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第一話 夕焼けの交差点

終礼のチャイムが鳴ると、教室の空気は少しだけ軽くなる。

 椅子を引く音、机の中をかき回す音、部活の集合時間を気にする声。窓際の列から順に、春の終わりの西日が差し込んで、黒板の端を薄く橙色にしていた。


「朝倉、今日当番だろ」


 前の席の三枝湊が、振り返りもせずにそう言った。

 言い方は雑なのに、声だけは妙に通る。


「忘れてない」


 恒一が答えると、湊は肩だけで笑った。


「ならいい。今日の地点、駅前の交差点だから。遅れるなよ」


 湊はそれだけ言って立ち上がり、鞄を片手に教室を出ていった。取り巻きが多いわけでも、目立つタイプでもないのに、あいつの周りだけはなぜか空気が流れる。そういうやつだった。


 恒一は机の横のフックから鞄を取ると、教科書の下に隠していた黒い手帳を取り出した。市販品に見える、どこにでもある無地の手帳。けれど表紙の裏には、学校指定の持ち物でもないくせに、見慣れた書式の紙が挟まっている。


 観測記録

 日付、時刻、地点、対象番号、状態。


 それを見た瞬間だけ、放課後は少し違う顔になる。


 教室を出ると、廊下にはまだ日が残っていた。

 文化部のポスターが並ぶ壁も、ワックスの剥げた床も、どこにでもある高校の夕方に見える。けれど旧校舎へつながる渡り廊下だけは、毎日少しだけ温度が違う。空気が薄いというか、音が遠いというか、とにかく誰も近づきたがらない。


 実際、近づく必要があるのはごく一部だけだ。


 旧校舎一階、使われなくなった資料室の扉には、色の抜けたプレートがまだ残っている。

 だがその部屋を資料室と呼ぶ生徒は、もういない。


 観測室。


 校内でその名前を知っているのは、ここに出入りする人間だけだ。


 扉を開けると、部屋の奥で先輩が一人、窓際に立っていた。

 橘紬。三年。観測室のまとめ役。逆光のせいで表情は薄いのに、その人がそこにいるだけで部屋の輪郭が引き締まる。


「遅くない。珍しいね」


「五分前です」


「朝倉くんの五分前は、世間では普通に定刻」


 紬はそう言って、机の上の紙束から一枚を抜いた。

 湊はもう来ていて、窓の下の棚にもたれている。購買で買ったらしい紙パックの紅茶を片手に、面倒そうな顔だけをこちらに向けた。


「今日の対象はNo.17。四日連続、同地点に出現」


 紬が言う。

 その一言で、室内の空気は放課後のものではなくなる。


「四日連続って、ありえるんですか」


 恒一が聞くと、湊が即座に首を振った。


「ありえないから、今日行くんだろ」


 残響は、普通は流れる。

 同じ場所に出ても二日。長くて三日。四日も留まる個体は、記録上ほとんどない。


 紬は紙を机に置き、淡々と続けた。


「対象は女子生徒の姿を取っている。制服着用。会話の報告なし。接触なし。これまでは交差点北側、信号柱の脇に立っているだけだった」


 それから、少しだけ間を置いて言う。


「ただし、昨日の記録には不自然な点がある」


 湊が持っていた記録用紙を、指先でひらひらさせた。


「朝倉、お前の字で“視線の追従あり”って書いてある」


 恒一は黙った。

 書いた覚えはあった。嘘ではない。昨日、たしかにその少女はこちらを見た。いや、見たように思った。けれど残響が観測者を認識することは、本来ほとんどない。


「見間違いかもしれません」


「それならそれでいい」


 湊はそう言ったが、声は軽くなかった。


 紬は机の上に細い銀のペンを置いた。観測室の備品。書くためだけの道具ではないことを、ここにいる三人は知っている。


「確認に行こう。今日も同じ場所に出るなら、記録の誤差じゃ済まない」


 資料室――観測室の窓の外で、部活に向かう運動部の声が遠ざかっていく。

 普通の生徒たちは、今日が少し長いだけの木曜日だと思っている。明日の小テストとか、帰りに寄るコンビニとか、そういう話の続きをしながら階段を降りていく。


 その横で、自分たちはもう別の放課後に入っている。


 駅前の交差点までは、学校から歩いて十分。

 道中、湊は珍しく無駄口を叩かなかった。商店街を抜ける頃には、空はすっかり夕方の色に変わっていて、自転車のベルも、信号待ちの車列も、どこか膜を一枚挟んだ向こうの音みたいに聞こえた。


