第三話 観測室の夜
観測室に泊まることが決まってから、一時間ほどは妙に慌ただしかった。
藤代が保護者へ連絡を入れ、紬が旧校舎の空き棚から毛布を引っ張り出し、湊がコンビニへ食料を買いに行く。
その間、恒一は机の上のルーズリーフから目を離せなかった。
つぎは、名前で呼んで
たったそれだけの文字が、観測記録のどんな文章より重い。
「そんなに睨んでも消えないよ」
戻ってきた湊が、ビニール袋を机へ置きながら言った。
おにぎり、紙パックの茶、カロリーメイト。泊まり込みにしては色気のない中身だ。
「消えてほしいわけじゃない」
「なお悪い」
湊は椅子を引いて座ると、コンビニの袋から缶コーヒーを一本取り出した。
いつもの軽口に聞こえるのに、目だけは笑っていない。
観測室の蛍光灯が、ぶうん、と低く唸る。
外はもうほとんど夜だった。旧校舎の窓ガラスには、室内の光と、自分たちの姿しか映っていない。
藤代が観測室のドアへ簡単な札を下げる。
立入禁止。
表向きは工事器具でも置いてあるのだろうとでも思われるような、味気ない文字。
「本校舎の巡回は終わった。今日はもう誰も来ない」
そう言って、彼は古い電気ポットに水を入れ始めた。
保健の先生というより、深夜勤務の管理人みたいな手つきだった。
「橘」
藤代が呼ぶ。
「例の資料、出しておいて」
「はい」
紬が棚の最上段から薄いファイルを下ろす。
背表紙に書かれていたのは、ただの番号だった。
欠番管理記録 B-7
その文字に、恒一の喉がひどく乾く。
「見せるんですか」
自分でも驚くほど低い声が出た。
「全部は見せない」
紬はファイルを机へ置いたまま、指先で表紙をなぞる。
「でも、何も知らないままにしておく方が危ない段階に入った」
湊が缶コーヒーのプルタブを開ける。
小さな音だけが妙に響いた。
「欠番って、結局なんなんですか」
恒一が聞くと、藤代はポットの電源を入れてから振り返った。
「説明の仕方はいくつかある。でも一番近いのは、“世界が消しきれなかった痕跡”かな」
「消しきれない?」
「事故や失踪、災害、あるいはもっと別の理由で、本来この世界から切り離されるはずだったものがある。けれど、完全には消えない。記録の端、記憶の癖、生活の違和感として残る。それを僕らは欠番と呼ぶ」
藤代はそこで言葉を切った。
「残響は、その欠番が夕方に浮き上がったものだ」
昨日から何度も聞いている単語なのに、今夜の観測室では別の重みを持って落ちてくる。
「じゃあ、灯は」
「まだ“灯”と呼ばない方がいい」
紬が静かに遮る。
その目がまっすぐ恒一を見ている。
「名前を持つ前のものに、こちらから輪郭を与えるのは危険」
机の上のルーズリーフに視線が落ちる。
たしかにそこには、もう名前が半分置かれてしまっている。
恒一は口を閉じた。
「ただ」
藤代が続ける。
「君の周囲にだけ、特定の個体が繰り返し出る理由はあるはずだ。偶然じゃない」
「それが欠番と関係してる」
「そうだろうね」
ポットの湯が、かすかに鳴り始める。
「朝倉くん」
紬がファイルを開き、中の一枚を抜き出した。
黄ばんだコピー用紙。上部の印字は薄れていて、読めるのは一部だけだ。
対象分類:複合残響
危険度:B
備考:近縁者記憶に反応しやすい
「複合残響は珍しい。複数の欠番が重なって、一つの人型を取るタイプ」
「昨日の写真の……子どもの影」
恒一が言うと、紬は頷いた。
「たぶん、あれが核に近い」
「核?」
「一番強く現実に結びついている欠番」
湊が、机に肘をついたままぼそりと言った。
「つまり、お前が一番忘れきれてないものだよ」
部屋が静かになった。
それは責める言い方ではなかった。
事実を置いただけの、妙に乾いた声だった。
恒一は自分の手元を見る。
昼に使ったシャープペン。数学のノート。消しゴムのかす。そんな教室の名残が、今はひどく遠いものに思える。
「……妹がいたかもしれないって、考えたことはあります」
