第8話 水嫁の儀
日照り、40日目。
夜明け前に、神社へ上った。
鳥居の脇の黒板の前には、もう島崎さんが立っていた。いつもの麦わら帽子ではなく、紋付の羽織を着ていた。
濡れ雑巾で「39」を消し、チョークを取った。
『日照り 40日』
縦線を、一本書き足した。
40本。
島崎さんは、チョークを置くと、黒板に向かって深く頭を下げた。それから、振り返って、石段の下にいる俺に気づいた。
「ああ、水野さん。おはようございます」
にこやかな顔だった。
「今日は、よう晴れますな」
東の空が、白み始めていた。雲は、ひとつもなかった。
*
昼間、俺は準備をした。
出張所の倉庫から、登山用のロープを一本、持ち出した。村の消防団が使っていたものらしく、太くて丈夫だった。それに、ヘッドランプと、軍手。
「それ、何に使うの」
倉庫の入り口で、佐和子さんに見つかった。
俺は、答えられなかった。
佐和子さんは、しばらく俺の手元のロープを見ていた。それから、何も言わずに倉庫の奥へ行き、金属の器具をいくつか持って戻ってきた。
「カラビナ。それと、こっちは、井戸掃除のときに使う滑車」
俺の手に、それを押しつけた。
「神井戸の縁の、東側の柱。あそこが一番しっかりしてる。昔、井戸替えのときに、滑車をかけた跡があるから」
「佐和子さん」
「私は、何も見てないし、何も渡してない」
佐和子さんは、首に巻いたタオルで、目元を乱暴に拭った。
「……あの子、小学生の頃から、毎朝この前を通るたびに、おはようございますって、大きな声で挨拶してくれたの。よそから来た私に、最初に懐いてくれたのが、あの子だった」
佐和子さんは、背を向けた。
「ちゃんと、帰ってきてね。水野さんも」
*
夕方、社務所の奥の座敷で、澄は白無垢を着せられていた。
村の女たちが入れ替わり立ち替わり出入りして、帯を締め、打掛を着せかけ、白粉を刷いていた。俺は、廊下の端で、それを見ていることしかできなかった。
支度の合間に、女たちが一斉に席を外した時間があった。
澄が、廊下の俺に気づいて、手招きした。
座敷に入ると、澄は、白い襦袢の上に打掛を羽織っただけの姿で、鏡台の前に座っていた。顔にはまだ白粉が半分しか塗られていなくて、頬の片側だけが、いつもの日焼けした色のままだった。
「湊さん、カメラ、持ってる?」
「……ああ」
「撮って。今の」
澄は、鏡台の前で、背筋を伸ばした。
「白粉、半分しか塗ってない、変な顔。村の人たちは、きれいな花嫁さんの私しか覚えてないと思うから。湊さんは、こっちを記録しておいて」
俺は、震える指で、スマホのカメラを構えた。
画面の中で、澄が笑った。
薄い膜のような笑顔ではなかった。池の底でおにぎりを食べていたときの、日焼けした、屈託のない、19歳の笑顔だった。
シャッターを切った。
「ありがとう」
澄は、鏡台に向き直った。
「湊さんの手帳の、汐里ちゃんの隣に、貼っておいてね」
廊下の向こうから、女たちの足音が戻ってきた。
*
日が暮れた。
村中の家から、人が出てきた。皆、提灯を提げていた。老人も、子供も、赤ん坊を抱いた母親も。白い百合の匂いが、夜の空気に重く溶けていた。
社務所の門の前に、村人たちが2列に並んだ。
門が、開いた。
白無垢の澄が、出てきた。
白い綿帽子を深くかぶって、顔はほとんど見えなかった。白い打掛の裾を、女の人たちが両側から持ち上げていた。綿帽子の下で、白い簪の銀の鈴が、ちり、と鳴った。静の簪だった。
村人たちの間から、溜め息のような声が漏れた。
「きれいだねえ」
「果報者だねえ」
宗一郎さんが、先頭に立った。白い狩衣に烏帽子をつけ、榊の枝を手にしていた。顔は、蝋のように白かった。
行列が、動き出した。
提灯の明かりが、石段を一段ずつ上っていく。その真ん中を、白無垢の澄が、ゆっくりと上っていく。
俺は、ロープを詰めたリュックを背負って、行列の最後尾についた。
後ろのほうで、子供の泣き声が聞こえた。ハルだった。母親に抱きかかえられて、身をよじって泣いていた。
「澄ねえちゃん! 行っちゃやだ! 澄ねえちゃん!」
澄は、振り返らなかった。
ただ、綿帽子の下で、鈴が、ちり、と鳴った。
*
神社の境内は、提灯の明かりで、昼間のように明るかった。
神井戸の周りの注連縄が、新しいものに張り替えられていた。木の蓋と重しの石は、取り除かれていた。黒い井戸の口が、夜空に向かってぽっかりと開いていた。
井戸の縁から、縄梯子が一本、中へ垂らされていた。
宗一郎さんが、井戸の前で祝詞をあげた。震える声だった。途中で何度も詰まって、そのたびに、榊を握る手に力を込めて、続けた。
