第一章 依頼状の差出人 ②
採寸が終わる頃、ギルベルトさんが古い外套を一着抱えて戻ってきた。
「葬礼衣装の生地選びの参考に、と。王太后陛下からのご指定でございます」
「これを?」
「はい」
濃紺の冬用外套だった。触れなくても上等な布だと分かるのに、裾にも袖口にも修繕跡がいくつもある。
一度や二度の直しではない。新調する金に困る人の服ではないのだから、捨てたくなかったのだろう。何を、なのかまでは知らない。
「公爵様が着ていたものですか」
「そうだ」
受け取る前に、私は公爵のほうを見た。
「触っても?」
「それが君の仕事だろう」
「嫌がる方もいます」
「君はいつも、そうだったな」
外套へ伸ばしかけた指が止まった。止まったのは私だけではなく、公爵の口もだった。
「いつも?」
「……仕立て屋は、皆そうなのかと思った」
苦しい。王国最強の魔術師は、嘘をつくのがあまり得意ではないらしい。
何か訊こうとしたときには、公爵はもう窓際へ向かっていた。逃げたのだ。強い人でも、逃げるときは背中から逃げる。それを見て、少しだけ安心した。
私は外套へ向き直り、胸元の縫い目へ親指を当てて、目を閉じた。
最初は冷たかった。雪と、馬の汗と、鉄と、湿った革の匂い。指先から肘のあたりまで北の冬が這い上がってきて、王都の寒さとは違うのだということを、布のほうが先に教えてくれる。
そこから突然、温度が変わった。
前身頃の内側に、誰かが包まれている。公爵よりずっと小さい誰かで、顔は分からないし、声もまだない。胸のあたりに寄りかかってくる重さと、外套の端を握っている細い指の感触だけがある。
それが消えて、今度は針が来た。
赤い糸を持った細い指が、ほつれた場所へ針を通していく。速くて、少しだけせっかちな手つきだった。
「曲がっています」
女の声だった。若くて、怒っている。いや、怒った声を作っている。
その直後に男が短く息を漏らしたのは、たぶん笑ったのだと思う。それで終わった。
目を開けると、私の親指は赤い返し縫いの上にあった。細かな針目なのに、間隔は完全には揃っていない。上手い人ならもう少しきれいにできるはずなのに、なぜか、ほどいてやり直す気にはならなかった。
「どうした」
「この修繕をした方は、どなたですか」
窓際の背中が止まった。
「なぜ訊く」
「女の方でした」
返事はない。
「赤い糸を使う人で。かなり怒ってました」
「……そうか」
「曲がってる、って」
公爵が振り向いた。口元が動いて、笑いそうになって、やめた。
「その方をご存じなんですね」
「知らない」
「今、笑いました」
「笑っていない」
「笑いそうにはなりました」
「細かいな」
そこは否定しなかった。私は赤い糸へ視線を戻す。
「この縫い目、残してもいいですか」
「古いぞ」
「はい」
「不揃いだ」
「それも見れば分かります」
「なら、なぜ残す」
私は糸の端に爪を当てた。ほどこうと思えば、すぐにほどける。
「新しく縫い直したほうが、綺麗にはなります」
公爵は黙っている。
「でも、この人が直した跡はなくなります」
言ってから、余計だったかもしれないと思った。仕事は頼まれた通りに仕上げればいいもので、何を残したいかまでこちらが決めることではない。
私は外套を畳みかけた。
「残してくれ」
手が止まった。
「いいんですか」
「ああ」
「では」
畳み直すあいだも、公爵の視線は赤い糸の上に残っていた。
「布は、忘れないのか」
「勝手には」
「人が忘れても?」
少し考えた。
「人より長く残ることは、あります」
それだけ答えた。マダムなら、もっと気の利いたことを言うのかもしれない。でも私は服を縫う人間なので、服以上のことまでは保証できない。
「……そうか」
