第一章 依頼状の差出人 ①
三十日後、アルヴィン・レイヴァルト公爵は、私を完全に忘れる。
その朝の作業台には、うちの店にはまるで似合わない封筒が一通、朝食のパン屑と並んで置かれていた。
紙が厚く、角がひとつも潰れていない。白というより少し青みがかった乳白色で、煤けた裁ち鋏や使いかけの糸巻きに囲まれていると、そこだけ別の店から迷い込んできたように見える。
封蝋には王家の盾があり、その縁の百合が一本多かった。
配達に来た男が、王太后陛下の私印です、と三回も言っていたのは覚えている。三回も言うものだから、二回目あたりから冗談の類だと思って聞き流していた。
「開けないのかい」
帳場の奥から、マダム・オルガが顔だけ出した。
片手に朝食のパンを持ち、眼鏡を額まで押し上げて、こちらではなく封筒を見ている。興味があるなら自分で開ければいいのに、こういうところだけ雇い主らしい。
「偽物じゃないですか、これ」
「だったら相当な暇人だよ。王家の蝋印まで彫って、潰れかけの古着屋を騙しに来るんだから」
「潰れかけじゃなくて、閉店予定です」
「同じだよ」
「違います」
「あと十二日で同じになる」
返す言葉が見つからなかったので、私は黙ってペーパーナイフを取った。
王都の南端にあるオルガ古着店は、今月いっぱいで店を畳む。借金まみれになったわけでも、客が一人も来なくなったわけでもない。屋根の修理代と、マダムの腰と、去年大通りにできた大きな既製服店に、ちょうど順番に負けたというだけの話だ。
創業四十一年で、私が拾われてから十二年になる。店を閉める日まで、今日を入れて十二日。数字が揃っているのは偶然で、偶然なのが少しだけ腹立たしい。
封を切ると、中には便箋が一枚だけ入っていた。
王家の手紙というものは、もっと長くて、敬語がやたらと続いて、読み終わる頃には最初の用件を忘れているようなものだと思っていた。実物は案外、用事しか書いていない。
記憶仕立て師リネット・ベル殿。
北方公アルヴィン・レイヴァルトのため、葬礼衣装一式を仕立てられたし。
採寸のため、本日中に公爵邸へ出向くこと。
費用は王家が負担する。
名前の綴りまで合っていた。
その下には、断る場合でも王太后陛下の使者へ直接返答するように、と添えてある。ずいぶん丁寧に逃げ道を塞いでくる。
「……死ぬんですか、この方」
「さあ」
「さあ、で葬礼服を作らせる人っています?」
「王侯貴族ならいるんじゃないかい。食事の前に毒見役を置く連中だよ」
「便利ですね、王侯貴族」
「便利に使う言葉じゃないよ」
マダムはパンを一口かじり、それで手紙への興味は尽きたらしかった。
私は便箋をもう一度頭から読み直した。読み直したところで中身が変わるわけではないけれど、それでももう一度見てしまう。
「なんで私なんでしょう」
「書いてあるじゃないか」
「葬礼服を縫える仕立て屋なんて、王都に百人はいますよ」
「記憶仕立て師は?」
黙るしかなかった。
マダムは勝ち誇りもせず、作業台の端に置いてあった男物の上着を放ってよこした。慌てて受け止めると、布から小麦粉の乾いた匂いがした。
「これ、午後のお客さんのですよ」
「だから見な」
襟元の擦り切れた、安物の上着だった。
持ち主は三日前に亡くなったそうで、奥さんが捨てるかどうか迷って持ってきた。迷っている人の持ってくる服は、だいたい捨てられない服だ。
親指で、襟のほつれを撫でる。
最初に来たのは熱だった。実際に布が温かいわけではなく、もっと奥のほうに残っている、火のそばへ長く立っていた人の背中のような温度。焼けた小麦の匂いと、指に残る粉のざらつきがあって、そのすぐ後ろで女の人が笑った。
「また粉つけて」
声はそこで途切れて、それ以上は来なかった。
布に残るのは、いつもこの程度だ。温度と、匂いと、手の動きと、強い感情と、ごく短い声がひとつかふたつ。昔の出来事を芝居みたいに頭から最後まで見られるわけではないし、拾ったものを誰かの頭へ戻してあげることもできない。