村人たちは、境内を埋め尽くして、頭を垂れていた。
車椅子に乗せられたおトキ婆が、一番前で手を合わせていた。
池のほうから、歌が聞こえてきた。
みずのそこには おやしろが
しろいきものの およめさま
今夜は、村人の誰もが、その歌を聞いていた。何人かが、はっと顔を上げた。子供たちが、母親にしがみついた。
祝詞が、終わった。
澄が、井戸の縁に立った。
*
澄は、村人たちのほうを振り返った。
綿帽子を、両手でそっと持ち上げた。
提灯の明かりの中に、澄の顔が現れた。白粉を塗られて、唇に紅を差していた。いつもの日焼けした頬は、白く塗り込められていた。
でも、目だけは、いつもの澄だった。
「皆さん」
澄の声が、境内に響いた。
「今まで、ありがとうございました」
深く、頭を下げた。村人たちも、一斉に頭を下げた。
「最後に、ひとつだけ、お願いがあります」
澄は、顔を上げた。
「私で、終わりにしてください」
境内が、ざわめいた。
「もう、誰も、この井戸に下ろさないでください。次に日照りが来ても、誰も。蔵の水嫁帳は、燃やしてください。あの黒板も、壊してください」
澄の声は、震えていなかった。
「私が、お姉さんたちに話してきます。もう呼ばないでって。だから、もう、誰も来なくていいの」
しんとした。
やがて、人垣の中から、島崎さんが一歩、前に出た。
紋付の羽織の島崎さんは、しばらく澄を見つめていた。にこやかな顔は、どこにもなかった。
それから、深く、深く、頭を下げた。
「……約束する」
かすれた声だった。
「澄ちゃんで、最後だ。わしが、約束する」
澄は、微笑んだ。
それから、人垣の後ろで泣きじゃくっているハルを見つけた。
「ハル」
ハルが、泣きながら顔を上げた。
「雨が降ったら、縁側で、雨の音、聞いてね。一緒に聞いたでしょう。あれ、ずっと覚えててね」
「やだ……やだよ……」
「ハル。約束」
ハルは、しゃくり上げながら、何度も頷いた。
*
最後に、澄は、俺を見た。
俺は、人垣をかき分けて、井戸の縁まで進んだ。村人たちは、誰も止めなかった。
澄は、井戸の縁に立ったまま、俺にだけ聞こえる声で言った。
「湊さん。ほんとのこと、言うね」
「……」
「ハルのためだけじゃないの。ハルを守りたいのは、ほんと。でも、それだけじゃない」
澄は、井戸の暗い口を見下ろした。
「毎晩、歌を聞いてたら、分かったの。お姉さんたち、ずっと寂しかったんだよ。何百年も、暗い水の底で。誰も迎えに来てくれなくて。村の人たちは、お嫁さんを下ろしたら、蓋をして、忘れちゃうから」
澄は、俺に向き直った。
「誰かが、行ってあげなきゃ。お姉さんたちを、迎えに。それができるの、たぶん、私だけなの。静さんの日記を読んで、お姉さんたちの歌を聞いて、泣き声だって分かったのは、私だけだから」
「澄。俺も」
「湊さんは、だめ」
澄は、首を振った。
「湊さんは、帰る人でしょう。書き留める人でしょう。約束したよね」
澄は、白い手袋をはめた手で、俺の手を一度だけ握った。
冷たい手だった。
「ありがとう、湊さん。手、繋いでくれて。嬉しかった」
そして、手を離した。
澄は、縄梯子に足をかけた。
白無垢の裾が、井戸の縁を滑り落ちていった。綿帽子の白が、黒い闇の中に、ゆっくりと沈んでいった。
鈴の音が、ちり、ちり、と、遠ざかっていった。
やがて、聞こえなくなった。
*
「蓋を」
島崎さんが、低い声で言った。
村の男たちが、木の蓋を持ち上げた。井戸の口に、被せようとした。
俺は、リュックからロープを引き抜いた。
東側の柱。佐和子さんが言っていた、滑車の跡。カラビナをかけて、ロープを通した。手が震えて、2度、取り落とした。
「水野さん!」
誰かが叫んだ。
宗一郎さんが、振り返った。その目が、俺の手元のロープを見た。
宗一郎さんは、何も言わなかった。
ただ、蓋を持ち上げた男たちの前に、黙って、両手を広げて立ちはだかった。
「宮司さん、何を」
「……少しだけ、待ってください」
宗一郎さんの声は、静かだった。
「60年前、私は、橋の前で泣くことしかできなかった。今度は、少しだけ、待ってください」
俺は、ロープを腰に巻きつけた。
ヘッドランプをつけて、井戸の縁に足をかけた。
下を見た。
ヘッドランプの光が、石組みの壁を照らした。その先は、闇だった。どこまでも深い、底の見えない闇。
闇の底から、冷たい風が吹き上がってきた。水と苔の匂いがした。
歌が、聞こえた。
たくさんの女の人の声が、重なり合って。
その中に、ひとつだけ、よく知っている声が混じっていた。
澄の声だった。
俺は、井戸の縁を蹴った。