 現場の交差点は、街の中心から少し外れた古い四つ角だった。

 塗り直された横断歩道の白線だけが妙に新しく、そのせいで周囲の古さがかえって目立っている。小さなクリーニング店、シャッターの半分だけ開いた文具屋、二階の窓がずっと閉まったままの雑居ビル。


「時刻、十七時二十六分」


 恒一は手帳を開き、記録欄に目を落とした。


「対象、未確認」


「まだ早い」


 湊が信号柱の陰に目を向けたまま言う。

 その時だった。


 赤信号が点滅に変わる一瞬、

 そこに、誰かが立っていた。


 さっきまで何もなかったはずの場所に、女子生徒が一人。

 紺のブレザー、白いシャツ、細いリボン。見慣れたはずの制服なのに、どこの学校のものか判別できない。夕焼けを背に立つその姿は妙に薄く、それでいて影だけははっきり地面に落ちていた。


 No.17。


 恒一は記録を取ろうとして、指を止めた。


 少女がこちらを見ていた。


 昨日よりもはっきりと。

 迷いなく、まっすぐに。


「……視線、確認」


 そう書こうとして、ペン先がわずかに震える。


 少女は動かない。

 赤信号の向こうで、ただこちらを見ている。

 周囲の歩行者たちは、誰一人としてそこに誰かが立っていることに気づかない。スーツ姿の男がそのすぐ横を通り過ぎても、肩はぶつからず、存在は揺らがない。


 残響だ。

 そう判断するには十分だった。


 なのに、なぜだろう。

 恒一には、その顔を初めて見る気がしなかった。


 信号が青に変わる。

 車が流れ、風が抜け、少女の髪がわずかに揺れる。

 その瞬間、彼女の唇が動いた。


 何かを言った。


 音は届かなかった。

 けれど湊が横で小さく息を呑むのが分かった。


「朝倉、記録だけしろ」


 低い声だった。

 命令に近い。


 恒一は頷き、手帳に視線を落とす。


 対象番号No.17。

 形態、女子生徒。

 状態――


「……恒一」


 声がした。


 今度は、はっきり聞こえた。


 その二文字だけで、世界の色が一段深く沈んだ気がした。

 交差点の向こう、少女が笑っている。初めて会ったはずの相手に向ける顔じゃない。ずっと探していたものを、やっと見つけた時の顔だった。


「やっと、見つけた」


 恒一の指から、ペンが滑り落ちた。

乾いた音が、やけに大きく聞こえた。


「朝倉!」


 湊の声で、ようやく恒一は息をした。

 交差点の向こうで、少女はまだ笑っている。赤信号の前に立ったまま、一歩も動いていないはずなのに、妙に距離だけが近くなったように見えた。


 車は走っている。自転車も通る。買い物袋を提げた主婦が、横断歩道の白線の上を渡っていく。

 なのに、その誰一人として、少女の姿を認識していなかった。


「記録だけしろ。見るなとは言わない、でも応じるな」


 湊は短く言うと、ポケットから細い銀色の杭を二本取り出した。

 文房具にしか見えないそれを、信号柱の根元に打ち込む。次の瞬間、杭のあいだに張られた見えない線が、夕焼けを一瞬だけゆがめた。


 境界標。


 普段の湊は冗談ばかりなのに、これを使う時だけ動きに迷いがない。


「橘先輩!」


「見えてる」


 いつの間に来たのか、紬が交差点の反対側に立っていた。

 片手に持ったインスタントカメラを構え、少女へ向ける。フラッシュは焚かれなかったのに、空気だけが一瞬白く軋んだ。


 少女の髪が、風とは逆の方向へ揺れる。


 恒一はしゃがみ込み、足元に落ちたペンを拾った。

 指先がうまく閉じない。かすかに震えている。手帳を開くと、紙面の中央に、さっきまでなかった黒い染みが小さく浮いていた。


 観測記録

 十七時二十七分

 地点:駅前北交差点

 対象番号:No.17

 状態:


