第3話 井戸の歌
日照り、20日目。
3晩続けて、歌が聞こえた。
夜が更けて、村の家々の明かりが消えた頃、山のほうから流れてくる。女の人の、細くて高い声。言葉は聞き取れない。節回しだけが、乾いた夜気に乗って、かすかに耳に届く。
最初の夜は、気のせいだと思った。
2晩目は、どこかの家のラジオだと思おうとした。
その日の昼、俺は県庁の上司に電話をかけた。
文化財課の係長で、俺をこの仕事に拾ってくれた人だった。公民館の電話は、受話器が重くて、黒くて、ダイヤル式だった。
『水嫁? 面白いじゃないか。儀礼の実例として、きちんと記録しておいてくれ。写真と、聞き取りと』
「係長。実例というか、この村の人たちは、本気でやるつもりなんです。40日目に、神社の娘さんを、井戸に」
『落ち着け、水野』
受話器の向こうで、係長が笑った。
『今どき、本当に人を井戸に落とすわけがないだろう。形だけの儀式だよ。白無垢を着て、井戸の前で祝詞をあげて、それで終わりだ。昔の雨乞いは、どこもそういう形で残ってる』
「でも、台帳には」
『台帳に書いてあることが全部本当なら、日本中の村が人身御供だらけだ』
係長は、少し声を低くした。
『いいか。俺たちの仕事は、記録することだ。口を出すことじゃない。地元の信仰に、よそ者が首を突っ込むな。村と揉めたら、調査そのものができなくなる』
電話を切ってから、俺はしばらく受話器を見つめていた。
係長の言うことは、正しいのかもしれなかった。形だけの儀式。白無垢を着て、祝詞をあげて、それで終わり。
でも、それなら、なぜ澄は「帰ってこない」と言ったのか。
なぜ水嫁帳の昭和9年の頁には、3人の子供の名前が並んでいるのか。
スマホで天気予報を開いた。この先2週間、県北の山間部には、晴れのマークがずらりと並んでいた。降水確率は、どの日も10パーセント以下だった。
40日目は、8月19日。
予報の、さらに先の日付だった。1か月予報の欄には、「降水量は平年より少ない見込み」とだけ書かれていた。
3晩目の夜、俺は懐中電灯を持って、公民館を出た。
*
澪ヶ池へ続く石段は、夜になると、昼間とはまるで違う場所に見えた。
両側の杉林が、黒い壁のように迫ってくる。懐中電灯の丸い光の外は、何も見えない。蝉の声はやんでいて、代わりに、虫の音がまばらに聞こえるだけだった。
石段を上るにつれて、歌がはっきりしてきた。
やはり、神社のほうからだった。
最後の段を上りきると、池が見えた。月明かりに照らされて、水面が鈍い銀色に光っている。その周りの、干上がった泥のひび割れが、白い網目のように浮かび上がっていた。
鳥居をくぐった。
歌は、社殿の脇から聞こえていた。
注連縄に囲まれた、石組みの井戸。
懐中電灯を向けた。
木の蓋の上に、重しの石が載っている。昼間見たのと同じだった。誰もいない。
けれど、歌は、確かにそこから聞こえていた。蓋の、下から。
みずのそこには おやしろが
しろいきものの およめさま
聞き取れた。
子守唄のような、ゆっくりとした節だった。
あめがふるまで かえれない
あめがふっても かえれない
背中に、冷たいものが這い上がった。
歌の主は、井戸の底にいる。
60年前に、あの井戸を下りていった――。
がさり、と、背後の茂みが揺れた。
俺は飛び上がりそうになって、懐中電灯を振り向けた。
社殿の縁の下に、小さな影がうずくまっていた。
*
子供だった。
10歳くらいの男の子だった。坊主頭に、白いランニングシャツと半ズボン。膝を抱えて、縁の下の暗がりに身体を押し込むようにして、こちらを見ていた。
懐中電灯の光に、目を細めた。
「……だれ」
「県の、水野だ。村の調査に来てる」
男の子は、少しだけ警戒を解いたようだった。
「知ってる。じいちゃんが言ってた。水だらけの名前の人」
「君は」
「ハル。島崎春樹」
島崎。区長の孫だろうか。
「こんな時間に、何してるんだ。家の人が心配するだろう」
「……お願いしに来たの」
ハルは、膝を抱えたまま、井戸のほうを見た。
「水神さまに。澄ねえちゃんを、連れていかないでって」
歌は、いつの間にか、やんでいた。
*
俺はハルの隣にしゃがみ込んだ。縁の下の土は、ひんやりとしていた。
「澄ねえちゃんとは、仲がいいのか」
「隣の家。ちっちゃい頃から、ずっと遊んでもらってる。勉強も教えてもらってる」
ハルは、膝に顎を乗せた。
「でも、日照りが40日になったら、澄ねえちゃん、お嫁さんになっちゃう。井戸に入って、帰ってこなくなる」
「……ハルは、それが嫌なんだな」
