第二章 言い直す人 ②
三日目の朝、公爵の手首の枝は二十八本になっていた。
私が部屋に入ると、公爵は挨拶より先に手帳を開いた。
「おはようございます」
「……おはよう」
手帳を閉じて、顔を上げる。
「リネ」
そこで、口が止まった。
「ベル嬢」
私は荷物を下ろしかけた手のまま、公爵を見た。
「今、言い直しました?」
「何を」
「名前」
「呼んでいない」
「途中まで呼びました」
「気のせいだ」
「昨日より、嘘が上手くなりましたね」
「褒めているのか」
「一応」
公爵は返事をしなかった。
その日の午前中に、彼はあと二回、同じことをした。呼びかけて、止まって、ベル嬢と言い直す。三回目のときには、私はもう顔を上げなかった。顔を上げると、そのたびに手首の白い枝が目に入るので。
四日目の枝は、二十七本だった。
私が座る前から、針山は作業台の右端に置かれていた。紅茶の砂糖は一つで、公爵は何も言わず、私も何も言わなかった。
代わりに気になったのは、作業机の隅に置かれた銀色の小さな円盤だった。掌に収まるくらいの大きさで、真ん中に北方公爵家の紋章が彫り込まれている。昨日まではなかった気がする。
「これは?」
「封印術の警報具だ」
「触っても?」
「駄目だ」
「分かりました」
「そこで引くのか」
「駄目だと言われたので」
公爵が、わずかに眉を寄せた。
「昨日の俺は、君に何を教えたんだ」
「教えないと言った人に訊いても、時間がもったいないと」
「俺が言ったのか」
「私です」
「……そうか」
公爵は額に手を当てた。
私は持ってきた仕事を広げた。マルタさんの上着だった。
「それは」
「店の仕事です。午後に戻ると言ってあったでしょう」
「ここへ持ってくるとは聞いていない」
「昨日、言いました」
「覚えていない」
「便利ですね」
「またそれか」
また、と言われて、私は針を持つ手を止めかけた。
昨日の彼は覚えていないはずなので、たぶん偶然だ。私は口癖が多いほうなので、どこかで聞いたような気がしただけだろう。
襟のほつれに針を入れる。布に残った痕を傷めないように、古い糸のすぐ隣をそっと拾っていく。一針、二針と進めて、三針目の糸を引いた瞬間、部屋の隅で乾いた音がした。
銀の円盤が、机の上で小さく跳ねていた。
公爵が立ち上がった。
「今、何をした」
「何って」
「布に」
「ほつれを縫っただけです」
「もう一度」
「はい?」
「同じ場所を縫え」
「同じ場所は、もう縫いました」
公爵が黙った。私は針を持ったまま、少し待った。
「隣なら」
「やってくれ」
ずいぶん勝手な依頼だった。ただ、正直に言えば、私も気になっていた。
古い布をもう一針拾って、糸を通して、引く。
銀の円盤が、かすかに震えた。今度は私の目にもはっきり見えた。
「……何ですか、これ」
公爵は答えずに円盤を手に取って、裏返した。眉間の皺が、さっきより深くなっていた。
「その上着には、何が残っている」
「何が、って」
「君が読めるものだ」
私は上着に手を置いた。火のそばの熱と、焼けた小麦と、女の人の声。思ったままを口にする。
「亡くなったご主人のものです。ご夫婦でパン屋をしていた方の」
「強い感情は」
「あります」
「何だ」
少し迷った。感情には、名前がついていないことのほうが多い。布に愛と書いてあるわけでもない。
「帰りたかったんだと思います」
「店に?」
「たぶん」
それ以上は分からなかった。分からないものを分かったふりで埋めるのは、あまり好きではない。
公爵は円盤を机に戻した。
「……そうか」
「何なんです?」
「まだ分からない」
珍しく、正直な返事だった。
「分かったら教えてください」
「必要なら」
「必要じゃなくても」
「なぜ」
「気になるので」
それには返事がなかった。私が針仕事に戻ると、背後で銀の円盤が、もう一度だけ小さく鳴った。
五日目の枝は、二十六本だった。
部屋に入ると、公爵は手帳を開いたまま顔を上げて、何か言いかけて、閉じた。
「ベル嬢」
今日は途中で止まらなかった。止まらなかったぶん、最初の一文字目を飲み込んだのが、かえってよく分かった。
私は外套を作業台に置いて、布を押さえたまま針を探った。いつもの癖で、左手が先に動いた。
「痛っ」
左の人差し指に、針先が刺さっていた。血が一粒、ぷくりと浮いた。
すぐに公爵の手が伸びてきて、私の手首をつかんだ。
「だから左は」
そこで止まった。私も止まった。
公爵は、自分が握っている私の手を見下ろしていた。それから、まるで熱いものにでも触っていたみたいに、ゆっくりと指を離した。
「……悪い」
「何を言いかけたんです」
「知らない」
「手帳に?」
「知らないと言った」
少しだけ、強い声だった。怒鳴られたわけではないのに、それ以上は訊くなと言われたのは分かった。
私は布の端で血を拭った。公爵は窓際へ歩いていって、また背中しか見えなくなった。困ると窓へ行く人なのだと、五日目でようやく覚えた。
六日目の枝は、二十五本だった。
熱いカップに手を伸ばしかけると、公爵が何も言わずに受け皿ごと少し遠ざけた。
「まだ熱い」
「分かってます」
言い返されるかと思ったら、公爵は自分の手を見ていた。遠ざけた本人が、いちばん不思議そうな顔をしていた。
カップは戻ってこなかった。
針を三回布に通したところで、口のほうが先に動いた。
「公爵様」
「何だ」
「毎日忘れていくの、嫌じゃないんですか」
公爵は、しばらく黙って私を見ていた。
「君は」
「私ですか」
「毎日、忘れられるほうは」
考えてみた。まだ六日だ。昨日のことを覚えていない相手に毎朝同じ説明をするのは面倒だけれど、それを悲しいと呼ぶほどではない。たぶん。
「今のところ、面倒です」
「そうか」
「公爵様は?」
公爵は窓のほうを見た。また逃げるのかと思ったら、今日は少ししてから口を開いた。
「分からない」
「嫌かどうかも?」
「忘れたものを惜しむのは、難しい」
そこで一度、言葉が切れた。
「ただ」
「ただ?」
公爵は、今度は目を逸らさなかった。
「君が昨日の俺を知っているのは、少し気に入らない」
「どうしてです」
「俺の知らない俺を、君が知っている」
それだけ言って、公爵は手帳を開いた。話はそこで終わりらしかった。
私は針を取り直した。今のは、少しだけ分かる気がした。
七日目の朝、手首の枝は二十四本になっていた。
部屋に入ると、公爵はすでに窓際に立っていた。
「おはようございます」
「おはよう。……ベル嬢」
今日は、名前の最初の一音も出なかった。
昨日までのほうがおかしかったのだから、これで正しいのだと思う。そう思ったのに、針箱を開ける手が少しだけ遅れた。
作業台に座ると、針山は今日も最初から右端にあった。
「公爵様」
「何だ」
「どうして毎日、針山を右に置くんですか」
公爵は針山を見て、少し考えた。
「分からない」
私は糸の端を舐めて、針穴に通した。
少し間があった。
「でも、その位置のほうがいいんだろう」
針穴から、糸が抜けた。
私は黙って通し直した。
「そうですね」
それだけ答えた。公爵も、それ以上は何も言わなかった。
窓から入る朝の弱い光が、彼の手首の白い枝を薄く透かしていた。私は数えないようにしてから、結局数えて、それから針を布に入れた。