私にできるのは、ほつれた場所を縫って、その痕が消えるまでを少しだけ伸ばしてやることくらいだ。
それでも近所では、死人の服に触って金を取る仕事と言われている。否定するほど間違ってもいないのが困る。
「パン屋さんだったみたいです」
「それは本人に聞きな」
「奥さんの声、怒ってました」
「そうかい」
「ちょっと笑ってましたけど」
マダムがようやく上着のほうを見た。
「じゃあ、捨てないだろうね」
腰を庇いながら椅子へ座り直し、拳で背中を二度叩く。
「服はね、人より長く覚えてることがあるんだよ」
この十二年で何度聞いたか分からない言葉で、聞きすぎて、今さらありがたがる気にもなれない。
私は上着を丁寧に畳んだ。あと十二日でこの作業台もなくなるのだと考えかけて、やめた。閉めたあと、自分がどこで針を持つのかは、まだ決めていない。代わりに王家の便箋を四つに折り、前掛けのポケットへ押し込む。
「行ってきます」
「そうしな」
「もし何かあったら」
「王太后の依頼で殺されたって看板に書いといてやるよ。客が増えるかもしれない」
「閉店するんですよね」
マダムのパンが止まった。
「じゃあ意味ないね」
自分から言い出したくせに、と思いながら、私は返事をせずに外套を取った。
レイヴァルト公爵邸は、店から馬車で半刻もかからない場所にあった。
近いのに、降りた瞬間から別の国だった。門だけでうちの店の間口が三つは入りそうで、玄関まで続く植え込みは、この寒さの中でも葉の高さがきっちり揃っている。
門番に便箋を見せると、確認はほとんど一瞬で終わった。
「お待ちしておりました、ベル様」
「……本当にですか」
「はい」
もう少し疑ってほしかった。こちらはまだ、来る場所を間違えた可能性を捨てきれていない。
玄関で私を引き継いだのは、小柄な老執事だった。白髪をきっちり撫でつけていて、姿勢だけなら扉の柱より真っすぐだ。
「ギルベルトと申します」
「リネット・ベルです」
「存じております」
なぜ、と訊こうとしたところで、ギルベルトさんの視線が私の顔の上で一瞬だけ止まった。
次の瞬間にはもう深々と頭が下げられていて、何を見ていたのかは分からずじまいだった。公爵家に来てから、分からないことばかり増えていく。
廊下を何本も曲がって、階段を上がった。
通された部屋は北向きで、窓が大きく、陽射しは弱かった。そのぶん布の色が素直に見えるので、仕立て仕事には悪くない部屋だ。
作業台まで運び込まれていて、白と黒と灰の布見本がきっちり並べてあった。採寸道具まで揃っている。私を呼んでおきながら、私が来る前から私の仕事場だけ完成していたらしい。
嫌な感じではない。ただ、少しだけ気味が悪い。
そして窓際に、その部屋でいちばん気味の悪い顔をしている人がいた。
黒い軍服に、銀に近い淡い髪。新聞の挿絵で見たことがあるので、誰なのかはすぐに分かった。北方の冬公爵、アルヴィン・レイヴァルト。二十七歳で、北の戦で魔獣の群れを一人で止めたという、王国最強の魔術師。
新聞ではずいぶん人間離れした書かれ方をしていたけれど、実物はちゃんと人間だった。しかも、三日ほどまともに寝ていなさそうな人間で、目の下がうっすら青い。
その人がこちらを振り向いて、私を見て、そこで止まった。
「リネット・ベルです。本日は」
「……どうして、君がここにいる」
先に言われた。
「はい?」
初対面の相手を見る目ではなかった。驚いているというより、困っている。それも知らない人が突然来たときの困り方ではなく、押し入れの奥から、捨てたはずのものが出てきたときの顔に近い。
ずいぶん失礼な例えだとは思う。ただ、他に思いつかなかった。
瞬きを一つしたあとには、その顔も消えていた。
「失礼した」
「どなたかと、お間違えですか」
「いや」
「では、以前どこかでお会いしました?」