「嫌だよ。当たり前じゃん」
ハルは、急に声を大きくした。
「みんな、果報者だって言う。すごいことだって。でも、帰ってこないんでしょ。ずっと会えないんでしょ。そんなの、死んじゃうのと同じじゃん」
子供の声が、夜の境内に響いた。
俺は、何も言えなかった。
大人たちが、にこやかな顔で言わずにいることを、この子はまっすぐに口にしている。
「だから、毎晩お願いしに来てるの。でも、水神さま、歌ばっかり歌ってて、返事してくれない」
「毎晩、あの歌を聞いてるのか」
「うん。日照りが始まってから、ずっと」
ハルは、井戸を見つめた。
「あれ、水神さまじゃないと思う。女の人の声だもん」
*
俺は立ち上がって、井戸に近づいた。
注連縄をまたいで、縁に手をかけた。石は、夜の空気よりもずっと冷たかった。
「水野さん、だめだよ。触っちゃいけないんだよ」
ハルが、縁の下から小さく叫んだ。
重しの石を、ひとつ、下ろした。もうひとつ。木の蓋を、少しだけずらした。
隙間から、冷たい空気が吹き上がってきた。
真夏の夜の、乾ききった空気とはまるで違う。湿っていて、ひやりとしていて、苔と水の匂いがした。雨の日の川底のような匂い。
懐中電灯を、隙間に向けた。
光は、底まで届かなかった。石組みの壁が、どこまでも下へ続いているのが見えるだけだった。壁の石は、上のほうは乾いているのに、下へいくほど黒く濡れて光っていた。
この日照りで、池の水は半分近くまで減っている。井戸の水だって、涸れているはずだった。
俺は、足元の小石をひとつ拾って、隙間から落とした。
長い沈黙があった。
1秒。2秒。3秒。
ぽちゃん。
水の音だった。
遠く、深く、けれど確かに、水面に石が落ちる音がした。
それから。
「……だれ?」
女の人の声が、井戸の底から、こだまするように上ってきた。
俺は、蓋から手を離して、後ずさった。
*
「ハル!」
石段のほうから、声がした。
提灯の明かりが揺れていた。浴衣姿の澄が、息を切らせて境内に駆け込んできた。
「やっぱり、ここにいた。おばさんが、ハルがいないって」
澄は、縁の下のハルを見つけると、しゃがみ込んで、その頭を両手で挟んだ。
「夜にひとりで来ちゃだめって、言ったでしょ」
「……ごめんなさい」
「水野さんも。どうして」
澄は、俺を見て、それから、少しずれた井戸の蓋に目をやった。
その顔から、すっと血の気が引いた。
澄は立ち上がると、何も言わずに井戸へ歩み寄り、蓋を元の位置に戻した。重しの石を、ひとつずつ、丁寧に載せ直した。
それから、井戸に向かって、深く頭を下げた。
「騒がせて、ごめんなさい」
小さな声だった。
誰に向かって言っているのか、俺には分かりたくなかった。
*
ハルを家まで送っていくことになった。
澄が提灯を持って先を歩き、俺はハルと並んで石段を下りた。暗い段差で、ハルが足を踏み外しかけた。俺は反射的に、その手を掴んだ。
小さな手だった。汗ばんでいて、熱かった。
――おにいちゃん、手、はなさないでね。
声が、頭の中で響いた。
13年前の夏だった。
家族で出かけた川で、7歳の妹の汐里と、浅瀬で遊んでいた。汐里は泳げなかった。だから、ずっと手を繋いでいた。
深みの手前で、汐里が転びかけた。俺は、その手を引っ張り上げようとして、一緒に足を滑らせた。
水の中で、手が離れた。
俺は岸に這い上がった。汐里は、上がってこなかった。
あの手の感触を、俺はまだ覚えている。指の間から、するりと抜けていった、小さな手の感触を。
「水野さん、痛い」
ハルの声で、我に返った。
知らないうちに、ハルの手を強く握りしめていた。
「……ごめん」
手を緩めた。でも、離さなかった。
ハルは、不思議そうに俺を見上げてから、握り返してきた。
*
島崎の家の前で、ハルの母親らしい女の人が待っていた。何度も頭を下げて、ハルを家の中に引き入れた。
戸が閉まる直前、ハルが振り返った。
「水野さん」
「なんだ」
「澄ねえちゃんがお嫁さんになるの、ぼくのせいなんだ」
戸が、閉まった。
俺は、隣に立つ澄を見た。
澄は、提灯を持ったまま、閉まった戸を見つめていた。提灯の明かりが、その横顔を下から照らしていた。
「……どういう意味だ」
澄は、答えなかった。
「おやすみなさい、水野さん」
そう言って、隣の自分の家の門をくぐっていった。石段の登り口にある、神社の社務所を兼ねた古い家だった。
提灯の明かりが、庭木の闇の中に小さくなっていく。
山のほうから、また、歌が聞こえてきた。
あめがふるまで かえれない
あめがふっても かえれない




