第9話 井戸の底
日照り、40日目。夜。
落ちていく感覚は、すぐに消えた。
腰に巻いたロープが、ぴんと張った手応えがあった。それから、ふっと緩んだ。切れたのか、ほどけたのか、分からなかった。
冷たいものが、全身を包んだ。
水だった。
口の中に水が流れ込んできた。鼻の奥がつんと痛んだ。俺は、もがいた。上も下も分からなかった。ヘッドランプの光が、濁った緑色の闇の中で、ぐるぐると回っていた。
――おにいちゃん、手、はなさないでね。
汐里の声が聞こえた。
川の水の中で、あいつも、こんなふうに上も下も分からなくなったのだろうか。
息が、続かなかった。
肺の中の空気が、泡になって、口から漏れていった。
もう、だめだ。
そう思った瞬間、足の裏が、何か固いものに触れた。
*
石だった。
平たい、苔に覆われた石。
俺は、その上に立っていた。
立っている、と気づいたとき、息ができることにも気づいた。水の中にいるのに、胸が普通に上下していた。冷たい水が、喉を通って肺に入り、また出ていく。苦しくなかった。
ヘッドランプの光は、消えていた。
それなのに、周りが見えた。
青白い光が、どこからともなく、あたり一面を照らしていた。月の光を水の底から見上げたような、ぼんやりとした、冷たい光だった。
目の前に、道が続いていた。
平たい石が、2列に並んで、真っすぐに奥へ延びていた。
見覚えがあった。
干上がった池の底で、澄と一緒に歩いた、あの石の道だった。池の水際で、水の中へ消えていった道。その続きを、俺は今、歩いている。
道の両側に、石組みの土台が並んでいた。竈の跡。割れた茶碗。首の欠けた地蔵。
大正の終わりに沈んだ、谷の村だった。
*
道の先に、白いものが立っていた。
ひとつ。ふたつ。道の両脇に、点々と。
白無垢の、女たちだった。
綿帽子を深くかぶって、顔は見えない。皆、同じように、うつむいて立っていた。白い打掛の裾が、水の中でゆらゆらと揺れていた。
歌が、聞こえた。
みずのそこには おやしろが
しろいきものの およめさま
女たちが、歌っていた。
近くで聞くと、それは歌ではなかった。すすり泣きだった。泣き声が、何百年も繰り返されるうちに、節のようなものになってしまった。そういう声だった。
俺は、女たちの間を、道に沿って歩いた。
誰も、俺を見なかった。
一番手前の女の袖から、細い手首が覗いていた。子供のような手首だった。14か、15か。水嫁帳の、文化11年の頁。水上いと、16。
次の女は、少し背が高かった。天保4年、水上さよ、15。
その次。明治39年、水上きく、16。
皆、あの帳面に名前を書かれて、この井戸を下りてきた娘たちだった。
道の脇の土台の上に、小さな影が3つ、しゃがみ込んでいた。
子供だった。
坊主頭の男の子が二人と、おかっぱの女の子が一人。着物の裾をまくって、石の上で、おはじきのようなものをして遊んでいた。
島崎タケ、7つ。水上弥吉、8つ。小野正一、9つ。
昭和9年に、嫁の代わりに連れていかれた子供たち。
男の子の一人が、顔を上げて、俺を見た。
おトキ婆に、よく似た目をしていた。
*
道の突き当たりに、社があった。
神社の社殿と同じ形の、小さな木の社だった。けれど、屋根は朽ちて崩れかけ、扉は外れて、中は空っぽだった。御神体を祀る台座だけが、苔に覆われて残っていた。
その前に、澄が立っていた。
白無垢の、後ろ姿だった。綿帽子を外して、手に持っていた。黒髪に挿した白い簪の鈴が、水の中で、ちり、と鳴った。
「澄!」
俺は、走った。
水の中なのに、身体は軽かった。石の道を蹴って、澄の背中に手を伸ばした。
その手首を、掴んだ。
澄が、振り向いた。
白粉を塗った顔が、驚いたように俺を見た。それから、困ったように、泣きそうに、笑った。
「……来ちゃったの」
「来た」
「約束、したのに」
「嘘ついた。ごめん」
澄は、何か言おうとして、唇を噛んだ。
俺の手を、振りほどかなかった。
*
「ここには、神さまなんていないの」
澄の隣に、もうひとり、白無垢の娘が立っていた。
いつからいたのか、分からなかった。
綿帽子を外していた。細い首。切れ長の目。少し青ざめた、17歳の顔。
黒髪に、簪は挿していなかった。
「静さん」
澄が、その名前を呼んだ。
静は、澄の髪の白い簪に目をやって、ほんのかすかに微笑んだ。
「それ、落としちゃったの。井戸を下りるとき。ずっと、探してた」
澄は、簪を髪から抜いて、静に差し出した。
静は、それを受け取って、自分の髪にそっと挿した。銀の鈴が、ちり、と鳴った。
「神さまは、いたのよ。昔は」
静は、崩れかけた社を見上げた。
「この谷に、小さな川が流れていて、その川の神さまだった。でも、村の人たちが堤を築いて、谷を沈めて、池にしてしまったとき、神さまは、どこかへ行ってしまった。川がなくなったから」
「それじゃ、いとさんたちは」