「ない」
早い。私が最後まで言い切るより先だった。
「ご依頼をいただきましたので」
「誰から」
「王太后陛下です」
軍服の袖口で、公爵の右手が握られた。
小さな動きだったけれど、それまでほとんど動かなかった人なので、よく目についた。後ろのギルベルトさんは何も言わない。どうもこの部屋で事情を知らないのは私だけらしい。
知らないなら、知らないなりにできることをするしかない。私は公爵の軍服を見た。肩の線がきれいで、縫製もいい。ただ袖の付け根だけが少し窮屈そうなのは、仕立てたあとで鍛えすぎたせいだろう。
服を見ていれば、だいたいのことは忘れられる。
「……そうか」
公爵がようやく口を開いた。私にというより、自分に言ったような声だった。
「採寸を始めても?」
「ああ」
「その前に、一つだけ」
「何だ」
「本当に葬礼服なんですか」
「ああ」
「公爵様がお召しになる」
「そうだ」
「いつです?」
「三十日後」
肩にかけかけていた採寸紐を、私は下ろした。
「ご病気ですか」
「違う」
「決闘」
「しない」
「処刑」
「君は俺を何だと思っている」
「三十日後に葬礼服を着る人です」
公爵が黙った。
後ろで小さな音がして振り返ると、ギルベルトさんが拳を口元へ当てていた。咳だろう。たぶん。
「死ぬわけではない」
「では、なぜ葬礼服を?」
公爵は私を見て、少しだけ考えた。
「俺にとっては、似たようなものだからだ」
私は採寸紐を持ったまま、続きを待った。
公爵はそれ以上何も言わず、待たれていることに観念したように息を吐いて、左袖を捲った。
手首の内側に、白い模様が浮いていた。冬の朝に窓硝子へ張る霜によく似ていて、細い幹から枝が伸び、その先がさらに細い枝へ分かれている。刺青には見えないし、痣でもない。何より、そのあたりだけ空気がひやりと冷たかった。
数えるつもりはなかった。でも職人というのは、等間隔に並んでいるものを見ると数えてしまう生き物で、少なくとも私はそうだ。
「三十……」
「正確だな」
「数える仕事なので」
針目も糸も、生地の寸法も、一つ違えば最後に全部ずれる。
「封印紋だ」
公爵はすぐに袖を戻した。
「北で何を封じているかまでは、知らなくていい」
「分かりました」
「訊かないのか」
「教えないと言った人に訊いても、時間がもったいないので」
公爵が口を閉じた。
何か言いたそうな顔をして、結局、何も言わなかった。それならそれでいい。
「その枝は?」
「残りの日数だ」
「毎朝一本ずつ?」
「ああ」
「いつからですか」
「受けたのは、六日前だ」
六日前なら、三十六本あったことになる。そういう計算も、職人は頼まれなくてする。
「少なくないですか」
「枝の数は、払うものの量で決まるらしい」
それ以上は言わなかった。
「全部消えたら」
今度は少し長く黙って、公爵は窓の外へ顔を向けた。
「だから、葬礼服を頼んだ」
私は少しだけ待って、それから、待つのをやめた。同じ質問を二度するほど、こちらも暇ではない。
「では、腕を上げてください」
「こうか」
「もう少し」
採寸紐を背中から回して、胸の前で合わせる。その途端、公爵の肩が目に見えて固くなった。
「息、止めないでください」
「止めていない」
「止まってます」
「……近い」
「採寸なので」
「分かっている」
耳が赤かった。
私は目盛りへ視線を落とした。冬公爵と呼ばれていても、耳まで冷たいわけではないらしい。
「胸囲、九十四」
「口に出すのか」
「忘れるので」
言ってから、自分の口を閉じた。しまった、と思ったときには、ギルベルトさんの靴底が床を小さく擦っていた。
公爵は怒らなかった。
「それは困るな」
そう言って、ほんの少しだけ笑った。
笑われたことより、その笑い方のほうが気になった。気になった理由までは分からなかったので、私は採寸帳に九十四と書き込んだ。数字なら、余計なことを考えずに済む。




