第三章 見ておきたい ①
八日目の朝、私は公爵の手首を見なかった。
見ないと決めていたわけではない。部屋に入って、挨拶をして、作業台に荷物を置いて、糸箱を開ける。その間に、たまたま袖口が目に入らなかっただけだ。
「おはようございます」
「おはよう、ベル嬢」
今日は、名前の前に間がなかった。
昨日までの私なら、それを少し気にしたかもしれない。今日はそれより先に、作業台の上の見慣れない箱のほうが目についた。細長い木箱で、蓋には例の、一本多い百合が彫られていた。
「また王太后陛下ですか」
「らしい」
「中身、ご存じなんです?」
「知っている」
「珍しいですね」
「俺は何だと思われているんだ」
「昨日の私を、朝に手帳で知る人です」
返事はなかった。否定もされなかったので、たぶん今日は私の勝ちだ。
蓋を開けると、黒い礼装が一式入っていた。葬礼用ではない。襟には銀糸が通り、胸元には細い刺繍があって、光の角度によって黒の奥から青が浮く生地だった。夜の広間なら、さぞかし映えるだろう。
「舞踏会ですか」
「五日後に、王宮で夜会がある」
「行くんですか」
「ああ」
「この状態で?」
言ってから、少し失礼だったかもしれないと思った。公爵は気にした様子もなく、上着を持ち上げて裏地を確かめていた。
「封印を受けたくらいで、公爵の仕事が消えるわけではない」
「これも私が直すんですか」
「王太后からは、そう聞いている」
「葬礼服の仕立て師なんですけど」
「俺もそう聞いていた」
二人で箱の中を見下ろした。王太后陛下には、職人を一人捕まえたら使えるだけ使うという主義がおありなのかもしれない。
礼装を広げてみると、かなり古いものだった。それでも仕立てがいいので、年月のわりに形がほとんど崩れていない。
肩幅を測ると、いま着ている軍服より、こちらのほうがわずかに細かった。やはり昔の服なのだろう。
「腕を上げてください」
公爵が腕を上げる。私は脇の縫い目を覗き込んだ。
「もう少し」
「こうか」
「もう少し」
「まだか」
「鍛えすぎた人が悪いです」
「昔の俺に言ってくれ」
袖付けの縫い目に指を差し入れてみる。このままだと、腕を高く上げたときに肩が後ろへ引かれる。
「これ、踊るとき困りますね」
「そうか」
「腕、動かしますよね」
「たぶん」
「たぶん?」
「しばらく踊っていない」
「踊り方、覚えてるんですか」
「踊り方は忘れない。そういうものだろう」
さらりと言われた。
私は作業台の右端の針山を見た。それから、砂糖壺を見た。昨日、熱いカップを私の手元から遠ざけた手のことを思い出した。
公爵が上着を脱いで、私に渡した。受け取るとき、内側の胸元に古い補修の跡があるのが見えた。外套ほど多くはないけれど、そこだけ糸の色がわずかに違う。
「これも直してありますね」
「そうなのか」
「見れば分かります」
「君にはな」
指を置いた。
最初に来たのは、冷たい床の感触だった。広い部屋で、人はほとんどいない。燭台の火が少しだけあって、窓の外の暗さのほうが勝っている。
誰かの手が、礼装の袖を強くつかんでいた。細い指で、ずいぶん緊張している。
女の声が、小さく数を数えていた。
「いち、に、さん」
そこに、男の声が重なった。
「俺を見ていろ」
そこで途切れた。指を離すと、手のひらにまだ少しだけ、つかまれていた袖の硬さが残っていた。
「何かあったか」
「踊ってたみたいです。たぶん、練習を」
公爵の目が、わずかに細くなった。
「誰と」
「分かりません」
「そうか」
「女の人です」
「それくらいは俺にも想像できる」
「男の人かもしれないでしょう」
「俺が?」
「可能性の話です」
「消してくれ」
「何をです」
「今の可能性を」
無理な注文だった。私は礼装を畳み直した。
袖をつかんでいたのは、小さな手だった。外套の中に包まれていた誰かと、手の大きさが似ている気がした。同じ人なのかもしれない。
そう思ったところで、廊下から足音が近づいてきた。ギルベルトさんのものより、ずっと軽い。
「入っていいかしら」
扉が叩かれて、返事を待たずに若い女性が入ってきた。
最初に目に入ったのは淡い金色の髪で、次に深い緑のドレス、最後に、私より少し高い位置にある顔だった。きれいな人だった。きれいの一言で片づけると雑になるくらいには。