公爵は、それ以上は訊かなかった。
「この外套、店へ持ち帰っても?」
「ああ。仕事は店でしてくれればいい。ここへは採寸のときだけ」
「恐れながら、旦那様」
ギルベルトさんが口を挟んだ。
「何だ」
「王太后陛下より、本日から三十日間、ベル様にはこちらの作業室をお使いいただくようにとのご指示が届いております」
公爵の顎に力が入った。それまでの小さな失言より、ずっと分かりやすい反応だった。
「聞いていない」
「先ほど届きました」
「私も聞いてません」
二人がそろってこちらを見た。私は依頼人と執事を交互に見る。
「店があるんです。片付けもありますし」
「そうだな」
公爵が言った。
「あと十二日はある」
今度は、言った本人が先に止まった。私も止まった。
ギルベルトさんだけは止まらなかった。もともとずっと止まっているような顔の人なので、こういうときは得をしている。
「……どうして、それを」
「王太后から聞いた」
「王太后陛下が、うちの閉店日まで?」
「調べたんだろう」
「十二日ってところまで?」
公爵は答えずに作業台へ目を向け、並んでいた布見本の端を指で揃え始めた。もう揃っている布だった。
「王家は暇らしい」
今朝マダムが言ったのと、ほとんど同じ逃げ方だった。マダムなら笑っただろうけれど、私は笑わなかった。ここまで来ると、冗談より気になることのほうが多すぎる。
「店を閉めるまでは、午前中だけこちらに来ます」
「午後は」
「店へ戻ります」
「夜は」
「寝ます」
公爵がこちらを見た。なぜそこを確認するのだろう。
「……そうか」
「当たり前です」
「ああ」
少し間があった。
「では、それでいい」
もっと揉めると思っていたので、あっさり引かれて、かえってこちらが拍子抜けした。
公爵は窓のほうへ顔を向けていて、横顔だけ見ると、ほっとしているようにも見えた。たぶん気のせいだ。今日は気のせいが多い。
帰り支度をしながら、借りていく外套のポケットを確かめた。
古い服には硬貨や針や紙切れが残っていることがあって、入れっぱなしで持ち運ぶと生地を傷める。右は空で、左へ手を入れると、指先に紙の角が当たった。
折り畳まれた紙だった。少し離れたところで、公爵はギルベルトさんと話している。
開かなかった。開かなかったのだけれど、折り目の端がずれていて、一行目だけが見えてしまった。
明日の俺へ。
視線をそこで止めた。手紙ではない。少なくとも、他人に宛てたものではない。私は折り目を元に戻した。
「公爵様。ポケットに、これが」
公爵がこちらへ来て、差し出した紙を見て、それから私の顔を見た。
「読んだか」
「最初の一行だけ」
「何と」
「明日の俺へ」
公爵は黙った。私は紙を差し出したまま待った。
彼はそれを受け取った。受け取る手が、少しだけ速かった。
「続きは読まなかったのか」
「読んだほうがよかったですか」
「いや」
即答だった。
「じゃあ、読まなくてよかったです」
「……そうだな」
公爵は紙を軍服の内側へしまった。その袖口から、白い枝が覗いていた。今朝見たときと変わらず、三十本。
私は外套を抱え直した。
「では、明日の朝に」
公爵が、一瞬だけ黙った。
何かおかしなことを言っただろうかと考えるより先に、彼は頷いた。
「ああ」
たったそれだけの返事が、帰りの馬車に揺られているあいだも、ずっと耳の奥に引っかかっていた。
明日の俺へ。
あの一行だけは、なぜか忘れなかった。
「外套?」
翌朝、公爵はそう聞き返した。
私は抱えてきた濃紺の外套を、少しだけ持ち上げてみせた。
「昨日お預かりした外套です」
「昨日?」
公爵は外套ではなく、私の顔を見た。
袖口から覗いた白い霜の枝が、二十九本になっていた。




