第四章 書いてください ①
第四章 書いてください
十四日目の朝、公爵は初めて、砂糖の数を訊いた。
「いくつだ」
ギルベルトさんが置いていったカップを前に、公爵はそう言った。
私は返事をしようとして、口を開けたまま止まった。訊いている本人の右手が、もう砂糖壺の蓋を開けて、角砂糖を一つ、私のカップに落としていたからだ。
「……訊く前に、入れてます」
公爵は自分の手を見た。それから、カップの底で崩れていく砂糖を見た。
「そうか」
「一つで合ってます」
「そうか」
同じ返事を二回して、公爵は手帳のほうへ戻っていった。
袖口から、白い枝が覗いていた。十七本。
私は甘い紅茶を一口飲んだ。
「昨日の夜会、どうでした?」
「問題なく終わった」
「礼装は」
「裂けなかった。セシリアが二度、誰かに裾を踏まれていたが」
そこは、ちゃんと覚えているらしい。淡々とした声だった。
昨日、扉の前で私を見ていた人と同じ顔をしている。見ておきたい、と言ったことも、もう知らない顔だった。
私は作業台に、仕立てかけの葬礼服を広げた。最初は黒だけで仕立てるつもりだったけれど、公爵の古い外套を見てから、裏地に深い紺を使うことにしていた。表からはほとんど見えなくて、歩いたときに裾からほんの少しだけ覗く程度だ。
「色を変えたのか」
「裏だけです」
「なぜ」
「黒一色だと、似合わなかったので」
「葬礼服だぞ」
「死ぬわけじゃないんでしょう」
公爵がこちらを見たので、私は針を取りながら付け足した。
「公爵様が言ったんですよ。最初の日に」
「覚えていない」
「知ってます」
布に針を通していると、公爵は机に戻らずに、作業台の向かいに立ったままだった。
「何ですか」
「何が」
「見てます」
「仕事を」
「面白いですか」
「分からない」
「じゃあ、どうして」
言ってから、昨日とほとんど同じ質問だと気づいた。
「……いえ。何でもないです」
「そうか」
今日は、見ておきたいとは言われなかった。当たり前だった。
昼過ぎに、ギルベルトさんが一人の男の人を連れてきた。
二十代の半ばくらいの軍服姿で、右腕を吊っている。胸には北方軍の徽章がついていた。
「ベル様に、お客様でございます」
「私に?」
店はもう閉めたので、客が来る場所はないはずだった。男の人は、抱えていた包みを差し出した。
「オルガ古着店に行ったら、こちらだと言われまして」
「マダムが?」
「はい。仕事ならここへ持っていけ、と」
勝手な人だ。
包みは重かった。開けると、軍服が一着入っていた。古いものではなく、むしろ新しい。ただ、左の脇から背中にかけて大きく裂けていて、布の色が一部だけ濃くなっていた。何の色なのかは、見なくても分かった。
「兄のです」
男の人が言った。
「同じ部隊でした」
それ以上は訊かなかった。訊かなくても、だいたいのことは分かった。
「直せますか」
「着るんですか」
「いえ。母に返します」
男の人は、軍服から目を離さなかった。
「棺には入れられなかったんです。北から遺体を運べなくて、持って帰れたのがこれだけで」
右腕を吊っている理由も、たぶん同じ場所にあるのだろう。
私は裂け目を指で広げた。刃物で切られた跡ではない。何かに引き裂かれている。
「汚れは、どうします」
「そのままで」
「血も?」
「……はい」
少し迷ってから、男の人はそう答えた。
「母は嫌がるかもしれません。でも、きれいにしたら、違うものになる気がして」
分かるような気もしたし、分からないような気もした。残したいものは、人によってずいぶん違う。
「裂けたところだけ、直します」
「お願いします」
「お名前は」
「レオンです。兄は、エドガー」
軍服を作業台に置いて、触れる前に一度だけ訊いた。
「読んでも、いいですか」
レオンさんは少し考えた。
「何か残ってるんですか」
「触ってみないと分かりません」
「……お願いします」
裂け目の近くに指を置いた。
冷たかった。雪の中で、風が強い。誰かの荒い息と、地面を踏む靴の音と、金属のぶつかる音がして、それから、肩を強く押された。
「先に帰れ」
短い男の声だった。それだけで、終わった。
指を離すと、レオンさんがこちらを見ていた。
「何て?」
