第4話 雨が降ったら
日照り、24日目。
「今日は、池の底を歩きませんか」
朝、蔵の前で待っていた澄は、麦わら帽子をかぶって、長靴を履いていた。手には、水筒と、おにぎりの包みを提げていた。
「池の底?」
「水が減ると、昔の道が出てくるんです。池の下にも、村があったの」
澄は、楽しそうに笑った。
「調査でしょう。見ておかないと」
*
澪ヶ池は、大正の終わりに大きく広げられたのだと、澄は歩きながら教えてくれた。
もとは、神社の脇にある小さな池だった。村が田んぼを増やすために堤を高く築いて、谷をひとつ沈めた。谷の底にあった7軒の家は、上の土地に移された。
「だから、この村は、1回もう沈んでるんです。今度のダムで、2回目」
岸から、干上がった泥の上に下りた。
ひび割れた泥は、見た目よりも固かった。長靴の底で踏むと、かさかさと乾いた音がした。ところどころ、ひびの隙間に、まだ湿った黒い泥が覗いていた。
水際に向かって、しばらく歩いた。
やがて、泥の中から、石が並んで現れた。
平たい石が、2列に並んで、池の奥のほうへ続いていた。石と石の間には、苔の名残のような黒い筋がこびりついている。
「道です。昔の、谷の道」
澄は、石の上にぴょんと飛び乗った。
石の道を辿っていくと、四角く石を組んだ跡がいくつも見えてきた。家の土台だった。ある土台の真ん中には、竈の跡らしい、煤けた石の囲いが残っていた。別の土台の隅には、割れた茶碗のかけらが半分泥に埋もれていた。
道の脇に、小さな石の地蔵が立っていた。
首から上が欠けていた。胸のあたりに、泥の線がくっきりと残っている。いつもはここまで水に浸かっているのだろう。
澄は、地蔵の前にしゃがみ込んで、手を合わせた。
「このお地蔵さま、子供の頃から好きなんです。水が減った年にしか会えないから、会えるとちょっと嬉しい」
俺も、隣で手を合わせた。
地蔵の足元に、誰が供えたのか、干からびた野の花が一輪、置かれていた。
*
昼は、土台の石に並んで腰かけて、おにぎりを食べた。
梅干しと、昆布と、焼き鮭。澄が朝、握ってきてくれたものだった。塩がよく効いていて、汗をかいた身体に染みた。
「湊さん」
澄は、いつの間にか、俺を下の名前で呼ぶようになっていた。
「湊さんは、どうして、民俗学なんて勉強したんですか」
「……どうしてだろうな」
少し考えてから、答えた。
「消えていくものを、どこかに残しておきたかったんだと思う。忘れられたら、なかったことになるから」
「なかったことに」
「うん。祭りも、言い伝えも、そこで生きてた人のことも。誰かが書き留めておかないと、全部消える」
澄は、おにぎりを持ったまま、池の水面を見ていた。
「湊さん、誰か、忘れたくない人がいるんですね」
俺は、答えられなかった。
澄は、それ以上は訊かなかった。代わりに、ぽつりと言った。
「私ね、ほんとは、保育士になりたかったんです」
「保育士」
「うん。高校のとき、町の専門学校のパンフレット、取り寄せてたの。子供、好きだから。ハルみたいな子と、毎日遊んで暮らせたら、楽しいだろうなって」
澄は、笑った。
「でも、梅雨が明けて、雨が降らなくなって。お父さんが、あの帳面に私の名前を書いて。それで、パンフレットは、捨てちゃった」
「……捨てなくても」
「だって、行けないもん」
澄は、残りのおにぎりを、ひと口で食べた。
*
「妹がいたんだ」
気がつくと、話し始めていた。
「7つ下の。汐里っていった。13年前の夏に、川で溺れて死んだ」
澄が、こちらを見た。
「俺が、手を離したんだ。ずっと繋いでたのに。深いところで足を滑らせて、水の中で、手が離れて。俺だけ、岸に上がった」
蝉が、遠くの森で鳴いていた。
「だから、たぶん、民俗学なんだと思う。あいつのことを、どこかに書き留めておきたかった。汐里っていう子が、確かにいたってことを」
澄は、しばらく黙っていた。
それから、そっと手を伸ばして、俺の手の甲に触れた。
指先が、少しだけ冷たかった。
「湊さんのせいじゃないですよ」
「……」
「手が離れちゃうのは、誰のせいでもないの。離したくて離す人なんて、いないもん」
その言葉は、慰めのようで、でも、どこか自分に言い聞かせているようにも聞こえた。