 そこから先が、書けない。


「朝倉!」


 湊の声がまた飛ぶ。

 恒一が顔を上げると、少女が初めて動いていた。


 青に変わった信号を、彼女は渡らない。

 車列が途切れない道路に、ただ真っ直ぐ足を踏み出した。ワンボックスカーのライトがその身体を透かし、次の瞬間には、彼女は道路の中央分離帯に立っていた。まるで、そこに至るまでの数歩だけが最初から切り抜かれていたみたいに。


「……嘘だろ」


 湊が低く吐く。


 残響は、現実に干渉しない。

 少なくとも、教わったルールはそうだった。


 少女は分離帯の上から、恒一だけを見ている。

 夕焼けの色を宿した瞳は、ひどく静かだった。


「どうして」


 彼女が言う。

 さっきよりも近い声で。


「どうして、また忘れたの」


 その言葉が落ちた瞬間、交差点の景色がひっくり返った。


 信号機の赤、黄、青が同時に灯る。

 アスファルトの上に落ちていた人々の影が、時間を巻き戻すみたいに足元へ吸い戻っていく。横断歩道の白線が、濡れた紙のようにやわらかく波打った。


「反転だ!」


 湊が叫ぶ。


 境界標の見えない線が、弾けそうに震える。

 紬がカメラのシャッターを切った。遅れて白い閃光が弾け、その光のなかで少女の輪郭がぶれる。制服の襟元、揺れる髪、伸ばしかけた右手。そのすべてが、別の誰かの影を何枚も重ねたみたいに見えた。


 恒一は喉の奥が冷えるのを感じた。

 知っている。

 あの手の伸ばし方を、自分は知っている。


 けれど、いつの、誰のものだったかが分からない。


「朝倉、書け!」


 湊の声が、今度は真横から飛んだ。

 気づけば彼は恒一のすぐそばまで来ていて、肩を乱暴に引いた。


「固定しろ! 今ならまだ浅い!」


 浅い。

 それがどの程度を指すのか恒一には分からなかったが、考えている余裕はない。手帳を睨み、震える指でペンを走らせる。


 状態――認識干渉、あり。

 対象――移動、確認。

 境界――


 そこで、ペン先が止まった。

 紙面の黒い染みが、書いた文字をゆっくり呑み込んでいく。


 だめだ。

 記録が定まらない。


 少女は分離帯を降り、今度こそこちらへ歩いてくる。

 車のあいだを抜けるのではない。彼女が一歩進むたび、その周囲だけが現実から半歩ずつずれていく。車の音が遠ざかり、風の流れが逆転し、交差点そのものが夕焼けの底へ沈み込んでいくようだった。