「最初のお嫁さんたちは、もっと前。この谷が沈む前は、お嫁さんは、川のほとりのお社に上がって、ひと夏、神さまのお世話をして、秋には村に帰れたの。そういうお祭りだった」
静は、目を伏せた。
「でも、いつの頃からか、帰ってこられなくなった。神さまがいなくなったあとも、村の人たちは、お嫁さんを下ろし続けた。蓋をして、忘れて。下ろされたお嫁さんは、帰り道が分からなくて、ここで、ずっと、待ってた」
あめがふるまで かえれない。あめがふっても かえれない。
「雨はね」
静は、道の脇の女たちを振り返った。
「私たちが、泣きやんだときに降るの」
「……泣きやんだとき」
「新しいお嫁さんが来ると、みんな、少しだけ寂しくなくなる。それで、泣きやむ。泣きやむと、雨が降る。でも、何十年か経つと、また寂しくなって、泣き出す。泣いてる間は、涙が全部こっちに流れてくるから、上では雨が降らない」
日照り。
この村の日照りは、井戸の底の、女たちの泣き声だった。
「お嫁さんが来ない年は、寂しくて、寂しくて、子供を呼んじゃう。子供は、すぐに来てくれるから」
静は、石の上で遊ぶ3人の子供たちを見た。
「悪いことだって、分かってる。でも、止められないの。私も、そうだった。みんなのそばにいてあげようと思って下りてきたのに、こわくて、寂しくて、気がついたら、一緒に泣いてた」
静の目から、涙がこぼれた。
水の中なのに、涙は、真珠のように丸くなって、ゆっくりと上へ昇っていった。
「ごめんね、澄ちゃん。私で、終わりにできなくて」
*
澄は、静の手を取った。
「静さん。一緒に、行こう」
「……どこへ」
「上へ。帰り道、私、分かるの」
澄は、頭上を見上げた。
遥か上のほうに、小さな、丸い光が見えた。井戸の口だった。提灯の明かりが、かすかに揺れていた。
「帰り道が分からなかったのは、ひとりだったからだよ。みんな、ひとりで下りてきて、ひとりで待ってたから。でも、みんなで手を繋いで行けば、こわくない」
澄は、道の脇の女たちに向かって、声を上げた。
「いとさん! さよさん! きくさん! みんな、聞いて!」
すすり泣きが、少しずつ、止んでいった。
女たちが、ひとり、またひとりと、顔を上げた。綿帽子の下から、青白い顔が覗いた。14歳の、15歳の、16歳の、少女たちの顔だった。
「もう、誰も来ないよ。村の人たちが、約束してくれた。もう、お嫁さんは下ろさないって。だから、もう待たなくていいの」
澄は、静の手を握ったまま、もう片方の手を差し出した。
「私が、一緒に行く。一番後ろから、みんなのこと、ちゃんと見てる。誰も、置いていかない。だから、帰ろう」
長い沈黙があった。
やがて、一番手前の、いとが、おずおずと手を伸ばした。
その手を、隣のさよが取った。さよの手を、きくが取った。
石の上で遊んでいた子供たちが、立ち上がった。タケが、弥吉の手を引いた。正一が、女たちの列の端に駆け寄って、誰かの打掛の袖を握った。
白い列が、できていった。
手と手が繋がって、石の道の上に、長く、長く。
*
「湊さん」
澄が、俺を振り返った。
俺は、まだ澄の手首を掴んだままだった。
「俺も、行く」
「だめ」
「澄を、ひとりで行かせたくない」
「ひとりじゃないよ。みんないる」
澄は、白い列を見やって、笑った。
「湊さんは、帰る人。上で、雨を見る人。……それで、書き留める人」
「澄」
「約束、今度こそ、守って」
澄は、俺の手首を、そっと、もう片方の手で包んだ。
そして、俺の指を、一本ずつ、自分の手首から外していった。
ゆっくりと。
優しく。
「手を離すのは、私」
澄は、言った。
「湊さんのせいじゃない。私が、自分で離すの。……汐里ちゃんも、きっと、そうだったよ。湊さんに、手を離させたんじゃない。自分で、離したの。湊さんが、岸に上がれるように」
最後の指が、外れた。
俺の身体が、ふわりと浮いた。
足が、石の道から離れた。見えない水の流れが、俺を上へ、上へと押し上げていった。
「澄!」
手を伸ばした。
届かなかった。
澄は、石の道の上に立って、俺を見上げていた。左手で静の手を握り、右手を、ほんの少しだけ振った。
口が、動いた。
声は聞こえなかった。でも、分かった。
――いってらっしゃい。
白い列が、動き始めた。
石の道を、奥へ。崩れかけた社の、さらに向こうへ。
その先に、光があった。井戸の口の光とは違う、もっと柔らかい、雨上がりの朝のような光。
白無垢の女たちと、3人の子供たちと、静と、澄が、手を繋いで、その光の中へ歩いていった。
一番後ろを、澄が歩いていた。
一度も、振り返らなかった。
*
俺は、上っていった。
青白い光が遠ざかり、緑色の闇が戻ってきて、それから、真っ暗になった。
遠くで、何かが聞こえた。
ぱらぱら、と。
乾いた土を叩くような、細かな音。
それは、少しずつ大きくなっていった。ぱらぱら、ざあざあ、と。
雨の音だった。




