第二章 言い直す人 ①
部屋は昨日と同じ北向きの作業室で、窓の位置も、布見本の並び方も変わっていない。私が座るつもりで壁際に寄せておいた椅子まで、昨日のままそこにあった。
変わったのは、袖口の枝の数と、私を見る目だけだった。
「昨日、ここで採寸をしました」
「……そうか」
「胸囲、九十四でした」
「それは言わなくていい」
返し方は昨日と同じで、少しだけ安心しかけて、やめた。同じなのは返事だけで、顔のほうには何の心当たりも浮かんでいなかった。
「本当に、覚えてないんですか」
訊いてから、言い方が悪かったかもしれないと思った。
公爵は腹を立てる様子もなく、机の上に目をやった。そこには黒い革張りの手帳が一冊、きちんと角を揃えて置かれていた。
「少し待て」
公爵が手帳を開いたので、私は窓のほうへ目を逸らした。
明日の俺へ、という昨日の一行が、まだ頭の隅に貼りついている。たぶんあれと同じ種類のものなのだろう。人に見られたくないものほど、立派な革表紙をつけたがるのかもしれない。
紙をめくる音が何度かして、途中で一度、止まった。横目で見ると、公爵は眉間に皺を寄せて私を見て、また手帳に目を落として、もう一度私を見た。忙しい人だ。
「昨日、君はここへ来た」
「はい」
「王太后の依頼で」
「はい」
「俺の採寸をした」
「しました」
「胸囲は言わなくていい」
「そこも書いてあるんですか」
「書いてない」
「じゃあ覚えてるじゃないですか」
公爵が止まった。私も止まった。
それから公爵は、ゆっくりと手帳を閉じた。
「今のは、君がさっき言った」
「……ああ」
駄目だった。一瞬だけ、何かを見つけた気になっていたのに。
「外套を借りたことも?」
「覚えていない」
「私と話したことも」
「ない」
「私が来る前のことは」
今度は、返事が少しだけ遅れた。
「君と話した分は、朝には残っていない」
答えになっているような、なっていないような返事だった。
私の目は勝手に彼の手首へ行った。一晩で一本だけ消えた霜の枝。昨日、全部消えたら、と訊いたときの沈黙を思い出す。
「毎朝、そうなんですか」
「そうだ」
「じゃあ、今日のことも明日には」
「残らない」
「ほかの人のことは」
「覚えている。昨日ギルベルトに言われた小言も」
「私と話したことだけ?」
「そうらしい」
「手帳に書いてあることも、消えるんですか」
「読めば、知っていられる」
「覚えてる、とは違うんですか」
「違う」
公爵は、手帳の表紙に指を置いた。
「君について知ったことは残る。君といた時間は残らない」
違いがよく分からないまま、私は頷いた。
「私が毎朝説明するんですか」
「手帳がある」
「私より信用されてますね」
「手帳は勝手に話を足さない」
「私はまだ何も足してません」
「胸囲を二回言った」
「事実です」
公爵は返事をせず、手帳を机の端へ押しやった。
返さないという返事もできる人らしい。
「便利ですね」
「何が」
「昨日の失敗を、全部忘れられるので」
「失敗した側だけな」
そこは少し面白かったので、私は口の端だけで笑った。
公爵は笑わなかった。笑わないまま、作業台の上に広げた外套のほうへ歩いてきた。
昨日のうちに、赤い返し縫いのまわりだけは糸を傷めないように、ほつれを拾ってある。公爵の視線がそこで止まった。
「ここは」
「残しました」
公爵はしばらく何も言わなかった。
残してくれと言ったのは昨日の彼で、今日の彼はそれを知らない。それなのに、ほどかれていない赤い糸を見下ろしたまま、肩のあたりの力がほんの少しだけ抜けたのが分かった。
覚えていないのに、安心だけはするらしい。変な人だと思う。
「この縫い目、どなたのか分かります?」
「……懐かしい気はする」
「誰が縫ったかは」
「知らない」
嘘かどうか、昨日ほどはっきりとは分からなかった。忘れた人の知らないは、普通の嘘より見分けにくい。
私は外套の裾を整えて、作業用の糸箱を開けた。昨日の道具をそのまま持ってきたので、いつもの癖で左に糸切り鋏、右寄りに針山を置きかけたところで、横から手が伸びてきた。
公爵の手だった。私より先に針山をつかんで、作業台の右端まで寄せた。
「……何ですか」
「何が」
「今、動かしましたよね」
「邪魔だった」
「そこに置くつもりでした」
「そうか」
本人は本当に分かっていない顔をしていた。