「恒一」


 また、名前を呼ばれた。


 その二文字だけで、胸の奥の空白がきしんだ。

 頭のどこかで、古いドアが少しだけ開く音がする。


 小さな手。

 並んだ歯ブラシ。

 雨の日の通学路。

 笑い声。


 何一つ輪郭を結ばないのに、全部が痛いほど近い。


「朝倉!」


 湊が怒鳴る。

 だがその声より早く、恒一の足は一歩前へ出ていた。


 少女もまた、右手を差し出す。


 触れたら何かが終わる。

 そんな予感だけは、はっきりとあった。


「――戻って」


 聞こえたのは自分の声だったのか、少女のものだったのか、恒一には分からなかった。


 次の瞬間、紬のフラッシュが真正面から弾けた。


 白に塗り潰された視界のなかで、少女の姿が一瞬だけ別の形に変わる。

 もっと幼い背丈。

 細い肩。

 恒一の手を引こうとしていた、小さな影。


 光が消えた時、少女は交差点の中央で立ち止まっていた。


「……個体じゃない」


 紬の声が、いつになく低い。

 現像された写真を見つめたまま、彼女はもう一度言った。


「No.17は、単独の残響じゃない。欠番が重なってる」


「最悪だな」


 湊が舌打ちする。


 恒一には意味が分からなかった。

 ただ、少女の瞳だけは、先ほどよりずっと寂しそうに見えた。


「ねえ」


 彼女が言う。


「こんどは、ちゃんと帰ろう」


 その瞬間、境界標が一本、甲高い音を立てて弾けた。


 見えない線が切れ、交差点の景色が大きく歪む。

 文具屋のシャッターが上下逆さまに閉じ、クリーニング店の看板の文字がぐにゃりと溶けた。歩行者用信号の人型が、こちらを向いて立ち止まる。


「朝倉、記録!」


 湊の叫びが、今度は命令ではなく悲鳴に近かった。


 恒一はほとんど反射で、手帳へ言葉を叩きつけた。


 地点固定。

 駅前北交差点。

 対象一体。

 境界線、北東角より閉鎖。

 反転、進行停止。


 最後の一行を書き切った瞬間、ペン先から黒いインクが跳ねた。

 紙面の染みが脈打ち、そこから交差点へ薄いひびのような線が走る。


 夕焼けの色が、割れる。


 空が少しだけ暗くなり、歪んでいた景色が元の位置へ戻り始めた。

 上下逆さまだったシャッターが正しい向きに落ち、看板の文字が輪郭を取り戻し、歩行者用信号の人型がただの灯りに戻る。


 少女だけが、そのなかに取り残されていた。


 彼女は少し驚いたように目を見開き、それから、ひどくやさしい顔で笑った。


「やっぱり、書けるんだ」


 恒一の胸の奥で、また何かが痛んだ。


 西の空に、建物の縁へ引っかかっていた太陽が沈む。

 日没の、ほんの一瞬前。


 少女の輪郭が夕焼けに溶け始めた。


「待て」


 呼び止めるつもりはなかった。

 ただ喉から出てしまっただけの、かすれた声だった。


 それでも少女は、消えかけた姿のまま、たしかに恒一を見た。


「明日もいるよ」


 その言葉を最後に、彼女は夕方の色へほどけるように消えた。


 交差点には、いつもの交通音だけが戻っていた。

 赤信号で止まった自転車の高校生が、退屈そうにスマホを見ている。クリーニング店の奥では、店主が何事もなかった顔でハンガーを整えていた。


 誰も、今ここで何かが起きたことを知らない。


 恒一はしばらくその場から動けなかった。

 手帳を持つ手だけが、まだ冷たく痺れている。


「……お前なあ」


 最初に口を開いたのは湊だった。

 怒鳴るかと思ったのに、その声には疲労の方が強く混じっていた。


「一歩で済んだからよかった。二歩行ってたら、たぶん引きずられてた」


「引きずられるって、どこに」


「知らない方がいい場所だよ」


 ぶっきらぼうに言ってから、湊は割れた境界標を拾い上げた。

 先端が黒く焦げている。


 紬は現像された写真をじっと見たまま黙っていた。

 やがて彼女は写真を裏返し、恒一へ向ける。


「これ、今は見ない方がいい」


「……何が写ってるんですか」


「今は」


 それだけ言って、写真を制服のポケットへしまった。

 紬の横顔はいつも通り静かだったが、目だけが少し硬い。


「観測室に戻ろう。報告を上げる」


 その言葉で、ようやく放課後の役目が終わった気がした。



 観測室に戻ると、室内の空気はもう夜に近かった。

 窓の外では、校庭の隅の外灯に虫が集まり始めている。


 湊は椅子に座るなり、割れた境界標を机に置いた。

 紬はカメラを布で包み、棚の鍵付きの引き出しへしまう。

 恒一だけが、まだ立ったままだった。


「説明して」


 紬が言う。


「どうしてあなたの名前を知っていたのか、心当たりは」


