第6話 逃げ道
日照り、33日目。
黒板の縦線は、33本になっていた。
村の空気が、変わり始めていた。
すれ違う人たちは、相変わらず愛想がよかった。胡瓜や茄子をくれ、軽トラに乗っていけと声をかけてくれた。けれど、その笑顔の奥で、目が、どこか遠くを見ていた。
朝、神社へ上ると、黒板の前に人だかりができていた。
10人ほどの村人が、区長の島崎さんがチョークで数字を書き換えるのを、黙って見守っていた。33、と書き終えると、皆、一斉に手を合わせた。
誰も、何も言わなかった。
ただ、手を合わせたまま、社殿の脇の神井戸のほうを見ていた。
*
澄を連れて、村を出よう。
その考えは、ハルを石段の下で抱き止めた夜から、ずっと頭の中にあった。
ハルも一緒に連れていく。池から離れれば、ハルが夜中に呼ばれることもなくなるかもしれない。町の病院で診てもらえば、夢遊病だと分かるかもしれない。澄だって、村の外に出てしまえば、水神さまも何も関係なくなる。
迷信だ。全部、迷信だ。
その前に、打てる手は打とうとした。
公民館の黒い電話で、麓の町の駐在所に電話をかけた。人の命に関わるかもしれない儀式が行われようとしている、と。
『ああ、澪村の。水神さんのお祭りですな』
電話に出た年配の巡査は、のんびりとした声で言った。
『毎年、何かしらやっとりますよ、あそこは。雨乞いでしょう。白無垢着て、お参りして。昔からの行事ですわ』
「今年は、ただのお参りじゃないんです。井戸に、娘さんを」
『井戸にねえ』
巡査は、少し笑った。
『あのね、県の方。わしもこの辺の生まれだから、言い伝えは知っとります。でも、今は令和ですよ。本当に人を井戸に入れたりしたら、それこそ大事件だ。区長の島崎さんは、しっかりした人です。そんなこと、させやしませんよ』
何かあったら、また連絡をください。そう言って、電話は切れた。
何かあったら、では、遅いのだ。
受話器を置いた手が、震えていた。
県庁の係長にも、もう一度かけた。係長は、忙しそうに、同じことを言った。記録しろ。口を出すな。
この村の外の誰も、澄の話を本気で聞いてはくれない。
40日目の夜に、何が起きるのかを知っているのは、この村の人間と、俺だけだった。
俺は、公用車のガソリンを満タンにした。
*
「逃げよう」
夕方、社務所の裏の井戸端で、洗濯物を取り込んでいた澄に言った。
澄は、手を止めて、俺を見た。
「今夜。俺の車で。ハルも一緒に。町まで下りて、そのまま県庁のある市まで行く。俺のアパートに、しばらくいればいい」
「湊さん」
「迷信なら、それでいい。澄が村を出ても、何も起きない。ハルも、池から離れれば、もう歩き出したりしない。本当だったとしても、池からずっと遠くにいれば」
「おトキさんのお兄さんは、布団の上で濡れてたんだよ」
「……」
「ふさ姉さんは、町の若旦那と、遠くへ逃げた。それでも、子供は死んだの」
澄は、取り込んだ洗濯物を胸に抱えた。白い、手ぬぐいやシーツ。
「湊さんの気持ちは、嬉しい。でも」
「澄」
俺は、澄の手を掴んだ。洗濯物が、足元に落ちた。
「頼む。俺に、もう1回、手を離させないでくれ」
澄の目が、大きく揺れた。
長い沈黙のあとで、澄は、小さく頷いた。
「……ハルのおばさんには、私から話す。夜の11時に、石段の下で」
*
夜の11時。
石段の下の暗がりに、澄が立っていた。Tシャツにジーンズ、肩に小さなリュック。いつもの袴姿ではない澄を見るのは、初めてだった。
その手を、ハルが握っていた。パジャマ姿で、眠そうに目をこすっていた。
「おばさん、泣いてた。でも、連れてってって」
澄が、小声で言った。
二人を後部座席に乗せた。エンジンをかけると、静かな村に、軽自動車の頼りない音が響いた。ライトはつけなかった。月明かりだけを頼りに、ゆっくりと村の道を下った。
村の真ん中の辻を過ぎた。道祖神の前を通り過ぎた。
そこで、俺は、ブレーキを踏みかけた。
道の脇に、人が立っていた。
提灯を提げていた。
白い浴衣を着た、中年の女の人だった。胡瓜をくれた家の奥さんだった。提灯の明かりに照らされた顔は、無表情で、こちらを見ていた。
何も言わなかった。
ただ、立っていた。
ハンドルを握る手に、汗が滲んだ。アクセルを踏んだ。女の人の横を、ゆっくりと通り過ぎた。
10メートル先に、また、人が立っていた。