言いながら、自分でも不思議だった。
はっきり信じているわけじゃない。だが否定もしきれない。
「でも、それっておかしいだろ。家族は誰も覚えてない。写真にもいない。戸籍にもいないかもしれない。そんなの、いるはずがない」
「いるはずがないものがいるのが、欠番だよ」
湊が言う。
「正確には、“いたはずなのに、いなかったことにされてるもの”」
その言い方だけで、胸の奥の空白が痛んだ。
ポットの湯が沸く。
藤代が紙コップにインスタントのスープを注ぎながら、何でもない声で聞いた。
「朝倉くん。君、昔から同じ夢を見ることは?」
「夢?」
「夕方の場所に関するもの。帰り道とか、踏切とか、交差点とか」
恒一は少し考える。
少し、では足りなかった。考えようとしただけで、喉の奥にざらついた違和感が広がる。
「……あるかもしれません」
「今夜、思い出したらすぐ記録して」
藤代はそう言って、紙コップを一つ差し出した。
コーンスープの匂いがした。
「思い出すことは危険でもあるけど、武器にもなる。輪郭のないまま引っ張られるのが一番まずい」
恒一は紙コップを受け取る。
熱が指先にじんわり移る。現実へ戻るには、それで少し足りた。
⸻
夜九時を過ぎる頃には、会話も少なくなっていた。
紬は窓際で記録を整理している。
藤代は古いデスクトップパソコンで過去のファイルを開いていた。
湊は壁際の棚にもたれて、目を閉じているように見えたが、たぶん起きている。
恒一は机の端で、今日の簡易記録を書いていた。
第二話相当の出来事――ではなく、観測者としての簡潔な文章。
十七時四十八分。校内放送に呼名混入。
十八時〇三分。本校舎屋上に対象出現。
会話なし。接触なし。
筆記干渉あり。
そこまで書いて、手が止まる。
筆記干渉。
そんな言葉で済ませていいのか分からない。
紙に現れたあの文字は、干渉というより、意志そのものだった。
観測室の時計が、こつ、と小さく鳴った。
秒針の音が、昼よりずっと近い。
「休んでいいよ」
不意に紬が言う。
顔を上げると、彼女は記録から目を離さないままだった。
「今夜は長くなるかもしれないから」
「寝られる気はしません」
「寝なくても、横になるだけで違う」
その言葉に妙な説得力があった。
恒一は観測室の隅に敷かれた薄いマットへ視線をやる。元は保健室の予備だったのかもしれない。畳まれた毛布が二枚置いてある。
湊が片目だけ開けた。
「先に寝ろよ。何か出たら起こす」
「安心できない言い方するなよ」
「安心しろ。俺も嫌だ」
少しだけ笑いそうになって、でも笑えなかった。
恒一はマットの上に腰を下ろす。
毛布の手触りは古く、洗剤の匂いより、長年棚にしまわれていた布の匂いが勝っていた。
蛍光灯の白さが目に痛い。
けれど、それを消すのもためらわれる。
横になり、天井を見る。
剥がれかけた塗装。隅に走る細いひび。真っ白ではない、少し黄ばんだ天井。
その何でもなさに意識を預けようとするのに、頭の奥ではずっと、昨日の声が繰り返していた。
――やっと見つけた。
――こんどは、ちゃんと帰ろう。
――つぎは、名前で呼んで。
いつ眠ったのか、分からなかった。
⸻
気づくと、観測室は薄暗かった。
蛍光灯は消えていた。
窓の外も真っ黒で、旧校舎の外灯だけが、かろうじて廊下の輪郭を浮かび上がらせている。
時計の針は、一時十七分を指していた。
「……先輩?」
起き上がる。
返事はない。
紬の席も、藤代の机も、湊の棚の前も、誰もいない。
観測室そのものが、水底みたいに静まり返っていた。
心臓が一度だけ強く跳ねる。
「湊」
呼んだ瞬間、自分でしまったと思った。
名前を呼ぶなと言われ続けた夜に、無意識でそれをしてしまったことに。
だが返ってくる声はない。
代わりに、廊下の奥で、かすかな足音がした。
こつ。
こつ。
女子のローファーが床を踏むような、軽い音。
観測室のドアは半開きになっていた。
その隙間から、暗い廊下が見える。