「セシリア」
公爵が呼んだ。少しの迷いもない声だった。
私は手元の礼装に目を落とした。別に、何でもない。名前くらい誰だって呼ぶ。私は毎朝ベル嬢と呼ばれているけれど。
「ごきげんよう、アルヴィン様」
女性は公爵に微笑んでから、こちらへ向き直った。
「あなたがリネット・ベルね。セシリア・ヴァンレイよ」
知っている名前だった。王太后陛下の姪で、北方の大貴族ヴァンレイ侯爵家のご令嬢。新聞の社交欄では、何度も冬公爵の隣に名前が載っていた。隣に名前があるだけで勝手に結婚させるのが社交欄の仕事なので、あまり信用はしていなかったけれど。
「王太后陛下から聞いているわ。ずいぶん珍しい職人を見つけた、って」
「珍しいのは否定しません」
「死人の服を触るんでしょう?」
「生きてる方のも触ります」
セシリア様が笑った。思っていたより、普通に笑う人だった。
「よかった。怖い方だったらどうしようと思っていたの」
「私もです」
「私が?」
「貴族のご令嬢なので」
「どういう偏見?」
セシリア様はまた笑って、笑ったまま、公爵の手首にちらりと目をやった。
「二十三ね」
反射的に、私も袖口を見てしまった。二十三本。今日は見ないまま仕事を始めたのに、他人に数えられてしまった。
「数えてるんですか」
「ええ。王太后陛下に、毎朝報告が届くもの」
「毎朝?」
「北の封印に関わることですもの」
そういうものなのだろう。私が知らないだけで。
「それで、今日は何の用だ」
「夜会の確認よ。私も出るから」
「そうか」
「あなたのお相手も、必要でしょう」
公爵が黙った。私は礼装の肩口に待ち針を打った。一本、二本、三本。数えなくていいのに、数えていた。
「王太后陛下は、そのおつもりよ。あなたが嫌なら、断っても構わないけれど」
「君は」
「私はどちらでも。王太后陛下は私をあなたの隣に置きたがるし、私は置かれるぶんには困らないもの」
ずいぶん軽い言い方だった。
セシリア様はそこで一度、公爵の顔を見た。
「あなた、そういうお話は昔から嫌いだったでしょう」
公爵は何も返さなかった。
その沈黙は妙に長くて、私はいつの間にか四本目の待ち針を、打つ場所もないのに指で回していた。
「考えておいて」
セシリア様はそれだけ言うと、来たときと同じ軽さで出ていった。
翌日は、礼装の仮縫いをした。
袖を通してもらって、肩と脇を確かめる。昨日よりずいぶん余裕を出したはずなのに、腕を横に上げると、まだ背中が引かれた。
「駄目ですね」
「何が」
「踊ったら裂けます」
「それは困るな」
私は背中に回って、縫い代をつまんだ。
「実際に動いてもらったほうが早いですね」
「どう動く」
「舞踏会でやるように」
「踊れと?」
「一人で」
「嫌だ」
即答だった。
「仕事です」
「一人で踊るのが?」
「服を見るためです」
公爵は私の顔を見て、何か考えていた。
「では、一人でやる」
「そんなに嫌なら、別の方法でも」
「仕事なんだろう」
公爵は片手を上げて、誰もいない空間へ差し出した。
どう見ても妙な光景だったので、私は笑わないように口を閉じた。
「笑ってるな」
「笑ってません」
「君は嘘が下手だな」
「公爵様に言われたくありません」
結局、一人で何歩か動いてもらった。肩はやはり引かれる。直す場所に印をつけていると、扉が開いた。
「何をしているの?」
セシリア様だった。公爵が、腕を上げたまま止まった。
「見れば分かるだろう」
「一人で踊ってるように見えるわ」
「服を見ている」
「それなら、相手がいたほうが早いでしょう」
セシリア様は、こちらを見た。
「ベルさん、あなたが相手をすれば?」
「踊れません」
「アルヴィン様が踊れるから大丈夫よ」
「それは大丈夫って言うんですか」
「足を踏んでも死なないわ」
「私が?」
「アルヴィン様が」
「俺なのか」
三人とも少し黙った。楽しそうなのは、セシリア様だけだった。
「ほら」
背中を軽く押されて、一歩前に出てしまった。目の前に、公爵がいた。
「本当にやるんです?」
「君の仕事だろう」
「……手」
公爵が、私の右手を取った。反対の手が、背中にそっと回る。
思っていたより近かった。採寸のときのほうがよほど近づいていたはずなのに、あのときとは全然違う。
足元を見て、頭の中で数を数えた。一、二、三。数えないと、たぶん踏む。