少し迷ってから、そのまま伝えた。
「先に帰れ、って」
レオンさんの顔は動かなかった。動かないまま、吊っていない左手だけが握られた。
「……最後に、言われました」
声が低くなった。
「俺が怪我したから。兄貴が、殿を」
続きはなかった。私も訊かなかった。
部屋の端に、公爵が立っていた。いつから聞いていたのかは分からない。
「何日かかりますか」
「三日あれば」
「急ぎません」
レオンさんはそう言ってから、少し困った顔をした。
「母に持って帰るのが、怖いだけなんで」
正直な人だった。
「じゃあ、四日にします?」
レオンさんが、私を見た。
「一日増えただけですよ」
少し間があって、レオンさんは頭を下げた。
「お願いします」
扉が閉まってから、公爵が言った。
「君は、客を帰らせるのが下手だな」
「何がです」
「持ってきたときより、考えることを増やして帰している」
「褒めてませんよね」
「分からない」
「そればっかりですね、最近」
「最近の俺を知らない」
そこは確かにそうだったので、言い返せなかった。
翌朝、紅茶のカップの横に、紙袋が一つ置かれていた。
「これは」
「知らない」
「知らないものを置かないでください」
「俺宛てではない」
紙袋には、私の名前が書いてあった。開けると、丸い白パンが一つと、砂糖をまぶした小さな菓子パンが一つ入っていた。底に敷かれた紙に、マルタさんの店の名前が刷ってある。
上着の礼なのだろう。まだ返してもいないのに。
「どうして、ここに」
「ギルベルトが受け取った。店が閉まったからだろう」
そうだった。店が開いていた頃なら、店に届いていたはずだ。
私は紙袋を作業台の端に寄せた。
「食べないのか」
「仕事中なので」
「菓子パンから先に食べるんだろう」
手が止まった。
「何で知ってるんです」
「手帳に」
「そんなことまで書くんですか」
「書いてある」
「本当に?」
公爵は返事をしなかった。
私は机の上の黒い革表紙を見た。あそこに私の何が書いてあるのか、少しだけ気になった。少しだけ。
「毎日、何を書いてるんですか」
「その日に会った人間のこと」
「私も?」
「いるからな」
「何が書いてあるんです」
「見せない」
そこで終わった。気にはなる。けれど、あの紙も一行しか読まなかった。それでいい。たぶん。
昼過ぎに、セシリア様が来た。今日は深い青のドレスだった。
「ベルさん、少しいい?」
「はい」
「アルヴィン様は」
「いる」
「見れば分かるわ」
「なら訊くな」
「相変わらずね」
セシリア様が笑って、公爵は面倒そうな顔で机に戻った。
「これを、見てほしいの」
差し出されたのは、白い絹の手袋だった。破れてはいない。かなり古いものだった。
「誰のですか」
「私の母の」
意外だった。私が顔を上げると、セシリア様は肩をすくめた。
「叔母様に頼まれたのよ。あなたの腕前を確かめてこいって。だったら、これがいいと思って」
「嫌なら、やめますけど」
「いいの。どうせ確かめるなら、私が知りたいもので」
指先に触れた。石鹸と香水の匂いがして、窓辺の明るさと、誰かの髪を撫でる柔らかい感触があった。そこから先は、薄くてほとんど何も来なかった。
「ほとんど、残ってません」
「そう」
セシリア様は、残念そうでもなかった。
「私、母のことをあまり覚えてないの。亡くなったのが七つのときだったから」
私は手袋を返した。
「だから、これを持ってる」
「覚えてないから?」
「そう」
セシリア様は、手袋を指でつまんだ。
「覚えてない人のものでも、捨てるのは難しいのね」
その言い方が、少し引っかかった。王太后陛下の擦り減った指輪を思い出す。
「王太后陛下も、同じなんでしょうか」
「何が?」
「指輪」
セシリア様の目が、一瞬だけ止まった。
「聞いたのね」
「誰かを、とても愛していたらしいって」
「そう」
セシリア様は手袋を丁寧に畳んだ。
「叔母様は、あの指輪を外せないの。外したら、本当に何もなくなる気がするんですって」
私は何も返さなかった。聞いていい範囲を、少しだけ越えた気がした。
セシリア様もそれ以上は話さずに、帰り際、机の前を通るときに公爵の手首へ目をやった。
「十六」
それだけ言って、出ていった。




