第7話 白い花
日照り、39日目。
朝、公民館の玄関を開けると、戸口の柱に、白い百合が一本、挿してあった。
山百合だった。大きな白い花弁に、赤茶色の細かな斑点が散っている。むせかえるような甘い匂いが、玄関の中まで流れ込んできた。
外に出ると、村中の家の戸口に、同じ白い百合が挿してあった。
どの家にも、一本ずつ。道祖神の前にも。出張所のプレハブの扉にも。軽トラのサイドミラーにまで、紐で括りつけてあった。
嫁入り花。
明日、村から、花嫁が出る。
*
神社へ上る石段の途中で、何人もの村人とすれ違った。
皆、手に何かを抱えていた。風呂敷包み。桐の箱。一升瓶。果物の籠。
「澄ちゃんに、お祝いを持っていくんだよ」
胡瓜をくれた家の奥さんが、にこにこと笑いながら教えてくれた。一昨日の夜、提灯を持って道の脇に立っていた人だった。
「うちは、手鏡。わしの嫁入りのときの、お下がりだけどね」
社務所の前には、人だかりができていた。
縁側に、贈り物が山のように積まれていた。反物、漆塗りの櫛、手鏡、干菓子の箱、紅白の餅。奥の座敷では、村の女の人たちが数人がかりで、白い布を広げていた。
白無垢だった。
この夏、女たちが交代で縫い上げたのだと、誰かが言った。60年ぶりだから、型紙から起こすのが大変だった、と。
女の人たちは、楽しそうに笑い合いながら、裾の縫い目を確かめていた。まるで、本当の結婚式の前日のようだった。
縁側の真ん中に、澄が座っていた。
いつもの白いシャツと袴姿で、村人たちが持ってくる贈り物を、ひとつずつ受け取っては、丁寧に頭を下げていた。
「ありがとうございます。大事にします」
大事にします。
明日の夜には、井戸の底へ行く娘が。
澄は、人だかりの向こうの俺に気づくと、少しだけ笑って、小さく手を振った。
俺は、手を振り返せなかった。
人だかりの隅に、ハルがいた。
大人たちの足の間をすり抜けて、縁側の澄の前に出た。両手で、何かを抱えていた。
ひまわりだった。
自分の背丈ほどもある、大きなひまわりが一本。この日照りで、どこの畑のひまわりも首を垂れていたのに、そのひまわりだけは、花びらがまだ鮮やかな黄色をしていた。
「うちの裏の。毎日、ぼくが水やってたやつ」
ハルは、ぶっきらぼうに、ひまわりを突き出した。
「白い花ばっかりで、つまんないから」
澄は、ひまわりを受け取った。
しばらく、黙ってそれを見つめていた。
それから、ハルの坊主頭を、両手でくしゃくしゃに撫でた。
「ありがとう、ハル。一番、嬉しい」
ハルは、唇を噛んで、泣くのをこらえていた。
澄は、白い百合と贈り物に囲まれた縁側で、黄色いひまわりを、胸にしっかりと抱えていた。
村人たちの誰も、それを咎めなかった。
*
昼過ぎ、公民館に宗一郎さんが訪ねてきた。
手に、古い布張りのノートを一冊、持っていた。
「これを、お渡ししておこうと思いまして」
表紙は色褪せた臙脂色で、角が擦り切れていた。
「静の、日記です」
俺は、息を呑んだ。
「静が井戸を下りたあと、社務所の、あの子の部屋の畳の下から、私が見つけました。誰にも見せていません。60年間、ずっと、私が隠し持っていた」
宗一郎さんは、ノートを俺の手に置いた。
「水野さんは、記録するのが、お仕事でしょう。……静のことを、ちゃんと書き残してやってください」
「澄は、これを」
「読んでいます」
宗一郎さんは、目を伏せた。
「中学に上がった年に、私の部屋で見つけて、読んでしまったそうです。あの子は、ずっと知っていたんです。静が、何を思って井戸を下りたのか」
*
宗一郎さんが帰ったあと、俺は2階の窓際に座って、ノートを開いた。
細い、几帳面な鉛筆の字だった。水嫁帳の、あの「わたしで おわりに して」と同じ字だった。
最初のほうは、ありふれた少女の日記だった。学校のこと。友達のこと。町の本屋で買った小説のこと。祭りの夜の花火のこと。
日付が、昭和41年の7月に入ると、字が変わった。
『7月20日。日照り、10日。お父さんが、帳面に私の名前を書いた。』
『7月28日。夜、井戸から歌が聞こえる。女の人の声。ふさ姉さんのお話に出てくる、白い着物の人たちかもしれない。』
『8月3日。日照り、24日。今日、池の底を歩いた。小さい足跡があった。私を迎えに来たのだと思う。』