「ないです」


 即答だった。

 そう答えるしかない。

 あの少女を知っていると言うには、恒一の中に記憶がなさすぎた。


「本当に?」


 湊の問いは鋭かった。

 恒一は視線を逸らさないようにして頷く。


「……でも」


「でも?」


「知ってる気がした」


 それを口にした途端、自分でも曖昧さに苛立った。

 知っているのか、知らないのか。そのどちらでもない感覚が一番厄介だった。


 紬は少しだけ目を伏せ、それから静かに言った。


「今日はそれでいい。けど、No.17は明日も出る可能性が高い」


「は?」


 湊が顔を上げる。


「四日連続でも異常なのに、まだ出るって?」


「記録が閉じてないから」


 紬は机の上の恒一の手帳へ視線を落とした。


「朝倉くん。最後のページ、見せて」


 恒一は言われるまま手帳を開いた。

 交差点で書いたばかりの観測記録。インクはまだ完全には乾いていない。だが中央の黒い染みだけは、さっきよりも小さく、まるで最初からそこに収まる場所を知っていたみたいに紙面へ沈んでいた。


 十七時二十七分

 地点:駅前北交差点

 対象番号:No.17

 状態:認識干渉、移動、反転兆候あり

 境界線:北東角より閉鎖

 反転:進行停止


 そこまでは、たしかに自分で書いた。


 問題は、その下だった。


 余白に、見覚えのない文字が一行だけ増えている。


 仮称:篠宮 灯


「……なんだよ、これ」


 湊が先に呟いた。


 恒一の喉がひどく乾く。

 書いた覚えはない。

 そもそも、名前など聞いていない。


 なのに、その文字だけは最初からそこにあるべきものみたいに自然で、ひどく嫌だった。


「篠宮、灯……」


 無意識に口の中で転がした瞬間、紬の視線が鋭くなった。


「口にしないで」


 恒一ははっとして黙る。


 観測の五則。

 名前を呼んではいけない。


 自分で作ったわけでもない名前でさえ、そうなのかと問おうとして、やめた。

 紬の顔が、答えを知っている顔だったからだ。


「今日は解散」


 彼女は短く告げた。


「でも、手帳は持って帰らないで。ここに置いて」


「先輩?」


「念のため」


 その言い方には反論の余地がなかった。

 恒一は手帳を机に置く。指先が紙面から離れる瞬間だけ、奇妙な名残惜しさがあった。


 まるで、そこにまだ誰かが触れているみたいに。



 家に帰ると、玄関の明かりがついていた。


「恒一? 遅かったわね」


 キッチンから母の声がする。

 その何気なさに、交差点での出来事が全部、うまく現実へ戻ってこない。靴を脱ぎ、リビングへ入ると、テレビではクイズ番組が流れていた。父はまだ帰っていないらしい。


「部活?」


「……そんな感じ」


 曖昧に答えると、母はそれ以上聞かなかった。


 手を洗いに洗面所へ向かう途中、廊下の飾り棚が目に入る。

 古い家族写真がいくつか立てかけられている。海、動物園、入学式。どれも何度も見たことがあるものばかりだ。


 そのうちの一枚に、恒一は足を止めた。


 小学校に上がる前くらいの自分が、どこかの公園で笑っている写真。

 いつもと同じだ。

 ただ、その右隣に、もともと誰かがいたみたいな不自然な空きだけがあった。


 肩に回されたはずの手の位置だけが、宙に残っている。


「……なんだこれ」


 思わず写真立てを手に取る。

 母はキッチンから「どうしたの」と聞いたが、恒一は答えなかった。


 写真の裏側に、鉛筆で小さく文字が書かれているのが見えた。


 裏返す。


 薄くかすれた筆圧で、たった二文字。


 あかり


 心臓が一拍遅れて跳ねる。


「恒一? ごはん、できてるわよ」


 母の声がまたする。

 恒一はその文字から目を離せなかった。


 見覚えなんて、あるはずがない。

 なのに、そのひらがなだけは、何年も前から知っていたものみたいに胸の内側へ落ちてくる。


 夕焼けの交差点。

 こちらを見て笑った少女。

 観測記録に勝手に書き足されていた名前。


 篠宮灯。


 あかり。


 廊下の窓の向こうでは、とっくに日が沈んでいた。

 暗くなったガラスに映る自分の顔が、ひどく知らないものに見える。


 その夜、恒一は何度目かも分からないほど浅く息をつき、写真の裏をもう一度見た。


 かすれた二文字の下に、さっきまでなかった小さな線が、一本だけ伸びている。


 まるで、今も誰かが続きを書こうとしているみたいに。


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