誰かいる。
そう思った時には、恒一は立ち上がっていた。
頭のどこかで、これは夢だと分かっている。
分かっているのに、足は止まらない。
廊下へ出る。
旧校舎は夜になると、昼よりもずっと長い建物に感じる。天井が高くなるわけでもないのに、廊下の先が遠い。掲示板の紙は闇に沈み、窓ガラスには自分の姿さえ映らない。
こつ。
また足音。
曲がり角の向こうに、白い袖が見えた気がした。
「……待って」
誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からない。
角を曲がる。
そこには誰もいなかった。
その代わり、突き当たりの窓が半分だけ開いていた。
夜風が入ってきて、古いカーテンをわずかに揺らしている。
窓の向こうは、中庭だった。
誰もいないはずの中庭に、女子生徒が一人立っている。
制服の輪郭が、月明かりではなく、どこからともなく滲む薄い夕焼け色をまとっていた。夜なのに、彼女の周りだけ時間が違うみたいだった。
灯。
その名前が、もう喉元まで上がってきている。
少女は中庭の中央で振り向く。
やはり昨日と同じ顔だった。けれど夜に見ると、その表情はもっと幼く、もっと近いものに見えた。
「起きてたんだ」
彼女が言う。
声は窓も距離も無視して、すぐ耳元で聞こえた。
「みんな、寝ちゃってる」
恒一は反射的に観測室の方を振り返る。
開いたドアの向こうは暗いだけで、人の気配がない。
「……お前、何なんだ」
やっとそれだけ言うと、少女は少しだけ困ったように笑った。
「また忘れたの?」
その言い方が、ひどく自然だった。
責めるでもなく、悲しむでもなく、本当に何度も繰り返してきた会話みたいに。
「俺は、お前を知らない」
「知ってるよ」
即答だった。
「知ってる。だって、ずっと一緒に帰ってた」
胸の奥で、何かが音を立てた。
帰り道。
夕方。
並ぶ影。
小さな手。
断片だけが、古いフィルムみたいに明滅する。
「名前、呼んで」
少女が一歩だけ近づく。
中庭のコンクリートの上に、二つ分の影が伸びていた。彼女のものと、彼女の足元に重なる小さなもう一つ。
「そうしたら、もっと思い出せる」
それが罠だと分かる。
分かるのに、断れないほど甘い言い方だった。
恒一は窓枠を強く握る。
指先が冷たい。夢のはずなのに、感触だけは現実だった。
「……あかり」
呼びそうになった、その瞬間。
ぱん、と背後で大きな音がした。
世界が揺れる。
窓ガラスに白いひびが走り、次の瞬間、観測室の蛍光灯の強い光が視界へ雪崩れ込んできた。
「朝倉!」
湊の声だった。
気づけば恒一は、観測室の床に膝をついていた。
肩を掴んでいるのは湊。目の前には紬のカメラのフラッシュの残像。藤代が開いたファイルを片手に、険しい顔でこちらを見下ろしている。
息がうまくできない。
喉の奥に、呼びかけ損ねた名前だけが焼けついている。
「……何が」
「夢を見てた」
紬が短く言う。
だがその声には、ただの悪夢で済ませる気配がなかった。
「寝言で呼びかける寸前だった」
湊の手が肩から離れる。
そこだけ、まだ熱かった。
「中庭へ行こうとしてたんだよ。目は開いてたのに、こっちの声が全然届かなかった」
恒一は荒い息のまま窓を見る。
閉まっている。中庭も、夜の校舎も、いつもの闇しかない。
「……いた」
それだけ言うと、三人の表情が少しだけ変わった。
「何を話した」
藤代の問いに、恒一はすぐには答えられない。
忘れたくない。
でも、言葉にした瞬間に奪われそうでもある。
「ずっと一緒に帰ってた、って」
ようやく絞り出す。
「名前を呼べば、もっと思い出せるって」
紬が目を伏せる。
湊は舌打ちを飲み込むみたいに、口の端だけを動かした。
「王道だな」
「そういう言い方やめてください」
「やめたいけど、やめられないんだよ」
湊は頭をかいた。
「残響は、観測者の欠けた記憶を餌にする。特に近縁の欠番は強い。思い出したいって気持ちが一番危ない」