私は寄せられた針山を見た。私は昔から、布を押さえたまま、空いた左手で針山を探る癖がある。見ないで探るから、だいたい人差し指が先に針に当たる。針山が右の端にあれば、針は右手で、見て取ることになる。
そんな話を、昨日した覚えはない。少なくとも私のほうには。
公爵はもう布見本に目を移していた。訊こうか迷っているうちに、ギルベルトさんが紅茶を運んできて、私はカップを受け取るほうを先にした。
砂糖壺へ手を伸ばす前に、公爵が言った。
「一つだ」
手が止まった。
「何がです」
「砂糖」
「……どうして知ってるんですか」
公爵の手も止まった。ギルベルトさんが静かにポットを置いた。この人は何が起きても、紅茶だけはこぼさない。
「手帳だ」
「さっき、そこまで読んでました?」
「読んだ」
嘘だと思う。たぶん。
「じゃあ、一つで」
砂糖を一つ落とした。公爵が何も言わないので、私も何も言わなかった。
紅茶は、ちょうどいい甘さだった。
昼前に店へ戻ると、マダムは私が抱えていない外套より先に、私の顔のほうを見た。
「何かあったね」
「なんで分かるんです」
「十二年も同じ顔を見てるんだよ」
「人の顔も、服みたいに残ります?」
「口答えできるなら元気だね」
それで話は終わった。聞いてほしいような、まだ口に出したくないような、中途半端なところにいたので、ちょうどよかった。
棚の上には、紐で縛られた包みが一つ届いていた。差出人の欄は、いつものように空白だった。
「名無しさん、また来てたよ」
「今月、多くないですか」
「閉める前に駆け込みだろ。律儀な客だね」
一年ほど前から、ときどきこういう包みが届く。中身はいつも男物の服で、傷み方が妙に小さい。袖口のボタン一つ、裏地のほつれ一か所、襟の糸一本。新しい服を買ったほうが早そうなものまで送ってきて、直して指定の宿へ預けておくと、翌週には相場の倍の代金が届く。顔を見たことは一度もない。
ほどいてみると、今回は白いシャツだった。袖口のボタンが一つ、取れかけていた。
取れかけているだけで、糸はまだ二本残っていた。急ぐほどでもない傷み方だったので、私はシャツを畳み直して棚に戻した。
午後になって、パン屋の上着の持ち主が来た。五十代くらいの女の人で、店に入ってきたときから、両手を前掛けの中へ入れたままだった。
「直せそう?」
「直すだけなら」
「だけなら?」
襟の擦り切れは補強できるし、肘にも当て布をすればまだ十分に持つ。問題はそこではなかった。
「着る方がいないので」
「そうなのよ」
女の人は困ったように笑った。その笑い方が、昨日布から聞いた声とどこか似ていた。
「捨てるつもりだったの」
「はい」
「でもねえ」
そこで止まったので、私は待った。こういうとき続きを急かすと、だいたい違う話になってしまう。
「粉が落ちないのよ」
「粉?」
「洗っても洗っても、どこかから出てくるの。あの人、店でも家でも粉まみれだったから」
女の人は上着の袖口を指で撫でた。
「最後まで、しょうがないでしょう」
怒っていて、少しだけ笑っていた。
「捨てます?」
「それを決めに来たんだけどね」
「決まりました?」
「まだ」
「じゃあ、直します?」
「着ないのに?」
「着ないなら、急がなくていいです」
女の人がこちらを見たので、私は襟のほつれを指でつまんでみせた。
「置いておくなら、破れてないほうがいいでしょう」
しばらくして、女の人は声を出して笑った。
「変な商売してるね、あんた」
「よく言われます」
「安くなる?」
「そこは別です」
「そこは普通なのね」
帳場の奥で、マダムが鼻を鳴らした。たぶん笑ったのだと思う。
名前を訊くと、女の人はマルタと名乗った。
「パン屋さんですよね」
「そうだけど。言ったっけ」
「匂いで」
「そんなに?」
「服に残ってました」
マルタさんは自分の袖を鼻に近づけた。
「私も?」
「たぶん」
「やだねえ」
ちっとも嫌そうな顔ではなかった。
帰り際、扉を半分開けたところで、マルタさんは振り返った。
「直ったら、店に飾ろうかね」
「上着を?」
「パンの横に」
「粉つきますよ」
「もうついてるからいいの」
それだけ言って、扉が閉まった。
私がしばらく扉を見ていると、後ろからマダムの声がした。
「捨てないだろうって言ったろ」
「まだ決めてないそうです」
「飾る場所まで決めた人間は、だいたい捨てないよ」
それは、そうだった。




