第2話 水嫁の台帳
日照り、17日目。
朝の6時に神社へ上ると、鳥居の脇に、人影があった。
60代くらいの、がっしりした体つきの男の人だった。白い開襟シャツに、麦わら帽子。手に持った濡れ雑巾で、黒板の「16日」の字を消していた。
消し終えると、チョークを取り、太い字で書いた。
『日照り 17日』
それから、縦線を一本、書き足した。
男の人は、一歩下がって黒板を眺め、満足そうに頷いた。そして、黒板に向かって、両手を合わせた。
振り返った男の人と、目が合った。
「ああ、県の。水野さんだったかな」
「はい。おはようございます」
「区長をやっとる、島崎です。朝早くから、ご苦労さんですな」
島崎さんは、日に焼けた顔でにこやかに笑った。目尻に深い皺が寄った。
「毎朝、島崎さんが書き換えているんですか」
「ええ。わしの役目でしてな。親父も、その前の区長も、やっとったことです」
島崎さんは、黒板の縦線を、太い指でなぞった。
「一本一本、数えてな。40本になったら、嫁入りだ」
「……本当に、やるんですか。その、水嫁の儀式を」
訊いてしまってから、しまったと思った。調査員が、調査対象の村の人に言う言葉ではなかった。
けれど、島崎さんは気を悪くした様子もなかった。
「やりますとも」
にこやかな顔のまま、言った。
「水神さまとの、お約束ですからな。それに、澄ちゃんも、ちゃんと分かっとる。立派な子だ」
島崎さんは、麦わら帽子をかぶり直した。
「水野さん、記録を取りに来たんでしょう。なら、しっかり記録しておいてくださいよ。60年ぶりの、立派な嫁入りを」
そう言って、石段を下りていった。
黒板の縦線は、17本になっていた。
*
午前中、澄に案内されて、神社の蔵に入った。
社殿の裏手にある、土壁の小さな蔵だった。重い扉を開けると、中はひんやりとしていて、黴と古い紙の匂いがした。外の暑さが嘘のようだった。
「足元、気をつけてくださいね。床板、ところどころ腐ってるから」
澄は、懐中電灯で中を照らしながら言った。
棚には、木箱や、行李や、風呂敷包みが所狭しと積まれていた。祭りの道具、古い幟、神輿の部品、和紙の束。どれも埃をかぶっていた。
「すごいな。これ、全部記録したら、何か月もかかる」
「ダムに沈んじゃう前に、全部見てもらえたら、ご先祖さまも喜びます」
澄は、楽しそうに笑った。
俺たちは、棚の手前から順番に、箱を下ろして中を確かめていった。明治の頃の祭礼の記録。氏子の名簿。雨乞いの祝詞の写し。池の普請の古文書。
昼を過ぎた頃、棚の一番奥の、桐の箱に行き当たった。
蓋に、墨で書いてあった。
『水嫁帳』
澄の手が、一瞬、止まった。
それから、何でもないように、箱を棚から下ろした。
「これです。水野さんが知りたがってたの」
*
中には、和紙を綴じた冊子が一冊、入っていた。
表紙は茶色く変色して、端がぼろぼろになっていた。そっとめくると、中には、墨の字で、名前と日付が書き連ねられていた。
最初の頁の日付は、江戸の文化年間だった。
『文化11年 7月 日照リ40日 水上いと 16 嫁入リ』
次の頁。
『天保4年 8月 日照リ40日 水上さよ 15 嫁入リ』
その次も、その次も。数十年おきに、同じ形式の記録が続いていた。日照り40日。水上の家の娘の名前。年齢。嫁入り。
15歳。16歳。17歳。14歳という子もいた。
皆、水上の家の娘だった。
俺は、頁をめくる手が冷たくなっていくのを感じた。
澄は、俺の隣にしゃがみ込んで、黙って冊子を覗き込んでいた。
『明治39年 8月 日照リ40日 水上きく 16 嫁入リ』
その次の頁で、手が止まった。
『昭和9年 7月 日照リ40日 水上ふさ 18』
嫁入り、という字がなかった。
代わりに、名前の上から、太い墨で一本、線が引かれていた。その横に、別の筆跡で、小さく書き添えてあった。
『前夜 逃ゲ』
その下に、3つの名前が並んでいた。
『小野正一 9 池ニテ溺』
『島崎タケ 7 池ニテ溺』
『水上弥吉 8 池ニテ溺』
9歳。7歳。8歳。
「……これは」
「ふささんが逃げた年に、死んじゃった子たちです」
澄は、静かな声で言った。
「お嫁さんが来なかったから、水神さまが、代わりに子供を連れていったんだって。おトキさんのお兄さんも、その中にいたの」
「おトキさん」
「村の一番のお年寄り。99歳。今度、会わせてあげますね」
澄は、3つの名前を、指先でそっとなぞった。
島崎タケ。区長と同じ苗字だった。
*
次の頁。
『昭和41年 8月 日照リ40日 水上静 17 嫁入リ』
「静さん。私の大叔母さんです。お父さんの、お父さんの妹」
澄は、その名前を見つめていた。
「私、会ったことはないけど。写真が一枚だけ、残ってるの。きれいな人だった」