言いながらも、その目はどこか苦かった。
たぶん、自分も同じ痛みを知っている顔だった。
「中庭に出たのか」
藤代が紬に尋ねる。
「いいえ。出る前に止めました」
「助かったな」
それが誰に向けた言葉か、恒一には分からなかった。
観測室の空気が、眠気とは別の重さで沈む。
時計は一時二十一分。ほんの数分のはずなのに、ひどく長い時間を歩いてきたみたいに疲れていた。
「今のは夢じゃないかもしれない」
藤代が低く言う。
「正確には、向こう側から見せられた接触だ。名指しに近い」
「じゃあ、もう時間の問題ってことですか」
恒一が聞くと、藤代は少し考えてから答えた。
「まだ戻れる。ただし次に同じことが起きたら、君一人では耐えられない可能性が高い」
「対処法は」
「先に輪郭を掴むこと」
紬が答えた。
「何を忘れているのか。どうしてその子があなたに執着するのか。その核をこっちが先に見つける」
湊が机の上の古いファイルを引き寄せる。
「朝倉。お前の家、昔のアルバムってまだ残ってるか」
「ある、と思う」
「明日、探せ」
即答だった。
「写真じゃなくてもいい。手紙、持ち物、メモ、ランドセルの名札、何でも。欠番は完全には消えない。どこかに必ず継ぎ目が残る」
昨日見つけた写真の裏の文字が、脳裏に浮かぶ。
あかり
あれは偶然じゃない。
もう、それだけは分かっていた。
「明日、家を調べる」
恒一が言うと、紬が小さく頷いた。
「その代わり、一人では見ないこと。記録できる状態で確認したい」
「家まで来るんですか」
「必要なら」
即答したのは湊だった。
「嫌なら玄関先で待っててやるよ」
「それ待ってる意味あるか?」
「ある。少なくとも、勝手に名前呼んで突っ走るのは止められる」
その言い方に、少しだけ息が抜けた。
今夜初めてだったかもしれない。
藤代が壁の時計を見て言う。
「仮眠は交代にしよう。朝まであと少しだ」
「朝が来れば、少しはマシですか」
恒一の問いに、紬はわずかに考えてから言った。
「夕方よりは」
それは安心にはならなかったが、妙に正直で少しだけ救われた。
⸻
その後は、誰も深く眠らなかった。
湊が先に仮眠を取り、次に紬、最後に藤代が短く目を閉じる。
恒一は結局ほとんど眠れず、窓の外が黒から濃紺へ変わっていくのを見ていた。
夜明け前の校舎は、不気味というより拍子抜けするほど普通だった。
中庭の植え込み。自販機の白い明かり。遠くの道路を走る新聞配達のバイク。
あの少女が立っていた場所は、どこにもない。
それでも、観測室の机に戻ると、一枚だけ紙が増えていた。
誰も触れていないはずの記録用紙。
そこに、細い文字で一文だけ書かれている。
あした、家で待ってる
恒一は息を止めた。
藤代も、紬も、湊も、その文字を見た瞬間に言葉を失う。
やがて湊が、これ以上ないくらい嫌そうな顔で呟いた。
「最悪だ」
「家に入る気だ」
紬の声は静かだったが、目は冷えていた。
藤代が用紙を持ち上げ、裏表を確かめる。
紙は観測室の備品だ。見慣れた罫線。見慣れた管理番号。そこにだけ、見慣れない筆圧がいる。
「今日、放課後に動く」
藤代が言った。
「朝倉くんの家で、欠番の核を探す。向こうに先を越される前に」
夜明けが、旧校舎の窓を少しずつ白くしていく。
朝が来れば普通の一日が始まる。
授業があって、昼休みがあって、誰も知らないまま時間だけが進む。
けれど恒一には、もう分かっていた。
あの少女は交差点や屋上に現れるだけでは終わらない。
自分の家に来る。
自分の過去に触れる。
そしてたぶん、そこにいるはずの“もう一人”を連れ戻そうとしている。
机の上の記録用紙に視線を落とす。
あした、家で待ってる
待つ、ではない。
待ってる。
その微妙な柔らかさが、かえって恐ろしかった。
窓の外で、始業前の鳥が一声だけ鳴く。
夜と朝の境目で、恒一はようやく、自分が本当に引き返せないところまで来ているのだと知った。




