第四章 書いてください ②
次の日の夕方から、雪が降った。
朝から曇ってはいたけれど、日が傾いてから急に強くなって、窓の外の庭の木も塀も門も、見ているうちに少しずつ白くなっていった。ギルベルトさんが、今夜は馬車を出せないと言った。
「歩きます」
「おやめください」
「店までなら」
「店は、もう閉まっております」
「……そうでした」
自分で言って、自分で困った。帰る場所がないわけではない。マダムと借りた小さな部屋がある。ただ、ここから歩くには遠かった。
「客室をご用意いたします。王太后陛下からも、三十日のあいだ、必要ならば滞在していただくようにと申しつけられておりますので」
「本当に、何でも決めてますね、あの方」
ギルベルトさんは答えなかった。否定しないところを見ると、たぶん同じことを思っている。
私は諦めて、作業を続けた。作業台の上には、三つの布が並んでいた。公爵の葬礼服と、エドガーさんの軍服と、ミーナのドレス。
残す服と、返す服と、着直す服。同じ針を使っているのに、ずいぶん違う。
「まだやるのか」
「今日中に、ここまで終わらせたいので」
「明日でもいい」
「明日の公爵様は、そう言ったことを覚えてないでしょう」
「だから何だ」
「今日の私が決めます」
公爵は少し黙った。
「頑固だな」
「職人ですから」
しばらくして、ギルベルトさんが夕食を運んできた。二人分だった。
「ここで食べるんですか」
「旦那様は、お食事を後回しになさいますので」
「俺だけでいい」
「ベル様も、同じでございます」
言われて時計を見ると、ずいぶん遅かった。空腹に気づいた途端に、お腹が鳴った。かなり大きく。
私は何も言わなかった。公爵も何も言わなかった。ギルベルトさんだけが、皿を置いた。
「温かいうちに」
ひどい。
夕食のあとも、雪はやまなかった。作業を終える頃には、廊下の明かりも半分落とされていた。私は針箱を閉じた。
「今日は、ここまでにします」
「ああ」
公爵は窓辺に立っていた。また困っているのかと思ったけれど、今日はただ、雪を見ているだけのようだった。
「雪、好きなんですか」
「北では、見飽きているはずだ」
「はず」
「ああ」
自分のことなのに、誰かの話みたいな言い方をする。
「ベル嬢は」
「何です」
「雪は好きか」
「服が濡れるので、嫌いです」
「情緒がないな」
「仕立て屋なので」
窓の外を見た。雪はきれいだった。だから嫌いだと言い切るのは、少しだけ嘘だった。
「でも、家の中から見るぶんには好きです」
「そうか」
公爵も外を見た。しばらく、どちらも話さなかった。静かで、嫌ではなかった。それが少し困った。
「公爵様」
「何だ」
「セシリア様と、結婚するんですか」
言ってから、閉じたばかりの針箱を落としかけた。何を訊いているのだろう。
公爵が、ゆっくりこちらを見た。
「なぜ」
「王太后陛下が、そうしたそうだったので」
「そうだな」
「嫌なんですか」
「セシリアは、嫌いじゃない」
訊かなければよかった。
「そうですか」
「ただ」
続きがあった。
「妻にしたいと思ったことはない」
「今は?」
「今?」
「今の公爵様は」
訊いてから、もっと訊かなければよかったと思った。
公爵は答えずに、窓際からこちらへ歩いてきた。一歩、もう一歩。近かった。
「ベル嬢」
「はい」
「なぜ、それを訊く」
「……仕事なので」
「何の」
「服の」
「妻を選ぶと、葬礼服の肩幅が変わるのか」
「変わるかもしれません」
「どういう仕組みだ」
「知りません」
苦しい。自分でも分かったし、公爵にも分かったらしく、口元が少しだけ動いた。
「君も嘘が下手だな」
「公爵様に言われたくありません」
「それも、前に言われた気がする」
私は顔を上げた。
「覚えてるんですか」
「いや」
公爵は少し考えた。
「言われそうな気がした」
同じ人だから、同じところで同じことを思う。それだけのことなのかもしれない。
「ベル嬢」
「はい」
「君は、俺のことが好きなのか」
今度こそ、何も返せなかった。
