第二話 名前を呼んではいけない
その夜、恒一はほとんど眠れなかった。
浅い眠りの底で、何度も同じ夢を見た。
夕焼けに染まった交差点。赤信号。風に揺れる髪。こちらへ伸ばされる細い手。
――こんどは、ちゃんと帰ろう。
声だけがやけにはっきりしているのに、顔だけは最後まで見えなかった。
目を覚ますと、部屋はまだ薄暗かった。カーテンの隙間から差し込む朝の光が、机の端だけを白く照らしている。喉が乾いていた。嫌な汗が、首筋にだけ残っている。
時計を見る。六時十二分。
いつもより早い。もう一度寝直すには中途半端で、恒一は布団から出た。制服をハンガーから外し、昨夜のまま机に置いてあった写真立てへ目を向ける。
公園で笑っている幼い自分。
その右隣にだけ、不自然な空白がある写真。
昨夜見つけた、裏の文字。
あかり。
恒一はためらいながら写真立てを裏返した。
鉛筆で書かれたその二文字は、まだそこにあった。夢ではなかった。
ただ、そのすぐ下に、昨日はなかった短い線が増えている。払い損ねた筆跡のような、たった一本の縦線。
まるで、続きを書きかけてやめたみたいだった。
「……なんなんだよ」
独り言は、朝の部屋にすぐ吸い込まれて消えた。
⸻
登校しても、世界は何も変わっていないように見えた。
一限目の古典。二限目の数学。廊下を走る一年生。購買の焼きそばパンを奪い合う声。
昨日の放課後、あの交差点で現実が少しだけひっくり返ったことなど、誰も知らない。
それが妙に腹立たしかった。
「朝倉、顔やばいぞ」
三限目が終わったあと、後ろの席の男子が半笑いで言った。
「徹夜でもした?」
「してない」
「じゃあ失恋?」
「してないって」
適当に返すと、相手はすぐ別の話題へ移っていく。
こういう、どうでもいい軽さに救われることもある。今日はたぶん、そうじゃなかった。
四限目の出席確認で、担任が名簿を読み上げる。
「朝倉」
「はい」
いつも通り返事をした、そのすぐあとだった。
はい。
もう一つ、声が重なった。
女子の声だった。
教室のどこからともなく、けれど確かに自分のすぐ近くから聞こえた気がした。
恒一は思わず顔を上げる。
教室の誰も反応していない。担任もそのまま次の名前を読んでいる。前の席の女子はノートの端に落書きをしていて、窓際の男子は眠そうにあくびをしていた。
今のを聞いたのは、自分だけだった。
嫌な汗が、背中にじわりと広がる。
⸻
放課後になる前に、呼び出しは来た。
昼休みの終わり、机の端に細く折られたメモが置かれていた。
見覚えのある筆跡で、たった一行。
放課後、観測室。ひとりで来い。 三枝
最後の授業は頭に入らなかった。
チャイムが鳴ると同時に教科書を閉じ、恒一はいつもより少し早足で教室を出た。
旧校舎へ続く渡り廊下は、昼間でも音が薄い。
窓の外では野球部の掛け声が響いているのに、ここだけ別の膜に覆われているみたいに遠い。
観測室の扉を開けると、湊のほかにもう一人いた。
白衣ではなく薄いカーディガン姿の男。四十代半ばくらい。保健室で何度か見たことのある顔だ。
「閉めて」
先に言ったのは紬だった。
窓際に立つ彼女の横で、男が軽く手を挙げる。
「はじめまして、ではないかな。藤代誠。校内では保健の先生をやってる」
やってる、という言い方が妙に軽い。
だが、その目は軽くなかった。
「昨日の件、聞いたよ」
恒一は黙って頷く。
湊が机の上に肘をつき、いつもより刺のある声で言った。
「結論から言う。しばらくお前は単独行動禁止」
「……そんなにまずいんですか」
「まずいよ」
答えたのは藤代だった。
「残響に名前を知られるのは、それだけで危険だ。しかも向こうから君を指名した」
「指名?」
「名前はね、ただの記号じゃない」
藤代は観測室の古い黒板にチョークで円を二つ描いた。
一つは大きく、もう一つはその外側に、少しだけ重なる形で。
「こっちが今の現実。こっちが、消えたものが残る側。普通、残響は外側にしかいられない。見えても、触れられない。観測者はその境目を見ているだけだ」
白いチョークの先が、二つの円の重なった部分を叩く。
「でも名前は違う。名前は座標だ。誰かを『その人』としてこの世界に固定する力がある。だから観測の五則に、“名前を呼んではいけない”がある」
「呼ぶと、どうなるんですか」
質問したのは恒一ではなく湊だった。
けれどその声音は、答えを知っている人間のものに近かった。
藤代は一瞬だけ視線を伏せる。
「向こうがこちらへ寄ってくる。こちらも向こうへ引かれる。最悪の場合、どちらがどちらか分からなくなる」
観測室が少しだけ静かになった。
外では下校を告げるチャイムが鳴っていた。
「昨日、君は返事をした」
「……してません」
思わず言い返す。
たしかに心は動いた。でも、名前を呼び返したわけじゃない。
「そうだね。正確には返しきっていない」
紬が机の端の写真を指で押さえる。
昨日のインスタント写真だと、恒一はすぐ分かった。
「でも、十分近かった」
写真は裏返しのまま置かれている。
見せるつもりはまだないらしい。
「朝倉くん」
紬が静かに言う。