澄は、手を引っ込めて、立ち上がった。
「行きましょう。もうちょっと奥まで、道が続いてるんです」
立ち上がりかけて、俺は、ふと岸のほうを見上げた。
池の周りを囲む土手の上に、人が並んでいた。
5人か、6人。村の人たちだった。畑仕事の格好のまま、麦わら帽子をかぶって、土手の上に一列に立っていた。
皆、こちらを見ていた。
遠くて、表情までは分からなかった。けれど、誰ひとり、声をかけてくる様子はなかった。手を振るでもなく、立ち去るでもなく。ただ、干上がった池の底を歩く俺と澄を、じっと見下ろしていた。
「……見張られてるのか」
思わず、口に出していた。
澄は、土手のほうを見上げて、小さく手を振った。
土手の上の人たちが、一斉に、にこにこと手を振り返した。
「見張ってるんじゃないですよ」
澄は、手を下ろして言った。
「心配してるの。私が、池の水の中に入っちゃわないか。40日より前に、水神さまのところへ行っちゃったら、お嫁入りにならないから」
冗談のような口調だった。
けれど、土手の上の人たちは、俺たちが池の奥へ歩き出しても、ずっと、同じ場所に立ち続けていた。
*
石の道は、池の水際で、水の中へ消えていた。
濁った水の下に、石の並びがうっすらと透けて見えた。道は、そのまま池の底の深いところへ、真っすぐに続いているようだった。
「この先に、何があるんだ」
「分からないです。誰も見たことない。池の水が全部なくなったことは、1回もないから」
澄は、水際に立って、池の奥を見つめていた。
「おトキさんは、この道の先に、水神さまのお宮があるって言ってました。神井戸は、そこに繋がってるんだって」
俺は、何気なく足元を見た。
息が、止まった。
水際から、乾いた泥の上に向かって、足跡が続いていた。
裸足の、小さな足跡だった。
子供のものか、小柄な女のものか。5本の指の形まで、くっきりと泥に残っていた。まだ新しい。足跡の縁の泥が、乾ききらずに黒く湿っていた。
足跡は、水の中から上がってきて、泥の上を横切り、岸のほうへ向かっていた。
その先に、神社の鳥居が見えた。
社殿の脇の、神井戸のほうへ。
「澄」
呼ぶと、澄は振り返って、俺の視線の先を見た。
足跡を見ても、澄は驚かなかった。
「ああ」
小さく、息を吐いた。
「毎年、日照りの年には出るんですって。おトキさんが言ってた。水神さまのお宮から、お嫁さんたちが、迎えに来るの」
「迎えに」
「次のお嫁さんを」
澄は、足跡の横にしゃがみ込んだ。
足跡のひとつに、何かが落ちていた。泥に半分埋もれた、細長いもの。
澄はそれを拾い上げて、泥を指で拭った。
白い、簪だった。
鼈甲のような、透き通った白い簪。先に、小さな銀の鈴がついていた。泥を落とすと、鈴が、ちり、とかすかに鳴った。
澄は、それをしばらく掌の上で見つめていた。
「……静さんのだ」
「どうして分かる」
「写真で、髪に挿してたの。白無垢に、これ」
澄は、簪をそっと握りしめた。
*
夕方、池から上がって、神社の鳥居をくぐった。
黒板の数字は、朝のまま、『24日』だった。縦線は24本。
澄は、簪を手ぬぐいに包んで、袂にしまった。
西の空が、赤く焼けていた。雲は、一片もなかった。
「湊さん」
鳥居の下で、澄が言った。
「雨が降ったら、湊さんは帰っちゃうね」
何気ない口調だった。
でも、その言葉の意味が、2つあることに、俺は気づいていた。
雨が降れば、日照りは終わる。調査も一区切りついて、俺は県庁に帰る。
そして、雨が降るのは――澄が、井戸を下りたあとだ。
「……澄は、雨、嫌いか」
澄は、少し驚いたような顔をした。
それから、夕焼けの空を見上げて、笑った。
「ううん。好きです、雨。子供の頃、雨の日は、ハルと一緒に、縁側で雨の音を聞くのが好きだった」
その笑顔は、初めて会ったときの薄い膜のような笑顔とは、少し違っていた。
「でも、今年の雨は、聞けないね」
澄は、それだけ言って、石段を下りていった。
俺は、鳥居の下に立ったまま、黒板の数字を見つめていた。
24。
あと、16日。
袂の中で、簪の鈴が鳴ったのか、澄の背中から、ちり、とかすかな音がした。