提灯を提げた、腰の曲がったおじいさん。軽トラに乗っていけと声をかけてくれた人だった。
その10メートル先にも。
その先にも。
道の両側に、10メートルおきに、村人たちが立っていた。老人も、若い夫婦も、子供を抱いた母親も。皆、提灯を提げて、何も言わずに、通り過ぎる車を見ていた。
誰も、道を塞がなかった。
誰も、止めようとしなかった。
ただ、見ていた。
「……湊さん」
後部座席で、澄が、震える声で言った。
「止まらないで」
俺は、アクセルを踏み続けた。
提灯の列は、村の出口まで、ずっと続いていた。30人。40人。この村の人間が、全員ここに立っているのではないかと思えた。
ハルは、澄の腕の中で、目を固くつぶっていた。
*
村の出口の、橋の手前だった。
橋の上に、軽トラックが一台、横向きに止めてあった。
その前に、区長の島崎さんが立っていた。
白い開襟シャツに、麦わら帽子。提灯は持っていなかった。その代わりに、懐中電灯をこちらに向けていた。
俺は、車を止めた。止めるしかなかった。
島崎さんは、ゆっくりと車に近づいてきた。運転席の窓を、軽く叩いた。
窓を下ろすと、島崎さんは、にこやかに笑った。
「こんばんは、水野さん。夜のドライブですかな」
「……通してください」
「ええ、ええ。水野さんは、いつでもお帰りになってかまわんですよ」
島崎さんは、懐中電灯の光を、後部座席に向けた。
澄が、ハルを抱いたまま、光に目を細めた。
「澄ちゃん。どこへ行くんだね」
優しい声だった。孫に話しかけるような。
「ハルまで連れて。おばさんが、心配しとるよ」
澄は、答えなかった。
「なあ、澄ちゃん。ふさの話は、知っとるだろう。わしの叔母さんのタケは、7つだった」
島崎さんの声は、少しも荒くならなかった。
「わしは、ハルのじいさんだ。ハルが池に浮くのを、見たくはない。澄ちゃんも、そうだろう」
後部座席で、ハルが、澄の腕の中から顔を上げた。
その目が、リアウインドウの外に向いた。
「……ついてきてる」
ハルが、小さな声で言った。
俺は、ルームミラーを見た。
車の後ろの、暗い道の上に。
白いものが、いくつも立っていた。
提灯を持った村人たちではなかった。明かりはなかった。月の光だけが、それを照らしていた。
白無垢だった。
白い綿帽子を深くかぶって、顔は見えない。5人か、6人か。車から10メートルほど離れたところに、身じろぎもせず、並んで立っていた。
足元が、濡れていた。乾いた道の上に、そこだけ、黒い水溜まりが広がっていた。
「澄ねえちゃん」
ハルが、泣き出しそうな声で言った。
「お姉さんたち、ぼくを見てる」
*
澄が、後部座席のドアを開けた。
「澄!」
澄は、ハルを抱いたまま、車を降りた。
島崎さんの前に立って、深く頭を下げた。
「ごめんなさい。帰ります」
島崎さんは、にこやかに頷いた。
「そうかい。そうかい。いい子だ」
澄は、振り返って、運転席の俺を見た。
泣いていなかった。笑ってもいなかった。
「湊さん。ありがとう。ほんとに、嬉しかった」
ルームミラーの中で、白無垢の影たちが、すうっと消えていった。
後に残ったのは、乾いた道の上の、黒い水溜まりだけだった。
*
公民館に戻ると、玄関の前に、宮司の宗一郎さんが立っていた。
白い着物ではなく、よれたポロシャツ姿だった。眼鏡の奥の目が、ひどく充血していた。
「澄が、お世話をおかけしました」
宗一郎さんは、頭を下げた。
「……止めないんですか。自分の娘が、井戸に」
俺の声は、自分でも驚くほど尖っていた。
宗一郎さんは、顔を上げなかった。
「水野さん。私も、昔、同じことをしました」
「え」
「60年前、私は14でした。叔母の静を、自転車の後ろに乗せて、村から逃がそうとした。……今夜のあなたと、同じ橋の前で、止められました」
宗一郎さんは、ようやく顔を上げた。
「あのとき、静は笑って、自転車を降りました。今夜の澄と、同じ顔で」
宗一郎さんの目から、涙が一筋、落ちた。
「娘を止められない父親を、どうぞ軽蔑してください。私には、それしかできない」
宗一郎さんは、もう一度深く頭を下げて、夜の道を帰っていった。
公民館の2階の窓から、神社の方角を見た。
黒板の数字は見えない。でも、明日の朝、島崎さんがチョークで書き換えることは分かっていた。
34。
山のほうから、歌が聞こえた。
今夜の歌は、いつもよりも、少しだけ嬉しそうに聞こえた。




