうで、公爵が一度だけ立ち止まって、自分の手を見ていた。それから、来たときより少し速く歩いていった。
足音が路地の向こうへ遠ざかっていくのを、私は作業台の前で聞いていた。聞き終わってから、床に落ちた針を拾った。
針山は、右に置いたままにした。
その夜、店を閉めてから、作業台の上の手帳を手に取った。
昼間から、ずっとそこに置いたままだった。開けば、彼が来た理由を手帳の中に探してしまいそうだった。でも、理由のほうは、もう本人から聞いている。知らない、と。
灯りを寄せて、最初のページを開いた。
明日の俺へ。
知っている字だった。
最初のほうには、知っていることが並んでいた。
仕立て屋が来る。リネット・ベル。
砂糖は一つ。
店は、あと十二日で閉まる。
読み進めるうちに、文が少しずつ短くなっていった。そのかわり、同じことが何度も出てくる。前の日のページに書いたことを、次の日のページでもう一度書いている。前の自分を信用していないみたいな書き方だった。
好きだった。
ページをめくる手が止まった。
次のページにも、似た言葉があった。その次にも。
途中からは、好きらしい、になっていた。
もっと後になると、言葉の形がまた変わった。
理由は分からない。それでも、彼女が他の誰かと並んで歩くのは嫌だ。
手帳を一度閉じた。
「……余計なことばっかり」
前にも、この人に向かって言った。本人は、もう覚えていない。
少しして、また開いた。
終わりに近づくにつれて、字が崩れていった。覚えていることが減って、書いておかなければならないことだけが増えていったのだと思う。最後の何日かは、ページの端から端まで、ぎっしり埋まっていた。何を書いたのかは、半分も読めなかった。読めたぶんだけで、十分だった。
それから、白いページが来た。
何も書いていない。
次のページも、白かった。
ここで終わりなのだと思って、手帳を閉じかけた。最後の一枚だけ、ほかのページより少し固かった。めくると、裏表紙の手前に、三行だけ書いてあった。
明日の俺へ。
何も書かない。
どうせ、また好きになる。
しばらく、動けなかった。
字は、崩れていなかった。最後の何日かのどのページよりも、ゆっくり書いてあった。
「……ずるい」
誰もいない部屋なので、返事はなかった。
何も書かないと書くために、わざわざ一ページ使っている。明日の自分に何も渡さないと決めて、決めたことだけはちゃんと渡している。本当に、面倒な人だった。
そして、本当に来た。
手帳を閉じて、針箱の横に置いた。
窓の外は、もう暗かった。作業台の上には、明日仕上げる北の上着が一着残っている。針山は右にある。
三日後に何を着ていくかは、まだ決めていない。仕立て屋なのに、自分の服のことになると、だいたい決まらない。
三日後までに、決めればいい。