その頁のあとは、白紙が続いていた。
60年分の、白紙だった。
ほっとして、冊子を閉じようとした。
そのとき、最後の頁に、何か書いてあるのに気づいた。
墨ではなかった。ボールペンの、新しい、青いインクだった。
『令和8年 日照リ 日 水上澄 19』
日照りの日数の欄だけが、空白になっていた。
嫁入り、の字は、まだなかった。
俺は、隣の澄を見た。
澄は、自分の名前が書かれた頁を見ても、表情を変えなかった。
「お父さんが書いたの。先月、梅雨が明けたとき」
「先月、って。まだ、日照りが続くかどうかも分からないうちに」
「うん。でも、お父さん、分かってたんだと思う。今年は、降らないって」
澄は、冊子を、俺の手からそっと取り上げた。
そして、丁寧に閉じて、桐の箱に戻した。
「水野さん。ちゃんと、記録してくださいね」
島崎さんと、同じことを言った。
けれど、澄の声は、少しも誇らしげではなかった。
*
夕方、蔵を出ると、境内に長い影が落ちていた。
池の水面が、西日を受けて赤く光っていた。昨日よりも、また少し、岸の泥の幅が広がっているように見えた。
「水野さん」
石段を下りようとした俺を、澄が呼び止めた。
「私のこと、かわいそうだと思ってますか」
俺は、答えに詰まった。
澄は、竹箒を抱えて、鳥居の下に立っていた。夕日が、彼女の横顔を赤く染めていた。
「思わなくていいですよ。私、ちゃんと自分で決めてるから」
「自分で?」
「うん」
澄は、池のほうを振り返った。
「水神さまのお嫁さんになったら、村に雨が降る。田んぼが助かる。みんなが助かる。それって、すごいことでしょう」
笑顔だった。
初めて会ったときと、同じ笑顔だった。
でも、今の俺には、その笑顔が、ひどく薄いものに見えた。薄い紙を一枚、顔の前に貼りつけたような。
「澄さん」
「澄でいいです。みんな、そう呼ぶから」
「……澄。本当に、それでいいのか」
澄は、答えなかった。
代わりに、少しだけ首を傾げて、言った。
「また明日、蔵の続き、やりましょうね」
*
村に下りると、出張所のプレハブに、まだ明かりがついていた。
鍵を返しに寄ると、佐和子さんが一人で帳簿をつけていた。扇風機が、首を振りながら生ぬるい風をかき回していた。
「蔵、見られました?」
「はい。水嫁帳も」
佐和子さんのペンが、止まった。
しばらく、扇風機の回る音だけがしていた。
「……水野さん」
佐和子さんは、帳簿に目を落としたまま、低い声で言った。
「私ね、よそから嫁いできたの。20年前。旦那がこの村の人で」
「そうなんですか」
「最初は、いい村だと思った。みんな親切で、野菜はくれるし、困ったことがあったらすぐ助けに来てくれるし」
佐和子さんは、ペンを置いた。
「でもね、10年くらい経った頃、日照りの年があったの。30日を過ぎたあたりから、村の空気が変わった。みんな、にこにこしてるのに、目が笑ってないの。毎朝、神社の黒板の数字を見に行くの。35日、36日って」
「それで」
「38日目に、雨が降った。みんな、ほっとした顔してた。でも、私は見ちゃったの」
佐和子さんは、窓の外の暗い山を見た。
「雨が降った朝、区長さんがね。黒板の前で、残念そうな顔してたのよ」
扇風機が首を振って、佐和子さんの前髪を揺らした。
「あの人たち、悪い人じゃないの。本当に、澄ちゃんのことを大事に思ってる。果報者だって、心から思ってる。……だから、怖いの」
佐和子さんは、初めて俺の顔をまっすぐ見た。
「水野さんは、よその人でしょう。調査が済んだら、早く帰ったほうがいい。40日になる前に」
「佐和子さんは」
「私は、ここの人間になっちゃったから」
佐和子さんは、疲れたように笑って、また帳簿に目を落とした。
*
その夜、公民館の2階で、俺は昼間撮った写真を見返していた。
水嫁帳の、一頁一頁。
スマホの画面を拡大して、静の頁を見ていたとき、気づいた。
墨の字の下に、何か、薄く書いてあった。
蔵の中の暗さでは、見えなかったのだ。写真の明るさを上げると、細い鉛筆の字が浮かび上がった。
子供のような、拙い、震えた字だった。
『わたしで おわりに して』
俺は、画面から目を離せなかった。
静。17歳。60年前に、あの井戸を下りていった娘。
この字を、彼女はいつ書いたのだろう。儀式の前夜だろうか。白無垢を着せられる前に、蔵に忍び込んで、自分の名前の下に。
私で、終わりにして。
その願いは、叶わなかった。
最後の頁には、青いボールペンで、次の娘の名前が書かれている。
網戸の外で、風が吹いた。乾いた風だった。雨の匂いは、どこにもしなかった。
山のほうから、また、あの歌が聞こえた気がした。
女の人の、細い、細い声だった。




