第三章 見ておきたい ②
夜会用の礼装がほとんど形になった日、公爵邸に王太后陛下がいらした。
前触れはなかった。ギルベルトさんが珍しく足音を立てて部屋に入ってきて、その後ろから、黒いドレスの年配の女性が歩いてきた。背は私とあまり変わらないのに、部屋の空気が一段重くなった。
公爵が、礼装の袖を通したまま姿勢を正した。
「陛下」
「楽にしていいわ。仕事の邪魔をしに来たのではないもの」
邪魔をしに来た人は、たいていそう言う。
王太后陛下は公爵の礼装をひと通り眺めてから、私に目を向けた。値札を確かめるときのような目で、上から下まで、ゆっくりと。
「あなたがリネット・ベルね」
「はい」
「捗っていて?」
「はい。夜会には間に合います」
「そう」
陛下は満足したのかどうかも分からない声で答えて、それから、黒い手袋の上から左手の指輪に触れた。細い金の指輪で、ずいぶん擦り減っていた。手袋の上から嵌めているのが、少しだけ変だった。
「布から、人の想いが分かるそうね」
「少しだけです」
「指輪では?」
「布でないと、分かりません」
「そう。残念だわ」
陛下は、指輪を見下ろした。
「私は、誰かをとても愛していたらしいのです」
らしい、という言い方が引っかかった。
「この指輪が、そう言うものだから」
それ以上の説明はなかった。陛下は指輪から手を離して、公爵のほうを向いた。
「夜会の晩、待っていますよ」
「承知しております」
陛下が出ていくと、部屋の空気がようやく元の重さに戻った。
公爵は袖を通したまま、しばらく動かなかった。右手が、左の袖口を握っていた。
「……誰を、ですか」
口に出してから、訊いていいことではなかったと気づいた。公爵はこちらを見なかった。
「陛下は、先王陛下を愛しておられた。そう聞いている」
「じゃあ、どうしてらしいなんて」
「肩はどうだ」
話を変えられた。
私は黙って、背中に回った。肩はもう引かれていなかった。
「動いてください」
「またか」
「仕事です」
「便利な言葉だな」
私は答えずに、襟元を整えた。整えながら、口のほうが勝手に別のことを訊いていた。
「セシリア様とは、いつからのお知り合いなんですか」
訊いてから、何を訊いているのだろうと思った。公爵も同じことを思ったらしい。
「なぜ」
「昔から、っておっしゃってたので」
「子供の頃からだ」
「長いんですね」
「ああ」
「踊ったこと、あります?」
「ある。何度か」
冷たい床の、広い部屋。袖をつかむ細い指。数を数える声と、俺を見ていろ。
あの手がセシリア様のものだと言われたら、たぶん私は信じる。子供の頃からの知り合いで、身分も合う。踊りを教わるような年頃だって、きっと一緒に過ごしていたはずだ。
「そうですか」
「気になるのか」
「……肩を見ます」
答えになっていないのは、自分でも分かった。公爵は、それ以上は訊かなかった。
店を閉める日の朝、公爵邸へ行く前に、棚を一つ空にした。
売るもの、持っていくもの、捨てるもの。分けてみると、ものは案外あっさり三つに分かれる。人間もそうなら楽なのにと思う。
「その箱、持ってくのかい」
マダムが訊いた。去年の帳簿が詰まった箱だった。
「いります?」
「いらない」
「じゃあ捨てます」
「待ちな」
「どっちですか」
「一応、取っときな」
「いらないんですよね」
「いらないけど、まだ捨てなくていい」
マダムはそういう人だ。私は帳簿の箱を、持っていくほうの山に載せた。人間はたぶん、三つにはきれいに分かれない。
その日の公爵邸では、礼装の最終確認をした。公爵はずっと静かで、私もあまり話さなかった。
帰り際、扉の前で公爵が言った。
「明日から、店は」
「もう開けません」
「そうか」
「はい」
「困るな」
思わず顔を上げた。
「何がです?」
公爵は答えずに、手帳に目を落とした。
「いや」
「何ですか」
「何でもない」
「そこまで言ったなら」
「ベル嬢」
「はい」
「暗くなる前に帰れ」
話を変えられた。それでも、なぜかそれ以上は訊けなかった。
手帳を持つ手の袖口から、白い枝が覗いていた。十九本。今日は数えないつもりだったのに、また数えていた。
夜会の日の朝、店には鍵がかかっていた。
いつものように扉を開けかけて、昨日の夕方、自分で閉めたのを思い出した。鍵穴は昨日と同じ形なのに、もう中に入る理由がない。少しのあいだ扉の前に立ってから、私は公爵邸へ向かった。
礼装姿の公爵は、悔しいけれど、よく似合っていた。悔しい理由はない。ただ、似合いすぎる人を見ると少し腹が立つ。
「どこか変か」
「いいえ」
「見ている」
「確認です」
「長い」
「最終確認なので」
肩、袖、背中と見ていって、問題はどこにもなかった。踊っても、もう裂けない。
「大丈夫です」
「そうか」
「終わりました」
そう言ったのに、公爵は動かなかった。私も、なぜかその場に立っていた。
今日はまだ、手首の枝を見ていなかった。袖を少し上げてもらえばすぐに済むのに、言い出さなかった。
「ベル嬢」
「はい」
「店は」
「閉まりました」
「……そうか」
「昨日も、同じ話をしましたよ」
「そうらしいな」
手帳に書いてあったのだろう。昨日の自分との会話を、今日の人は紙でしか知らない。
「毎日、手帳を読むの、嫌になりません?」
「なる」
意外だった。
「でも、読むんですね」
「読まないと困る」
「大事なことが書いてあるから?」
「ああ」
何が大事なのかは訊かなかった。
扉の外から、ギルベルトさんの声がした。馬車の用意ができたらしい。
「行く」
「はい」
公爵は扉へ向かいかけて、途中で一度、足を止めた。振り返る。
「ベル嬢」
「何ですか」
見られていた。採寸のときとも、布を見るときとも違う目で、ただ、見られていた。
「……何かついてます?」
「いや」
「では?」
公爵は答えなかった。時間だけが、少し伸びた。居心地が悪くなって、私は自分の頬に触れた。
「本当に、何も?」
「ああ」
「じゃあ、どうして見てるんです」
少し、間があった。
「見ておきたい」
何を、と訊こうとして、やめた。
公爵も、それ以上は何も言わなかった。
「遅れますよ」
「ああ」
今度こそ、公爵は扉を出ていった。
ドアノブに手をかけたとき、袖口が少しだけ上がった。白い枝が見えた。
十八本。
数えたことは、公爵には言わなかった。