「昨日、あの子を見たとき、誰かを思い出しかけた?」
恒一は答えられなかった。
思い出しかけた。
たしかにそうだ。
でもそれが誰なのか、自分では掴めない。
沈黙を肯定と取ったのか、紬はそれ以上は聞かなかった。
「No.17は今夜も出る可能性が高い。ただし、場所はもう交差点とは限らない」
「……どういう意味ですか」
「名前で繋がった残響は、地点より人に引かれる」
湊が舌打ち混じりに言った。
「つまり、今いちばん出やすい場所は“お前の近く”だ」
ぞっとした。
恒一が何か言おうとした、その時だった。
ぱち、と室内の蛍光灯が一度だけ瞬いた。
誰も動かない。
けれど全員が同じものを警戒したのが分かった。
次の瞬間、校内放送のスピーカーが、何の前触れもなくざり、とノイズを吐いた。
『――下校時刻を過ぎています。部活動の生徒は、速やかに――』
聞き慣れた事務的な女の声。
どこにでもある放送。
けれど、その最後に混じった一言だけが、あまりにも場違いだった。
『――朝倉恒一くん』
室内の空気が凍る。
放送はそれだけで切れた。
ほんの数秒。だが、全員がはっきり聞いた。
「嘘だろ」
湊が立ち上がる。
紬はすでにカメラを手にしていた。
藤代が観測室のドアへ向かいながら、低く言う。
「校内に出た。しかも呼びかけ付きだ」
「どこです」
恒一が聞くより早く、紬が窓の外を見て息を止めた。
「屋上」
三人が一斉に窓際へ寄る。
旧校舎の向こう、本校舎の屋上。
フェンス際に、女子生徒が一人立っていた。
夕日を背にした細い輪郭。
風に揺れる髪。
どこの学校のものとも判別できない、見慣れたようで見慣れない制服。
間違えようがなかった。
灯だ。
彼女はまっすぐこちらを見ていた。
ガラス越しでも分かる。昨日と同じ目だ。
「待機!」
藤代の声が飛ぶ。
「朝倉くんはここから動くな!」
「でも――」
「動くな!」
その一喝に、恒一の足は床へ縫い付けられたみたいに止まった。
湊と紬が観測室を飛び出していく。
藤代もすぐ後を追った。
扉が閉まる寸前、紬だけが一度振り返る。
「絶対に名前を口にしないで」
それだけ残して、部屋は静かになった。
恒一は窓の前に立ち尽くしたまま、屋上を見上げる。
距離があるのに、灯の唇が動くのが見えた。
何かを言っている。
音は届かない。
なのに、その口の形だけで、何を言っているのか分かってしまった。
こっちへおいで。
胸の奥の空白が、ずきりと痛んだ。
足が一歩、前へ出そうになる。
その時、机の上に置かれたままだった自分のシャープペンが、からん、と転がった。
恒一は反射的にそちらを見る。
誰も触れていないはずのルーズリーフの上に、細い筆圧の文字が浮かんでいた。
今まさに見えない指先で書かれていくみたいに、ゆっくりと。
つぎは、名前で呼んで
息が止まる。
その瞬間、屋上の灯がふっと消えた。
遅れて、遠くでフェンスのきしむ音がした。
恒一は窓へ駆け寄った。
けれどそこにはもう、夕焼けだけしか残っていなかった。
⸻
数分後、湊たちが戻ってきた時には、屋上には誰もいなかった。
「痕跡だけ」
紬が短く言う。
その手の中の写真を、今度は隠さずに机へ置いた。
屋上のフェンス。沈みかけの夕日。
そして、その手前に写る少女の背中。
けれど彼女の足元には、もう一つ、小さな影が重なっていた。
子どもの影だった。
恒一の喉が、ひどく乾く。
「昨日より濃くなってる」
紬の声は冷静だったが、わずかに硬い。
「No.17は単独の残響じゃない。欠番が重なって、ひとつの輪郭を作ってる」
「だから校内まで入ってきたのか」
湊が吐き捨てるように言う。
「朝倉を基点にして」
藤代はルーズリーフの文字を見下ろし、しばらく黙っていた。
やがて彼は、紙の端をつまんで持ち上げる。
「今日は帰宅させない方がいいかもしれないな」
「は?」
恒一が顔を上げる。
「冗談じゃなく危険だ。少なくとも、君が一人でいる場所に彼女を近づけたくない」
「でも」
「でも、じゃない」
湊が珍しく強く遮った。
「お前、自分が何に引っ張られてるか分かってないだろ」
言い返せなかった。
分かるはずがない。
でも、分からないまま放っておいていいものでもないことだけは分かる。
紬が静かに写真を回収する。
「今夜は観測室で記録整理。朝倉くんも残って」
「保護者には僕から連絡する」
藤代が言うと、もう決定事項の空気になった。
窓の外では、最後の部活の生徒たちが校門を出ていくところだった。
誰も知らない。
この学校の屋上に、夕方だけ現れる少女が立っていたことも。
その少女が、自分の名前を知っていることも。
恒一は机の上のルーズリーフを見た。
つぎは、名前で呼んで
細い筆跡は、もうそれ以上増えていない。
けれど今にもまた続きを書き始めそうな気配だけが、紙の上に残っている。
灯。
その名前を口にしたら、何かが決定的に変わる。
そう分かっているのに、喉の奥にはもうその音の形が張りついて離れなかった。
観測室の窓の向こうで、夕焼けがゆっくりと夜に溶けていく。
その境目に、誰かが立っている気がして、恒一は最後まで目を逸らせなかった




