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水神の花嫁は、雨を降らせない ~日照り40日で娘を井戸に下ろす村に、調査員として来てしまった~  作者: 中原九尾


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3/10

第3話 井戸の歌

 日照り、20日目。


 3晩続けて、歌が聞こえた。


 夜が更けて、村の家々の明かりが消えた頃、山のほうから流れてくる。女の人の、細くて高い声。言葉は聞き取れない。節回しだけが、乾いた夜気に乗って、かすかに耳に届く。


 最初の夜は、気のせいだと思った。


 2晩目は、どこかの家のラジオだと思おうとした。


 その日の昼、俺は県庁の上司に電話をかけた。


 文化財課の係長で、俺をこの仕事に拾ってくれた人だった。公民館の電話は、受話器が重くて、黒くて、ダイヤル式だった。


『水嫁? 面白いじゃないか。儀礼の実例として、きちんと記録しておいてくれ。写真と、聞き取りと』


「係長。実例というか、この村の人たちは、本気でやるつもりなんです。40日目に、神社の娘さんを、井戸に」


『落ち着け、水野』


 受話器の向こうで、係長が笑った。


『今どき、本当に人を井戸に落とすわけがないだろう。形だけの儀式だよ。白無垢を着て、井戸の前で祝詞をあげて、それで終わりだ。昔の雨乞いは、どこもそういう形で残ってる』


