第5話 選ばれなかった年
日照り、28日目。
おトキ婆の家は、村の一番奥の、山の斜面にへばりつくように建っていた。
茅葺きの屋根にトタンを被せた古い家で、縁側の前には、干からびかけた鳳仙花が並んでいた。軒下に吊るされた風鈴は、風がないのか、ぴくりとも動かなかった。
「おトキさん、来たよ。県の、湊さん」
澄が声をかけると、薄暗い座敷の奥から、小さな影がにじり出てきた。
驚くほど小さなおばあさんだった。背中が丸く曲がって、座っていても頭が俺の胸の高さにも届かない。白い髪を後ろで小さく結って、皺の中に埋もれたような目が、きらりと光った。
「水の子かい」
しわがれた声で、おトキ婆は言った。
「え」
「名前に水がようけ入っとる。水の子だ。水神さまに、好かれそうな子だねえ」
澄が、困ったように笑った。
「おトキさん、そういうこと言わないの」
「ほっほ。冗談だよ」
おトキ婆は、歯の抜けた口で笑った。
*
昭和9年の夏のことを、おトキ婆は、昨日のことのように話した。
「わしは、7つだった。兄の正一は、9つ」
麦茶の入った湯呑みを、皺だらけの両手で包んでいた。
「あの年も、ひどい日照りでな。30日を過ぎた頃から、村のもんは皆、ふさ姉さんのことを果報者だと言うようになった」
果報者。
90年前も、同じ言葉だったのだ。
「ふさ姉さんは、きれいな人だった。町の呉服屋の若旦那と、好き合うとったんだ。祭りで知り合ってな。村のもんは、皆、知らんふりしとった」
おトキ婆は、湯呑みの中を見つめた。
「嫁入りの前の晩に、ふさ姉さんはおらんようになった。若旦那と、どこか遠くへ逃げたんだと。朝になって、村中が大騒ぎになった」
「……それで」
「その日の昼に、島崎のタケちゃんが、池で浮いとった」
澄が、膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「7つだった。わしと同い年の、仲良しだった。泳ぎの上手な子だったのに」
おトキ婆の声は、淡々としていた。90年、何度も何度も、この話を繰り返してきた声だった。
「3日後に、水上の弥吉ちゃん。8つ。それからまた3日後に」
おトキ婆は、そこで言葉を切った。
「兄の、正一だ」
座敷の中が、しんとした。
「兄はな、死ぬ前の晩に、わしに言ったんだ。池のほうから、白い着物のお姉さんが、おいでおいでしとるって。わしは、怖くて、布団をかぶって寝ちまった。朝起きたら、兄の布団は空っぽで、布団の上が、びっしょり濡れとった」
縁側の風鈴が、そのとき、ちりん、と鳴った。
風は、吹いていなかった。
「兄が見つかった日の夕方に、雨が降った。40日ぶりの、大雨だった」
おトキ婆は、湯呑みを置いた。
「3人。お嫁さん一人の代わりに、子供が3人。水神さまは、そういうお方なんだよ」
*
「静さんのときは」
俺が訊くと、おトキ婆は、少し目を細めた。
「わしは、39だった。静ちゃんは、17。そりゃあ、きれいな花嫁さんだった」
「静さんは、嫌がらなかったんですか」
「嫌がりゃせんかった。ふさ姉さんの話を、小さい頃から聞かされとったからね。自分が逃げたら、また子供が死ぬ。そう思うとったんだろう」
おトキ婆は、澄のほうを見た。
「静ちゃんはな、白無垢を着て、井戸の縁に立って、振り返って笑ったよ。村のもん皆に、お辞儀してな。それから、縄梯子を、ひとりで下りていった」
「……下りて、それから」
「朝になって、蓋を開けたら、中は空っぽだった。縄梯子の先は、水に浸かっとった。静ちゃんの姿は、どこにもなかった」
おトキ婆は、ゆっくりと言った。
「その朝、雨が降ったよ」
*
帰り際、澄が先に表へ出て、下駄を揃えていたときだった。
おトキ婆が、俺の袖を、皺だらけの指でつまんだ。
「水の子」
小さな、しわがれた声だった。澄には聞こえないくらいの。
「静ちゃんのときはな、誰も、そばにおってやらんかった」
「……」
「皆、果報者だ、めでたいことだと言うて、笑っとった。わしもだ。宗ちゃんだけが、泣いとった。あの子は、14の子供に泣いてもらうだけで、井戸を下りていったんだ」
おトキ婆の目が、薄暗い座敷の中で、濡れて光っていた。
「99まで生きて、それだけが心残りでな」
指に、ぎゅっと力がこもった。驚くほど強い力だった。
「あんたは、よそもんだ。村のしきたりなんぞ、知ったことじゃなかろう。だから、頼む。澄ちゃんのそばに、おってやってくれ。最後の最後まで」
おトキ婆は、それだけ言うと、袖を離した。
そして、何事もなかったように、表の澄に向かって声を張り上げた。