窓の外で雪が降っていた。暖炉の火が小さく鳴って、廊下のどこかで扉の閉まる音がした。時間だけが、先に進んでいった。
「……ずるいです」
「何が」
「訊くほうは、明日には忘れるじゃないですか」
公爵の顔から、少しだけ表情が消えた。
「そうだな」
「私は覚えてるのに」
「ああ」
「だから、ずるいです」
公爵は否定しなかった。何も言わずに、こちらを見ていた。
見ておきたいと言われた日の目に、よく似ていた。
急に、腹が立った。理由ならいくらでもある気がした。
毎朝、忘れること。
私より、自分の手帳を信じること。
セシリア様の名前は、迷わず呼べること。
私の砂糖の数を、手だけが知っていること。
困ると、窓へ逃げること。
昨日の自分が何をしたのかも知らないくせに、今日の私には、こんなことを訊くこと。
「公爵様」
「何だ」
「少し、黙ってください」
「もう黙っている」
「そういうのじゃなくて」
一歩、前に出た。公爵は動かなかった。もう一歩出ると、採寸のときより、踊ったときより、近くなった。
こんなことをするつもりはなかった。たぶん。少なくとも、ほんの少し前までは。
「ベル嬢」
「黙っててください」
背伸びをした。唇が触れた。
自分からしたくせに、触れた瞬間に逃げたくなった。逃げる前に、後頭部に手が回った。公爵の手だった。
一度だけ、今度は向こうから触れた。長くはなかった。
離れたとき、公爵の耳が赤かった。私もたぶん、同じだった。
「……黙れと言われたから、黙っていた」
最初に言うことが、それだった。
「そこは、喋っていいです」
「難しいな」
「私も今、そう思ってます」
どこを見ればいいのか分からなかった。公爵の顔は見られなかったので、左の手首を見た。白い枝が、十五本。明日の朝には十四本になって、今のこともなくなる。
そう思った途端、さっきまでの熱が、少しだけ冷えた。
「……公爵様」
「何だ」
「明日、忘れますよね」
「ああ」
迷いのない返事だった。
「今のも」
「ああ」
分かっていた。分かっていて、やった。それでも、実際に言われると腹が立つ。
「じゃあ、覚えておいてください」
「無理だ」
「知ってます」
「ベル嬢」
「何です」
公爵が、少し困った顔をした。
「手帳には、書ける」
私は黙った。
「嫌なら、書かない」
訊かれている意味は分かった。今日のことを、明日の彼に渡すかどうか。少し考えた。
「書いてください」
「いいのか」
「はい」
明日の彼は覚えていない。それでも、何もなかったことにはされたくなかった。
「ちゃんと書いてくださいね」
「何を」
「……それは、自分で考えてください」
公爵が、少しだけ笑った。今日の笑い方だった。明日の人は、知らない笑い方だった。
翌朝、部屋に入ったとき、公爵はもう手帳を開いていた。
「おはようございます」
返事はなかった。黒い革表紙の向こうで、ページを追う目だけが動いていた。
私は作業台まで歩いた。床も机も窓も、何も変わっていない。変なのは私だけだ。
公爵が、手帳から顔を上げた。目が合った。
「……ベル嬢」
「はい」
少し、間があった。
「確認したい」
「何をですか」
公爵は一度、手帳に目を落として、それからまた私を見た。
「俺は、応えたのか」
喉が詰まった。何が書いてあったのかは見えない。でも、何を訊かれているのかは分かった。
「はい」
「そうか」
それだけだった。
私は糸箱を開けようとして、手が少し震えて、蓋が引っかかった。
「後悔してます?」
訊くつもりはなかった。昨日から、口のほうが先に動く。
公爵は手帳を閉じた。
「覚えていないことを、後悔できるほど器用じゃない」
「……そうですか」
「ああ」
糸箱の右側の、いつもの場所に手を伸ばした。同時に、公爵の手も動いた。湯気の立っている紅茶のカップを、私の手元から遠ざける。
「まだ熱い」
「……知ってます」
「そうか」
おかしくて、少しだけ腹が立って、少しだけ泣きそうになった。どれも口には出さなかった。
左の人差し指を刺さないように針を取って、私は葬礼服の続きを縫い始めた。
袖口の白い枝は、十四本だった。