「でも、台帳には」


『台帳に書いてあることが全部本当なら、日本中の村が人身御供だらけだ』


 係長は、少し声を低くした。


『いいか。俺たちの仕事は、記録することだ。口を出すことじゃない。地元の信仰に、よそ者が首を突っ込むな。村と揉めたら、調査そのものができなくなる』


 電話を切ってから、俺はしばらく受話器を見つめていた。


 係長の言うことは、正しいのかもしれなかった。形だけの儀式。白無垢を着て、祝詞をあげて、それで終わり。


 でも、それなら、なぜ澄は「帰ってこない」と言ったのか。


 なぜ水嫁帳の昭和9年の頁には、3人の子供の名前が並んでいるのか。


 スマホで天気予報を開いた。この先2週間、県北の山間部には、晴れのマークがずらりと並んでいた。降水確率は、どの日も10パーセント以下だった。


 40日目は、8月19日。


 予報の、さらに先の日付だった。1か月予報の欄には、「降水量は平年より少ない見込み」とだけ書かれていた。


 3晩目の夜、俺は懐中電灯を持って、公民館を出た。


   *


 澪ヶ池へ続く石段は、夜になると、昼間とはまるで違う場所に見えた。


 両側の杉林が、黒い壁のように迫ってくる。懐中電灯の丸い光の外は、何も見えない。蝉の声はやんでいて、代わりに、虫の音がまばらに聞こえるだけだった。


 石段を上るにつれて、歌がはっきりしてきた。


 やはり、神社のほうからだった。


 最後の段を上りきると、池が見えた。月明かりに照らされて、水面が鈍い銀色に光っている。その周りの、干上がった泥のひび割れが、白い網目のように浮かび上がっていた。


 鳥居をくぐった。


 歌は、社殿の脇から聞こえていた。


 注連縄に囲まれた、石組みの井戸。


 懐中電灯を向けた。


 木の蓋の上に、重しの石が載っている。昼間見たのと同じだった。誰もいない。


 けれど、歌は、確かにそこから聞こえていた。蓋の、下から。


    みずのそこには おやしろが

    しろいきものの およめさま


 聞き取れた。


 子守唄のような、ゆっくりとした節だった。


    あめがふるまで かえれない

    あめがふっても かえれない


 背中に、冷たいものが這い上がった。


 歌の主は、井戸の底にいる。


 60年前に、あの井戸を下りていった――。


 がさり、と、背後の茂みが揺れた。


 俺は飛び上がりそうになって、懐中電灯を振り向けた。


 社殿の縁の下に、小さな影がうずくまっていた。


   *


 子供だった。


 10歳くらいの男の子だった。坊主頭に、白いランニングシャツと半ズボン。膝を抱えて、縁の下の暗がりに身体を押し込むようにして、こちらを見ていた。


 懐中電灯の光に、目を細めた。


「……だれ」


「県の、水野だ。村の調査に来てる」


 男の子は、少しだけ警戒を解いたようだった。


「知ってる。じいちゃんが言ってた。水だらけの名前の人」


「君は」


「ハル。島崎春樹」


 島崎。区長の孫だろうか。


「こんな時間に、何してるんだ。家の人が心配するだろう」


「……お願いしに来たの」


 ハルは、膝を抱えたまま、井戸のほうを見た。


「水神さまに。澄ねえちゃんを、連れていかないでって」


 歌は、いつの間にか、やんでいた。


   *


 俺はハルの隣にしゃがみ込んだ。縁の下の土は、ひんやりとしていた。


「澄ねえちゃんとは、仲がいいのか」


「隣の家。ちっちゃい頃から、ずっと遊んでもらってる。勉強も教えてもらってる」


 ハルは、膝に顎を乗せた。


「でも、日照りが40日になったら、澄ねえちゃん、お嫁さんになっちゃう。井戸に入って、帰ってこなくなる」


「……ハルは、それが嫌なんだな」


「嫌だよ。当たり前じゃん」


 ハルは、急に声を大きくした。


「みんな、果報者だって言う。すごいことだって。でも、帰ってこないんでしょ。ずっと会えないんでしょ。そんなの、死んじゃうのと同じじゃん」


 子供の声が、夜の境内に響いた。


 俺は、何も言えなかった。


 大人たちが、にこやかな顔で言わずにいることを、この子はまっすぐに口にしている。


「だから、毎晩お願いしに来てるの。でも、水神さま、歌ばっかり歌ってて、返事してくれない」


「毎晩、あの歌を聞いてるのか」


「うん。日照りが始まってから、ずっと」


 ハルは、井戸を見つめた。


「あれ、水神さまじゃないと思う。女の人の声だもん」


   *


 俺は立ち上がって、井戸に近づいた。


 注連縄をまたいで、縁に手をかけた。石は、夜の空気よりもずっと冷たかった。


「水野さん、だめだよ。触っちゃいけないんだよ」


 ハルが、縁の下から小さく叫んだ。


 重しの石を、ひとつ、下ろした。もうひとつ。木の蓋を、少しだけずらした。


 隙間から、冷たい空気が吹き上がってきた。


 真夏の夜の、乾ききった空気とはまるで違う。湿っていて、ひやりとしていて、苔と水の匂いがした。雨の日の川底のような匂い。


 懐中電灯を、隙間に向けた。


 光は、底まで届かなかった。石組みの壁が、どこまでも下へ続いているのが見えるだけだった。壁の石は、上のほうは乾いているのに、下へいくほど黒く濡れて光っていた。


 この日照りで、池の水は半分近くまで減っている。井戸の水だって、涸れているはずだった。


 俺は、足元の小石をひとつ拾って、隙間から落とした。


 長い沈黙があった。


 1秒。2秒。3秒。


 ぽちゃん。


 水の音だった。


 遠く、深く、けれど確かに、水面に石が落ちる音がした。


 それから。


「……だれ?」


 女の人の声が、井戸の底から、こだまするように上ってきた。


 俺は、蓋から手を離して、後ずさった。


   *


「ハル!」


 石段のほうから、声がした。


 提灯の明かりが揺れていた。浴衣姿の澄が、息を切らせて境内に駆け込んできた。


「やっぱり、ここにいた。おばさんが、ハルがいないって」


 澄は、縁の下のハルを見つけると、しゃがみ込んで、その頭を両手で挟んだ。


「夜にひとりで来ちゃだめって、言ったでしょ」


「……ごめんなさい」


「水野さんも。どうして」


 澄は、俺を見て、それから、少しずれた井戸の蓋に目をやった。


 その顔から、すっと血の気が引いた。


 澄は立ち上がると、何も言わずに井戸へ歩み寄り、蓋を元の位置に戻した。重しの石を、ひとつずつ、丁寧に載せ直した。


 それから、井戸に向かって、深く頭を下げた。


「騒がせて、ごめんなさい」


 小さな声だった。


 誰に向かって言っているのか、俺には分かりたくなかった。


   *


 ハルを家まで送っていくことになった。


 澄が提灯を持って先を歩き、俺はハルと並んで石段を下りた。暗い段差で、ハルが足を踏み外しかけた。俺は反射的に、その手を掴んだ。


 小さな手だった。汗ばんでいて、熱かった。


 ――おにいちゃん、手、はなさないでね。


 声が、頭の中で響いた。


 13年前の夏だった。


 家族で出かけた川で、7歳の妹の汐里と、浅瀬で遊んでいた。汐里は泳げなかった。だから、ずっと手を繋いでいた。


 深みの手前で、汐里が転びかけた。俺は、その手を引っ張り上げようとして、一緒に足を滑らせた。


 水の中で、手が離れた。


 俺は岸に這い上がった。汐里は、上がってこなかった。


 あの手の感触を、俺はまだ覚えている。指の間から、するりと抜けていった、小さな手の感触を。


「水野さん、痛い」


 ハルの声で、我に返った。


 知らないうちに、ハルの手を強く握りしめていた。


「……ごめん」


 手を緩めた。でも、離さなかった。


 ハルは、不思議そうに俺を見上げてから、握り返してきた。


   *


 島崎の家の前で、ハルの母親らしい女の人が待っていた。何度も頭を下げて、ハルを家の中に引き入れた。


 戸が閉まる直前、ハルが振り返った。


「水野さん」


「なんだ」


「澄ねえちゃんがお嫁さんになるの、ぼくのせいなんだ」


 戸が、閉まった。


 俺は、隣に立つ澄を見た。


 澄は、提灯を持ったまま、閉まった戸を見つめていた。提灯の明かりが、その横顔を下から照らしていた。


「……どういう意味だ」


 澄は、答えなかった。


「おやすみなさい、水野さん」


 そう言って、隣の自分の家の門をくぐっていった。石段の登り口にある、神社の社務所を兼ねた古い家だった。


 提灯の明かりが、庭木の闇の中に小さくなっていく。


 山のほうから、また、歌が聞こえてきた。


    あめがふるまで かえれない

    あめがふっても かえれない

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