「澄ちゃん、また来なよ。今度は、水羊羹を冷やしとくからね」
*
帰り道、澄は黙って歩いていた。
夕暮れの村の道に、二人の影が長く伸びていた。どこかの家から、夕飯の支度をする匂いが漂ってきた。
「澄」
「うん」
「ハルが言ってた。澄がお嫁さんになるのは、自分のせいだって。あれは、どういう意味なんだ」
澄は、足を止めた。
しばらく、黙っていた。それから、道端の石垣に腰を下ろした。
「日照りが20日を過ぎた頃にね」
澄は、膝の上で指を組んだ。
「夜中に、ハルのお母さんから電話があったの。ハルが、布団にいないって。私、慌てて探しに出て。池のほうに行ったら」
澄の声が、少し震えた。
「ハルが、池の泥の上を、水のほうへ歩いてたの。裸足で。目を開けてるのに、何も見てないみたいな顔で」
俺は、池の泥の上の、あの小さな足跡を思い出していた。
「私、走っていって、ハルを抱き止めた。ハルは、水際の一歩手前で、やっと目を覚まして。泣きながら言ったの。白い着物のお姉さんたちが、おいでおいでしてたって」
おトキ婆の兄と、同じ言葉だった。
「それから、ハルは毎晩、井戸に行くの。行っちゃだめって言っても、行くの。連れていかないでってお願いしに。自分が呼ばれたから、澄ねえちゃんがお嫁さんになるんだって、思い込んでる」
「……それは、違うのか」
澄は、首を横に振った。
「違わないよ」
小さな声だった。
「ハルは、呼ばれてるの。今年、私がお嫁さんにならなかったら、水神さまが、代わりに連れていくのは、たぶんハル」
*
「迷信だ」
俺は、言っていた。
「澄。それは、全部、迷信だ。90年前の子供たちが死んだのは、日照りで池の水位が下がって、岸の泥が崩れやすくなってたからだ。子供が池で遊んでて、足を取られた。それだけのことかもしれない。雨が降ったのも、偶然だ」
「かもしれないね」
「ハルが夜中に歩いてたのも、夢遊病みたいなものだ。怖い話を聞かされて、毎晩井戸の歌が聞こえて、それで」
「歌は、湊さんにも聞こえてるでしょう」
俺は、言葉に詰まった。
澄は、石垣に座ったまま、俺を見上げた。
「迷信なら、それでいいの」
静かな声だった。
「私が井戸を下りて、何も起きなかったら。それで、いいの。水神さまなんかいなくて、雨も偶然で。……それなら、私一人で済むから」
「澄」
「でも、もし、本当だったら?」
澄の目が、まっすぐに俺を射抜いた。
「私が逃げて、ハルが池に浮いてたら。湊さん、それ、見られる?」
息ができなかった。
川の、濁った水面。上がってこない小さな頭。指の間から抜けていった、あの手の感触。
「……ごめんなさい」
澄は、目を伏せた。
「ひどいこと言った。湊さんに、一番言っちゃいけないこと」
立ち上がって、スカートの埃を払った。
「でも、私は、見られない。ハルが、湊さんの妹さんみたいになるの、絶対に見たくない。だから、私が行くの」
澄は、また歩き出した。
俺は、その背中を追いかけることができなかった。
*
その夜、眠れなかった。
公民館の2階の窓を開けて、暗い村を眺めていた。午前1時を回った頃、山のほうから、また歌が聞こえてきた。
みずのそこには おやしろが
しろいきものの およめさま
ふと、村の道に、小さな白い影が動くのが見えた。
ランニングシャツの、坊主頭。
ハルだった。
裸足で、ふらふらと、池へ向かう石段のほうへ歩いていく。
俺は、階段を駆け下りた。サンダルをつっかけて、外へ飛び出した。
石段の下で、ようやく追いついた。
「ハル!」
ハルは、振り向かなかった。石段の一段目に、裸足の足をかけていた。
俺は、その手を掴んだ。
冷たかった。
真夏の夜なのに、ハルの手は、水の中から引き上げたばかりのように冷たく、濡れていた。
「ハル。起きろ、ハル」
手を強く引くと、ハルの身体がびくりと震えた。
ゆっくりと、振り向いた。
焦点の合わない目が、しばらく俺の顔の上をさまよって、それから、ようやく俺を見た。
「……水野さん?」
「そうだ。帰るぞ」
ハルは、自分の足元を見た。裸足の足が、石段の上で濡れていた。
それから、石段の上の暗がりを見上げて、小さな声で言った。
「お姉さんたちが、呼んでた」
俺は、ハルの手を握ったまま、石段の上を見た。
杉林の闇の中で、白いものが、いくつか、ゆらりと揺れた気がした。
白無垢の、袖のようだった。
俺は、ハルを抱き上げて、走った。
背中で、歌が続いていた。
あめがふるまで かえれない
あめがふっても かえれない