ページをめくる指が、冷たくなっていった。
『8月10日。宗ちゃんが、自転車で逃げようと言ってくれた。嬉しかった。でも、橋のところで、区長さんたちが待っていた。宗ちゃんは泣いていた。宗ちゃん、ごめんね。ありがとう。』
宗ちゃん。
14歳の、宗一郎さん。
『8月15日。毎晩、歌を聞いているうちに、分かってきた気がする。』
『井戸の底には、神さまなんていないのかもしれない。』
『いるのは、昔、井戸を下りたお姉さんたちだけ。いとさん、さよさん、きくさん。みんな、ひとりぼっちで、寂しくて、泣いている。だから、次の子を呼ぶ。お嫁さんが来ない年は、子供を呼ぶ。寂しいから。』
『あの歌は、泣き声なんだと思う。』
俺は、ノートを持つ手が震えるのを止められなかった。
あめがふるまで かえれない。あめがふっても かえれない。
『8月18日。明日、私は井戸を下りる。』
『決めた。私は、お姉さんたちに会いに行く。そして、もう呼ばないでって、お願いしてくる。もう誰も呼ばなくていいように、私が、ずっとそばにいてあげる。』
『私で、終わりにする。』
最後の頁だった。
その下に、一行だけ、震えた字で書き足してあった。
『でも、本当は、こわい。』
*
日が暮れた。
社務所の人だかりは、ようやく引いていた。縁側に積まれた贈り物が、夕闇の中で白く浮かんでいた。村中の戸口の百合が、昼間よりも強く匂っていた。
澄は、社務所の裏の縁側に、ひとりで座っていた。
俺が近づくと、顔を上げた。
「お父さんから、聞きました。静さんの日記、湊さんに渡したって」
「……読んだ」
「そっか」
澄は、隣の床板を、軽く叩いた。俺は、そこに腰を下ろした。
二人とも、しばらく何も言わなかった。
庭の木で、蜩が鳴いていた。
「静さんは、終わりにできなかったんだと思う」
澄が、ぽつりと言った。
「行って、お姉さんたちのそばにいてあげるって決めたのに。こわかったから。こわくて、きっと、自分も泣いちゃった。そうしたら、お姉さんたちと同じになっちゃった」
「……」
「だから、60年経って、また日照りになったら、歌が聞こえてきた。静さんも、一緒に歌ってる。あの歌の中に、静さんの声もあるの。私、分かるの」
澄は、膝の上で指を組んだ。
「私は、静さんの続きをしに行くの。静さんが、こわくてできなかったこと。それから、静さんのことも、迎えに行く」
「澄」
「湊さん。私、こわくないよ」
澄は、笑った。
嘘だと、すぐに分かった。組んだ指が、白くなるほど握りしめられていた。
俺は、その手の上に、自分の手を重ねた。
澄の手は、冷たかった。
澄は、驚いたように俺を見た。それから、ゆっくりと、指をほどいて、俺の手を握り返した。
「……やっぱり、ちょっとだけ、こわい」
小さな声だった。
「うん」
「ちょっとだけだよ」
「うん」
蜩の声が、止んだ。
澄は、俺の肩に、そっと額をつけた。
百合の匂いに混じって、澄の髪から、水の匂いがした。乾ききった村の中で、そこだけ、雨上がりの匂いがした。
「湊さん。お願いがあるの」
「なんでも言え」
「明日の夜、最後まで、見ててください。私が井戸を下りるところ。ちゃんと、記録して」
俺は、答えられなかった。
「村がダムに沈んで、みんなが忘れても。湊さんが、書き留めておいて。水上澄っていう子が、確かにいたって」
汐里のことを、澄に話した日のことを思い出した。
あいつのことを、どこかに書き留めておきたかった。
澄は、あのとき俺が言ったことを、覚えていたのだ。
「……分かった」
俺は、澄の手を強く握った。
嘘だった。
最後まで見ているつもりなんて、なかった。
明日の夜、澄が井戸を下りたら、俺も下りる。
今度こそ、この手を離さない。
*
夜が更けて、公民館に戻った。
窓を開けると、村中の百合の匂いが、むせかえるように流れ込んできた。
山のほうから、歌が聞こえた。
今夜は、ひとりの声ではなかった。
何人もの女の人の声が、重なり合っていた。高い声、低い声、幼い声。その中に、ひとつだけ、他よりも少し新しい、澄んだ声が混じっていた。
静の声だ、と思った。
みずのそこには おやしろが
しろいきものの およめさま
夜空は、今夜も晴れていた。星が、恐ろしいほどたくさん見えた。
明日の朝、黒板の縦線は、40本になる。