「数えるな」
「数えないと踏みます」
「数えても踏む」
「じゃあ、数えます」
「俺を見ろ」
身体が止まった。
昨日、礼装から拾った声とほとんど同じだった。俺を見ていろ。一言違うだけで、声の高さも、言い方も。
「どうした」
「……いえ」
「動くぞ」
「待ってください」
待ってはくれなかった。
一歩、次の一歩、もう一歩。私は踊れないはずなのに、足がもつれなかった。公爵の手が次にどちらへ動くのか、分かる気がした。右へ流れる前に右足が先に逃げていて、回る前に、身体が勝手に少しだけ軽くなる。
「……私、踊れてます?」
「俺に訊くな」
「公爵様にしか分からないでしょう」
「少なくとも、足は踏まれていない」
「じゃあ成功です」
「基準が低い」
そう言う公爵の耳が、また赤かった。私のほうも顔が熱い。部屋が暑いのだと思う。北向きだけれど。
「肩、どう?」
セシリア様に言われて、仕事だったことを思い出した。忘れていた。
慌てて袖付けを見る。
「もう一度」
「まだやるのか」
「服を見るためです」
自分で言った言葉を、そのまま返した。公爵は嫌そうな顔をしたけれど、つないだ手は離さなかった。
壁際で、セシリア様が黙ってこちらを見ていた。さっきまでの楽しそうな顔ではなかった。何かを確かめているような顔で、目が合うと、すぐにいつもの笑顔に戻った。
その日の午後、店に戻ると、小さな客が待っていた。
小さいといっても子供ではなく、十四か十五くらいの痩せた女の子で、本人より立派な紙箱を両手で抱えていた。
「リネットさん?」
「はい」
「これ、直せますか」
開けてもらうと、薄い青のドレスが入っていた。形は少し昔のものだけれど、大事にしまわれていたのがひと目で分かった。
「どこを?」
「私が着られるように」
女の子は、自分の腰のあたりを指した。
「母のです」
それで、だいたい分かった。
「亡くなって?」
「三年前に」
「そう」
ドレスを持ち上げてみる。女の子には少し大きく、丈も長い。
「どこで着るの?」
「学校の冬祭り」
「新しいのを買ったほうが安いですよ」
「分かってます」
「もっと今っぽいのも買えます」
「分かってます」
言い方が少しだけ強かったので、それ以上は言わないことにした。
「じゃあ、着てみて」
試着室に押し込んで、しばらくして出てきた女の子は、案の定、母親の服に着られていた。袖は長く、腰は余り、胸元も落ちている。
「どうですか」
「このままじゃ無理」
女の子の顔が曇った。
「直せば着られる」
曇りが少し戻った。
「本当?」
「ただし、元には戻せなくなるよ」
裾を切って、腰を詰めて、肩にも手を入れる。昔の形を今の身体に合わせるなら、ただ縮めるだけでは済まない。
「お母さんの形では、残らない」
女の子はドレスを見下ろしたまま、何も言わなかった。私は急かさなかった。こういう沈黙は、こちらが埋めないほうがいい。
しばらくして、女の子が口を開いた。
「それでいいです」
「いいの?」
「着たいから」
「お母さんのままじゃなくなるよ」
「私が着るんですよね」
私は口を閉じた。
女の子は、鏡の中の自分を見ていた。
「箱に入ってるより、着てるほうがいいです」
帳場の奥で、マダムが何かを置く音がした。私は聞こえなかったことにした。
「一つだけ」
「何?」
「襟だけは、切らないでください」
理由は言わなかった。私も訊かなかった。
「名前は?」
「ミーナです」
「じゃあ、ミーナ。腕上げて」
採寸紐を取って、ドレスに触れる。最初に来たのは、石鹸と花の匂いだった。日の当たる部屋で、大人の女の人の手が、誰かの髪を梳いている。それから、小さな女の子の笑い声がした。
「お母さん、これ着るの?」
声はそこで途切れた。
目の前のミーナは、鏡に向かってまっすぐ立っていた。さっきの声よりずっと背が高くて、ずっと低い声で話す。
「何か残ってました?」
「少し」
「母?」
「たぶん」
ミーナは続きを待っていた。私は少し迷った。
「あなたの声も」
「私?」
「小さい頃の」
ミーナは変な顔をした。泣くかと思ったけれど、泣かなかった。
「何て?」
「秘密です」
「なんで」
「直ったら教えます」
「ずるい」
「代金を払ってからです」
「そこ?」
「そこです」
帳場の奥で、マダムが今度こそはっきり笑った。




